文字数 1,013文字

 かさかさの母の手。

 握りながら高子はそおっと寝息を立てる母の顔を覗き込んだ。

「眠ったかしら」

 手を離すと同時に、母は叫んだ。

「いやあ、高子、行っちゃいやあ」

 高子はため息をついてもう一度母の手を握りなおす。

「居るから、母さん。私ここに居るから」

 視力の落ちた母は認知症が出ていて、高子が手を握ると落ち着く。

「でも、母さん。私にも生活があるの」

 夫亡き後、子供二人を自分の手で育てていかねばならない。混乱するたびに病院に何度も呼び出されて付き添っていれば、近い将来職場も首になる。頼みの弟は遠くに転勤してしまった。

 私が二人になれれば。せめて、この手だけでも。

 高子は自分の右手を見つめた。

「手……」





 病院の帰り、高子は奮発して手触りの良い手袋を買った。自分の右手を見ながら手芸用のやわらかい針金で手袋に握手しているような形をつける。そして針金が手袋の外から触れないように綿をぐいぐい詰めていった。

 器用な方ではない。

 不恰好な右手になった。

 母をだますつもりは無い。だけど……。

 祈るような気持ちで、母の好きだった香水を少しだけ振り掛けた。





「これは効きましたね」

 看護師さんが、うれしそうに高子に声をかけた。

 母は満足そうに手袋の右手を握って寝息を立てている。

 この手が出来て、緊急の呼び出しが無くなった。

「私じゃなくても良かったのかしら」

 ちょっと拍子抜けした気分で高子は呟いた。





 急変の連絡はそれから二ヶ月後の事だった。

 子供を連れて到着した時に、母は苦しげな呼吸をして高子の作った右手を握りしめていた。

「母さん、母さん、私よ、高子よ」

 作り物の右手をベッドの横にどけると、高子は自分の手で母の手を包んだ。

「お、か、え、り」

 母の小さな声。これが最後の言葉だった。

 やはり判っていたのだ、母には。私が今まで手を握ってなかった事を。

「ごめん、ごめんね」

 病室で高子は泣き崩れた。





「お母さん、まだあったかいよ」

 病棟のロビーで葬儀社を待つ間、長女が高子に手袋で作った右手を持ってきた。

 変ね。あれから、だいぶ時間がたっているはずなのに。

 何の気無しに右手と握手してみる。

 一瞬。

 右手が動いてぐいっと高子の手を握った。

 びっくりするくらい強く、温かく。

 まだ元気な頃の母の手の感触だった。

「母さん……」

 役割を終えた右手は高子の手の中で徐々に冷えていく。

「私、がんばる。がんばるからね」

 高子はもう一度右手を強く握りしめた。
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