(八)

文字数 6,543文字

(八)
「そこのあんた」
 直し整えた(かもじ)上総屋(かずさや)に届けた仲之町(なかのちょう)からの帰り、揚屋町(あげやまち)に入ってあと少しで長屋に着くという所でお吟を呼び止める者があった。
「あんた、髪結いのお吟さんだね」
 枯茶色の仕立ての良い着物に袖無し羽織を纏い巾着袋を提げた老人に名を呼ばれお吟は足を止めた。所々黒い毛筋が混ざり白髪と言うよりは銀色に近い整った髪をしている。(びん)から覗く耳を見る。湿気ったあられをもう一度甘辛い醤油に漬けて焼き直したような耳だとお吟は思った。この耳に見覚えはない。
「どちらさんだい」
「儂は木曽屋政吾郎(きそやせいごろう)という者だ」
 木曽屋政吾郎。その名を胸の中で反駁する。そうか。この御仁か。お吟は少し離れた政吾郎に正面から向き直った。
「するとあんたが木場の御大尽ってわけかい」
 物怖じすることなくお吟が投げ掛ける。
露菊(つゆぎく)から聞き及んでいるようだな」
 政吾郎が歩みを進めてお吟の間近に立つ。女にしては上背のあるお吟が僅かに見下ろす場所で浅黒い額が皺を刻む。筋張った浅黒い右手が挙がり思案するように顎に添えられる。
「あたしに何の用だい」
 顎を摩って矯めつ眇めつお吟を睨め回すといった風の政吾郎だったが、手を下ろしその顎をお吟に向けるように微かに顔を上げて応える。
「露菊の思う相手がどんな者か顔を見たくなったのでな」
「そうかい。あたしはこんな面相なんだけど」
 お吟は一歩前に出て政吾郎に顔を近づける。
「見たかい。これでいいかな。じゃ」
「お待ちな」
 踵を返して去ろうとするお吟を低いしゃがれ声が留める。
「少し付き合って貰おう」
 政吾郎に向けたお吟の背に掛けられた言葉は些かぞんざいなものだったが、その声音は強いるでも威圧するでもない、ただ淡々と事柄を伝えるだけのようにお吟には感じられた。
「忙しくてそんな暇はないと言ったら」
「また改めて出向くまでだ」
 言外に含まれるものなどないような物言いにお吟は思う。ああ。この人は単純にそうするのだろう。どうも腹芸などとは無縁な気がしてならない。このままこの場を去ったとて、明日にでも明後日にでもこの人はまた現れて自分に声を掛けるのだろう。ならばこの場でさっさと話を済ませてしまう方が面倒がない。お吟は首を竦めて眉を八の字にした。
「いいよ。分かった」
 返事を聞いて政吾郎はお吟の脇をすり抜け先に立って歩き出す。お吟を置き去るでも気遣い着いてくるのを確かめるでもなく政吾郎は通りを進み、やがて細い路地の入り口に屋台を出していた蕎麦屋に行き当たると主人に声を掛けた。
「酒を貰おう。冷やで構わん。猪口は二つだ」
「毎度」
 政吾郎は銭を払って冷や酒の入ったちろりと猪口を受け取り、屋台の脇に五つほど伏せて置かれた樽の上に腰を下ろすと脇の樽に酒器を並べた。お吟が酒の置かれた樽の脇に座ると政吾郎はちろりを差し上げた。お吟が猪口を取って受けると政吾郎はそのまま手酌で酒を注ぎゆっくりと喉を鳴らした。
「始めてくれるいかい」
 お吟は政吾郎の話を促す。何も一緒に酒を飲みに来た訳ではない。顔を見に来たとは言ったが、政吾郎の腹積もりはそれだけではあるまい。政吾郎はまた手酌でゆっくりと口を潤しながら向かいの板壁を眺めていたが、やがて徐に口を開いた。
「お前さんに言っておきたいことがある」
「何をだい」
 政吾郎はお吟に顔を向けた。
「ここの所ずっと露菊が昼見世(ひるみせ)に出ない。何か訳でもあるのかと揚羽屋(あげはや)の主に訊いた。露菊は身揚(みあ)げをして自ら暇をこさえて出掛けるという。行き先は#出会茶屋(であいぢゃや)だと突き止めた。そこで露菊はお前さんに会っていることも」
「いやはや。よく調べなすったことだ」
 お吟は感心したように言った。
「それでそのことを窘めようって腹かい? あたしたちが会うのを止めさせようって」
 政吾郎はそれを聞き、ふん、と、さも面白くもなさそうに鼻を鳴らす。提げていた巾着袋から煙草入れを取り出し、煙管を出して火皿に葉を詰めながらつまらなさそうに零す。
「男だろうが女だろうが、惹かれ合うておる者の間に挟まろうなどとは思わん」
 政吾郎は屋台の主に声を掛けて火を借りると一服付けて紫煙を吐いた。
「お前さん達の好きにすればいい。儂は止めん」
 思っていたのとは違う答えが返ってきてお吟は少し面食らう。政吾郎の足をここまで運ばせたのでは男の嫉妬でもやっかみでも、露菊の散財の心配でもないのか。お吟は胸をなで下ろして良いのやら悪いのやらばつの悪い思いがした。
「お前さんにその気があるのなら、(さと)から出た後も露菊と会えばいい」
 もう一服付けてから雁首を腰掛けている樽の縁に、かつん、と打ち付けて吸い殻を落とすと、政吾郎は煙管を仕舞って腰を上げた。
「手間を取らせたな」
 そう言って立ち去ろうとする政吾郎を慌てて呼び止める。
「ちょ、ちょっとあんた。話があるじゃなかったのかい」
 政吾郎はお吟を見下ろし告げる。
「話ならもう終わった」
「はぁ?」
 お吟は思わず素っ頓狂な声を上げた。話が終わったとは。ちょっと待て。最後に政吾郎が言ったことといえば、身請けした後お吟が望めば露菊に会いに来れば良いということだが。まさか。それを言うためにわざわざ自分を探して会いに来たというのか。
「ああああもぅ。分っかりにくいなぁもぅ」
 顔を顰めて頭を垂れるお吟が喉から絞り出す。
「ちょっと。旦那。腰を。腰を下ろしとくれ頼むから」
 仕方ないという風にまた樽に腰を掛けた政吾郎にお吟が切り出す。
「分かった。いや。分かりにくかったけど話は分かった。けれどもさ」
 矢継ぎ早にお吟が繰り出す。
「もう少し物には言い様ってもんがあるでしょうが。こう噛んで含めるとか順を追うとかなんとか。もしあたしが思い至らなかったらどうするつもりだったんだい」
「そのときは仕方がないだろう」
 平然と言ってのける政吾郎に呆れ、お吟が右手でぴしゃりと顔を覆った。盛大に溜息をついたお吟に政吾郎が語り掛ける。
「あれはお前さんと過ごすようになって変わった。前よりも明るい顔を見せるようになった。儂はおまえさんのお蔭だと思っておる」
「ああ。そいつはどうも」
 なんと応えて良いのやらお吟は分かりかねて些か投げやりになる。
「お前さんには感謝をしている」
「よしとくれよ。顔から火が出ちまうよ。あんたあたしを辱めて悶え死にさせる気かい」
「そんなつもりは毛頭ない」
 政吾郎は変わらぬ口調で話し続ける。
「お前さんは郭を出るようあれの背を推してくれた。あれはそれで心変わりをした。自分を縛る頸城から自分を解き放つ決心をした」
 政吾郎はお吟に向き直ってまじまじとお吟の顔を見つめる。
「お前さんのお蔭だ。感謝するよ」
 政吾郎の左目が見えた。隙あらば獲物を捕らえようとするような三白眼だったが、そこに湛えられた光は実直なもののようにお吟には思われた。
「あれは北の生まれだ。お前さんも聞いてはいるだろう」
「ああ。聞いてる。随分な目に遭ったんだねあの人は」
 落ち着きを取り戻したお吟は、露菊が郭に身を投じた訳を思い返した。
「吉原を北国(ほっこく)なんて気取って呼ぶ連中がいるけどね。北の生まれのあの人が北国で女郎をするなんて……下手な冗談にもなりゃしないよ……」
「違いないな。全く笑えたものではない」
 政吾郎はまた巾着袋から煙草を取り出した。蕎麦屋の主は今度は政吾郎に求められる前に屋台の火鉢から小さな炭を取って小皿に乗せて樽の上に置き、代わりにちろりと猪口を引き取ってまたそそくさと屋台の陰に消えた。政吾郎は小皿を持ち上げ煙草に火を付けると深く吸い込み煙を吐き出す。その吐き出した煙を追うように政吾郎がぽつりと呟く。
「儂は四年前に連れ合いを亡くした」
 その声色に感じるものがあり、お吟は聞くことに徹することにした。
「長年連れ添ってきた。仲はそう悪くはなかった。倅も授かった。人並みには上手くいっていた。仕事仲間がな。気を遣ったんだ。郭へと誘った。たまには吉原で気を養え、と。寂しくしていると思ったのだろうな。そこで初めてあれと出逢った」
 政吾郎はまた紫煙を吐いた。
「お定まりに初会(しょかい)を済ませ裏を返した。三度目に会って馴染みとなった。だが儂はあれを抱く気にはならなんだ」
「死んだご内儀に義理立てしたのかい?」
「そうではない。儂にもまだ一人前に肉の欲はある。その機会があれば女を抱くのに吝かではない。だがな。抱く気にならなかった。なれなかったと言うのが正しいかも知れん」
 煙管の火皿から立ち上る煙は止まっていた。政吾郎は少し顎を上げて宙を見上げながら言葉を繋いだ。
「お前さんには分かるだろうか。人が纏う気配というか、影というか。儂があれに見たのは泥の中に咲く蓮の花のような気配だった。どこまでも続く深い沼に足を取られながらも気を奮い立たせて必死に背筋を伸ばすような。そんなものがな」
 露菊の身の上を知った今では何となく分かるような話だとお吟は思う。人を死なせてしまったという悔悟の深い沼に捕らわれ、供養のため自らの背負った罪を償うためと見世に立つ。そんな露菊の姿がお吟の中で重ね合わされた。
「お前さんも知っているだろうが、八百八町に火事が絶えたことなんて一度もない。日を開かず月を開かずどこかで火の手が上がる」
 政吾郎の話が唐突に変わる。前後の繋がりなどないようにも思える変わり具合だが、そこにはちゃんとした意味があるのだとお吟は察する。口を挟むことをせずお吟は耳を傾ける。
両国(りょうごく)だの下谷(したや)だの浅草(あさくさ)だのと、広小路(ひろこうじ)は出店に屋台にと人の集まる繁華な場所だが、元はと言えば大火事の後に御公儀(ごこうぎ)が定めた火除けの場所だ。そもそもが遊山の場などではない」
そんな話はどこかで聞いたような気がする。確か火除地(ひよけち)の多くは吉原が日本橋からこの場所に移る前に起こった明暦(めいれき)の大火事の後に整えられたのではなかったか。前の吉原はその時に全焼していたはずだ。幼い頃に遭った火災の有様がまじまじと思い出され、お吟の息が詰まり背筋に冷たいものが走る。そんなお吟のことを気にするでもなく政吾郎は話を続ける。
「儂の生業は材木商だ。あちらの山、こちらの土地から切り出された木を集め、それを欲する人に売って利を稼ぐ。物を仕入れてそれを捌くという点では何も特別珍奇な商売という訳ではない。だがな」
 一度言葉を句切って政吾郎は息を吸い、押し出すように呟く。
「そうやって儂が稼ぐ金にはな。いつだって人死にが纏わり付いているんだ」
 人死にという言葉にお吟の体がびくんと震える。政吾郎の話は続く。
「火が出る。そいつが燃え広がる。火事になれば家屋敷が焼ける。焼けて無くなればまた建てなきゃならん。毎日の暮らしがあるからな。雨風を凌ぐ場所は必要だ。
家屋敷を建て直すには材木が要る。火事が大きければ大きいほど多くの材木が求められる。売れるんだ。火事の後には材木が売れるんだよ。何本も。何本もだ。そうして焼け野原に家が建つ。何人も何人も死んだ場所に建つんだよ。真新しいやつがな」
 政吾郎の声がそれまでなかった色を帯びる。まくし立てるわけではなく淡々と紡がれる言葉だったが、どこかしら静かな憤りや怒りといったものが感じられる言い方だった。
「儂は材木を売る。売れば懐が潤う。どんどん売れれば新しい蔵が建つ。蔵の中が満ちる。だがその金はどんな所以で儂のところに来た金なんだと考えるとな。人の命と引き替えに手に入れたように思えるのだ。無論、儂が直接手を下す訳ではない。この手で人を殺める訳ではない。だがその金には亡骸の灼けるあの饐えた焦げ臭さが染みついている気がするのだ」
 政吾郎は深く溜息をついた。
「儂は虚しくなってしまった、のかも知れん。人は儂に木場政(きばせい)なんて呼び名を付ける。木場の顔役だなどと囃し立てる。材木問屋木曽屋は豪商、主は辣腕なのだと。けれどもその実、儂は火事で焼け死んだ幾百、幾千の人の上に胡座を掻いているだけだ。ご大層なものではないんだよ儂は」
 最初は言葉足らずで腹の中が読めない人物だという印象を持っていたが、お吟は政吾郎は政吾郎なりに思慮深く物事を捉える人なのだと考えを変えた。このお人にもこうして重くのし掛かるものがあるのだ。そう思うと何やらこの老人の背が小さく縮まってしまったように感じられた。
「儂は。露菊という花魁に救いを求めたのかも知れん。世の男どもは女郎に脚を開かせ股ぐらを指して観音様だご開帳だなどと言う。だが儂は。露菊という女郎は菩薩そのものだと信じててしまったのだろう。あれを何かと気に掛け金に糸目を付けないのは、人死にで稼いだ金を擲ってしまいたいと、浄財にしてしまいたいと、菩薩であるあの露菊をこの苦界から救い出すことで赦されたいと、そう思ってしまったんだろうな」
「そうかい」
 どこか他人事のような政吾郎の口ぶりだったが、お吟はその中に誠を感じていた。政吾郎は露菊を始め見た時に、泥の中に咲く蓮の花を思い浮かべたと言ったが、そういえば泥中の蓮は仏の教えでの悟りを意味するものだった。政吾郎は知ってか知らずかそういったものを心の底から求めたのだ。お吟はそう納得した。
「済まんな。長々と話した」
「いいや。構わないさ」
 お吟は微笑んだ。そうしてこのお人にならば露菊を任せても構わない。そう思った。
「一つ訊いてもいいかい?」
「何だ」
「この話、あの人にしてやってるのかい?」
「いいや」
 おいおいそれはないだろう。お吟は首を振る。
「してやっとくれ。頼むから」
「気が向いたらな」
 政吾郎は素っ気なく言う。
「それともう一つ」
 お吟は立てた指を見せて政吾郎に問う。
「あんたの亡くなったお上さんだけどさ。あの人に似ていなさったかい?」
 政吾郎は暫く考え込んでいたが、静かに答えた。
「似ていない。一つも似てはいないよ」
 人の顔が分からないお吟には政吾郎の言葉が本当なのかどうかを表情から読み取ることは出来なかった。お吟はそれ以上問うことを止めた。
「旦那。あの人のことをよろしく頼むよ」
「ああ。請け合おう」
 政吾郎はそう言って手にした煙管をお吟に差し出した。
「ああ、えっと。済まないね。あたしは煙草は呑まないんだ」
「そうではない」
 政吾郎の口から、ふふ、と微かに笑い声が漏れた。ああ。このお人も笑うのだ。腹の中のものを吐き出して少し気が晴れたか。お吟も笑みを浮かべる。
「お前さんの大切な物は何だ。大切にしている金物は」
「あたしかい? あたしは……結髪に使う鋏だけど」
「それを出しなさい」
 お吟は首を傾げながら懐に仕舞ってある鋏を取り出す。政吾郎はその鋏に煙管の雁首を近づけて、かちん、と打ち付けた。
「え? な?」
 意味が分からず気の抜けた声を発するお吟に政吾郎が告げる。
金打(きんちょう)と言うのだ。互いに大切にしている金物を打ち付けて契りの証とするのだよ。武士ならば刀の鍔、坊主ならば鐘などをな。これはお前さんと儂との約束の証だ」
 政吾郎は煙管を仕舞い込むと立ち上がった。
「お前さんが大門から出るには切手が必要だろう。遠慮することはない。木場の木曽屋政吾郎方に髪結いに行くとそう申し立てればいい」
 政吾郎はそれだけ言い置き立ち去ろうとしたが、一度歩みを止めて振り返らずにお吟に言った。
「会いに来てやってくれ。待っている」
 待っているのは露菊か。それとも露菊の喜ぶ顔が見たい政吾郎の方なのか。どちらでもいい。そのどちらもがいい。
「ああ。約束だ」
 お吟は政吾郎の背にそう応えた。そうして通りを大門に向かって歩み去る政吾郎の姿が小さくなるまで見送った。
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