ギワク

文字数 17,380文字

ギワク

新聞を持って出社した。今日は隣県まで納品兼ねた商談だったので、満載した軽トラックで出発した。ラジオはニュースを頻繁に流す公共放送にチャンネルを合わせ、渋滞時には新聞を広げ、片道四時間の取引先に向かった。平日だが、学生なんかは春休みのところもあり、行楽に向かう車も結構多いのか、渋滞が多く、おかげで新聞がよく読めた。助手席にノートを広げ狭い車内でニュースのチェックを行う。昨日からニュースがおかしい。ありえない間違いが多いし、間違った後のニュースもとって付けたかのように妙なごまかし方をしている。ときには訂正もなく、間違いを押し切っている。こんな報道は許せない。聞いているほとんどの人の生活には影響が無いだろうが、誤って犯人にされた人の今後のことを思うと腹が立ってくる。いくら間違いとはいえ、疑いがあった時点で、その人間は社会から抹殺される。社会という枠から出たら、人は生きていけない。悪い人間ならそれでかまわないだろうけど、善良な市民がそういった目にあうことは許されない。間違いだらけの報道に怒りだけが沸々と沸いてくる。
・・昨日起きました神奈川県内での三名の犠牲者が出た通り魔事件ですが、犯人と思われる男が今朝、神奈川県警本部に自首して来ました。男の名は木本泰治、四十二歳、会社員で、警察の調べによりますと犯行の動機は「誰でもよかった」と計画的な犯行ではないと主張しているとのことです。また、犯行に使われましたサバイバルナイフは「近くの川に捨てた」と述べており、警察では捜索隊三百人を動員して凶器として使われたサバイバルナイフの発見・・・
ナイフを見つけたところで事件は解決するように思えないし、犯行が計画的に行われたかどうかが焦点というのも妙な話である。わざと核心に迫ってないような気がする。だいたい、昨日のニュースと内容が違う。昨日、木本は犯行後、警察に捕まり、その際に銃で撃たれて瀕死の重傷を負ったはずである。なんで今日になって自首したことになっている?しっかりメモをしておこう。これ以上の出鱈目を許すわけには行かない。
「お世話になります。本橋商店の村田です。商品をお持ちしたんですが・・」
「・・・部長、まだ帰ってきてないよ。商品はそこの台車に積んどいて。」
事務員の無愛想なおばさんは私の顔を見ることも無く、感情が無い命令をした。その態度に憤りを覚えたが、「わかりました。」とせっせとコンニャクのケースを積んでいく。一見、汗をたらして箱を積んでいるように見えるが、頭の中でおばさんを宙吊りをして金属バットを振り抜き打ち砕くことを想像した。くの字に曲がりうめき声を上げたが、そのうめき声に腹が立ち、バットの先で顔面を思い切り突いた。胡桃をつぶすように、鼻を潰した。動脈が切れた鼻腔から、鮮血が蛇口を開放したように、溢れ出る。頭の中では、おばさんは瀕死だ。ケースを持ち上げる、バットを振り上げる。ケースを積み重ねる。バットを振る。荷物が重なる音、バットで打ちつける音、現実の行動と頭の中の行動がリズムを重ねる。自分の体重以上のコンニャクがあっという間に積みあがった。
「おお、村ちゃん、まいどです。もう積んだ?ほいじゃあ、検品しよっか。」
岸田部長は間違いなくかつらだ。生え際が浮いている。六十過ぎようとしているのに、真っ黒な直毛で七三分けもワザとらしい。だが、本人はかつらであることは自分と行きつけの床屋の主人しか知らないと信じている。去年の台風のとき、倉庫の荷物が飛び散らかるのを、頭を抑えて決して外に出ようせずに、扉の奥のほうから従業員や取引先に大声で指示を出している姿を見て、噂が疑惑となった。
「いや、今日はやけに暑いね、えっと、糸コンが十二ケースで・・いち、にのさん。」
岸田部長がハンカチで額にかく汗を拭うのだが、いちいち、頭のてっぺんを押さえて、スライドさせるようにハンカチを髪と頭の間に滑り込ませていた。はじめは見ないようにと思っていたが、そのうち、その動きから目を離すことが出来なくなっていた。私の中から音が無くなり、まるで穴倉から外をじっと見るかのように、息を潜めた。
岸田部長の世間に対する偽り、真実を隠す闇。なぜ、人は真実を世間から遠ざけようとする。それも、こんなに明白な真実なのに!春の日差しは強く、太陽は真上から照らし、影は足元の焼けたアスファルトに丸く広がるだけだった。検品の間、容赦なく、太陽の光は私の体を焦がしていた。納品作業で火照ったからだは、冷まされること無く、ジリジリとした日差しに晒され、汗は体中から噴出している。疲労と脱水、照りつける太陽。意識は蜃気楼のように薄れ、頭の中は真っ白になろうとしていた。そして目の前にある疑惑、いや、嘘。かつらを抑えて汗を拭く、欺き。それはここ最近のニュースに似ていた。間違い、うそ、取り繕い、疑惑。個人的な恨みは無いが、その鬱積が、一点にあつまる。黒い疑惑、世間の闇なのか?人はそんな嘘に生涯を捧げるのか?初めは可笑しいと思っていたが、とっくに白けて、ただ、苛立ちだけが積み重なる。口の中がねっとりと乾いてきた。視界の外れで、事務員のおばさんが俺のほうを見てはき捨てるように
「まるでチャーシューね。」
と小さな声であざ笑うかのように言った。突然の弓矢のような衝撃、一点を貫くような攻撃、心を抑えていた常識に対する太い閂はその一言で意図もたやすく折れた。なだれ込む衝動。人が、社会に対する恐れを忘れ、犯罪に走る瞬間はこんな感じに違いない。あとは簡単だった。俺の腕は簡単に伸びて、岸田部長の頭に向かった。黒い嘘をひっ捕まえると、簡単に持ち上げた。そこには輝かしい真実が現れた。引き換えに、一瞬、世界中の音が消えた。酸素が一挙に無くなった。私と岸田部長とおばさん、その他の従業員。この数人の世界の時間が止まった。その場で中心となる嘘が取り除かれた時、人は営みを止めるしかないのである。俺はその黒い嘘を空に掲げようとした。自由を取り戻した古代ギリシャの英雄のように!
パサっ
嘘は簡単に取り返され、岸田部長は嘘を被った。そのとたん、時間は流れ出した。聞こえなかった音が再び湧き出してくる。後に残ったのは、被害者と犯罪者、それと傍観者。被害者は被害を述べることなく、板コンニャクのケースを数えていた。傍観者はあっけに取られながらも、目の前で起った事故を無かったことと封印して必死にもとの生活を取り戻そうとしていた。残る犯罪者は、社会に対する恐怖を思い出し、それを今までの恐怖と捉えるか、それとも、開き直るか悩んでいた。
この時俺は、一度モラルを飛び越すと、それまでのモラルが取るに足らないものと思えてしまうことを学んだ。体重は相変わらずだが、すこし肩周りが軽くなった気がする。
コンニャクの検品は無言で終わった。現時点、いや、今後も含めて、岸田部長との会話は不可能と思われた。仕方ないので商談するつもりの新製品は海へ投げた。魚はコンニャクを食べるのだろうか?もしかしたら喉に詰まらせて、海の中から、這い出てくるかもしれない。
会社への帰りのトラックを運転していたら、早速、部長や会社から何度も電話が鳴った。いつもなら車を路肩に止めて、いちいち電話に出るのだが、大体、内容は理解していたのであえて電話に出なかった。それでも何度も電話が鳴るので、信号が赤で車が止まった時、携帯電話を開いて両手で掴んだ。力を入れるとミシミシとプラスチックは悲鳴を上げて、突然弾ける様に画面と本体が離れた破壊の瞬間、俺の中から声がした。何て言ったか内容までは聞き取れなかったが、なんだが、何か良いことがあったような弾んだ声に違いなかった。壊した携帯電話はトラックの窓から外に放り投げた。また少し、体が軽くなった気がした。
「どういうことなんだ!電話も出ないで、それに、何があったんだ!脇田の岸田部長から電話があって「お前のところの村田は許さん。取引停止だ!」って怒鳴ってきたぞ。」
「ああ、あれ?岸田のカツラ取ったんだよ。止まったよ、時間が!」
血色の良い中山部長の顔が見る見るうちに真っ青になった。口をパクパク死にぞこ無いの金魚のようにあたふたしている。これは見ものだ。
「何てことしたんだ!脇田の売上、月にいくらあるか知ってんか!三百万だぞ!年にして三千万以上だ!うちの年商の五パーセント程度あるんだ!どうしてくれるんだ!」
「もともと、俺が取ってきた仕事じゃないか、だったら、俺が消そうとどうしようと勝手だろ!他のとことってくればいいんだろ!」
「・・何様のつもりだ!お前はいつからそんなに偉くなったんだ!」
「今日から!」
あまり中山部長が怒鳴り散らすので、俺は大声で言い返して体を乗り出し睨み付けてやった。大きな体はこういったときに役に立つ。小さいころから最終的にはこうやって、いじめてきた奴を脅してやった。絶対的な体重差は、喧嘩の時に役に立つ。力と力のぶつかり合いでは今まで負けたことが無い。駄目押しに机をバンと両手で叩いた。大きな音が響いた後に、スチールの机の脚は折れて、机は音を立てて崩れた。上に乗っかってたパソコンなんかも一緒に床に叩きつけられる。ガシャガシャと破壊の音が響き渡る。物が壊れる音、それは俺の奥底にあるものを擽った。体の奥底に響くとても心地いい音だった。加えて会社内の空気は異常な緊張感に包まれて、だれも瞬き一つ出来ない状況になっていた。中山部長は恐れるような、しかし敵対する目で俺のことを見ている。杉野は引きつった顔で恐ろしいものでも見るかのような感じだったが、その表情は今の俺には嘘だとわかった。杉野はただ、面白がっている。引きつった振りをしてこの状況を楽しんでいるように見えた。安部工場長も不安そうな顔をしているが、たぶん、何とも思ってない。それが証拠に携帯電話がなると、着信音を一瞬しか流さないようにすばやく電話に出て、その場から姿を晦ませた。少しはなれたところから「いま、ちょっと大変!」と安部のうれしそうな声が聞こえてきた。仕事も無いのに時間稼ぎしていたパートの事務員のおばさん二人は終業合図が鳴ったといわんばかりに、そそくさと更衣室に向かった。外はもう薄暗かった。なんだか雰囲気の悪いさとか、人の目とか、全部面倒くさくなってきたので、とっとと会社から出た。スクーターに跨ると、エンジンかけて、道路に飛び出した。後に残った人たちで後片付けでもするのだろう。俺の知ったことではない。
たった一人の帰り道、薄暗い道路を、スクーターの頼りないヘッドライトが先を照らす。ずっと先までは見えないが、ちょっと先までなら、なんとか見ることが出来る。それに大してスピードが出ないから、何かあっても対処が出来る。たぶん、このぐらいがちょうどいい。あんまり先ばっかり考えないで、急がないで目先のことを、分かり切ったように対処していく。少し冷たい風が、体をゆっくりと冷やしていく。明日からのことが少し気になったが、やってしまったものは仕方ない。一度仕掛けると取り返しがつかないことはなんとなく承知している。ただ、意外だったのは、多少社会を逸脱しても、思ったほど大きな影響がでなかったことである。まあ、明日会社に行ったら机が無いかもしれないが、それはそれで受け止めるしかない。
「お帰りなさい。今日はカレーにしましたよ。はい華風、パパにお帰りなさい」
「タヌー、タヌー!」
家に帰るといつもと同じだった。娘を抱き上げるとほお擦りをした。カレーか、だとすると明日は弁当が無い日になる。
「明日は、新入社員の歓迎会やるらしいわね。お弁当箱くさくなるから、お昼代は六百円で良かったわよね?」
「明日歓迎会するって、俺でも知らないことなんだけど。」
「ああ、今日ね、控除のことで会社に電話したの。そしたら林さんが出て、教えてくれたのよ。」
さちえは結婚するまで、本橋商店に勤めていた。職場内結婚だった。初めに親しくなったのはさちえが入社したときの歓迎会のときだった。その日、桜が満開だった。小さな地味な女の子が入社してきたとしか初めは思わなかった。桜の下で見た彼女は、とても好ましい存在に見えた。何が好ましいかは今では説明できないが、そっと差し出された鳥の唐揚を良く覚えている。「村田さん、これどうぞ。」とても優しい顔だった。短大をでて二十歳で入社して八年前間勤めた。夫婦とも社会人経験は本橋商店のみになる。家に入ってからも、たまに会社に電話したりしているらしい。林さんはさちえと仲良くしていた事務のおばさんだ。夕方、そっと更衣室に逃げ込んだうちの一人だ。下手するとそこから今日の行動が妻に知られてしまうかもしれない。さちえは俺の行動をしったときなんて思うだろう。争いごとが嫌いな妻は、寂しい思いをするかもしれない。会社がらみの社会は、もう、あまり怖くないが、家庭がらみの小さな社会は小さい分だけ影響が大きい。家の中、妻との間が気まずくなることを考えると、今日の行動を少し後悔した。小さな社会でも、やはり社会から追い出されることは、怖い。
さちえは何も無かったように食事の支度をした。いつものように三人での食事。娘はほとんど食べないが、たくさん食べたかのように、カレーで手や顔、涎掛けを汚した。愛くるしいその姿にフフフと夫婦で笑みをこぼす。いつもと変わらない幸せな家庭。娘は眠りにつき、明日の弁当作りから開放された妻は久々に缶ビールの栓を開けた。二人で飲みながらテレビを見ていた。さちえは顔を赤らめ、いつの間にかうとうとし始めていた。そっと毛布を掛けた。まだ九時になったばかりだった。
 ・・・九時のニュースです。二日前に起った新潟バスジャック事件ですが、犯人である男の身元が判明いたしました。木本泰治、四十二歳、長野県で自営業を営んでいた模様です。警察の取調べに対して、犯行の動機に関しては「誰でもよかった。」と述べており、犯行時の木本容疑者の精神状態を重点に取調べを進めている模様です。なお、犯行に用いられたサバイバルナイフは、秋葉原で購入されたことが判明しており、総務省では銃刀法に関して見直しが必要と・・・
 「ちょっとまて!」
思わず言葉が漏れた。昨日のニュースがごちゃ混ぜになっている。木本泰治は通り魔の犯人で、死んだとか、自首したとか、たびたびニュースの内容が違っていたが、ここにきて、バスジャックの犯人になってしまった!中学生が今朝のニュースで親と謝っていたはずなのに!いや、昨日の夜のニュースでは死んだはずなのに、結局、無かったことになっている。どういうことだ?
 ルルルルルル
 あまりにも間違いがひどすぎる。ニュースは正確でなくてはならないのに!
 ルルルルル
 間違いで済まされない場合もあるんだ!親父はそのためにいなくなった!
 ルルルルルル
 「ガチャ、こちらJHKでございます。音声ガイダンスにしたがって下さい。番組に関するご要望がある方は1を、ご指摘、ご意見がある方は2を・・ 「プ」はい、JHK受付でございます。」
 「もしもし、いま、九時のニュース見ているんだけど、はじめのニュース、あれって、犯人中学生だろ?今朝のニュースでやってたよな?間違ってるぞ。」
 「ニュースに関してのご質問でございますか?報道局に変わりますので少々お待ちください。チャラチャラチャラ はい 報道局です。」
 「もしもし、いま、九時のニュース見ているんだけど、はじめのニュース、あれって、犯人中学生だろ?今朝のニュースでやってたよな?間違ってるぞ。」
 「ニュースに関してのご質問ですか?少々お待ちください。わかるものと変わりますので。チャラチャラチャラ はい、報道編成部、大橋です。どういったご用件でしょうか?」
「もしもし、いま、九時のニュース見ているんだけど、はじめのニュース、あれって、犯人中学生だろ?今朝のニュースでやってたよな?間違ってるぞ。」
「・・・一昨日起ったバスジャックの事件ですか?犯人が中学生という事実はございませんが、もしかしたら、他のニュースと勘違いされているのでは・・」
「いや、ノートにも書いてあるし、今朝の新聞にも載っている。新潟で起ったバスジャック事件、富山の中学生が勘違いで捕まるって書いてある。」
「・・それは新聞に書いてあったことですよね。おそらく別の事件のことではないかと思うのですが、今朝、当局の番組では、新潟のバスジャック事件は、先ほど流した長野県の犯人の件を放送いたしました。・・・ところで、お名前を頂戴してよろしいでしょうか?あと連絡先もお願いします。こちらで調べまして、ニュースに間違いがあったかどうか連絡いたしますので。」
「こっちの情報いう必要ないだろ?それにな、バスジャック事件の木本泰治ってやつは、通り魔事件の犯人で、自首したって、ニュースでやっただろう?」
「・・・そういった事件は、確認しておりませんが、すいませんが、そちらの連絡先をいただけないということであれば、失礼させていただきたいのですが、まあ、最近、こういった類の電話が無いわけではないのですが、ええ、事実無根のことをいわれてもですねえ、ええ、こちらとしても対応のしようが無い状況でして・・。」
「それは、俺が頭のおかしいクレーマーってことか!ふざけるな!間違ったニュースを流しやがって!放送で嘘流したら取り返しがつかないってことぐらいわかるだろ!嘘でも本当扱いになってしまうんだ!それで、どれだけ悲しい思いをする人間がいるかってわかっているのか!ふざけるな!」
「・・すいません、乱暴な発言は控えてもらえないでしょうか?事と次第によると、こちらでも、それなりの対応を考える必要が出てきますので・・」
「何処が乱暴なんだ!俺の親父はな、やってないことを、やったってニュースで流されて、この世から消えちまったんだ!自殺したんだよ!間違ったニュースが親父を殺したんだ!お前らみたいな無責任なガラクタが中途半端な報道をするんだ!馬鹿野郎!後に残された家族も社会から追い出されたんだ!俺なんか大学行き損ねて・・」
「ガチャッ、ツーツーツー。」
「おい待てよ!畜生!ふざけるな!」
「どうしたんですか?なんか怒鳴ってたみたいですけど、もう夜中なんだから・・」
「テレビ局に電話したんだ。嘘のニュースばっかり流してやがるから、文句言ってやったんだ。そしたら、クソ、電話切りやがった。」
「・・そんなことして何になるんです?もうやめてください。確かにあなたはニュースでつらい思いをしました。でも、今、幸せならそれで良いじゃないですか!それとも幸せじゃないんですか?そんなに声を荒げて!世間に不平を言ったところで、何にもならないし、もしかしたら・・失うことになるんですよ。もうやめてください。」
俺の大声でうたた寝を起こされた妻は、寂しそうにそう言うと、華風の寝ている寝室に入っていった。時計を見るともうすぐ十時、報道一番館の始まる時間だ。さちえの忠告に対して、続けてニュースを見るか少し迷ったが、このまま引き下がると、負けたような気がするので、結局、テレビのスイッチを切らないで、チャンネルを換えた。
・・・こんばんは、報道一番館、司会の古田です。さて、経済、犯罪、政治と混迷極める日本ですが、本日、警視庁のショッキングな発表により、数字として浮き彫りとなりました。フリップをご覧下さい。これはいったい何の数字でしょうか?昨年一年間の統計で過去最高の五万人を超えました。なんと、自殺者です。いったい日本は、どうなってしまうのでしょうか!・・
ここで町のインタビューやら、棒グラフなんかがでて、事が重大であるかのように放送された。十六年前なら、親父もこの数字を作る一部になったのだろう。しかし、この五万人のうちで、親父ほど凄まじい自殺をした人間は沢山はいないだろう。あんな現実的でない死に方したら、もしかして、本当はまだ生きているんじゃないかと、いまだに思う。そういえば、親父がいなくなった夜、親父はニュースを見ていた。これと同じようなニュース、バブルが弾けて自殺が増えたってテレビでやっているのをボーっと見ていた。それから姿が見えなくなって、次の朝には・・心が弱っている人はニュースを見ないほうがいい。すぐに影響される。人間っていうものは、見たものを頭の中でもう一度想像し映像化する。すると、それが、知識として忘れることなく、下手するとありもしないスカスカな経験として、無意識に積み重なっていく。その無意識に積み重なったものが厄介なのだ。警戒しないと生半可な意思では通用しないぐらいの決定力を持つ。分かっちゃいるけど、止められないってのは殆どがそれだ。今日のカツラ取りだって、してはいけないと分かっていた。しかし、実行した。他の記憶の挿げ替えに違いないが、闇を取り払う正義の味方の気分だった。なにか昔見た記憶がひょっこり出てきて、勝手に決定したのだろう。つまり俺は、一瞬、社会に対する恐怖を忘れたのだ。
・・・自殺者が多いことを政治家たちは知っているのでしょうか?さて、次のニュースです。神奈川県で起った通り魔殺人事件ですが、本日、被害者の葬儀がしめやかに行われました。犯人は未だに逃走中です。・・「わあ、あなたー」泣き崩れる、妻、明子さん。被害者の木本泰治さんは実直で真面目な警察官だったと近所の方は話します。「まさか、なんで!って気持ちです。」一昨日、4月5日、午前八時、神奈川県藤沢市の閑静な住宅街でその事件は起りました。・・・
まただ、今度は木本泰治の職業が警察官になっている。それに木本泰治はさっきのニュースでバスジャックの犯人だった。そして、すっかり木本元治の名前がなくなった。これはどういうことだろう。まるで、木本泰治の存在を社会的に抹殺しているようだ。木本泰治といえば、被害者で死んだ、もしくはどうしようもない加害者で、死んだって感じになる。ニュースなんて真剣に聞いている人間少ないだろうから、悪いイメージで名前を流していたら、何時しか、そのイメージが定着する。
ルルルルルルル
「はい、あさま放送でございます。」
「あの、いま、報道一番館見ていて、思ったんですが、通り魔事件の木本泰治って、九時のニュースではバスジャック犯って扱いで、間違いなのかなって思っていたけど、おい、ワザとだろ!木本泰治って何者だ!」
「おっしゃる意味が分かりませんが、どういったご用件でしょうか?」
「ニュースがおかしいって言ってるんだ!他にこんな電話ないのか!おまえらグルになって変な情報操作しているだろう!どういうことだ!言ってみろ!」
ガチャ ツーツー
・・先ほどですね、番組宛に脅迫めいた電話が入ったとの事ですが、我々はそういった脅しに屈することなく、真実を皆様に伝えようと思います。さて、明日の天気ですが・
「あなた、いい加減にしてよ!何時までテレビ見て騒いでるの!抗議の電話なんてみっともないこと止めて!もう、いや!」
「ウギャー」
 ついにはさちえの苛立ちは頂点に達して、その勢いで華風が泣き始めた。テレビを消すと急いで寝室に入って、泣く娘を抱っこしてあやした。しかし、なかなか、泣き止まない。泣き声は大きくなるばかりで、さちえも壁に向いて寝たままで、起きようともしない。怒っているみたいだった。小さな家族から拒絶されたような気持ちになり、イライラした気持ちもあったが、それ以上に大きな闇を感じて恐怖した。どこにも感情のやり場が無いように、娘の泣き声が真っ暗い中、延々と続きそうな気がした。
しかし、夜は明けた。自分に対して説明できない不安でしっかりと眠れなかったため、すっきりとしない朝だった。隣で妻と娘は寝たままだった。起こすと気まずいし、妻と、うまく話すことが困難に思われたので、テレビも新聞も見ないで、そっと家を出た。
会社に行く途中、通勤で混み合う五郎駅の様子がいつもと違った。上り下りとも電車が止まり、プラットホームの人だかりは同じ方向を見てガヤガヤしていた。なんとなく気にかかり、スクーターを路肩に止めると、ちょうどスピーカーから駅員のアナウンスが聞こえた。
・・ピンポンパンポン、ただいまJR山陽本線五郎駅下り線におきまして、線路上にタヌキと思われる動物が進入して、列車に轢かれました。列車運行の安全の為、タヌキの死骸を撤去するまで電車の発車を見合わせます。もうしばらくお待ちください。ピンポンパンポン・・ブツ
若い駅員が線路に飛び降り、一抱えあるケモノ、大きなタヌキをプラットホームに持ち上げた。ブルーシートが用意してあり、二人の駅員は若い駅員に手を貸して、ホームに上げると、三人でタヌキをシートに包んで駆け足で、持ち去った。その光景を通勤通学の集団が目で追った。俺も目で追っていた。おそらくみんなタヌキが轢かれた事件に関わった気がしているにちがいない。俺は事件の当事者になった気で必要以上にタヌキの冥福を祈った。間違いなく今日一日は、頭のどこかでタヌキの事故死が燻るだろう。そして、それは記憶となって、関連性も曖昧なまま、頭の中に積み重なる。
会社の玄関まで来て、昨日のこともあり、一瞬、帰ろうかと迷ったが、怯めば負けになり、非を認めることになるので、ここは引かない事にする。
「おはようございます。」
会社に入って挨拶してしまえば、こっちのものだ。自分の机はまだあった。他の従業員は遠巻きに俺のことを避けているみたいな雰囲気があったが、事務所内にはせいぜい五人もいないし、中山部長もまだ来ていない。杉野やら安部工場長、事務員のおばさんたちであれば恐れる必要も無い。
「おはよう。なんだ、村田、来てたのか。脇田の岸田さんには侘びを入れておいた。だが、お前の顔は見たくないそうだ。今後は杉野に行かせる。いいな?早速、今日、杉野と俺が引き継ぎに行ってくる。引継ぎ資料を作っといてくれ。いいな?」
「わかりました。」
中山部長は会社に入ってくるなり、俺に退去勧告してきた。まあ、これは仕方ないことだろう。社会人たちが顔を揃えて怒るのも無理はない。ここで「なぜですか!」と二十一世紀風に立場を弁えずにすがり付くのも恥知らずっぽくて、面白いとおもったが、面倒くさいのでやめておいた。今日の仕事は引継ぎの資料作りで一日潰そう。パソコンを立ち上げて見積もりだの、販売台帳だのを整理していく。過去三年分のコンニャクの出荷状況。数字に彩られたおでんの具財。こんにゃくは、エネルギーのない食べ物である。食べても太らない食べ物。それは生きるために食べるという食べ物の定義から外れた「嘘の食べ物」を意味する。嘘の食べ物こんにゃくはこんにゃくとしての存在意義を偽装に求める場合もある。例えば、その食べ応え、弾力から、精進料理を作る際に例えば煮しめの肉の代わりに使われたりする。極端な例では、肉なしカレーに肉の代わりに入れられることもある。つまりここでは食感だけの食べ物として用いられる。その他、危険な食べ物に指定されている「こんにゃくゼリー」も、ゼリーだともの足りないからって、こんにゃくを使っている。他には、のびない麺、太らない麺って、麺に偽装され、こんにゃくうどんとか、こんにゃくラーメンとか、缶詰に入った変てこ商品に巻き込まれたりすることもあるし、昔の人も、食感がふぐの刺身に似ているから、こんにゃくを薄切りにして「やまふぐ」と呼び、偽装を伝統にしているところもある。そうなると実態は怪しくなるばかり、そんな何かの代わりに用いられる嘘の食べ物こんにゃくだが、逆に、こんにゃくの代わりをする食べ物を聞いたことがない。まるで、嘘の代わりになる嘘は無いと証明しているようである。得体の知れない嘘の食べ物が、いつのまにか、代わりが見当たらない食べ物になっている。嘘に代わりはないが、嘘は真実である。こんにゃく思想は実物のこんにゃくのようにゆらゆらと弾力を持って歪んでいる。
「村田さん、大丈夫ですか?」
安部工場長が心配そうな顔をして聞いてきた。あくまでも心配そうな顔をしているだけで、決して心配なんてしてないのは理解している。こんにゃくみたいなものだ。
「大丈夫って、俺に何かあったか?」
「いや、昨日のことで・・」
「おまえみたいに周囲の顔色ばっかり気にして生活してたんじゃあ、そんな風に気の毒な感じで痩せてしまって、せっかく溜め込んだ俺の財産みたいな脂肪が減ることになる。それは勿体無い。それに、もううんざりしているんだ。うそばかりだろ?でも、その嘘は守らなくてはならない状況にある。にっちもさっちも、いきゃしない。どうする?」
「・・・でも、そんなこといったら、居れなくなりますよ。:」
「誰に俺を消すことができる?そんな心配ばっかりすると、損するぞ。それに会社にも未練は無くなってきた。本橋がどうなろうと俺には関係ない。居れなくなって結構。そのほうが清々する。」
「・・・そうですか、居れなくなってもいいんですか。最後の忠告になるかもしれませんが、あんまりそんなことをいうべきではないと思います。無くならないと価値が見えてこないことは世の中たくさんあります。無くす前に気づくべきです。」
 そういうと安部工場長は工場に入っていった。こんにゃく粉を練ったり、成型したり、固めたら、袋に入れる。工場の中では毎日のように同じことが繰り返されている。会社に入って数年間は、工場でこんにゃく粉を機械に投入したり、練りの調整をしたり、箱詰め兼ねて商品のチェックをしたり、工場の作業員をしていた。本橋から去るとすれば、それはずっと昔の思い出に変化するだろう。しかし、粉を入れたり、練ったりした経験は、無意識に体の中に積み重なっている。まだ、ここにいるのに、もう懐かしい記憶に変わろうとしている。本人より、本体が理解しているようだ。今までの継続が困難になりつつあることが。その理由が自分の行動が原因なのか、それとも、心のどこかで、こんにゃく会社本橋商店を無意識に飽きてしまって、仕事に対してモチベーションが湧かなくて、手放してしまおうとしているのかもしれない。どちらにしても断言できるのが、もう、ここには長くいない。
「村田係長、内田食品の竹田さんより電話が入っています。」
「はい、もしもし村田です。」
「村田さん、何があったんですか?中山部長が昨日、夜中に連絡して来ましたよ。村田さんが内田食品の担当を外れるって言われまして、携帯も繋がらないし、出社はしていたのですね。一応、私に事の次第を説明いただけますか?」
「いえ、ご心配かけまして、すいませんでした。おそらく、私は今回クビになります。理由は、あるお客さんを怒らしてしまって、それで・・」
「それは違いますよ!まさか、本当にそう思っていたんですか?そんなことはじっとしていれば済むことなんですよ。そうじゃなくて、他に、原因と思えることはないんですか?」
「・・・?いえ、それ以外はいつもどおりに生活してましたが?」
「村田さん、本当にそう思っているんですか?「私は何も悪くない」そう断言できるのですか?あなたはそういった類の、自分の悪事を思いつくことすらできない、人間なのですか?だったら、まあ、仕方ないですね。」
「なんの話ですか?」
「私は残念でなりません。あなたはもっと謙虚になるべきだった。」
 まったく理解ができなかったが、冷静沈着で公平な竹田係長が、すこし取り乱した感じで、断定的に俺のことを否定した。世界中で自分ひとりだけが、自分の過失に気がついてない、孤独な不安を感じた。いったい、俺が何をした?
会社の机にしがみついて、パソコンからこんにゃくの販売データーを整理しながら、自分の過失を考える。お客さんを怒らせた。これは確かに意地悪かった。恥ずかしいと隠している人の心を無視している。しかし、公平な竹田係長はそうじゃないと言う。極端に言えば、俺が自分が生きていることにすら気がついてない間抜けとまで言っている。馬鹿なら仕方ない。馬鹿であることが罪なのです。とまで宣言されている。しかし、逆に考えてみれば、竹田係長はそこまで俺のことが言えるほど、賢いのだろうか?年が上とか社会的立場が上とか、そんなんじゃなく、まるで地上一段上にいるような言い方だった。なぜ、彼は根拠もないのに俺より一段上と思ったのだろう?根拠のない上下は世の中、腐るほどたくさんある。あいまいな根拠、不確かな定義、縛られた固定概念。それらが偏見と差別、憎しみ、悲しい出来事を生む。あのとき、親父が言ってたことを思い出す。あれは、確かに正しく、真っ直ぐで、矛盾はひとつも無かった。その一言に世間は虚を突かれた。一瞬唖然として、あとから自分たちの間違い、矛盾を恥じて、それを指摘されたことに怒りを覚えた。集団のわがままな怒りが暴走した。親父はたった一人で、世間を敵にまわした。
「村田、これからどうするかは明日にして、今日は新入社員の歓迎会をする。ちょっと早いが、場所取り頼む。別に春場所を取れってわけじゃないぞ、関取!」
中山部長は親密さを込めたからかい方で俺に指示を出した。時計は夕方四時を過ぎていた。まだ、何かを頼んでくるということは、今回のことは大目に見てくれたってことなのだろうか?まさか、歓送迎会ってことになるのでは?
夕方の公園には敷物を敷いて場所取りをする人も疎ら、一画では、すでにビールの缶が詰まれつつあった。まだ明るいうちに酒を飲んで、赤ら顔で騒いでいる大学生と思われる集団。もし、親父にあんなことがなかったら、俺も、大学に行ってあんな風にはしゃいでいたのかもしれない。高校最後の一年間は辛かった。中には俺のことを心配してくれる友人も数人いたが、ほとんどの人に犯罪者の息子として不当に扱われた。学校から出ても、家の周りでひそひそ言われたし、うちの肉屋の閉じたシャッターには「うそつき」とスプレーで落書きされたり「逆切れ!」なんて書かれもした。夜中にシャッターに投げつけられた石の音で起こされることもしばしばあった。結局、親父が死んでから、疑惑の真相が掴めなくなり、また、親父の死に様に周囲は口を閉じるしかなかったのもあって、なんとなく事件は終局したが、疑惑の段階で十分に家は崩壊した。今思えば、半分は本当かもしれないが、半分はでっち上げのような気もする。すっかり気が滅入ってきたので、来る途中に買ったダルマ焼酎をラッパ飲みし始めた。薄めない焼酎は喉や胃をカッと燃やして、嫌な記憶を一瞬吹っ飛ばしてくれる。吹っ飛ばされた嫌な記憶は振り戻してくるが、もどってきた瞬間にカウンターを当てる様に焼酎をぐっと飲み込む。心臓はバクバクと裏返り、天地は燃え、ひっくり返りそうになる。それでいて、気持ちは穏やかに、時間はゆっくりと進むようになる。一人寂しく飲む酒は、瞬く間に世界を歪めていった。
太陽が沈み、西空がうす赤く染まり、山の陰が真っ暗に染まる。桜の花だけが妙に白く目立つ。肌寒い風が吹き、外灯がちらほらつき始めるころ、公園の青い敷物は人で埋まっていった。自分の陣地だけ誰もいなくて、周りで酒盛りが始まり、騒げば騒ぐほど、まるで取り残されたような寂しい気持ちになった。酒で気は大きくなっていたが、少しでも寂しい気持ちが入るとすぐに謙虚な気持ちになった。自分がした不可解な行動を少しだけ反省した。しかし、どんな嘘も許せない気持ちはある。そういえば、会社の中も嘘だらけだ。そうこうしていていると見慣れた集団がやってきた。中山部長が朝とは打って変わった笑顔で話しかけてきた。
「待たせたな、村田。結構寒いな。あれ、赤い顔して、一人で飲んでいたのか?今日は社長、来ないみたいだが、寄付はもらったぞ。さあ、おでん食って暖まろう。」
本橋商店の花見では、必ずおでんが中心になる。こんにゃくを納品している会社からレトルトのおでんを買って、酒盛りをする。ただ、おでんだけでは物足りないので、その年の新入社員がおでん以外のものを用意する。さちえが新入社員のときの花見は唐揚だった。それがいい思い出になっているので、花見になると、何が食べられるか密やかな楽しみにしている。ただ、ここ数年、新入社員がいなかったので、新入社員が何かつくるのは久しぶりだ。三年前の杉野以来になる。ちなみに杉野はその年、カレーを作ってきた。
「では、久々の歓迎会を始める。ここのところ、新入社員のいない花見をしていたからなあ。木原と吉村、何を作ってきたか見せてくれ。」
新入社員の木原と吉村はおおきな鍋の蓋を開けた。
「チャーシューを作りました。吉村君が切り分けます。」
木原は照れ笑いを浮かべ、吉村はまな板を取り出し、焼き豚の塊を引っ張り出すと、無言で切り始めた。以前、前の工場長が俺を詰った挙句「このチャーシューでぶ!」と言った。俺は切れて一暴れ。それで前の工場長は顔を腫らし、腕を折る大怪我をした。結局、俺は工場から営業に移ることになった。それから「チャーシュー」は社内では禁句となっていた。みんながそっと俺の顔を覗き込む。
「いや、美味そうだな。」
確かにチャーシューの一言は俺にとってツボだが、別に指摘されたわけでもないので、怒る必要は無かった。親父の手作りチャーシューは町の名物だった。だからこそ、事件のあとはブッチャーとチャーシューがセットになって俺を襲った。特にチャーシューには一家が追い詰められた。入社する時、中山部長と社長にその話をしたら「うちはコンニャク屋だから、それは会話に出てこないだろう。心配するな。あと、そのことは皆には黙っといてやる。別に隠せとは言わないが、自ら過去のことは話さなくてもいいぞ。そのために静岡から遠く離れた広島まで来たんだろ。」って言ってくれた。
「おっ、村田、怒らなくてもいいのか?せっかく新入社員にチャーシュー作らせたのに。まあ、お前のことをみんな気の毒には思っているけど、キレるのは良くないぞ。毎年、新入社員にはお前にあった事を全部説明して、ブッチャーとかチャーシューとかミンチとか言うなと注意してたんだが、逆効果だったな。だがな、おまえも、過去は忘れないといけないぞ。心の傷は消えないかもしれないが、誰だって大小持ってるんだ。過去にこだわって物事をマイナスに捉えるのは良くない。因果応報というものがある。それは大きな流れだ。目先で物事を捉えて、断ち切るような真似をしてはいけない。嘘とか本当とか、目先で判断しては駄目だ。流れで判断しろ。」
「ちょっと、どういうことです?みんな知ってるって、親父のこととか、肉屋のこととか、全員知ってるんですか?会社に入る時、中山部長は言ったじゃないですか、誰にも言わないって、あれは嘘で、しかも、みんな知ってて、俺は騙されてたんですか?」
「騙すというのは人聞きが悪いな。やさしく見守っていたってことにならないか?知っているのに、チャーシューとかミンチなんて言わなかったんだ。葉山だって、知っててあえて村田と結婚したんだろ?やさしいじゃないか!」
「さちえは、結婚するときにはじめて知ったって言ったのに、嘘だったのか!」
「嘘じゃない。やさしさだよ。普通、そんな話聞いたら引くだろ?それを引かずに彼女は引っ張ったんだ。お前よりずっと偉いぞ。」
さちえは今まで俺を騙してきたのだろうか?会社のみんなも、気の毒に遠めで俺のことを見ていたのだろうか?怒りと恥辱で頭の中が真っ白になり、体の奥でアルコールに火がついてチリチリと自尊心が焦げた。じわじわと焦げが広がり、皮の内側から炭の炎のように真っ赤に滲み出そうだった。こんな嫌な思いを俺だけで終わらせるわけに行かない。酒の勢いに火がついた。どうにでもなれ!
「みんな知ってて本人が知らないってのは、俺のことだけじゃないはずだ。中山部長、以前、安部の奥さん、宮岡と不倫してただろ?そのことは安部以外はみんな知ってたんだ。宮岡は「黙っておいてね」ってほとんどの奴にそのことを話してて、宮岡は、その話を知らなかった安部と結婚したわけだ。」
中山部長の顔から表情が無くなった。安部も表情が無くなったが、思い当たる節があったのだろう、すぐさま目つきが変わった。それ以上に引きつったのは周りの従業員たちだった。耐えられない空気をいっぱいに流す。追い討ちをかけてやれ。
「まあ、そこまでなら良かったんだよ。問題はここからだ。結婚してからも、情けない声出して宮岡呼び出していたよな?「お前は俺のオアシスだ。」って。安部、お前気がついていたのか?だから怯えたような態度をとっていたんだと思っていたんだが。」
「・・もしかして、とは思っていたけど・・じゃあ、息子は・・。」
多少、言い過ぎたと思った。安部の息子の写真は中山部長そっくりだった。宮岡が子供を連れて会社に来た時、中山部長が調子に乗って「おれにそっくりだ」ってうれしそうに言っているの見て、みんなで中山の厚顔無恥さと、宮岡の阿婆擦れぶり、安部の不幸を一瞬で目の当たりにして寒い気持ちになったことを思い出した。でも、こんな嘘もいつかは明るみに出る。だったら、早く出したほうがいい。でないと取り返しがつかないことになる。人の時間ってのはたかが知れている。
「ついでだ、他にも言っといてやる。昔、会社のことをあれこれインターネットに流れたことがあるよな、あれは杉野の仕業だ。俺と部長と社長は知ってたけど、みんな知ってたのか?あと、林のおばさん、社長の不正経理手伝って、小遣い貰っているってな。さちえから聞いた。で、社長はホステスに入れ込んで、バンバン領収切ってるってな。あと、松本はマンナン食品の面接受けただろ?敵対会社に転職しても、仕事内容は変わらんぞ?一応、採用らしいな。それと、小山はコンニャク勝手に持って帰ってるだろ?みんな噂しているぞ。こんにゃくが彼女だってな。切れ目入れて、人肌に暖めているのか?そんなもの、手で処理しろ!他にもあるけど・・まあ、あとは各自で楽しんでよ。俺は、帰るからさ。さようなら!チャーシューは記念に貰っておく。」
一人夕日に向かって、陽気に歩き始める。明日から、会社に行こうか迷ったが、とりあえず家に帰れるかが問題だった。アルコールは完全に回っていて、足元は何か、動物の背中を踏んでいるみたいにグニャグニャに感じたし、さらに悪いことに、歩きながら焼酎を飲み干し、追加としてコンビニで日本酒を買って、更に歩きながら飲んだ。外灯がゆっくりといくつも頭の上を過ぎて良く。何本目かの電信柱が俺に近づいてきて、ぶつかりそうになって、へたり込み、そのまま道端に座り込んで、チャーシューの固まり片手に空を見上げていた。冷たい夜風が心地よく、白い月明かりが、まるで世界には疑惑なんて存在しないかのように、見渡す限りに世界を透明にしていた。
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