第1話

文字数 1,375文字

 私には記憶に残る結婚披露宴のスピーチがある。
 今から30数年前、大学の後輩の外科医の結婚披露宴に招待された。受付をして座席表を見ると、新郎側の主賓は藤波孝雄(ふじなみたかお)元内閣官房長官であった。
 藤波孝雄氏は三重5区選出の衆議院議員で、昭和58年12月から第二次中曽根内閣の内閣官房長官を務めた。私の父方は三重県伊勢の出身で、藤波氏は三重県立宇治山田高校の卒業で父の後輩にあたる。私はよく父から藤波氏の話を聴かされていた。
 私は藤波氏に声を掛けてみた。
 「あの~初めまして。私、三重県伊勢出身の『んだんだ(←拙者の仮名)』ですが…。」
 「……? ああっ、伊勢の『んだんだ』さんねぇ。」
 藤波氏は眼鏡越しに私を見て、予期せぬところで同郷の人と出逢った時にする懐かしそうな、人(なつ)っこい顔をした。
 その藤波氏は主賓の祝辞で、
 「新郎は外科医だ。しかし外科医である以前に医療人である。その医療人にはなくてはならないことがある。それは、人に優しいことだ。」
と述べた。
 藤波氏は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の政治の世界を生き抜く凄腕(すごうで)で、しかも国政に(たずさ)わり権力、野心に燃えたギトギト系を想像していただけに、私は彼の祝辞を聞いて拍子抜けの感じがした。当時私は東京秋葉原のM記念病院の心臓血管外科で、血で血を洗う手術漬けの生活を送っていた。「外科医は頭脳や人格ではない、手術の腕が全てだ。」と信じて疑わなかった時だけに、藤波氏の「人に優しいこと」は、今でも深く印象に残っている。

 それから30数年後のある朝、当院の重症個室には重症心不全の70歳代女性がいた。彼女は数日前に人工呼吸器から離脱できたが依然として血行動態は安定せず、昇圧剤、抗不整脈剤の持続点滴を必要としていた。
 点滴の自己抜針( = 点滴を自分で抜いてしまうこと)は血行動態の不安定を引き起こすため、患者は点滴の抜き取り防止目的でミトン(手袋)と最小限の上肢の抑制がされていた。
 朝の病棟回診で個室に入った。
 「この患者さんは心不全で人工呼吸器から離脱して3日目の70(+α)歳の女性で、…。」
 担当の女性の研修医がプレゼンテーションを始めようとした。が、
 「あらぁ、なんて恥ずかしい格好をして…。」
 見ると、上肢が軽く抑制された患者さんは下半身を何度もくねらせたのか、病衣は腰まで左右に大きくはだけ、両下肢からオムツまで丸出しになっていた。くしゃくしゃになったタオルケットが、ベッドの足元にあった。
 ()()然々(しかじか)で、と研修医の経過のプレゼンテーションが終わり、治療方針を確認して私や診療科スタッフの医師らは次の部屋に移った。
 が、待てども2名いる研修医は前の部屋から出てこなかった。
 (ん? 何してんだ? 何か確認し忘れたことがあったかな?)
 私は戻って部屋を(のぞ)いて見た。
 ふたりの研修医は患者さんのはだけた病衣を合わせて、紐を結びなおして整えていた。そしてベッドの足元のくしゃくしゃになったタオルケットをふたり()かりで広げて患者に掛けていた。

 そこには、医師である以前に人としての優しさがあった。

 んだんだ。
 その女性の研修医は沖縄出身で、神奈川の病院から当院に2か月間の僻地(へきち)・地域研修にきていた。黒髪で情熱的な大きな目をした愛嬌のある人だった。
 写真はないが、イメージは不二家のペコちゃんそっくりだった。

(2024年3月)
 
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