16、4月2日(金)
文字数 2,007文字
【現役女子大生が自殺痴情のもつれが原因か
奈良市○○町のアパートで女子大生の多須真梨さんが遺体で発見された事件で、死因は硫化水素による急性中毒とみられることが1日、捜査関係者への取材で分かった。奈良県警は自殺に加え、殺人事件も視野に捜査する】
掲載、二〇一〇年四月二日○○新聞朝刊
「水彩!」
男子学生を振り返った女生徒は、人目を気にして足早に研究棟に入る。
「・・・・・・。・・・・・・何? 用があるならサッサとして」
「違う。俺は関係ねぇ。あの人は俺とは何の関係もないんだよ」
合わない目。その口が素早く動く。
「相手はそうじゃないんでしょ? だから名指しで残ってる」
なざし。動揺した頭が一瞬「名刺し」と誤変換する。標本。ピンで留められるような。
男子学生は頭をかきむしった。
遺品の一つ、多須真梨の携帯に送信画面のまま残っていた文面。
〈恒星。葬式には必ず来てね〉
これが物議を醸した。珍しい名前故、対象を違えることはない。
「痴情のもつれ」との見出しもここから推測されたものに違いなかった。
「だから違うんだって。あの人は」
喉まで出かかって、寸前で止めた。嫌な間。代わりに気まずい空気が流れる。
「・・・・・・信じてくれ、水彩」
それが女生徒には「助けて」に聞こえた。
幼い頃から何かと面倒を見てきた弟のような存在。いい加減二十歳を迎えたのだから、自立して欲しい。
「ちゃんと向き合うのが先じゃない?」
そしてその相手は
どれだけ恐ろしかろうと、自分のしたことに責任を持つ。人一人分の責任。そのために、誰かを気に掛ける余裕なんてない。
鳴り出した携帯を開くと、女生徒はきびすを返す。
「おい、どこ行くんだよ。研究室は四階だろ」
向かうのは北側、研究棟の出口。その先は北門に続いており、あるのは駐車場とロータリー、バス乗り場だけだ。応えずに歩を進めるその肩を、恒星はつかんだ。
「触らないで!」
はじかれる。実際に受けた衝撃よりも、精神的なダメージの方が大きかった。女生徒は肩を怒らせて身を縮める。
「・・・・・・。・・・・・・ほっといて」
「・・・・・・どういうことだよ。おい、何があったんだよ」
これ以上近づいたら噛みつく。そんな猫のようだった。全身から放たれる、電気にも似た緊張感。
何かがおかしい。その時。
エンジンの音がした。ガラス扉の向こう、ロータリー。ここからだと助手席側が手前に来るため、運転席側はよく見えない。よく見えない、が。
「おい・・・・・・お前まさか」
「ほっといてって言ってるでしょ!」
「黙ってられるかよ! 脅されてんのか? すぐ校長に・・・・・・」
「やめて!」
金切り声。いい加減迷惑だった。
女生徒は肩で息をすると、絞り出すように口にする。
「私が、誘ったの」
「は?」
「だから先生は何も悪くない」
「どういうことだ? お前本当にアイツのこと・・・・・・」
その目。開いた瞳孔。
危うい。まともに焦点が合っているとは言えない。
恒星は背筋が寒くなるのを感じた。鳴り続ける女生徒の携帯。
「そう。大好き。だから、邪魔しないで」
じゃあね。そう言うと、女生徒は今度こそきびすを返した。
女生徒は空いた穴を埋めるため。講師は本物を大切にする為の手段を得るため。
それぞれ
「・・・・・・ウソだろ。おかしいだろ」
曲がりなりにも状況が変われば変わる未来もある。それをプラスとするかマイナスとするかは本人次第。ただ、恒星の場合、手始めに
「江角・・・・・・恒星さんですね? 署まで同行願えますか?」
どこから再スタートを切るのか、それを自力で設定しなければならない。
突きつけられた警察手帳。
成人。故に自己責任。自分を守れるのは自分だけ。
ガラス扉の向こう、助手席に乗り込む透の横顔が見えた。その唇が動く。
〈先生あのね〉
透は今、どんな話をしているのだろう。ふと半年前に見た横顔が頭をかすめた。
〈私はこの子を侮りません〉
その向かい。講師を貫くまっすぐな目。たった一撃、貫通した跡。
あの時見た横顔と、今見ている横顔は、あきらかに違った。
「車はこちらです」
行く先をかえられる。両脇を固められてイレギュラーは起こせない。同行自体、強制力を持たないにも関わらず、完全に犯人扱いだった。
待ってくれよ。
ロータリーに佇んでいた車のテールランプが消えた。走り出す本体。
どこで何を間違えた?
焦点の合わない目。大好き、と言った透の表情が、消えない。
消えない。あいつは強がって笑おうとするとき、いつも左の目尻が二度けいれんした。それを知ってて、それでも、動けない。
パトカーに乗り込むとき、警官の一人が同情するようなそぶりを見せた。見せて、そうして、一瞬だけ口角を上げた。
同情? 違う。それは侮蔑。憐憫。
その向こう、
音もなく雨が降り出した。