9、7月22日(水)

文字数 2,909文字

【分岐地点ルートA instant】


 コンコン、ガラッ。
「失礼しまーす」
「ハイ」
 ドッ。
 元気がない。むっとしたような表情でやってきた女生徒は、相変わらず荒々しく来客用のソファに腰を下ろすと足を組んだ。
 リーマンショックから約一年。昨日解散になった衆議院。次の衆院選ではとんでもないことが起こりそうだと、仮初めの高揚感に浸っている所だった。そんな中、一生徒の都合でこちらに何の落ち度もないのに責められているような気になるのは割に合わない。志堂は早々に切り出した。
「・・・・・・本日はどのようなご用で?」
 抜け落ちた愛想。その口元を覆った指先だけが決まった運動をする。
「先生あのね」
 起動。その時だった。

「こんなとこにいたのか水彩」
 突然空いた戸。志堂以上に驚いている女生徒は「何で」とつぶやいた。
「どちら様ですか?」
「・・・・・・社会学部現代社会学科の江角恒星くんです」
「ハァ。社会学部の生徒が文学部の研究棟に何の用ですか?」
 はしばみ色の瞳が動いた。純粋な黒ではない眉。それより明るい髪色。
 醸し出される空気は、初見の講師を威嚇していた。
「返せ。こいつは部活がある」
「やめて。退部届出したでしょ。勝手なこと言わないで。私が来たくてここに来てるの」
「そうなんですか。それなら話が早い。早いところこの子を連れて行って下さい」
 これ幸いと両腕を広げて差し出す。しかし志堂のそんな様子を力一杯にらみつける女生徒と、女生徒を軽んじられることをよく思わなかった男子生徒はその場に留まった。思わぬ事態に、志堂を中心とした不穏な空気が流れ始める。
「・・・・・・アレ? 行かないんですか?」
「人の指図は受けねぇ」
厨二(ちゆうに)ですか現役大学生。精神年齢若すぎやしませんか」
「用があって来てるんです」
「私の側に用はありません」
「どうせヒマだろ? 大人のクセに余裕ねぇな」
「暇じゃありません! 教育、研究とも人並み以上のことをしようと思うとなかなか大変で、増え続ける雑用のせいで何をしに大学に来たのか分からない日もままある程です」
「自分と相手が本当に同じものを見ていると思いますか?」
「アアアアいきなり本題ぶち込んで来やがった! 水彩さん! 卑怯ですよ!」
「私は見てないと思います」
「ちょっとちょっとちょっとちょっと! よくこんな状態で話始めようと思えますね。せめて環境を整えてからにして下さい。気が散る」
「A型」
「A型」
「今けなしましたね? 良くない意味で言いましたね?」
「ちっちぇえ」
「神経質」
「A型に謝って下さい。全力で謝って下さい。言っておきますけど、血液型で性格は決まりませんからね」
「わり」
「ごめんち」
「何かいつもの倍疲れる・・・・・・。おかしい。今日はすぐ済むと思ったのに・・・・・・」
 志堂は明るい髪色をした厨二をにらみつけた。
「あなた・・・・・・早くこの子を連れて行って下さい」
「聞いてんじゃねぇか。冴えねぇセンコーにわざわざ質問してんじゃねぇか」
「エ、こんなはっきり面と向かってけなされるものなんですか? 私一応講師という立場なんですけど」
「単位関係ねぇ」
「グゥ。直接的な利害関係になければ、大人を大人とも思わない化物(もんすたあ)が、世に放たれる日は近い・・・・・・」
「例え同じものを見ても、それぞれの過去があって、その対象を透かして、何か別々のものを見ているような気がしてならないんです」
「・・・・・・あなたもぶれませんね。ここまでくると頼もしいと言いますか」
「例えばさくら。さくらを見たときに『出会い』『始まり』を予感する人もいれば『別れ』『切なさ』を感じる人もいますし、表記だって漢字、カタカナ、ひらがながありますよね。だから『キレイだね』という会話の奥には、実は大きな認識の差がある気がしてなりません。少し話はずれますが、例えば先生が今かけていらっしゃるメガネ。そのメガネに『作った人が細工をして、他の人と見ているものを変えられてしまっている、なんてことがある訳がない』とは言い切れないじゃないですか。現に近眼で使用している以上、本物を認識できるまで近づいてみない限り、本当のことは分かりません。そうしてそれは、実際はゆがめられたものを先生の中では正しいことして認識していくということでもあります。
 このことは同様に、写真機能を持つ全ての媒体にも言えて、撮った後、確認するのは表情くらいで、その他少々いじったところで特に気づかれることもありません。そう頻繁に見直すこともありませんし、いい思い出として時間が経った後見返せば、そこに映り込んでいるものを真実として何の疑いもなく飲み込みます。だから『今見ているものを正しく認識する』ことは元より『同じものを見るということに限って、これだけの障害を乗り越えて共有する』というのはほぼ不可能だと思います」
「・・・・・・あなたも入りますか?」
「俺はいい」
「そうですか。では」
 やれやれと志堂はその肩をもんだ。結果的にいつもと同じやりとりになるのなら、早いところ本題に入っておけば良かったと思わずにはいられない。
 深く息を吸い込むと、指先を組む。
「分かりますよ、言っている事は。互いが違う認識を持っていても、それを白日の下にさらけ出すことで共有したい。あなたが望んでいるのはそういう事でしょう。ただ、皆が皆、それを望む訳ではない事、それに隠したまま別の話をでっちあげる事だってできますので、それを分かった上で本当に信じられる人に出会えたらいいですね。
 私はそういう意味ではまだ人を信じたい(たち)なので、『自分と同じものを見ている』と言い切ろうと思います。だってあなたが言うように証明しようがないじゃないですか。その度に相手の過去を掘り返して、人間性を分析して、傾向を調べた所で、必ずしも中心には至らない。けれども自分の中ではこの人はそういう人だと思い込む事でしか安心できない。それって相手を支配したがっているようにしか見えないんですよね。端的に言って自分本位(えご)です。
 いいじゃないですか。言葉を一言二言交わせば違いが見えてくる。そこで納得すれば。互いに好意を持っていればいつの間にか似てくるものです。口癖も、格好も、笑い方も。老夫婦の姿を見て充分分かり得る事です。疑えば(きり)がありません。そんな事より今目の前にいるその人を、その人の表情を信じる努力をした方がはるかに建設的ではありませんか?」
「努力して、信じるですか」
「信じる事自体、努力して出来るものではないと思いますか? 
 実際心の問題ですから難しいかもしれません。ただ『悲観は自然なもの、楽観は意思によるもの』と古い友人が言っていたのを思い出しましてね、その枠の中に『信じる事』も組み込めないかと私は思うのです」
 話し終わって視軸をずらす。ずらすまでもなかった。
 ずっと同じ視界にいた男子生徒は、何ら変わる事なく、女生徒の横顔を見続けていた。



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登場人物紹介

志堂槙(しどうまき)

29歳、生物学講師。

最低限の仕事をして、研究に没頭する。

水彩透(すいさいとおる)

大学3回生。文学部国文学科。元サッカー部マネージャー。

江角恒星(えすみこうせい)

大学2回生。社会学部現代社会学科。サッカー部。ポジションは右サイド。

真梨(まり)

通信学部4回生。

特徴的な話し方をする。

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