右手

文字数 1,224文字

体育祭、流血、教室。
これが僕の16歳。

その日の高校での出来事を思い返して、僕は眠れなかった。
どくどく、胸が音を立てて、眠れない。ベッドに横になっても、心臓が体の内側からすごい勢いでノックしているみたいで、眠れない。
眠れない。
眠れない。
右手が疼く。

秋の体育祭の最中に流血した。
ただでさえやる気のなかったクラス対抗のバスケの試合、ぼんやりしていたら途中でボールを取り損ねた。手を強打、右手の爪と指のあいだ、血だらけになり、だらだらと流れた血。
キュッキュとなる床にポップな水玉。
大丈夫?大丈夫?とクラスメイトたちから聞かれて、そんな気は全然しないが「大丈夫」とだけ言って、指をハンカチで押さえながら、体育館から校舎の、渡り廊下をひとり歩いて行った。風で動く落ち葉、かさこそ、赤い。
揺れる体操服、飛び散る汗、嬌声。
ヨシダさんの体操服姿。
それらから離脱できてよかった。わざと怪我したんじゃないか、と自分で思った。
保健室に行って、ちょうどスタンバっていた保健の先生に指に包帯してもらう。
独特の消毒液の匂い。
「みんなねー体育祭は怪我しちゃうよね。しばらくは安静にしてなね」
保健の先生は若くて可愛い、なんてことはなく、母親くらいの小太りの、安心感のある見た目だが、流血しているので聖母みたいな優しさ、を感じた。
消毒液がしみて、ちょっと痛気持ちいい。
右手は包帯でぐるぐる。

教室に戻る。
体育祭は続いており、誰も教室にいない。
ふと、ヨシダさんの机を見た。
ヨシダさんの椅子に座ってみた。ヨシダさんの机のなかに手を突っ込んでみた。中からピンク色の、サテンのコスメポーチが出てきた。開けてみた。
ファンデ、アイライナー、マスカラ…
ああ、ヨシダさんが使っているリップクリーム。
桜色のくちびる、その粘膜、春から見つめ続けて、でもいまだ触れられないあのくちびるを行き来したリップクリーム。
誰もいないことを確認して、くちびるに塗り広げた。バニラの甘い香り、滑り、いい知れない気持ちよさ。
僕は幸福感に包まれた。

瞬間。
ガタッと音がした。振り返ると、教室の後ろに、学級委員のクボタさんがドアをあけて立っていた。
「…タジマ、なにしてんの?」
クボタさんは、いつもの、冷静沈着なようすではなく、にやにやと、蔑むような目で僕を見ていた。
「あ、え、あの、怪我したからあの」
包帯で巻かれた右手をクボタさんに見せようとして、僕は左手に持っていたリップクリームを机に落として、それはころころ、床に転がっていった。
「あっ」
転がるリップクリームを床に四つん這いになり追いかけていくと、クボタさんのスニーカーにぶつかった。
クボタさんを見上げる。
体操服姿で、汚いものを見るように、クボタさんは僕を見下ろしていた。
「変態」
クボタさんはそう言って、僕の包帯で巻かれた右手を力いっぱい踏みつけた。
声にならない声。
痛くて気を失うかと思った。
それが気持ちよかった。

だから、眠れなくなった。

体育祭、流血、教室。
これが僕の16歳。
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