第六話

文字数 6,416文字

 給料もだが、住み込みというのが思いの外良いものだった。
 俺の部屋は電気も家電も無く水道も通していないから寝る以外の行動は全て外だ。
 だが寝るための布団だって、大学のバスケットボール部が合宿用の布団を買い替える時に貰った物だ。
 ぺしゃんこに潰れているから寝心地は最悪だ。あるだけマシだが。
 けど金魚屋は親切にも大きなソファベッドを用意してくれた。
 身長百七十二センチメートルの俺が大の字になってもごろごろできる大きな物で、大きなクッションはふかふかだ。
 真っ赤というのが金魚をほうふつとさせて何とも言えない気分になるが、そんな贅沢は言わない。
 しかも自室として使って良いと与えられた部屋は葬儀場だった。
 ここはその名称と行為を除けばここは美しい場所だ。
 部屋に大きな水槽があるなんて、俺の人生で最高級のインテリアじゃないか。
 しかも労働時間は自由で、大学は謹慎中だから早く起きる必要も無い。
 こんなにゆっくりと快適なベッドで眠ったのは初めてかもしれない。
 生まれた時から俺の家は金が無かったから柔らかいベッドなんて経験がないんだ。
 ベッドや枕にこだわるなんて金持ちのやる事だが、その気持ちが有難くも少しだけ分かった。
 とりあえず客が来ても良いように机でも拭くかとカフェの方へ向かうと、窓のすぐ下に置いてあった数個の金魚鉢がひっくり返っていた。
 昨日はたくさんの金魚が泳いでいたのに一匹もいない。残っているのはヒレや眼球と思われる物だけだ。
「何だこれ。まさか食われたのか」
「おやおやまあまあ。困ったものだね」
「わあああ!」
 どこにいたのか、女が真後ろから首をにゅうっと突き出し登場してきたのでつい逃げてしまった。
 首から寄って来るのは止めて欲しい。
「猫ですかね。こんな事なら中に入れておけばよかった」
「ふうむ。君は優しい子だね」
「優しいって、こんなの見れば誰だってそう思うでしょう」
 せめて死骸が残っていれば弔ってやれたのに、残っているのは鱗やヒレだけだ。
 そうかいそうかいと女は興味無さそうにため息を吐いたが、誰かが散らばったわずかな残骸を拾った。
「え? 誰?」
 それは一人の少年だった。
 顔立ちも髪も目も、遠目から見ても姉弟だと分かるくらいそっくりだ。
「弟いたんですね」
「可愛いだろう。自慢の弟さ」
 それに賛同するほどの接触をした事がないので何とも言えないが、俺も沙耶が可愛い。
 兄や姉というの共通する感覚を持つものなのかもしれない。
 そっくりな容姿の人間が傍にいる女がたまらなく羨ましくなった。
「さて僕は仕事に行くよ。今日は休業日だから店番は必要無いんだけど、君も一緒に来るかい?」
「休業日があるんですか?」
「それは僕の気分次第さあ」
「はあ……」
 労働契約はしっかりしてるわりにそういうところはいい加減なのか。
 この女の言う事やる事の一つ一つに感情を揺らしていてはキリがない。
「また金魚を回収に行くんですか?」
「金魚は金魚だけど少し違う」
「違うってどういう――うわ」
 するりと俺の足元を何かが駆け抜けた。
 弟だ。さっきの弟が着替えて戻ってきたようだった。
 やはり濃紺の和服だったが、何だか不思議な形をしている。
 前身頃は着物の合わせでゆったりとした七分袖なのだが、着物特有の袂は無い。
 俺は着物やら浴衣やらという贅沢品を着た事は無いが、普通首は剥き出しになっているものだ。だが少年は首を守るような黒いハイネックを着ている。
 帯はどちらかと言えばベルトのようで、裾をたくし上げて挟み込んでいた。
 スパッツのような物を履いていて、手首にはサポーターをはめているから洋装のようにも見えるが足元は足袋に草履だ。
「それはどういう格好なんだ、お前」
「可愛いだろう? 僕が作ったんだ」
「へー……」
 どういう目的の服なのかイマイチ分からないが、腰に黒い革袋をぶら下げているのが気になった。
 たぷたぷと揺れているのを見るに、水が溜められているのだろうが、一体何をするのか。
「さて、弟の準備もできたし行くとしようか」
「こいつも連れて行くんですか?」
「そうさ。この後の仕事はこの子がいないとできないのさ」
 という事はこの十歳にも満たないような、沙耶よりも幼い少年も金魚屋なのか。
 しかしこんな少年じゃないといけない仕事とは何だろうか。金魚の事はまだ良く分からないが、危なくはないのだろうか。
 心配する俺を他所に、女は少年の手を引いて歩きだした。
 どこかへ移動するのならナビが必要だろうと俺はスマホを取り出した。
「ああ、今日はナビはいらないよ」
「え?じゃあどこに行くんですか?」
「それはこの子が知っているよ。この子しか知らないからね」
「この子がですか? てか、こんな小さい子連れて大丈夫なんですか?」
「もちろんさ。この子はとても優秀だからね」
 確かに弟は姉を扇動するようにぐいぐいと引っ張っている。
 ちっとも迷う様子は無くて、目的地は明確なようだ。
 女は幸せそうに笑っているが、弟は終始無表情だった。
 怒っているわけではないようなのだが、なんというか、シーンとしている。
 女はしきりに話しかけているけれど弟はちらりと顔を見る事もせず何も喋らない。
(仲悪いのか……?)
 それにしては女は幸せそうだ。
 よく分からない。
 そんな良く分からない状態のまま、少年は鬱蒼とした茂みに入って行く。
 少年の胸まで覆い隠すほどの背丈の草を掻き分けて進み、急に身体全体を使って草を避けた。
 するとそこにいたのは二匹の金魚だった。
 一匹は普通の赤い金魚だったが、もう一匹は体が真っ黒で目がぎょろりと飛び出ている。
 出目金だ。
「へえ。出目金なんて初めて見ました」
「稀だからね。未練より強い恨みを持って死ぬと出目金になって出てくる場合があるんだよ」
「ふうん。普通の金魚とどう違うんですか?」
「全然違うよ。あの子に触ってごらん」
「は? 金魚は触れないですよ」
 触れないと分かっているのに何を言っているのか。
 しかし女はほらほら、と俺の背を押し出目金の前に押し出した。
 それならまあ撫でてやろうかと手を伸ばした。
「……え?」
 冷たかった。
 とても固くて、全身がぬるぬると血に濡れている。
「何で、お前……」
 触れる。
 空飛ぶ金魚は触れない。
 金魚屋の金魚もおそらく実体は無い。すいすいと水中を泳いでいても水面が揺れる事は無いのだ。
 だがこいつは触れる。草は出目金をすり抜けるが俺の手はすり抜けなかった。
 こいつは何か特別なのだろうか。
 指を放すとぬちょりと血が滴る。
 そして出目金は急にぶるぶると震え出し、急に俺に噛みついてきた。
「痛っ! おい! 放せ! 放せよ!」
 牙だ。口の大きさに見合わない太さと長さをした牙が俺の腕に差し込まれた。
 それはまるで食いちぎろうとしているような強さで噛みついてきて、俺の腕からはだらだらと血が流れ始めた。
 生きてる。
 こいつは生きてる。
「放せって言ってんだろ! くそっ!」
 掴めるのだから引き剥がす事も出来る。
 俺は出目金を掴んで放り投げたが、それは驚くほどの重量だった。
 目方に見合わない。
 憧れの米五キログラムの袋と同じかそれ以上に重い。
 壁に叩きつけられた出目金は、しかしそれでも諦めずに俺に噛みついて来る。
 こんな牙が喉に刺さったら終わりだ。
 まさか攻撃してくるとは思ってもいなかった俺はすっかりパニックになってしまった。
「ちょっと! 見てないで何とかして下さいよ!」
「そうだねえ。では助けてあげてくれるかい、弟よ」
 女はぽんと弟の背を叩くと、弟はぴょんと軽く飛び跳ねた。
 そして暴れ狂う出目金を抱えて地面に転がると、じたばたと暴れる出目金とついでに赤い金魚も腰の革袋に押し込んだ。
 しばらくはばちゃばちゃと音を立てて暴れていたけれど、五秒ほどすると大人しくなった。
「つ、捕まえた、のか?」
「そうだよ。この子は金魚を捕まえるのがとても上手なんだ」
「じゃあ最初からそうして下さいよ!怪我しただけ損じゃないですか!」
「危機とは身をもって体験し始めて学びとなるのだよ」
「見れば十分分かりますよ、こんなの」
 腕には牙の刺さった分ぽっかりと穴が開いた。
 女は何が面白いのかふふふと笑って俺の腕に絆創膏をべたりと貼った。
 怪我をする前提だったのか。何て女だ。
「さあて、次へ行くよ」
「まだあるんですか?」
「そうとも。今日は出目金回収日なのだからね」
 まさかまだこんなのを続けるのか。
 こんな事なら店で待ってればよかった。
 女は再び少年の手を握り、導かれるままに歩き続けた。
 行く先々で出目金を見つけては捕まえていく。
 今まで気にしていなかったけど、よく見ると街中にもちらほら出目金がいる。
 少年は苦も無く怪我も無くそれをぴょんぴょんと捕まえていくので、俺はただ見守っているだけだ。
 しかし今度見つけた出目金は今までの出目金とは違っていた。
 二匹が喧嘩をするように体当たりし合っていて、その牙を相手に向けている。
 だが片方は片手程度の大きさしかないのに対し、もう片方はその倍はある。
 どうみても小さい出目金の方が弱くて、ついに大きい方の牙が小さなその身に差し込まれた。
 何度も何度も食い付いて、すっかり弱った小さい方はアスファルトにぽとりと落ちた。
「な、なん、何ですか、これ」
 小さな身には収まらないであろう量の血が流れ始め、それはどんどん広がって俺のつま先を濡らした。
 だが大きな出目金は躊躇なくそこに飛び込んで、あろうことか小さな金魚の身体をむしゃむしゃと食い始めたのだ。
「く、食ってる! 食ってる!」
「たまにこういう子がいるんだ。共食いしてしまってね」
 食ってるだけじゃない。
 食い終わると血の池でばちゃばちゃと跳ねながらその血をすすっていく。
 ずずずと吸い尽くす速度はすさまじく、直径一メートルは広がっていた血は数秒で消えてしまった。
 すっかり食事を終えると、出目金の身体がびくりと大きく跳ねた。
 そしてぼこぼこと肉が盛り上がりどんどん身体は膨れ上がり、ついには人の頭と同じくらいの大きさになってしまった。
 それだけじゃない。
 飛び出ていた目は引っ込んでいて、うっすらと細くなったそれはまるで人間の目そのものだった。
「な、何だあれ! 人、人の顔だ!」
「出目金は出目金を食うと生前の肉体に戻っていくのだよ」
 そんな馬鹿な。
 ではこのまま大きくなり人間の形になり、それはどうなるんだ。
 出目金は次の餌を探しているのか、目に入った俺に飛び掛かって来た。
「うわあああ!」
 俺は咄嗟に顔を両手で覆ったが、それより早く少年が飛びついて出目金を抑え込んだ。
 こんな化け物にも躊躇しないのか。
 俺の心臓はどくどくと大きな音を立てているのに少年はけろりと無表情なまま、また腰の革袋に出目金を詰め込んだ。
 それは激しく暴れていたけれど、次第に大人しくなりぴたりと動かなくなっていった。
「……何なんですか、あれは……」
「恨みさ」
 女は少年の革袋を慈しむように優しく撫でた。
「出目金は恨みに支配された金魚なのさ。実態をもって憎い相手を殺しに行く」
「ふ、普通の人間にも見える、ん、ですか」
「いいや。普通の金魚と同じように憑くのさ。憑いて魂を食い殺してしまうんだよ」
「……その出目金はどうなるんですか……弔うんですか……」
「共食いをした出目金は少し難しいね。何しろ共食いすると食った出目金(あいて)の恨みも我が物としてしまうんだ。となると誰か一人に冥福を祈られても駄目だ。全ての出目金が祈られるまでこの子は共食いを続ける。このループだ。そうなったらもう誰が主人格か分からなくなり、最後は自我を失ってしまう」
「ず、ずっと、このままなんですか」
「いいや。前にも言ったけど、人間に害をなした場合は強制的に消す方法があるのだよ」
「どうやるんですか。あんなの早く消さないと駄目でしょ」
「そうだね。では一旦店に戻ろうか」
*
 店に戻ると、いつも通り葬儀場に入って行った。
 やはり金魚の弔いをするのだろうか。
「少し準備をするよ」
「手伝いますか?」
「いいや。そこで見ているんだよ。これから何が起こるかをしっかりとね」
「……はあ」
 この女がこんなに険しい顔をするのは初めて見たが、それ以上に普通の口調で喋れる事に驚いた。
(一体何が始まるんだ)
 女は大きな金魚鉢を出すと、そこに少年が捕まえた出目金をぼちゃぼちゃと入れていく。
 普通死んでいる金魚は水面に浮かぶと思うが、出目金は底に沈んでいた。あれほどの重量なら当然だ。
 随分とぐったりしているが死んでいるのだろうか。
 いや、魂が死ぬというのもおかしな話だが。
(……ん? 死ぬ?)
 そういえば、食われた魂は消滅して地獄へ行くと言っていなかったか。
 弔いは正当な手順だ。願われて輪廻転生する、その手助けをするのが金魚の弔いだ。
 だがこいつらは冥福を願われていない。輪廻転生を許されていない。
 しかしこの女は消すと言った。
 消す方法があると。
 それはつまり――
「殺すよ」
「……は?」
「この子達は出目金(たにん)を殺した。それは犯罪だ。人間も人を殺したら裁かれるだろう?」
 女は出目金の入った金魚鉢をこつんと突いた。
 出目金は相変わらずぐったりとしている。
 逆らう気力も無いようだ。
「金魚屋の仕事は未練(くさり)で繋がれた金魚を現世から解き放つこと。だがその手段は弔いだけではない」
 女は立ち上がり両手を広げた。
「さあ、出目金の断罪だ」
 金魚鉢の中の水が渦を巻いた。
 弔いと同じように、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、強く強く渦巻いている。
 出目金は抗わずその流れに身を任せている。
 俺はふと虎が木の周りをぐるぐる回ってバターになるという古い童話を思い出した。
 幼い頃母に聞かされたそれが怖くて泣いた記憶がある。
「ま、待って下さい。これ何してるんですか」
 俺は女の袖を掴んだけれど、振り払う事もせず女はじいっと出目金を見つめている。
 鱗がぺりぺりと剥がれていく。
 ヒレがびりっと身体から剥がれていく。
 肉がぼろりと取れると中から出目金が零れ落ちてきた。
 食った他の出目金だろうか。
 それと同時にどんどん血があふれ出し金魚鉢は真っ赤に染まっていく。
 小さな出目金はもう原型をとどめていなくて、水中に肉片が漂っていた。
「止めろよ! 何してるんだよこれ!!」
「断罪さ」
「な、何、だってあいつらもうボロボロじゃないか! もういいだろ!」
「良くないよ。だってあの子は人の魂を食った。なら同等の罰を受けなければいけない」
「同等って、ま、待てよ! なら金魚に戻してやればいいだろ! それで冥福を祈られるのを待てば」
「戻すってどうやって?」
「それは……」
「覚えておいで。金魚屋にできるのは殺す事だけだ。弔いだってそうさ。行く先は天国だが、金魚屋はそのために金魚(たましい)を殺してやるだけなんだよ。輪廻転生させてやるわけじゃない。輪廻転生するために殺すだけなのさ」
「け、けどこんなやり方あるかよ!」
「仕方がないだろう。実体があっては魂だけにならないじゃないか」
「だからってこんな、他に方法無いのかよ!!」
「ふうん。では断罪のやり方を教えてあげるから、どうするか君が決めたまえ」
「な、何を」
 女はにゅっと首を突き出し俺に詰め寄った。
 そしてその真っ赤な爪で俺の唇をなぞる。
「金魚屋の仕事は殺す事だ。今ここで変更可能なのは下手人さ。僕か君のどっちかだ」
 女はそう言って俺を金魚鉢の前に立たせた。
「殺すかい? それとも殺すかい?」
 あまりにも血が多すぎて金魚鉢からはそれが溢れ出てしまっている。
 それと一緒に何かが転がり出た。
 目玉だ。
 かつて俺を睨みつけたあの目だ。
 もう半ば溶けていてもう俺の姿も映していないけど、それは確かに目玉だった。
 そして、俺は逃げ出した。
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