第十五話
文字数 12,121文字
弟と別れて、俺はいつものように公園でぼうっとしていた。
足で探すのには無理がある。
ならやはりネットで出来る限りの情報収集をするしかない。
とはいえ、桜子という名前の妹がいたなんて情報だけじゃ、それらしい存在に目星をつける事もできなかった。
それにあの金魚屋にいる金魚が、この近辺で死亡した金魚なのかどうかも分からない。
もし仮に金魚屋がチェーン店でこの地区担当だっていうなら桜子が死んだのもこの辺のはずだが、この地区限定にしちゃあの水槽は金魚の数が多い。
没年もそうだ。定期的に弔いをしているのならそんな昔の金魚がいるわけじゃないだろうけどそれも確証が無い。
(それに体内の出目金なんて俺には見えない。情報だけで特定できないといけないんだ)
俺の出目金は俺の中にいた。
あれは俺の黒い心が育っている途中だったし、何より俺は生きている。だから表には出ていなかった。
「どうしたらいいんだ、こんなの」
何の策も思いつかず堂々巡りをしていると、突如予想だにしない人物が現れた。
「朝から晩まで勤勉な事だ」
金魚屋の女だ。
止めに来たのか。
思わず身構えると、女はくすっと笑ってストールを羽織り直した。
「放っておけば出目金は勝手に出てくるよ。出てきたら捕まえればいいよ」
「死んだあとじゃ遅いですよ!」
「じゃあ君は彼を見つけて何と言うんだい?おたく体内に出目金いますよ?信じるわけ無いだろう。もし仮に彼がそれを信じて、どうやって取り出すんだい?」
そんな事は分かってる。
見つけてもどうにもならない可能性の方が高い。
俺は出目金に何もできないのだから。
「分かっただろう? 僕らにできる事は無いんだよ」
「……それでも探します」
「でもねえ、出目金憑きの人間を刺激したらそいつの出目金は君を取り込んでしまうだろうよ」
「取り込む? 食われる事はあっても取り込まれる事はないでしょう。俺にはもう金魚も出目金いないんですから」
「いるよ。だって君金魚憑きじゃないか」
「あ――」
そうだ。今俺には桜子が憑いているから金魚が見えている。
ならもし俺が食われでもしたら桜子も食われてしまうかもしれないのか。
「君に憑いた金魚と君の魂ががっちゃんこしてたら出目金に食われた君は魂ごと食われるよ」
それはつまり弔われる事無く餌となり消えていくという事か。
失敗したら俺は魂ごと消える可能性があるのか。
ひやりと背筋に冷や汗が流れた。
「それにね、憑かれるっていうのがどういう条件で成立するのか僕は知らない。君はある日突然金魚が見えるようになっただろう?」
「は、はい」
「僕もだよ。あの子が僕に何をしたのか知らない。おそらく金魚側からアクションするのだろうね。もし桜子があくどい金魚だったらどうするんだい?」
「……死ぬ、かもしれない……」
「そういう事だ。分かったろう?分かったらもうお止め」
心配してくれてるのは分かってる。
それでも俺は――
「止めません」
「たかがお喋り係りの君に何ができるって言うんだい」
お喋り係り。
確かにそうだ。俺は金魚屋で寝るか喋るかしかしていない。
沙耶とだって、命を掛けたのは沙耶で身体を張って助けてくれたのは弟だ。
俺は一人で喚いてただけだった。
けど俺は覚えてる。
「言葉は時として呪いになるって言いましたよね」
「言ったね。だから余計な事を言うのはお止め。薄っぺらい綺麗事なんて反感を買うだけだよ」
綺麗事か。確かにそうだ。
俺が桜子に言ったのは無責任な依頼承諾だけ。
もし桜子の兄貴にあったとして、出目金がどうとか桜子がどうとか、現状報告と憶測を伝えられるだけかもしれない。
それは余計に二人を悲しませるだけかもしれない。
お喋りするしかできないだろう。
「けどあなただってそうだったでしょう。沙耶が頑張ったんであってあなたは口を動かしただけ。でも、だから俺は今ここにいる」
あの沙耶は出目金だった。
沙耶の遺志を聞けたのはこの人のお喋りだ。
「確かに言葉は呪いになる。でも救いになる言葉もある!」
金魚と喋ってほしかったからお喋り係りなんて作ったんだろう。
金魚をせめて楽しませてやりたいと思ったんじゃないのか。
じゃなきゃ暇なら話し相手をしていてくれなんて、そんなに金魚の事を気にかけたりしなかっただろう。
女はふう、と息を吐いた。
「君はやる事を間違えている」
「え?」
「君の言う通りさ。僕は口を動かしただけ。でもそれは沙耶の言葉だったから君の心を傷つける事なく動かしたんだ。思い出してごらん。沙耶は君にどんな言葉を伝えたんだい?」
沙耶が俺に伝えた言葉。
俺に沙耶が死んだ事は良い事だったと思うように仕向ける言葉。
「金魚屋(ぼく)は人間(きみ)にどんな言葉を伝えた?」
金魚屋が俺に伝えた言葉。
沙耶に頼まれた、沙耶が死んだ事は良い事だったと思うように仕向ける言葉と、それを金魚屋に伝えた時の沙耶の言葉。
それは金魚屋の想いや考えじゃない。
「金魚屋(きみ)は誰にどんな言葉を伝える?」
女はくくっと小さく笑うと駅の改札を指差した。
「それが分かったらちゃあんと食事をして大学は行きたまえよ」
「……でも時間が無いです。授業はもう諦めます」
「だから行けと言っているのだよ」
「は?」
「お行き。君を助けてくれた人に会いに行くのが良いだろう」
「俺を助けてくれた人? 誰ですか」
「僕は全く知らないよ。でもきっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう」
女はまたくくっと笑うと身を翻した。
「金魚屋(ぼく)が人(きみ)にできるのはここまでだ」
そう言うと女は金魚帖をちらつかせ、踊るようにしてすいすいと消えていった。
「……何だよその中途半端なヒント……」
謎かけをして去っていくのは趣味なのだろうか。
大学へ行けとは、つまり桜子の兄貴が大学にいるという事だろうか。
しかし家族が導くとは、沙耶にまつわる場所なのだろうか。
だが沙耶は俺の大学に行った事なんて無いし、沙耶自身学校に通った事はあまりないのだから大学とは思えない。
(けど俺を助けた人間に会えって事は俺も会った事があるのか?)
もしくはその人物が桜子の兄貴に繋げてくれるという事だろうか。
そんな事を言っても、自分でいうのも寂しいが俺は友達も知り合いもいないし、ましてや助けてくれるなんてとんでもない。
遠巻きに見られた事しかないし、今だってそうだ。
授業を除いて俺の耳に入ってくる俺関連の会話は『ほら、あれが宮村夏生だよ』くらいのもんだ。
(となると生徒とは考えにくい。なら教師か?)
立場的には生徒を助けなきゃいけないのだから、そういう意味では俺を助けた人間だ。
とはいえ、覚えてるのは謹慎を言い渡された事くらいだ。
後は勉強しかしていない。
(他にヒント。なんて言ってたっけ)
大学で俺を助けてくれた人。
でも確か――
『僕は全く知らないよ。でもきっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう』
つまり金魚屋は直接関わった事は全く無いという事だ。
となると沙耶とも俺とも関係無い人間なのではないだろうか。
もし多少なりとも関わってたのなら『全く知らない』とは言わないだろうが、その言葉に深い意味が無い可能性もある。
思わせぶりな事を言っているが、からかってるだけかもしれない。
(いや、ここまできて無意味な事は言わないと信じよう。あと言ってたのは……)
『金魚屋(ぼく)が人(きみ)にできるのはここまでだ』
これはつまり、金魚屋には行動制限があり、だからそれ以上は教えられないという意味だろう。
ヒントを出せるというのは答えを知っているという事のはずだ。
今までを振り返ると、金魚屋は弔うだけしかできないと言っていた。
でも沙耶のように依頼をしてきた金魚と話をする事は良いわけだ。
そのために個人的に動く事も良し。
そして、金魚屋の禁止事項は個人情報を聞き出す事だ。
(ならあの人だって桜子の兄貴は知らないはずだ。でも特定できてるとなると、それは桜子経由で知った情報じゃない。どこか別の場所で得た情報だ。それはどこなんだ)
分かりそうなのに分からない。
あと一歩な気がするのにその一歩が見つからない。
(でも一番気になるのはあの言い方だ)
『きっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう』
(沙耶だと言わなかった)
沙耶の名前が禁句になっているわけではないだろう。
これまでだって何度も口にしていた。
「俺の家族……」
俺はその言葉で思い当たる場所へと走った。
*
公園から駅を超えて歩くことニ十分。
あまり人気のない通りにある山岸酒店の扉を開けた。
「おお、夏生。おかえり」
「ただいま、じーちゃん」
ここは俺の祖父の家――ではなく、住み込みで働いている個人経営の小さな酒屋だ。
七十歳を過ぎた山岸さんはアパートから追い出されバイトも全てクビで不採用続きの俺を住み込みで働かせてくれているのだ。
金魚屋のおかげで金には困らなかったが、金じゃ解決できないのが住居だった。
この近所の人間は大体俺の心中と暴行騒ぎを知っているから入居を断られるのだ。
仕方なくネットカフェで寝泊まりしていたがいつまでもこれじゃ困る。
多少大学から遠くなってもいいから、と不動産屋総当たりで頼んでいたらこの山岸さんだけが迎え入れてくれたのだ。
山岸さんはマンションを幾つか経営してるからその一室を使うか、もし家事全般と酒屋の店番、不動産の経理業務も手伝えば住み込みで良いとまで言ってくれた。
バイトも探さなきゃいけない俺にとって有難い話で、二つ返事で頷いた。
ここが俺の新しい家で、新しい家族だ。
(沙耶じゃないならここしかない)
得られたヒントはどれも断片的で憶測の域を出ない。
だが家族という明確な単語が示すものはこれしかない。
きっとここに何かヒントがあるんだ。
「ばーちゃんは?」
「買い物行ってるよ。味噌が切れたらしい」
「何だ。連絡くれれば買って来たのに」
「お前は味噌の違いが分からんから駄目だとか言ってたぞ」
「どれでも一緒じゃん……」
「だから駄目なんだ」
ばーちゃんというのは山岸さんの奥さんだ。
山岸さん夫婦は酒屋の裏にある古い日本家屋の一軒家で二人暮らしをしているが、子供がいないから来てくれて嬉しいと言ってくれた。
しかも沙耶の仏壇まで置かせてくれて、誰もが避ける沙耶の話を聞いてくれた。
それだけじゃない。わずかしか無い沙耶の服や教科書なんかの遺品を押し入れにしまうのは可哀そうだからと、沙耶のための部屋まで用意してくれたのだ。
沙耶が帰ってくるわけではないが、まるでこの人達が元々俺の祖父母のような気がしてくるほど俺の事も沙耶の事も可愛がってくれている。
気が付けば俺は山岸さんと奥さんをじーちゃんばーちゃんと呼んでいた。
「今日はもう家にいるのか?」
「うん。店番するよ」
「そりゃ助かる。後で鹿目のじいさんが醤油取りに来るから来たら呼んでくれよ」
「はいよ」
小さい店だがコンビニすら無いこの辺はお馴染みのお客さんがそれなりに来る。
それは俺の縁も広げてくれて人付き合いの仕方も学べて有難い限りだったが、たまに困る事もある。
ドアが開いて一人の青年が入って来た。
青年は愛想笑いどころか眉をしかめて口を尖らせ、あからさまな嫌悪感を示していた。
「……あんた一人なの?爺さんは?」
「奥にいますよ。呼びましょうか?」
別にいい、とぼそりと呟くと青年は黙ってしまった。
じーちゃんの人徳もあってご近所のおじいちゃんやおばあちゃんとは割と馴染んでいるのだが、その息子や孫といった若い人は俺を良く思わない人が少なからずいる。
この青年が誰かは分からないが、見覚えのある顔だからおそらくそういった類だろう。
青年は目をそらしたままため息交じりにようやく話し始めた。
「……鹿目ですけど」
「鹿目さん? 今日はおじいさんじゃないんですね。お孫さん? じーちゃん鹿目さん来るの楽しみに」
「頼んでたのは?」
「え? ああ、醤油?あるよ」
「ならさっさと出せよ」
「あ、す、すいません。えーっと、四百円になります!」
今でこそ少なくなったが、こういうのは時々ある。
最初は乱暴を働くような人間がいる店には行きたくないと客足が遠のいたりもした。
やっぱり俺は出て行った方が良いだろうと思ったが、じーちゃんとばーちゃんはそんなの今だけだから気にするな、と引き留めてくれたのだ。
そんなじーちゃん達のためにも、こういう客にも笑顔だ。
だがその笑顔すらこの青年は気に食わないようで、四百円を俺に向けて投げ捨てた。
「いい気なもんだな。お前みたいの雇うなんてどうかしてるよ」
そう言い捨てると青年は店の扉を叩きつけるように勢いよく閉め、その揺れでドア横の棚に並んでたおつまみ商品がばらばらと落ちていった。
当たるならせめて俺に当たってくれないか。
さすがにここまでされると溜め息は出る。
「おい、どうした? 何の音だ」
「何でもない。ちょっとぶつかっただけ。あ、鹿目さん来たよ。じいちゃんじゃなくて孫っぽいのだったけど」
「そうか、来たか。もう帰ったのか? 話はしたか?」
「え? いや、全然。怒ってた。俺が嫌だったんじゃないかな」
「……そうか……」
店と母屋は廊下続きになっているからおそらく今のやりとりが聴こえていたのだろう。
じーちゃんは俺の頭を優しく撫でてくれた。
優しくされるたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
(しかもこの辺で出目金に食い付かれたらじーちゃん達にも迷惑がかかる)
追い払えればいいが、怪我でもしたらじーちゃんもばーちゃんも心配するだろう。
それに俺が血だらけになってたらまた喧嘩だの何だのと騒がれて、さらに迷惑をかける事になる。
桜子の事はどうにかしてやりたいが、俺としては金魚を見れなくなるようにする事も大事だ。
そりゃ桜子が弔われればそれで終わるわけだが、よく考えたらそんな保証はない。
もし憑いた状態で弔ったら一生金魚憑きなんて事もあり得るんだ。
そう思うと何が何でも解決しておかなければならない。
そんな事を考え込んでいると、じーちゃんがぽんぽんと俺の頭を撫でてきた。
「すまんな、嫌な思いさせて」
「俺は全然。むしろ迷惑かけてごめん」
「いや、違うんだ。実は鹿目のじいさんに頼まれたんだよ。お前に浩輔君と話をさせてやってほしいって」
「浩輔って今の? 何で俺?」
「……実はな、浩輔君も小さい妹さんを腎臓の病気で亡くしてるんだよ」
「は?」
「境遇が似てるだろう。だから少しだけでも話をさせてやってくれないかって頼まれ」
「じーちゃん! それ! 妹! 妹の名前は!? 亡くなった時何歳だった!?」
浩輔はパッと見た限り俺とそう変わらないように見えた。
そして腎臓の病気で亡くなった小さい妹。
「桜子ちゃんだ。まだ十歳かそこらだったよ」
まさかだ。
こんな近くにいたのか。
(金魚のお導き、なんてな)
壁にかかったアナログなアンティーク時計を見るとまだ十六時過ぎ。
夕飯を食べるにはまだ早い。
「俺ちょっと会ってくる」
「あんまり突っ込んだ事はするなよ。お前も立ち直るまでは色々あったろう」
「うん! 分かってる!」
俺は何度か配達した事のある鹿目さんの家へ走った。
*
「すいません! 山岸酒店です!」
俺は何度か配達へ行った鹿目さんの家へ走った。
インターフォンを鳴らすと、はいはい、とのんびりした口調でじーちゃんの友達の鹿目の爺さんが出て来た。
ご近所の中でも特にじーちゃんと仲の良い人で、俺の事も可愛がってくれている。
「いやあ、すまなかったね。あの様子じゃ迷惑かけただろ」
「全然。あの、今会えますか?」
「どうかなあ。部屋に籠ってしまったんだよ」
「扉越しに話すだけでも駄目ですか?」
「構わんよ。ただまあ、なんだ、夏生君が嫌な思いするだけになるから放っといた方が良いかも分からん」
「でも一人にしたら俺みたいになる可能性ありますよ」
あの頃俺は世の中全て的になったような気がしてた。
どいつもこいつも綺麗事ばっかいいやがって、なんて思ってたけど、今思い返せば心配してくれてる人だっていた。
顔色が悪いから保健室で寝た方が良いと進めてくれたり、食堂では一番安いかけそばしか食べない俺に海老天をオマケしてくれたり。
施しなんかうんざりだと不愉快に思ってたけど、そうなってしまったのは俺が自分から一人になっていたからだ。
「孤立させない方が良いと思います。浩輔君が自分のタイミングで助けてって言えるように、ずっと手を伸ばしてやってた方が良い」
本当に助けは不要で無駄だったとしても、助けて欲しい時があるかもしれない。
その可能性があるなら傍にいてやりたい。
「……そうか。そうだな。浩輔の部屋は二階だよ」
鹿目の爺さんはほんの少しだけ涙目になって、うんうんと小さく頷いた。
どうしてこんな曰くつきの俺を可愛がってくれるのか不思議だったけど、自分の孫と重ねていたのだろう。
「浩輔。夏生君が来てくれたよ。どうだ、少し話でもしないか」
コンコンとノックしてみるが、浩輔の返事は無い。
そうれはそうだろう。俺も最初はこうだった。
悪気があるわけじゃなく、何故か敵のような気がしてしまうのだ。
それが例え自分を助けてくれる言葉だったとしても、この状態の時はきっと何を言っても届かない。
鹿目の爺さんはしょんぼりと肩を落として苦笑いを浮かべた。
「あの、少し二人にしてもらってもいいですか?身内がいたら恥ずかしいとか、そういうのもあるかもしれないし」
「そうか。そういう事もあるか。うん、じゃあ何かあったら呼んでくれよ」
鹿目の爺さんはよろしく頼むよ、と軽く頭を下げると階段を下りて行った。
身内だと恥ずかしいなんて思いつきで言ってるだけだが、本当にそうだったらこれで天岩戸は開くけど――
「鹿目」
部屋の中からは声どころか物音一つ聞こえてこない。
俺の声を聴いたうえで無視しているのか、そもそも聞こえないようにしてるのか。
もう一度コンコンと少し強めにノックをしてみるが、やはり返答は無い。
「なあ。ちょっと話さないか?」
当時の俺は耳栓したり上着を被ったり、物理的に遮音していた。
イヤホンして音楽聞いたり布団にくるまってたら聴こえてないだろう。
そうなるとどんどん周りから孤立していく。会話を諦めたらそこで終わってしまう。
「何でもいいよ。えーっと、あ、お前酒好き? 俺結構好きなんだけど今度飲まない?」
言うまでもないが、回答は無い。
口をきいてくれない段階で飲もうも無いもんだ。
「サークル入ってる? 俺も何かやりたいんだけどさ、何しろ俺じゃん?絶対歓迎されないから行きにくくてさ。今度俺と遊んでよ」
口をきいてくれない段階で遊んでくれも無いもんだ。
(やっぱ無理だなこれ)
時間は無いが焦って怒らせたら余計意固地になるだけだ。
けど逆を言えば、最初の俺と同じ段階だというのが明確になったということでもある。
情報ゼロの時に比べればはるかにましだ。
(説得材料を揃えるか。何を恨んでるかが分かれば話はできるはず)
一先ず俺はこの場を諦め、階段を降りた。
*
リビングへ行くと、鹿目の爺さんがソワソワした様子で待っていた。
俺を見つけると立ち上がり小走りで駆け寄ってくる。
ひどく心配そうな顔をしていて、それだけでも浩輔が愛されているのが良く分かった。
「どうだった? 何か喋ったかい」
「すみません。駄目でした」
「そうか……」
がっかりという文字が背に見えるようだった。
きっと何度も浩輔に声をかけ、話題のバリエーションにも尽きてしまっていたのだろう。
けれど鹿目の爺さんは愚痴る事もせず、にっこりと微笑んでお茶を出してくれた。
「悪かったね。人を無視するような子じゃなかったんだが」
「いいえ。人殴った俺よりはるかに理性的ですよ」
出目金なんていうからてっきり暴れ狂う厄介な奴を想像してたが、浩輔は見た目も知的で穏やかな文学青年のような印象だ。
八つ当たりのような物言いをされるのは不愉快ではあるが、人と会話をする余裕があるなら俺よりはずっと良い。
「浩輔は一人暮らししてたんだよ。けど夏生君が山岸の所にいるって知って急にここに住み始めた。話をしたいはずなんだよ」
「俺とですか?」
俺を避けたのを見るに、同病相憐れみたいわけではない気がする。むしろ敵意を感じたくらいだ。
けどこれはあの頃の俺とよく似てる。
俺も殴った相手を個人として恨んでいたわけでは無いし、けど陰口をスルーできる余裕も無くて。
優しい言葉も同情も、好意ですら興味本位のやじ馬に見えて許せなかった。
そんな状態で俺と話したい事とは一体何だろうか。俺と話したって出目金が消えるわけじゃない。
(つーか何で出目金なんだ? 妹が死んだだけじゃ出目金になるとは思えないんだけどな)
何かを恨んでいなければ出目金になりはしない。
桜子の死の経過に何かあるはずだ。
「浩輔君と桜子ちゃんは仲良かったんですか?」
「そりゃあもう。歳が離れてたし、浩輔は相当可愛がってたよ」
「桜子ちゃんの入院は長かったんですか?」
「生まれてから半分以上は病院だったな」
「桜子ちゃんは治療してたんですよね?それも全く駄目だったんですか?」
「駄目というか……浩輔の腎臓を移植をしたんだよ。けど、まあ……拒否反応っていうのが出てね。それで」
「それは医療ミスとか?」
「違うよ。手術自体は問題無かった。ただ稀にそういう事もあるらしい」
「浩輔君は先生を、その、恨んでるとかそういうのは?」
「無いよ。いや、どうかな。最初はあったかもしれんな。けどまあ手術を成功させてくれた事には感謝してたし。むしろ浩輔が気にしてんのは手術を受けさせた事だろうな」
「受けさせたって、同意したんですよね?」
「したよ。でも手術しようって決めたのは浩輔なんだ。桜子は怖がっててね」
「……なるほど」
つまりそれは、浩輔が生きるか死ぬかを選ばせた結果死んでしまったという事か。
状況こそ違うが俺と沙耶によく似ている。
俺みたいに桜子を殺したのか。
「それ、ご両親は浩輔君に何か言ったんですか?」
「ああ……母親は――俺の娘だが、桜子を産んでその後すぐに亡くなってる。あの子も腎臓が悪かったんだよ。父親の方は単身赴任でアメリカだかなんだかに行ってるよ。桜子が亡くなってからはろくに連絡も寄越さなくなった。浩輔の事も分かってるんだかどうだか……」
「でも生きてるんですよね。生活費はお父さんが?」
「ああ。浩輔の口座に直接振り込んでるね。学費も払ってるから問題無いだろうって言ってるよ。そういう事じゃないんだがなあ……」
鹿目の爺さんは呆れ果てたようにため息を吐いた。
子供を放って仕事なんて、どういう神経だ、とブツブツとぼやいているが、俺はその父親の反応を攻める気にはなれない。
もし俺の両親が健在だったら俺を許さなかっただろう。
けどそれは爺さんだって同じはずだけど、浩輔の選択で桜子が死んでもそれでも浩輔を心配している。
親とはそうあるべきだと、きっと思っているんだろう。
けどそう思えるようになるには俺の両親世代はまだ年が若い。
ましてや浩輔とこれほど年の離れた娘なら待望の女の子だったに違いないし、妻の忘れ形見のような存在だ。
赦せるはずがない。
けどそれは桜子を愛しているという事でもある。
もし父親が桜子の死を悼む事もしない人でなしなら恨みもするだろうが、それは違う気がする。
それに浩輔は、俺みたいのを雇うなんてどうかしてる、と言っていた。
身内に対する恨みより俺に対する恨みのような気がするのだが、俺達は面識が無い。
「……浩輔君が俺を気にしてたってのは、浩輔君本人が何か言ってたんですか?」
「はは。やっぱり覚えてないか。夏生君が生徒を殴った時、君を止めたのは浩輔なんだよ」
「え?」
俺がキレて生徒を殴ったあの一件について、教師から色々と聞いていた。
「お前が殴ったのは三年の吉岡優也。怪我自体は全治六か月。これは警察に持ってくかどうするかは一旦話し合いだが、覚悟しとけよ」
「はい……」
「あとお前を抑えてくれたのはお前と同じ一年だ。鹿目浩輔。知ってるか?」
「いえ……」
「鹿目も怪我したな。暴れてるお前にやられたひっかき傷とかすり傷。それと、突き飛ばされて右腕の骨折。けど鹿目は治療費もいらないし話し合いもしなくていいそうだ。鹿目も妹さんも亡くしてるからお前の気持ちも分かるから、だと」
「そうですか……」
「……ちゃんと聞いてるのか。理由があったってな、人を殴っていいわけじゃない」
「陰口はいいんですか」
「そうじゃない。だがそれとこれとは話が別だ」
「同じですよ。どっちも沙耶と俺の事です」
「あのなあ……」
確かそんな話を聞いていたのを今更思い出した。
けどあの時はそんな話右から左に流れてたし、あの時俺を止めた人間は俺にとって邪魔者でしかなかった。
俺はもっと殴りたかった。
(けど、そうか。見覚えがあったのは鹿目の爺さんに似てるからじゃなくて、実際に顔を見た事があったからか)
「あの大人しい浩輔が傷だらけで帰って来るなんて驚いたよ」
「申し訳ありません……」
暴れてる時の事はあまり覚えて無いが、相手が無抵抗だったわりに俺は顔に引っかき傷があり肩や腹に痛みがあったのは覚えてる。
あれは後ろから力づくで羽交い絞めにされたせいだったのだろう。
線の細い浩輔では俺を押さえつけるのは相当大変なはずだ。
しかしそうまでしてくれた浩輔が俺に敵意を向けてくる理由はなんだろうか。
やっぱり警察沙汰にしたいというのならそうすればいいだけだし、それが理由では無いだろう。
浩輔本人と話をしない事には始まらない。
もう一度浩輔の部屋へ行ってみようかと思った時、俺のスマホの着信音が鳴った。
モニターには『じーちゃん』の文字。
俺はちょっとすみません、と会話を中断して電話に出た。
「はい。どしたの?」
『どうしたじゃない。いつまで邪魔してるつもりだ。まさか浩輔君に無理をさせてないだろうな』
時計を見るとまだ十七時前だ。
そんなに長居しているわけではないが、夕飯の支度をする時間に差し掛かってはいる。
それにじーちゃんの言う通り、ガッツリ無理をさせている。
『もう帰って来い。お前が焦ってどうなるもんでもない』
確かに、今俺がやってる事は桜子のためにどうにかしてやりたいという思いからだが自己満足である事には変わりがない。
ましてや金魚だの出目金だのなんて知らない人からすれば俺が押し掛けてるだけだ。
「……うん、分かった。もう帰るよ」
電話を切ると、鹿目の爺さんは帰っちゃうか、と寂しそうな顔をしてくれた。
「なあ、夏生君。嫌じゃなければまた来てくれないか。そうすりゃいつか元気になるかもしれん」
これだけ思ってくれる祖父がすぐ傍にいて、離れていても父親もいる。
孤独ではないならいつかは立ち直るかもしれない。
でもいつかじゃ遅い。桜子はもうすぐ弔われてしまう。それまでに桜子を安心させてやりたい。
「あの、明日また来てもいいですか?大学行きますよね、あいつ」
「行ったり行かなかったりだ。でも、そうだね。来てくれると嬉しいよ」
外に出る気になるかもしれん、と鹿目の爺さんは期待を込めて微笑んだ。
正直そこまで期待されても今の俺が力になれるとは思えないが、俺は「はい」とだけ小さく頷いて鹿目家を後にした。
*
家に帰るとふわりと食べ物の良い香りが漂っていた。
ばーちゃんは大体十八時前には夕飯の支度を始めるからそれだろう。
浩輔の様子を心配していたじーちゃんとばーちゃんも結果報告が気になるようで、居間の座布団に座らされた。
「浩輔君はどうだった」
「難しいかな。今はまだ他人と話す余裕無さそう」
「……そうか。やっぱり駄目か」
「でもなっちゃんとお話したいって言ってたんでしょ?」
ばーちゃんは俺の事をなっちゃんとよぶ。
可愛すぎるからやめてくれと言ったら夏生と呼んでくれたが、気が付いたらまたなっちゃんに戻っていた。
ばーちゃんは『だって可愛いんだもの』と小さい子供にするように頭を撫でてくれて、そんな事を言われたら反論できなくなってしまった。
「話なあ……。どうなのかな。沙耶を追い詰めただけの俺と話しても……」
「夏生。止めなさい」
俺が沙耶の事で卑屈な態度を取るとじーちゃんはこうして叱ってくれる。
故人がどう思っていたかはもう分からないのだから、思い込みで沙耶の気持ちを決めつけるような事は言うなと言ってくれた。
俺は沙耶を追い詰めたと思っているけど、じーちゃんは『お前がそれを望んだように沙耶も心から心中を望んでいて、お前はその願いを叶えてやったのかもしれない。お前が一人生き残ったのは辛い事だが、それを乗り越えるために沙耶を言い訳にするな』と言ったのだ。
「……うん。浩輔のためにできる事を考えるよ」
「ああ、そうだ。きっとできる事がある」
「そうよね。私だったら立ち直り方教えて欲しいと思うわ」
「つーてもそりゃ人それぞれだろうが」
「参考にはなるかもしれないでしょ。なっちゃんが思った事を聞かせてあげるだけでもきっと違うわ」
立ち直ったといえばそうだろう。大学に通いたいと思うようになり、沙耶がいなくなっても今の新しい生活が幸せだとも思う。
けどこれは全て沙耶の力だ。
じーちゃんが何と言ってくれても、俺は沙耶を犠牲にしただけだった。
それを桜子に求める事はできないし、そうなっても浩輔が立ち直る保証はない。
見るからに繊細な浩輔が出目金になった桜子と対面してやりあっても、さらに桜子を追い詰めたと思い自殺を決意する可能性だってある。
「頑なになってる時は周りが何言っても駄目なのよね。ゆっくり声をかけ続けてあげないと」
「そうだなあ。結局は自分で乗り越えなきゃいけない事だからなあ」
桜子を生かすための選択をした浩輔に、沙耶を殺す選択をした俺が何をしてやれるだろうか。
*
足で探すのには無理がある。
ならやはりネットで出来る限りの情報収集をするしかない。
とはいえ、桜子という名前の妹がいたなんて情報だけじゃ、それらしい存在に目星をつける事もできなかった。
それにあの金魚屋にいる金魚が、この近辺で死亡した金魚なのかどうかも分からない。
もし仮に金魚屋がチェーン店でこの地区担当だっていうなら桜子が死んだのもこの辺のはずだが、この地区限定にしちゃあの水槽は金魚の数が多い。
没年もそうだ。定期的に弔いをしているのならそんな昔の金魚がいるわけじゃないだろうけどそれも確証が無い。
(それに体内の出目金なんて俺には見えない。情報だけで特定できないといけないんだ)
俺の出目金は俺の中にいた。
あれは俺の黒い心が育っている途中だったし、何より俺は生きている。だから表には出ていなかった。
「どうしたらいいんだ、こんなの」
何の策も思いつかず堂々巡りをしていると、突如予想だにしない人物が現れた。
「朝から晩まで勤勉な事だ」
金魚屋の女だ。
止めに来たのか。
思わず身構えると、女はくすっと笑ってストールを羽織り直した。
「放っておけば出目金は勝手に出てくるよ。出てきたら捕まえればいいよ」
「死んだあとじゃ遅いですよ!」
「じゃあ君は彼を見つけて何と言うんだい?おたく体内に出目金いますよ?信じるわけ無いだろう。もし仮に彼がそれを信じて、どうやって取り出すんだい?」
そんな事は分かってる。
見つけてもどうにもならない可能性の方が高い。
俺は出目金に何もできないのだから。
「分かっただろう? 僕らにできる事は無いんだよ」
「……それでも探します」
「でもねえ、出目金憑きの人間を刺激したらそいつの出目金は君を取り込んでしまうだろうよ」
「取り込む? 食われる事はあっても取り込まれる事はないでしょう。俺にはもう金魚も出目金いないんですから」
「いるよ。だって君金魚憑きじゃないか」
「あ――」
そうだ。今俺には桜子が憑いているから金魚が見えている。
ならもし俺が食われでもしたら桜子も食われてしまうかもしれないのか。
「君に憑いた金魚と君の魂ががっちゃんこしてたら出目金に食われた君は魂ごと食われるよ」
それはつまり弔われる事無く餌となり消えていくという事か。
失敗したら俺は魂ごと消える可能性があるのか。
ひやりと背筋に冷や汗が流れた。
「それにね、憑かれるっていうのがどういう条件で成立するのか僕は知らない。君はある日突然金魚が見えるようになっただろう?」
「は、はい」
「僕もだよ。あの子が僕に何をしたのか知らない。おそらく金魚側からアクションするのだろうね。もし桜子があくどい金魚だったらどうするんだい?」
「……死ぬ、かもしれない……」
「そういう事だ。分かったろう?分かったらもうお止め」
心配してくれてるのは分かってる。
それでも俺は――
「止めません」
「たかがお喋り係りの君に何ができるって言うんだい」
お喋り係り。
確かにそうだ。俺は金魚屋で寝るか喋るかしかしていない。
沙耶とだって、命を掛けたのは沙耶で身体を張って助けてくれたのは弟だ。
俺は一人で喚いてただけだった。
けど俺は覚えてる。
「言葉は時として呪いになるって言いましたよね」
「言ったね。だから余計な事を言うのはお止め。薄っぺらい綺麗事なんて反感を買うだけだよ」
綺麗事か。確かにそうだ。
俺が桜子に言ったのは無責任な依頼承諾だけ。
もし桜子の兄貴にあったとして、出目金がどうとか桜子がどうとか、現状報告と憶測を伝えられるだけかもしれない。
それは余計に二人を悲しませるだけかもしれない。
お喋りするしかできないだろう。
「けどあなただってそうだったでしょう。沙耶が頑張ったんであってあなたは口を動かしただけ。でも、だから俺は今ここにいる」
あの沙耶は出目金だった。
沙耶の遺志を聞けたのはこの人のお喋りだ。
「確かに言葉は呪いになる。でも救いになる言葉もある!」
金魚と喋ってほしかったからお喋り係りなんて作ったんだろう。
金魚をせめて楽しませてやりたいと思ったんじゃないのか。
じゃなきゃ暇なら話し相手をしていてくれなんて、そんなに金魚の事を気にかけたりしなかっただろう。
女はふう、と息を吐いた。
「君はやる事を間違えている」
「え?」
「君の言う通りさ。僕は口を動かしただけ。でもそれは沙耶の言葉だったから君の心を傷つける事なく動かしたんだ。思い出してごらん。沙耶は君にどんな言葉を伝えたんだい?」
沙耶が俺に伝えた言葉。
俺に沙耶が死んだ事は良い事だったと思うように仕向ける言葉。
「金魚屋(ぼく)は人間(きみ)にどんな言葉を伝えた?」
金魚屋が俺に伝えた言葉。
沙耶に頼まれた、沙耶が死んだ事は良い事だったと思うように仕向ける言葉と、それを金魚屋に伝えた時の沙耶の言葉。
それは金魚屋の想いや考えじゃない。
「金魚屋(きみ)は誰にどんな言葉を伝える?」
女はくくっと小さく笑うと駅の改札を指差した。
「それが分かったらちゃあんと食事をして大学は行きたまえよ」
「……でも時間が無いです。授業はもう諦めます」
「だから行けと言っているのだよ」
「は?」
「お行き。君を助けてくれた人に会いに行くのが良いだろう」
「俺を助けてくれた人? 誰ですか」
「僕は全く知らないよ。でもきっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう」
女はまたくくっと笑うと身を翻した。
「金魚屋(ぼく)が人(きみ)にできるのはここまでだ」
そう言うと女は金魚帖をちらつかせ、踊るようにしてすいすいと消えていった。
「……何だよその中途半端なヒント……」
謎かけをして去っていくのは趣味なのだろうか。
大学へ行けとは、つまり桜子の兄貴が大学にいるという事だろうか。
しかし家族が導くとは、沙耶にまつわる場所なのだろうか。
だが沙耶は俺の大学に行った事なんて無いし、沙耶自身学校に通った事はあまりないのだから大学とは思えない。
(けど俺を助けた人間に会えって事は俺も会った事があるのか?)
もしくはその人物が桜子の兄貴に繋げてくれるという事だろうか。
そんな事を言っても、自分でいうのも寂しいが俺は友達も知り合いもいないし、ましてや助けてくれるなんてとんでもない。
遠巻きに見られた事しかないし、今だってそうだ。
授業を除いて俺の耳に入ってくる俺関連の会話は『ほら、あれが宮村夏生だよ』くらいのもんだ。
(となると生徒とは考えにくい。なら教師か?)
立場的には生徒を助けなきゃいけないのだから、そういう意味では俺を助けた人間だ。
とはいえ、覚えてるのは謹慎を言い渡された事くらいだ。
後は勉強しかしていない。
(他にヒント。なんて言ってたっけ)
大学で俺を助けてくれた人。
でも確か――
『僕は全く知らないよ。でもきっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう』
つまり金魚屋は直接関わった事は全く無いという事だ。
となると沙耶とも俺とも関係無い人間なのではないだろうか。
もし多少なりとも関わってたのなら『全く知らない』とは言わないだろうが、その言葉に深い意味が無い可能性もある。
思わせぶりな事を言っているが、からかってるだけかもしれない。
(いや、ここまできて無意味な事は言わないと信じよう。あと言ってたのは……)
『金魚屋(ぼく)が人(きみ)にできるのはここまでだ』
これはつまり、金魚屋には行動制限があり、だからそれ以上は教えられないという意味だろう。
ヒントを出せるというのは答えを知っているという事のはずだ。
今までを振り返ると、金魚屋は弔うだけしかできないと言っていた。
でも沙耶のように依頼をしてきた金魚と話をする事は良いわけだ。
そのために個人的に動く事も良し。
そして、金魚屋の禁止事項は個人情報を聞き出す事だ。
(ならあの人だって桜子の兄貴は知らないはずだ。でも特定できてるとなると、それは桜子経由で知った情報じゃない。どこか別の場所で得た情報だ。それはどこなんだ)
分かりそうなのに分からない。
あと一歩な気がするのにその一歩が見つからない。
(でも一番気になるのはあの言い方だ)
『きっと君の家族(・・)が導いてくれるだろう』
(沙耶だと言わなかった)
沙耶の名前が禁句になっているわけではないだろう。
これまでだって何度も口にしていた。
「俺の家族……」
俺はその言葉で思い当たる場所へと走った。
*
公園から駅を超えて歩くことニ十分。
あまり人気のない通りにある山岸酒店の扉を開けた。
「おお、夏生。おかえり」
「ただいま、じーちゃん」
ここは俺の祖父の家――ではなく、住み込みで働いている個人経営の小さな酒屋だ。
七十歳を過ぎた山岸さんはアパートから追い出されバイトも全てクビで不採用続きの俺を住み込みで働かせてくれているのだ。
金魚屋のおかげで金には困らなかったが、金じゃ解決できないのが住居だった。
この近所の人間は大体俺の心中と暴行騒ぎを知っているから入居を断られるのだ。
仕方なくネットカフェで寝泊まりしていたがいつまでもこれじゃ困る。
多少大学から遠くなってもいいから、と不動産屋総当たりで頼んでいたらこの山岸さんだけが迎え入れてくれたのだ。
山岸さんはマンションを幾つか経営してるからその一室を使うか、もし家事全般と酒屋の店番、不動産の経理業務も手伝えば住み込みで良いとまで言ってくれた。
バイトも探さなきゃいけない俺にとって有難い話で、二つ返事で頷いた。
ここが俺の新しい家で、新しい家族だ。
(沙耶じゃないならここしかない)
得られたヒントはどれも断片的で憶測の域を出ない。
だが家族という明確な単語が示すものはこれしかない。
きっとここに何かヒントがあるんだ。
「ばーちゃんは?」
「買い物行ってるよ。味噌が切れたらしい」
「何だ。連絡くれれば買って来たのに」
「お前は味噌の違いが分からんから駄目だとか言ってたぞ」
「どれでも一緒じゃん……」
「だから駄目なんだ」
ばーちゃんというのは山岸さんの奥さんだ。
山岸さん夫婦は酒屋の裏にある古い日本家屋の一軒家で二人暮らしをしているが、子供がいないから来てくれて嬉しいと言ってくれた。
しかも沙耶の仏壇まで置かせてくれて、誰もが避ける沙耶の話を聞いてくれた。
それだけじゃない。わずかしか無い沙耶の服や教科書なんかの遺品を押し入れにしまうのは可哀そうだからと、沙耶のための部屋まで用意してくれたのだ。
沙耶が帰ってくるわけではないが、まるでこの人達が元々俺の祖父母のような気がしてくるほど俺の事も沙耶の事も可愛がってくれている。
気が付けば俺は山岸さんと奥さんをじーちゃんばーちゃんと呼んでいた。
「今日はもう家にいるのか?」
「うん。店番するよ」
「そりゃ助かる。後で鹿目のじいさんが醤油取りに来るから来たら呼んでくれよ」
「はいよ」
小さい店だがコンビニすら無いこの辺はお馴染みのお客さんがそれなりに来る。
それは俺の縁も広げてくれて人付き合いの仕方も学べて有難い限りだったが、たまに困る事もある。
ドアが開いて一人の青年が入って来た。
青年は愛想笑いどころか眉をしかめて口を尖らせ、あからさまな嫌悪感を示していた。
「……あんた一人なの?爺さんは?」
「奥にいますよ。呼びましょうか?」
別にいい、とぼそりと呟くと青年は黙ってしまった。
じーちゃんの人徳もあってご近所のおじいちゃんやおばあちゃんとは割と馴染んでいるのだが、その息子や孫といった若い人は俺を良く思わない人が少なからずいる。
この青年が誰かは分からないが、見覚えのある顔だからおそらくそういった類だろう。
青年は目をそらしたままため息交じりにようやく話し始めた。
「……鹿目ですけど」
「鹿目さん? 今日はおじいさんじゃないんですね。お孫さん? じーちゃん鹿目さん来るの楽しみに」
「頼んでたのは?」
「え? ああ、醤油?あるよ」
「ならさっさと出せよ」
「あ、す、すいません。えーっと、四百円になります!」
今でこそ少なくなったが、こういうのは時々ある。
最初は乱暴を働くような人間がいる店には行きたくないと客足が遠のいたりもした。
やっぱり俺は出て行った方が良いだろうと思ったが、じーちゃんとばーちゃんはそんなの今だけだから気にするな、と引き留めてくれたのだ。
そんなじーちゃん達のためにも、こういう客にも笑顔だ。
だがその笑顔すらこの青年は気に食わないようで、四百円を俺に向けて投げ捨てた。
「いい気なもんだな。お前みたいの雇うなんてどうかしてるよ」
そう言い捨てると青年は店の扉を叩きつけるように勢いよく閉め、その揺れでドア横の棚に並んでたおつまみ商品がばらばらと落ちていった。
当たるならせめて俺に当たってくれないか。
さすがにここまでされると溜め息は出る。
「おい、どうした? 何の音だ」
「何でもない。ちょっとぶつかっただけ。あ、鹿目さん来たよ。じいちゃんじゃなくて孫っぽいのだったけど」
「そうか、来たか。もう帰ったのか? 話はしたか?」
「え? いや、全然。怒ってた。俺が嫌だったんじゃないかな」
「……そうか……」
店と母屋は廊下続きになっているからおそらく今のやりとりが聴こえていたのだろう。
じーちゃんは俺の頭を優しく撫でてくれた。
優しくされるたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
(しかもこの辺で出目金に食い付かれたらじーちゃん達にも迷惑がかかる)
追い払えればいいが、怪我でもしたらじーちゃんもばーちゃんも心配するだろう。
それに俺が血だらけになってたらまた喧嘩だの何だのと騒がれて、さらに迷惑をかける事になる。
桜子の事はどうにかしてやりたいが、俺としては金魚を見れなくなるようにする事も大事だ。
そりゃ桜子が弔われればそれで終わるわけだが、よく考えたらそんな保証はない。
もし憑いた状態で弔ったら一生金魚憑きなんて事もあり得るんだ。
そう思うと何が何でも解決しておかなければならない。
そんな事を考え込んでいると、じーちゃんがぽんぽんと俺の頭を撫でてきた。
「すまんな、嫌な思いさせて」
「俺は全然。むしろ迷惑かけてごめん」
「いや、違うんだ。実は鹿目のじいさんに頼まれたんだよ。お前に浩輔君と話をさせてやってほしいって」
「浩輔って今の? 何で俺?」
「……実はな、浩輔君も小さい妹さんを腎臓の病気で亡くしてるんだよ」
「は?」
「境遇が似てるだろう。だから少しだけでも話をさせてやってくれないかって頼まれ」
「じーちゃん! それ! 妹! 妹の名前は!? 亡くなった時何歳だった!?」
浩輔はパッと見た限り俺とそう変わらないように見えた。
そして腎臓の病気で亡くなった小さい妹。
「桜子ちゃんだ。まだ十歳かそこらだったよ」
まさかだ。
こんな近くにいたのか。
(金魚のお導き、なんてな)
壁にかかったアナログなアンティーク時計を見るとまだ十六時過ぎ。
夕飯を食べるにはまだ早い。
「俺ちょっと会ってくる」
「あんまり突っ込んだ事はするなよ。お前も立ち直るまでは色々あったろう」
「うん! 分かってる!」
俺は何度か配達した事のある鹿目さんの家へ走った。
*
「すいません! 山岸酒店です!」
俺は何度か配達へ行った鹿目さんの家へ走った。
インターフォンを鳴らすと、はいはい、とのんびりした口調でじーちゃんの友達の鹿目の爺さんが出て来た。
ご近所の中でも特にじーちゃんと仲の良い人で、俺の事も可愛がってくれている。
「いやあ、すまなかったね。あの様子じゃ迷惑かけただろ」
「全然。あの、今会えますか?」
「どうかなあ。部屋に籠ってしまったんだよ」
「扉越しに話すだけでも駄目ですか?」
「構わんよ。ただまあ、なんだ、夏生君が嫌な思いするだけになるから放っといた方が良いかも分からん」
「でも一人にしたら俺みたいになる可能性ありますよ」
あの頃俺は世の中全て的になったような気がしてた。
どいつもこいつも綺麗事ばっかいいやがって、なんて思ってたけど、今思い返せば心配してくれてる人だっていた。
顔色が悪いから保健室で寝た方が良いと進めてくれたり、食堂では一番安いかけそばしか食べない俺に海老天をオマケしてくれたり。
施しなんかうんざりだと不愉快に思ってたけど、そうなってしまったのは俺が自分から一人になっていたからだ。
「孤立させない方が良いと思います。浩輔君が自分のタイミングで助けてって言えるように、ずっと手を伸ばしてやってた方が良い」
本当に助けは不要で無駄だったとしても、助けて欲しい時があるかもしれない。
その可能性があるなら傍にいてやりたい。
「……そうか。そうだな。浩輔の部屋は二階だよ」
鹿目の爺さんはほんの少しだけ涙目になって、うんうんと小さく頷いた。
どうしてこんな曰くつきの俺を可愛がってくれるのか不思議だったけど、自分の孫と重ねていたのだろう。
「浩輔。夏生君が来てくれたよ。どうだ、少し話でもしないか」
コンコンとノックしてみるが、浩輔の返事は無い。
そうれはそうだろう。俺も最初はこうだった。
悪気があるわけじゃなく、何故か敵のような気がしてしまうのだ。
それが例え自分を助けてくれる言葉だったとしても、この状態の時はきっと何を言っても届かない。
鹿目の爺さんはしょんぼりと肩を落として苦笑いを浮かべた。
「あの、少し二人にしてもらってもいいですか?身内がいたら恥ずかしいとか、そういうのもあるかもしれないし」
「そうか。そういう事もあるか。うん、じゃあ何かあったら呼んでくれよ」
鹿目の爺さんはよろしく頼むよ、と軽く頭を下げると階段を下りて行った。
身内だと恥ずかしいなんて思いつきで言ってるだけだが、本当にそうだったらこれで天岩戸は開くけど――
「鹿目」
部屋の中からは声どころか物音一つ聞こえてこない。
俺の声を聴いたうえで無視しているのか、そもそも聞こえないようにしてるのか。
もう一度コンコンと少し強めにノックをしてみるが、やはり返答は無い。
「なあ。ちょっと話さないか?」
当時の俺は耳栓したり上着を被ったり、物理的に遮音していた。
イヤホンして音楽聞いたり布団にくるまってたら聴こえてないだろう。
そうなるとどんどん周りから孤立していく。会話を諦めたらそこで終わってしまう。
「何でもいいよ。えーっと、あ、お前酒好き? 俺結構好きなんだけど今度飲まない?」
言うまでもないが、回答は無い。
口をきいてくれない段階で飲もうも無いもんだ。
「サークル入ってる? 俺も何かやりたいんだけどさ、何しろ俺じゃん?絶対歓迎されないから行きにくくてさ。今度俺と遊んでよ」
口をきいてくれない段階で遊んでくれも無いもんだ。
(やっぱ無理だなこれ)
時間は無いが焦って怒らせたら余計意固地になるだけだ。
けど逆を言えば、最初の俺と同じ段階だというのが明確になったということでもある。
情報ゼロの時に比べればはるかにましだ。
(説得材料を揃えるか。何を恨んでるかが分かれば話はできるはず)
一先ず俺はこの場を諦め、階段を降りた。
*
リビングへ行くと、鹿目の爺さんがソワソワした様子で待っていた。
俺を見つけると立ち上がり小走りで駆け寄ってくる。
ひどく心配そうな顔をしていて、それだけでも浩輔が愛されているのが良く分かった。
「どうだった? 何か喋ったかい」
「すみません。駄目でした」
「そうか……」
がっかりという文字が背に見えるようだった。
きっと何度も浩輔に声をかけ、話題のバリエーションにも尽きてしまっていたのだろう。
けれど鹿目の爺さんは愚痴る事もせず、にっこりと微笑んでお茶を出してくれた。
「悪かったね。人を無視するような子じゃなかったんだが」
「いいえ。人殴った俺よりはるかに理性的ですよ」
出目金なんていうからてっきり暴れ狂う厄介な奴を想像してたが、浩輔は見た目も知的で穏やかな文学青年のような印象だ。
八つ当たりのような物言いをされるのは不愉快ではあるが、人と会話をする余裕があるなら俺よりはずっと良い。
「浩輔は一人暮らししてたんだよ。けど夏生君が山岸の所にいるって知って急にここに住み始めた。話をしたいはずなんだよ」
「俺とですか?」
俺を避けたのを見るに、同病相憐れみたいわけではない気がする。むしろ敵意を感じたくらいだ。
けどこれはあの頃の俺とよく似てる。
俺も殴った相手を個人として恨んでいたわけでは無いし、けど陰口をスルーできる余裕も無くて。
優しい言葉も同情も、好意ですら興味本位のやじ馬に見えて許せなかった。
そんな状態で俺と話したい事とは一体何だろうか。俺と話したって出目金が消えるわけじゃない。
(つーか何で出目金なんだ? 妹が死んだだけじゃ出目金になるとは思えないんだけどな)
何かを恨んでいなければ出目金になりはしない。
桜子の死の経過に何かあるはずだ。
「浩輔君と桜子ちゃんは仲良かったんですか?」
「そりゃあもう。歳が離れてたし、浩輔は相当可愛がってたよ」
「桜子ちゃんの入院は長かったんですか?」
「生まれてから半分以上は病院だったな」
「桜子ちゃんは治療してたんですよね?それも全く駄目だったんですか?」
「駄目というか……浩輔の腎臓を移植をしたんだよ。けど、まあ……拒否反応っていうのが出てね。それで」
「それは医療ミスとか?」
「違うよ。手術自体は問題無かった。ただ稀にそういう事もあるらしい」
「浩輔君は先生を、その、恨んでるとかそういうのは?」
「無いよ。いや、どうかな。最初はあったかもしれんな。けどまあ手術を成功させてくれた事には感謝してたし。むしろ浩輔が気にしてんのは手術を受けさせた事だろうな」
「受けさせたって、同意したんですよね?」
「したよ。でも手術しようって決めたのは浩輔なんだ。桜子は怖がっててね」
「……なるほど」
つまりそれは、浩輔が生きるか死ぬかを選ばせた結果死んでしまったという事か。
状況こそ違うが俺と沙耶によく似ている。
俺みたいに桜子を殺したのか。
「それ、ご両親は浩輔君に何か言ったんですか?」
「ああ……母親は――俺の娘だが、桜子を産んでその後すぐに亡くなってる。あの子も腎臓が悪かったんだよ。父親の方は単身赴任でアメリカだかなんだかに行ってるよ。桜子が亡くなってからはろくに連絡も寄越さなくなった。浩輔の事も分かってるんだかどうだか……」
「でも生きてるんですよね。生活費はお父さんが?」
「ああ。浩輔の口座に直接振り込んでるね。学費も払ってるから問題無いだろうって言ってるよ。そういう事じゃないんだがなあ……」
鹿目の爺さんは呆れ果てたようにため息を吐いた。
子供を放って仕事なんて、どういう神経だ、とブツブツとぼやいているが、俺はその父親の反応を攻める気にはなれない。
もし俺の両親が健在だったら俺を許さなかっただろう。
けどそれは爺さんだって同じはずだけど、浩輔の選択で桜子が死んでもそれでも浩輔を心配している。
親とはそうあるべきだと、きっと思っているんだろう。
けどそう思えるようになるには俺の両親世代はまだ年が若い。
ましてや浩輔とこれほど年の離れた娘なら待望の女の子だったに違いないし、妻の忘れ形見のような存在だ。
赦せるはずがない。
けどそれは桜子を愛しているという事でもある。
もし父親が桜子の死を悼む事もしない人でなしなら恨みもするだろうが、それは違う気がする。
それに浩輔は、俺みたいのを雇うなんてどうかしてる、と言っていた。
身内に対する恨みより俺に対する恨みのような気がするのだが、俺達は面識が無い。
「……浩輔君が俺を気にしてたってのは、浩輔君本人が何か言ってたんですか?」
「はは。やっぱり覚えてないか。夏生君が生徒を殴った時、君を止めたのは浩輔なんだよ」
「え?」
俺がキレて生徒を殴ったあの一件について、教師から色々と聞いていた。
「お前が殴ったのは三年の吉岡優也。怪我自体は全治六か月。これは警察に持ってくかどうするかは一旦話し合いだが、覚悟しとけよ」
「はい……」
「あとお前を抑えてくれたのはお前と同じ一年だ。鹿目浩輔。知ってるか?」
「いえ……」
「鹿目も怪我したな。暴れてるお前にやられたひっかき傷とかすり傷。それと、突き飛ばされて右腕の骨折。けど鹿目は治療費もいらないし話し合いもしなくていいそうだ。鹿目も妹さんも亡くしてるからお前の気持ちも分かるから、だと」
「そうですか……」
「……ちゃんと聞いてるのか。理由があったってな、人を殴っていいわけじゃない」
「陰口はいいんですか」
「そうじゃない。だがそれとこれとは話が別だ」
「同じですよ。どっちも沙耶と俺の事です」
「あのなあ……」
確かそんな話を聞いていたのを今更思い出した。
けどあの時はそんな話右から左に流れてたし、あの時俺を止めた人間は俺にとって邪魔者でしかなかった。
俺はもっと殴りたかった。
(けど、そうか。見覚えがあったのは鹿目の爺さんに似てるからじゃなくて、実際に顔を見た事があったからか)
「あの大人しい浩輔が傷だらけで帰って来るなんて驚いたよ」
「申し訳ありません……」
暴れてる時の事はあまり覚えて無いが、相手が無抵抗だったわりに俺は顔に引っかき傷があり肩や腹に痛みがあったのは覚えてる。
あれは後ろから力づくで羽交い絞めにされたせいだったのだろう。
線の細い浩輔では俺を押さえつけるのは相当大変なはずだ。
しかしそうまでしてくれた浩輔が俺に敵意を向けてくる理由はなんだろうか。
やっぱり警察沙汰にしたいというのならそうすればいいだけだし、それが理由では無いだろう。
浩輔本人と話をしない事には始まらない。
もう一度浩輔の部屋へ行ってみようかと思った時、俺のスマホの着信音が鳴った。
モニターには『じーちゃん』の文字。
俺はちょっとすみません、と会話を中断して電話に出た。
「はい。どしたの?」
『どうしたじゃない。いつまで邪魔してるつもりだ。まさか浩輔君に無理をさせてないだろうな』
時計を見るとまだ十七時前だ。
そんなに長居しているわけではないが、夕飯の支度をする時間に差し掛かってはいる。
それにじーちゃんの言う通り、ガッツリ無理をさせている。
『もう帰って来い。お前が焦ってどうなるもんでもない』
確かに、今俺がやってる事は桜子のためにどうにかしてやりたいという思いからだが自己満足である事には変わりがない。
ましてや金魚だの出目金だのなんて知らない人からすれば俺が押し掛けてるだけだ。
「……うん、分かった。もう帰るよ」
電話を切ると、鹿目の爺さんは帰っちゃうか、と寂しそうな顔をしてくれた。
「なあ、夏生君。嫌じゃなければまた来てくれないか。そうすりゃいつか元気になるかもしれん」
これだけ思ってくれる祖父がすぐ傍にいて、離れていても父親もいる。
孤独ではないならいつかは立ち直るかもしれない。
でもいつかじゃ遅い。桜子はもうすぐ弔われてしまう。それまでに桜子を安心させてやりたい。
「あの、明日また来てもいいですか?大学行きますよね、あいつ」
「行ったり行かなかったりだ。でも、そうだね。来てくれると嬉しいよ」
外に出る気になるかもしれん、と鹿目の爺さんは期待を込めて微笑んだ。
正直そこまで期待されても今の俺が力になれるとは思えないが、俺は「はい」とだけ小さく頷いて鹿目家を後にした。
*
家に帰るとふわりと食べ物の良い香りが漂っていた。
ばーちゃんは大体十八時前には夕飯の支度を始めるからそれだろう。
浩輔の様子を心配していたじーちゃんとばーちゃんも結果報告が気になるようで、居間の座布団に座らされた。
「浩輔君はどうだった」
「難しいかな。今はまだ他人と話す余裕無さそう」
「……そうか。やっぱり駄目か」
「でもなっちゃんとお話したいって言ってたんでしょ?」
ばーちゃんは俺の事をなっちゃんとよぶ。
可愛すぎるからやめてくれと言ったら夏生と呼んでくれたが、気が付いたらまたなっちゃんに戻っていた。
ばーちゃんは『だって可愛いんだもの』と小さい子供にするように頭を撫でてくれて、そんな事を言われたら反論できなくなってしまった。
「話なあ……。どうなのかな。沙耶を追い詰めただけの俺と話しても……」
「夏生。止めなさい」
俺が沙耶の事で卑屈な態度を取るとじーちゃんはこうして叱ってくれる。
故人がどう思っていたかはもう分からないのだから、思い込みで沙耶の気持ちを決めつけるような事は言うなと言ってくれた。
俺は沙耶を追い詰めたと思っているけど、じーちゃんは『お前がそれを望んだように沙耶も心から心中を望んでいて、お前はその願いを叶えてやったのかもしれない。お前が一人生き残ったのは辛い事だが、それを乗り越えるために沙耶を言い訳にするな』と言ったのだ。
「……うん。浩輔のためにできる事を考えるよ」
「ああ、そうだ。きっとできる事がある」
「そうよね。私だったら立ち直り方教えて欲しいと思うわ」
「つーてもそりゃ人それぞれだろうが」
「参考にはなるかもしれないでしょ。なっちゃんが思った事を聞かせてあげるだけでもきっと違うわ」
立ち直ったといえばそうだろう。大学に通いたいと思うようになり、沙耶がいなくなっても今の新しい生活が幸せだとも思う。
けどこれは全て沙耶の力だ。
じーちゃんが何と言ってくれても、俺は沙耶を犠牲にしただけだった。
それを桜子に求める事はできないし、そうなっても浩輔が立ち直る保証はない。
見るからに繊細な浩輔が出目金になった桜子と対面してやりあっても、さらに桜子を追い詰めたと思い自殺を決意する可能性だってある。
「頑なになってる時は周りが何言っても駄目なのよね。ゆっくり声をかけ続けてあげないと」
「そうだなあ。結局は自分で乗り越えなきゃいけない事だからなあ」
桜子を生かすための選択をした浩輔に、沙耶を殺す選択をした俺が何をしてやれるだろうか。
*