タクシー運転手の佐久間

文字数 3,577文字

 国立府中に住む個人タクシー運転手の佐久間にはちょっとした自慢がある。それは仕事に使っているタクシーの車種がBMWだという事だ。
 国産の高級車を個人タクシー用の車に用いる事は普通の事であるし、高級外車を個人タクシーの営業車にしているのも、東京都心では数は少ないが珍しくはない。しかし多摩地域の個人タクシー、ましてやBMWとなると、国立府中周辺では唯一だった。
 彼が客を拾うのは、多摩都市モノレール線の駅沿いが多かった。モノレールと言う特別な乗り物を利用して少し浮かれた気分になっている、多摩地域以外から来た客向かってBMWの個人タクシーをアピールするのだ。東京なのに空が広く刺激の少ない街だと油断している郊外からの客に刺激を与える。そうすれば確実に自分の車に乗ってくるというのが、彼の商売センスであり、また仕事の楽しみでもあった。
 土曜日の午前十時、佐久間は多摩センター駅のタクシー乗り場で客待ちをしていた。この駅は多摩都市モノレール線以外にも、小田急線や京王線の駅に近くタクシーを求める客に困らない。客待ちに並ぶタクシーは殆どがトヨタのクラウンコンフォートやJPNタクシーだったから、彼が運転する黒塗りのBMW・320dラグジュアリーは周囲の視線を集めた。
 前にいた赤いタクシーが客を乗せて走り去ると、佐久間のBMWは客待ちの為に乗り場に移動し、後部座席のドアを開けて乗客を待った。BMWをタクシー用の車に選んだのは、タクシー運転手になって間もない頃、晴海通りで見たペニンシュラ東京のBMWの送迎車を見て憧れたからだ。場所も車格も違ったが、客を乗せて目的地に向かうという行為は、あこがれの光景を自分の手で再現しているようで心が躍った。
 客待ちから五分すると、一人の女が乗客として乗り込んで来た。女の色気が完成する三十代半ばの年齢だったが、佐久間はバックミラーごしに、女の左薬指に銀の指輪がはめられているのを見逃さなかった。
「どちらまでですか?」
 佐久間は私情を捨てて、女に行き先を訊ねた。
「フロンティアⅣまでお願いします」
 女の語った行き先に佐久間は違和感を覚えた。フロンティアⅣは半年前に突然閉鎖され、運営会社も代表も排気ガスの様に消えてしまったのだ。それに多摩センター駅からタクシーで移動するとなると、最低でも四千円以上の料金が掛かる。
「フロンティアⅣは半年以上前に閉鎖されて、どの店舗も営業していませんよ」
 疑問に思った佐久間は女に訊き返した。誰も利用しなくなった商業施設に高いタクシー代を払って行くなど、別の目的があるとしか思えない。佐久間の女に対する感情は、先程の邪な感情から疑念の感情へと変わっていた。
「そうなんですか?」
「ええ、それに料金も高いですよ」
 佐久間は仕事上の癖で、本当の事を言った。だが女は少し考えたような表情をした後、「お願いします。フロンティアⅣまで」と言った。
「行っても何もありませんけれど、よろしいんですか?」
「はい。お願いします」
 女の願いを無言で佐久間は聞き入れて、佐久間は後部座席のドアを閉めた。女が律儀にシートベルトを締めたのを確認すると、佐久間は料金メーターをセットした。ちゃんと料金を払ってくれるなら、何も無いフロンティアⅣに向かう事を拒否する理由は無かったが、着いた先で何かトラブルに巻き込まれるのは勘弁だった。
 佐久間が運転するBMWは多摩センター駅を抜け、国道一六号と二〇号が交差する場所を目指して進んだ。フロンティアⅣが出来た時、このBMWのタクシーで客を送迎すると周囲の視線を感じたが、誰も居ない場所にBMWのタクシーが乗り付けても奇妙な光景になるだけだと佐久間は思った。
 フロンティアⅣまで残り半分の地点、多摩動物公園近くの信号で止まった時、佐久間はバックミラー越しに後部座席に座る女の様子を見た。女は何か思いつめたような表情で口を固く結び、言葉を出す事はおろか持っている筈のスマートフォンを取り出して画面を覗く事さえしなかった。こういう息苦しくなる人間を乗客として乗せるのは、佐久間としては久しぶりの事だった。
 多摩動物公園を抜けて、フロンティアⅣまであと二分で着く距離になると、後部座席の女がようやく口を開いた。
「多摩地域は空が広いですね」
「そうですか」
 女の言葉に佐久間は詰まらなそうに答えた。佐久間も普段なら広い空だと実感しているが、息苦しさを覚えている今はそれほど特別な物には思えなかった。
「実は、夫と息子がこの街に引っ越したんですよ。それで〝フロンティアⅣっていう楽しいモールがあるからお母さんもおいでよ〟ってお誘いを受けてきたんです」
 女の言葉に佐久間は答えなかった。夫と息子がこの女と離れて生活しているのはまだ理解できるが、閉鎖された施設で待ち合わせするのは理解が出来ない。もしかしたら、この女は佐久間とは違う、自分だけの感覚と時間のみが通用する世界に生きているのかも知れない。ちゃんと料金を支払ってくれるだろうかと、佐久間は不安になった。
 佐久間はそのままBMWを走らせ、フロンティアⅣに通じる道路に出る。すると、車のハンドルとフロントガラス越しに、奇妙な違和感を覚えた。フロンティアⅣがまだ商業施設として営業していた頃の、多くの人間から発せられる奇妙な温もりがハンドル越しに道路から伝わって来たのだ。何かの錯覚だろうかと思ってフロントガラス向こうの空を見ると、先程の息苦しさを感じていたはず感情が晴れやかになっている事に気付いた。
 この違和感は何だろうか?と自分で訝りながら走っていると、閉鎖されている筈のフロンティアⅣへの入り口が開いていた。驚いた佐久間はBMWを一旦止めて、閉鎖されていない事をもう一度確認した。
「どうかしました?」
 後部座席の女が怪訝そうに訊いた。
「いいえ、何でもありません」
 佐久間は小さく謝って、BMWを進めた。中に入ると、埃や落ち葉が溜り始めていた筈の屋外駐車場が綺麗に清掃されている。車は佐久間のBMWのタクシー以外に何もおらず、異世界に迷い込んでしまったような奇妙な感覚があった。テナントが入っている建物の方を見ると、利用客の姿は無かったが店舗の多くに明かりがつき、様々な設備も稼働している様子だった。
 佐久間は半ば放心状態のまま車をタクシー用のロータリーに滑り込ませた。そこには客を待つタクシーも、タクシーを必要とする乗客の姿も無かった。
「四五八〇円になります」
 佐久間は落ち着いて後部ドアを開き料金を告げた。女は「現金で」と呟き、財布から五千円札を引き抜いて佐久間に手渡した。佐久間が釣銭を返すと女は「ありがとうございます」と礼を述べて車を降りた。佐久間はバックミラー越しに女の後ろ姿を追いかけた。小走りで喜んでいる様子の女の後ろ姿は、そのまま明かりがついただけのフロンティアⅣの入り口ドアへと消えていった。女の姿が消えたのを確認すると、気味が悪くなった佐久間はすぐにフロンティアⅣから離れた。

 次の日、佐久間は日野の方で乗客を降ろした後、昨日のフロンティアⅣの事が気になってフロンティアⅣへ車を走らせた。フロンティアⅣに入る為の入り口は鎖とバリケードで封鎖されており、その向こうの駐車場は落ち葉や埃でみすぼらしく汚れていた。奥に見える建物もすべての照明が落ちて中の設備が稼働し店舗が営業している様子は見られなかった。頭が混乱しそうになった佐久間はすぐにその場を離れて、その日の営業を切り上げた。
 家に帰った佐久間は妻にコーヒーを入れてもらい、気分を落ち着かせるために自身のタブレット端末を使ってインターネットの低俗なコンテンツに触れる事にした。興味のあるキーワードを検索する為に検索エンジンのアプリを開くと、タクシー営業に役立つと思ってフォローしている多摩地区のローカル情報サイトに興味深いニュースを見つけた。「町田市在住の三十二歳女性、死亡した状態で発見される。死後一年以上経過か」という記事をタップして確認すると、そこには昨日フロンティアⅣに送り届けた女の顔があった。心臓が破裂しそうな驚きを覚えながら記事をスクロールすると、女は夫と息子を事故で失ったあと、誰とも会わずに生活しており、警察は孤独に耐えかねての自殺とみて捜査しているという言葉で記事は締めくくられている。潰れた商業施設には死んだ人間の魂が集まり、最期の楽しい時間を過ごすのだろうかと佐久間は思った。
「どうかしたの」
 タブレットの画面を観て固まっていた佐久間に向かって、妻が訊いた。
「いいや、何でもない」
 佐久間はすぐそう答えて、検索エンジンのアプリを閉じた。そしてフロンティアⅣに向かう客は今後絶対に取らないし、目立つような場所で客待ちするのは止めようと心に誓った。
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