第1話
文字数 1,992文字
「別れてください」
長年連れ添った妻の言葉に、俺は飲んでいるアイスコーヒーを吹き出しそうになった。
「…な、何?」
一体なんだ、このタイミングは。
たった数秒前まで妻はニコニコしていた。そして妻の淹れたコーヒーを一口飲んで、俺は言った。
「やっぱり君の淹れるコーヒーは最高だな」
それの何がいけなかったのか。
いや、そんなことが原因なはずがない。
熟年離婚という言葉とそれに関連する理由がズラリと頭の中に並ぶ。
家事を押し付けた?
いや、この年代の男にしてはやった方だ。妻もよく誉めてくれていた。
じゃあ子育てを任せきりにした?それとも口出しした?
どちらも有り得ない。
やっとできた一人娘のことは溺愛し、家にいられる時間は全てを娘に捧げた。
甘いんだから、と妻は呆れつつも笑顔だった。
金銭的に苦労をかけた覚えはないし女性問題もない。
定年退職した夫が邪魔だ、という話はだいぶ前から耳にしていた。
だからそうならないように1人でできる趣味を見つけ、自分のことは自分でしたし時には妻に凝ったランチを用意したり、自分で言うのもなんだが、妻孝行はしている方だと思う。
一体何が起きた。
「あなた、ネットで小説を投稿しているでしょ?」
「あ、ああ。前にも話したよな、1人でできる趣味を見つけたいと思って、って」
「…私、知ってるのよ。あなたがそこで頻繁にやりとりしてる若い女性に対して、自分も若者のフリしてやりとりしてること」
心臓が飛び出そうになった。
どうしてそんなことを知っているんだ。
「変な若者言葉なんか使ってみっともない。相手は20代でしょう?あなたがどんな話を書いているのか気になって、私覗いてみたのよ」
なにー!?
「それでね、あなたの頭の中はこんな安っぽい感性でできていたんだ、って心底ガッカリしたの。その上若者言葉…もうめまいがしたわ」
冷や汗がタラタラと流れる。
「あなたはもっと聡明な人だと思っていたわ。長年尽くしてきた人がこんな人だったなんて…いえ、私も悪いの、あなたのことを愛して尊敬するあまり、あなたには本当のことが言えなかったんだから…」
本当のこと…?
妻に隠し事があったなんてこれっぽっちも疑ったことはない。
「私の年が何歳か知ってる?」
「…俺より3つ年下だろう?」
「違うの。私ね、あなたの4つ上なの。しかもあなたと同じ大学。あなたが入学してきた時、私たち会ったことがあるのよ。あの頃の私は冴えなくて、しかも留年して4年生を2回してたからあなたに出会えたなんて、恥ずかしくて言えなかった。私は覚えていたけれど、あなた再会したとき気づかなかったでしょ?それで嘘をついたのよ」
「…ということは、君は先輩だったのか?」
「そう。幻滅したでしょ、こんな嘘つき。もう別れると思ったらやっと言えたわ」
「そんな…!そんな小さなことどうだっていい!考え直してくれ、アンナ!」
妻は俺を見た。
効いてる!
もう一押しだ!
「アンナ、君のことならどんな小さなこともちゃんと覚えているよ。そりゃあ再会した時は気づかなかったかもしれないが、それからのことは何でもさ。お願いだ、残りの人生も一緒に過ごしてくれ」
「…もう一度、名前を呼んで」
「何度でも呼ぶよ、アンナ!」
「ち、がーーーーーーーーーう!」
テーブルにダンッと手をつき、妻は立ち上がった。
俺は何が起きたのかと体が固まった。
「アンナじゃない!ハンナよ!」
へ…?
「あなた、私のことずっと『君』って呼んでたでしょ?結婚の申し込みに実家に来たときよね、初めて私の名前を言ってくれたのは。アンナって聞こえたけど聞き違いかなぁ~?そうだろうなぁ~って思ってたのよ、私。婚姻届書いた時だって何も言わなかったしね。あの時は私、生年月日がバレないようにすることだけに必死でそんなこと考えてなかったけど、結婚してからあなたがたまに私の名前を呼ぶと、毎回モヤモヤしてたのよ」
それを今まで黙っていたのか…。
「わ、悪かった。謝るよ。だから…」
「…じゃあ最後の質問で私が満足したら考え直すわ」
「よ、よしこい!」
「私の作るもので、あなた何が一番好き?」
な、なんだその質問は…。
正解はなんだ?
肉じゃが?ハンバーグ?カツカレー?
いや、もしかしたら答えは何でもいいのかもしれない。
アンナ…いや、ハンナも引っ込みがつかなくなっているのだろう。
そこでふと目に留まったものを俺は挙げた。
「コーヒー、だな…。君は初めは上手く淹れられなかったけれど、今ではこんなに美味しいコーヒーを淹れてくれるようになった。俺はこれを飲むとホッとするんだ、ここが我が家なんだ、ってね」
「…あなた、いつもそう言ってたわね」
「そう、そうだよ!」
正解だ!
「それ、ペットボトルのコーヒー注いだだけなのよ」
俺はグラスを見つめた。
「あなたのそういう何にも気づかないところ、そろそろ限界なの。別れてください」
コーヒー以外なら何でも良かったのにね、と最後に妻は呟いた。
長年連れ添った妻の言葉に、俺は飲んでいるアイスコーヒーを吹き出しそうになった。
「…な、何?」
一体なんだ、このタイミングは。
たった数秒前まで妻はニコニコしていた。そして妻の淹れたコーヒーを一口飲んで、俺は言った。
「やっぱり君の淹れるコーヒーは最高だな」
それの何がいけなかったのか。
いや、そんなことが原因なはずがない。
熟年離婚という言葉とそれに関連する理由がズラリと頭の中に並ぶ。
家事を押し付けた?
いや、この年代の男にしてはやった方だ。妻もよく誉めてくれていた。
じゃあ子育てを任せきりにした?それとも口出しした?
どちらも有り得ない。
やっとできた一人娘のことは溺愛し、家にいられる時間は全てを娘に捧げた。
甘いんだから、と妻は呆れつつも笑顔だった。
金銭的に苦労をかけた覚えはないし女性問題もない。
定年退職した夫が邪魔だ、という話はだいぶ前から耳にしていた。
だからそうならないように1人でできる趣味を見つけ、自分のことは自分でしたし時には妻に凝ったランチを用意したり、自分で言うのもなんだが、妻孝行はしている方だと思う。
一体何が起きた。
「あなた、ネットで小説を投稿しているでしょ?」
「あ、ああ。前にも話したよな、1人でできる趣味を見つけたいと思って、って」
「…私、知ってるのよ。あなたがそこで頻繁にやりとりしてる若い女性に対して、自分も若者のフリしてやりとりしてること」
心臓が飛び出そうになった。
どうしてそんなことを知っているんだ。
「変な若者言葉なんか使ってみっともない。相手は20代でしょう?あなたがどんな話を書いているのか気になって、私覗いてみたのよ」
なにー!?
「それでね、あなたの頭の中はこんな安っぽい感性でできていたんだ、って心底ガッカリしたの。その上若者言葉…もうめまいがしたわ」
冷や汗がタラタラと流れる。
「あなたはもっと聡明な人だと思っていたわ。長年尽くしてきた人がこんな人だったなんて…いえ、私も悪いの、あなたのことを愛して尊敬するあまり、あなたには本当のことが言えなかったんだから…」
本当のこと…?
妻に隠し事があったなんてこれっぽっちも疑ったことはない。
「私の年が何歳か知ってる?」
「…俺より3つ年下だろう?」
「違うの。私ね、あなたの4つ上なの。しかもあなたと同じ大学。あなたが入学してきた時、私たち会ったことがあるのよ。あの頃の私は冴えなくて、しかも留年して4年生を2回してたからあなたに出会えたなんて、恥ずかしくて言えなかった。私は覚えていたけれど、あなた再会したとき気づかなかったでしょ?それで嘘をついたのよ」
「…ということは、君は先輩だったのか?」
「そう。幻滅したでしょ、こんな嘘つき。もう別れると思ったらやっと言えたわ」
「そんな…!そんな小さなことどうだっていい!考え直してくれ、アンナ!」
妻は俺を見た。
効いてる!
もう一押しだ!
「アンナ、君のことならどんな小さなこともちゃんと覚えているよ。そりゃあ再会した時は気づかなかったかもしれないが、それからのことは何でもさ。お願いだ、残りの人生も一緒に過ごしてくれ」
「…もう一度、名前を呼んで」
「何度でも呼ぶよ、アンナ!」
「ち、がーーーーーーーーーう!」
テーブルにダンッと手をつき、妻は立ち上がった。
俺は何が起きたのかと体が固まった。
「アンナじゃない!ハンナよ!」
へ…?
「あなた、私のことずっと『君』って呼んでたでしょ?結婚の申し込みに実家に来たときよね、初めて私の名前を言ってくれたのは。アンナって聞こえたけど聞き違いかなぁ~?そうだろうなぁ~って思ってたのよ、私。婚姻届書いた時だって何も言わなかったしね。あの時は私、生年月日がバレないようにすることだけに必死でそんなこと考えてなかったけど、結婚してからあなたがたまに私の名前を呼ぶと、毎回モヤモヤしてたのよ」
それを今まで黙っていたのか…。
「わ、悪かった。謝るよ。だから…」
「…じゃあ最後の質問で私が満足したら考え直すわ」
「よ、よしこい!」
「私の作るもので、あなた何が一番好き?」
な、なんだその質問は…。
正解はなんだ?
肉じゃが?ハンバーグ?カツカレー?
いや、もしかしたら答えは何でもいいのかもしれない。
アンナ…いや、ハンナも引っ込みがつかなくなっているのだろう。
そこでふと目に留まったものを俺は挙げた。
「コーヒー、だな…。君は初めは上手く淹れられなかったけれど、今ではこんなに美味しいコーヒーを淹れてくれるようになった。俺はこれを飲むとホッとするんだ、ここが我が家なんだ、ってね」
「…あなた、いつもそう言ってたわね」
「そう、そうだよ!」
正解だ!
「それ、ペットボトルのコーヒー注いだだけなのよ」
俺はグラスを見つめた。
「あなたのそういう何にも気づかないところ、そろそろ限界なの。別れてください」
コーヒー以外なら何でも良かったのにね、と最後に妻は呟いた。