第3話

文字数 4,145文字

  〈三〉
 ヤマトと講和を結んでしばらくして、大国主のもとにヤマトの使者が訪れた。
 小柄だが異様なほど目つきが鋭い男である。長年ヤマト政権の荒波をくぐってきただけあって、したたかな印象を与えた。
「この度貴国のわがヤマト王への臣従はまことに喜ばしい。おかげで互いに無駄な血を流さずに済むというもの。ついては忠誠の証として、二つの貢物を頂きたい」
 使者が真っ先に挙げたのは鉄である。
「吾らはすでに天叢雲剣をヤマト王に献上しております。さらに鉄を求められるなど、話が違いますぞ」
 大国主は必死で(あらが)った。
 しかし使者は冷然と言った。
「剣は象徴にすぎぬ。わがヤマト王が貴国に期待しているのは実利である。そんなことも分からぬようでは、やはり独立国として生きてゆくことは無理であろう」
 これには居並ぶ出雲の群臣たちも、ぐうの音も出なかった。

 この時代、倭国内には原料の鉄鉱石を溶かして鉄を取り出す技術は未だなかった。
 もっぱら大陸や半島との交易で鉄鋌(てつてい)と呼ばれる鉄板を手に入れ、それを熱して剣や(やじり)などの武器や、鎌や鋤などの農具に変えて用いていた。
 その点では九州の国々が、地理的にも大陸や半島に近く圧倒的に有利である。兵士の数では勝るヤマト連合が、筑紫や日向の国々をなかなか屈服させられない原因はまさにそこにあった。
 それが踏鞴(たたら)(フイゴ)を使った砂鉄製鉄の技術が可能になると、倭国内でも鉄を生産する目途が立った。
 砂鉄は高温で熱しないと熔解しないが、大陸ではすでに紀元前四世紀頃から牛皮で作ったフイゴを使って高温炉を造る技術が広がっていた。
 これが導入できれば、自前で鉄製品を作ることも可能になり、軍事力ばかりか農業生産力も飛躍的に向上する。
 砂鉄の産地は出雲を筆頭に山陰や吉備など中国地方に多く、『出雲国風土記』にも出雲の斐伊(ひい)川流域で鉄を産したことが記されている。
 踏鞴の技術がもう少し早く伝わっていれば、出雲もむざむざとヤマトに屈することはなく、歴史は大きく変わっていただろう。
「もう一つは高志(こし)の国の――」
 使者は言いかけて咳払いした。
 大国主は目を瞑った。
——翡翠(ひすい)に違いない。
 翡翠は財宝であると同時に、とてつもない霊力を持つ祭器でもある。
 物と精神、両面から出雲を従わせようとするなら、翡翠を要求するのはむしろ当然だった。
 ところが使者の口からは思いがけない言葉が出た。
「奴奈川の姫じゃ」
「姫、ですか?」
 大国主は思わず使者に聞き返した。それほど意外だったのである。
 しかもヤマトが欲したのは翡翠そのものではなく、翡翠の巫女、つまり奴奈川姫だという。
「次の次の月が満ちるまでに奴奈川の姫を差し出せ」
 命令を受けた大国主命は、内心ほくそ笑みながら叩頭した。 
 女一人を差し出すことで翡翠を守れるのなら、安いものである。

 大国主はさっそく奴奈川国に使者を送り、姫にヤマト王に輿(こし)入れするよう伝えた。
 ところが、奴奈川国からはいつまで経っても返事がなかった。
 大国主は焦った。
 ヤマトの力は強大である。その命に従わぬとあらば、武力による征服の口実にされる。
 やむなく大国主みずから奴奈川姫を迎えに行くことになった。
 出立の際、出雲の湊で正妃のスセリヒメをはじめ妻たちが見送ってくれた。
「本当に高志に行かねばならないのですか」
 すでに述べたが、スセリヒメは素戔嗚の娘だけあって父に似て気性が荒い。思い通りにならないと、しばしば癇癪を起して大国主を責める。
 心優しい大国主は言い返すことができず、すぐに別の女性のところに逃げ込むのがパターンだった。
「まさか彼の地で、また新しい女をつくるつもりではないでしょうね?」
 眉間に縦皺を寄せてスセリヒメが言った。
「思い違いだ。あんな田舎にそなたを越えるような見目麗しき女などいるものか」
 それでもスセリヒメは疑いの目を隠さない。
 事実、これまでもスセリヒメの厳しい監視の目をくぐって幾人もの女性を側室にしてきた。
 『古事記』にも、大国主に対してある后が「あなたは男だから、打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる磯の崎ごとに、どこにも妻をお持ちになっているでしょう」と激しく嫉妬する場面が描かれている。
 スセリヒメの疑いはむしろ当然ともいえる。
「本当に、本当に、ヤマトに奴奈川国の姫を差し出すために行くのだ」
 大国主はスセリヒメに必死で弁解した。

「つまらぬ」
 大国主は大海原を見て呟いた。実際、ここまでの船旅は退屈だった。
 一行は出雲の湊を出航して日本海を東に進み、因幡、丹後、若狭、能登、越中を過ぎて高志の国に差し掛かろうとしていた。
 しかし、親不知子不知の断崖に驚嘆して気を引き締め、大国主は手ごろな浜を見つけて上陸した。
 砂浜ではない。黒や茶色、灰色などさまざまな色の小石が転がっている。
 大国主はふと、足元に白い石を見た。
 拾い上げてみると他の丸い石とは異なり角張って重い。石の中にきらりと青みがかった輝きが見えた。

「それが翡翠です。よく見つけられましたね」
 振り向くと美しい絹の装束を纏った女性が立っていた。何人もの従者を従え、衣笠を差し掛けられている。
 奴奈川姫に違いない。
「ようこそ、奴奈川国へ」
 奴奈川姫が嫣然(えんぜん)と笑った。首飾りが碧色の輝きを放っている。翡翠の勾玉であろう。
 海岸沿いの木立で青い鳥がチッ、チーと甲高い声で鳴いた。
翠鳥(そにどり)です。きっと大国主さまを歓迎しているのでしょう」
 大国主の口から思わず言葉が漏れた。
「なんと美しい」
――鳥も、姫もだ。
 年の頃は十八か九。
 抜けるような白い肌が、翡翠の美しさを取り込んだように輝いている。聡明な輝きを放つ瞳と形のよい唇に、静かだが強い意志を感じる。
 大国主には正妃のスセリヒメをはじめ多くの妻がいる。その誰もが美しいと評判の女たちである。
 だが奴奈川姫の美しさに敵う者はいなかった。大国主はたちまち虜になった。

 その一方で密かにため息をついた。姫を差し出せというヤマトの要求に、安易に応じてしまったからだ。
――早まったことをした!
 大国主は激しく悔いた。
「大国主さまに申し上げます」
 心落ち着かぬ大国主に、奴奈川姫が静かに語りかける。
「私は奴奈川国の女王として、巫女の役目も果たしております。なれどこの地を離れれば奴奈川の神の御加護を得られず、存分に力を発揮できないでしょう。役立たずと(そし)られるくらいなら、いっそこの地で自ら命を絶ちます」
 きっと引き結んだ唇に、大国主は息を呑んだ。
「それは困る……」
 大国主はとっさに言葉を返すことができなかった。

 その夜、大国主を歓迎する宴が催された。
 獲れたての魚と焙った鹿の肉が主菜で、米も旨い。
 大国主はなみなみと注がれた銅杯の濁り酒を一口含み、驚愕した。
「これは、米ではないか……」
 奴奈川姫は微笑んでうなずく。
「はい、米にて造りし酒にございます」
「まことか!」
 大国主は絶句した。
 弥生時代に九州で始まった米作りは、今では倭国全体に及んでいる。だが毎日米が食べられるのは王や貴族などごく限られた人々で、平民たちはアワやヒエを主食にしている。
「記紀」には大国主の義父・素戔嗚が八岐大蛇を退治する際に「八塩折之酒(やしおりのさけ)」を飲ませたとあるが、これは衆菓(しゅうか)(果実)で造った酒である。

 ちなみにこの時代の酒造りを担ったのは主に女性である。
 女性たちがアワやヒエ、芋などを口に入れて噛み、それを吐き戻して野性酵母で発酵させる。いわゆる「口噛み酒」である。
 あと飲めるのはせいぜい猿酒と呼ばれる果実酒の類だった。
 大国主が初めて米の酒を飲んだのは、出雲王の座に就いた二年前に外交儀礼としてヤマト王に拝謁し、その際に宴の席でふるまわれた時だ。
 米の酒は身体に酔いが回るのも早く、しかも気分がよい。
 大陸から伝わった技法とのことで、「なんと旨いものだ」とその時の興奮は今も覚えている。
「旨い。まさかこの地で米の酒が飲めるとは思わなかった」
 大国主は素直に賞賛した。米を使った酒は出雲でも造れない貴重品である。
「奴奈川は水がよく、よい米が取れます。よい水とよい米で、よき酒が醸されるのです」
「しかし、どうやって造るのか」
 古い記録によれば、日本酒が本格的に造られるのは飛鳥時代になってからである。造酒司という部署も設けられている。
「わが刀自(とじ)には唐土(もろこし)から来た者がおり、技法を伝えてくれました」
 刀自すなわち杜氏である。
 酒が入った大国主の一行は緊張も薄れ、自然に輪をつくってそれぞれ酒を酌み交わしている。
 奴奈川国の若者が立ち上がり、「さあ、参るぞ!」と威勢よく掛け声を発した。
 若者を中心にして自然と車座が出来上がり、拍子を取りはじめる。なかには草笛を吹く者もいる。
 それに合わせて若者が剽軽な仕草で踊り始めた。
 わはは、と笑い声が起こる。
「この地の民は幸せじゃ。よき女王がいて、よき政が行われておるようだ」
 その様子を見ながら大国主が誰に言うともなく呟いた。
 そのとき、一段高くなった舞台の上に奴奈川姫が立った。
「おお」
 篝火(かがりび)の中に天女のような姿が浮かび上がり、一同からため息が漏れる。
 朱や緑の飾りのついた衣装を纏い、まるで天界にいるような幻想的な光景だった。
 傍に控える楽人が胡弓や笛、太鼓を奏でるのを合図に、奴奈川姫が舞いはじめる。
 ときおり掌にのせた鐸(鈴)を振ると、涼し気な音色が響く。
 奴奈川姫の長い黒髪に、白や淡い紫の可憐な花が()してあるのに気づいた。
「あの花は?」
 大国主が奴奈川国の重臣に訊ねた。
「雪割草と申します。ちょうどこの時期にしか咲かない花で、花も大国主さまをお迎えしているのでしょう」
 雪割草は北陸から東北にかけての本州の日本海側の野山に咲く可憐な花で、早春に他の花に先駆けて咲くことからその名が付いたという。
 白や赤、桃色、紫など色とりどりの花をつけ、新潟県では「県の草花」にも指定されている。
――ちりん、ちりん。
 奴奈川姫が舞う姿に合わせるように鈴の音が響く。
 その時、奴奈川姫の首に掛けた翡翠がまばゆく輝き、一筋の矢となって大国主の胸を貫いた。
 大国主の意識が遠のいていった。
                                   (つづく)
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