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文字数 2,476文字

 河田奈々未が新堀画廊に勤めて一か月が経った。
 今ではアルバイトというよりは、新堀画廊の社長、吉井孝夫の恋人のような存在になった。
 台所やリビング、その奥にある彼の寝室にも自由に出入りしている。孝夫の寝室は意外と狭くてベッドを置くだけでいっぱいだった。ベッドはシングルサイズだから二人では寝られない。
 ということで、奈々未は二階の部屋を使わせてもらっている。ベッドもカーテンも可愛い花柄にしたので女の子の部屋になった。むしろ、彼の寝室よりも広いくらいである。マンションから身の回りの物を少し運んできたので、だんだん自分の部屋のようになりつつあった。
 
 ときにはお泊りもしている。
 泊まった日は孝夫が朝ご飯を作ってくれるので、起こされるまでベッドから出ない。
 奈々未はルームウェアにボサボサの頭でリビングに下りていった。両膝を立てて座り、大きな欠伸をする。
 テーブルの上はロールパン、紅茶、生ハムと野菜サラダ、朝から健康生活だ。
 片手でスマホをいじりながらロールパンを丸ごと齧った。
「あ・・・」
 孝夫はご丁寧にパンを千切って食べていた。
 
 ご飯を作るのは彼の仕事。掃除と洗濯はイヤだけど仕方ないのでやっている。何もかも押し付けていたら、家庭的ではないんだねとか言い出しかねない。リビングルームで掃除機をかけた。広くて疲れるし、腰が痛いと言い訳して真ん中だけ掃除していると孝夫がテーブルの下に潜って掃除機をかけてくれた。
 奈々未のマンションの部屋はゴミだらけで、ガスレンジにはうっすらと埃もたまっている。孝夫に掃除にきてもらいたいくらいだ。
 リビングは広々していて、書斎も兼用している。中央には長方形の大きなテーブルがどっしりと設えてあり、長い辺には二人ずつ座れる大きさだ。パソコンやファイルが置かれているので食事用のスペースは半分くらいしかない。食事をする時は端の方で向かい合って座っている。
 リビングにはいくつも版画が掛かっている。ラファエル前派でもなく、インテリア向けの版画でもない。
 細かい線画で植物を描いたもの、絵の具をまき散らしたような抽象画、それからガード下にありそうな落書きペイントもある。これらの作品は、かつての高校の教え子で美大に進んだ人が制作したということだ。美大を出ても、アーティストのタマゴなのであって、作品は買い手がつかず、彼らの生活は厳しいらしい。
 そこで、新堀画廊では美大に在学中、あるいは卒業して間もない若手のアーティストのために、発表の場を与えようと作品展を開いているのである。孝夫は若いアーティストたちの作品を購入して、リビングルームに飾っているのだ。今はまだ作品点数が少ないが、いずれは常設展示したいと夢を語ってくれた。

 社長の孝夫から留守番をしてと頼まれた。
 孝夫は銀行に寄り、それから版画をレンタルしている得意先に行くということだった。版画のレンタルは他の画廊との共同事業である。オフィスをはじめ、病院、介護施設などに季節ごとの版画を貸し出しているが、始めて半年、ようやく軌道に乗った段階だ。
 帰りが遅くなったら、店を閉めてくれと言われている。留守の間、一人で不安だったら、休憩中の看板を出してドアに鍵をかけてもいい。万一のために警備会社と契約してあるとはいうが、何か起きたら事後に駆け付けるシステムである。
 そうしたら、向かいの美容室の池田さんがやってきた。これ以上の安心はない。
 コーヒーとクッキーでお茶タイムにした。
「奈々未さん、あなた、休みの日も来てるの」
 未払いの給料を受け取りに行き、怖い目に遭ったときのことだ。その日は定休日で、デリバリーのお弁当を受け取る時に顔を合わせた。
「ええ、まあ、ときどき」
 先週も定休日に来たし、たまにはお泊りもするが、そこは適当に答えておいた。
「それに、二階のカーテン替えたでしょ」
「替えたといえば替えたんですが・・・でも、二階の窓は池田さんの方角とはちょっと角度が違うように思うんですけど」
 二階の窓は通りには向いておらず、美容室からは見えないはずだ。窓からはアパートや近所の家が見えるだけである。
「あっちも、こっちもお見通しよ。商店街では婦人局長、自治会では広報部長だから」
 商店街は「局長」、自治会は「部長」と呼び方が異なるようだ。近所には池田さんの支配下の局員やら部員がいて、逐一報告しているらしい。これでは監視局長だ。
「二階は着替えに使わせてもらってるんですよ。一階にはロッカーがないんです」
「奈々未さん、美人でお嬢様タイプだと思ってたら、グイグイいくんだね」
「社長が何事にも前向きでして」
 前向きなのは奈々未の方だ。
「ところで、一人じゃ不安でしょう、うちに来ない? 女優さんに頼みがあるの」
 美容室の池田さんの頼みというのは、ヘアーモデルの依頼だった。奈々未の髪をセットして写真に撮り、それを店内に飾りたいというのだ。料金は無料だと言うので引き受けることにした。
「そうそう、いい情報教えてあげる」
 ドライヤーを掛けながら池田さんが言った。人の噂をするのを生きがいにしている典型的なオバサンなのである。
「ほら、二階からアパート見えるでしょう、南洋風の」
 南欧風のことだと思った。孝夫が所有しているアパートである。
「あそこ、社長の持ち物」
 それはとっくに承知している。けれども池田さんは、アパートの一件は自分だけが持っている「いい情報」だと思い込んでいるようだ。世話好きオバサンの機嫌を損ねてはいけない。
「そうみたいですね、でも、詳しいことは聞いてないんですよ」
 奈々未が模範的に答えると、池田さんはまってましたとばかりにまくし立てた。
「部屋数は十二部屋、家賃は六万円。しかも満室よ。つまり、社長には家賃だけでも毎月七十万円ぐらい入ってくるっていうわけ」
「詳しいですね」
「婦人局長だから」
「広報部長もですよね」
「よく知ってるわね」
 奈々未が広報部長と言って持ち上げたので池田さんは満足そうである。いい情報を持っているオバサンは味方に付けておくに越したことはない。
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