第7話:小旅行と米山建男さんの死

文字数 1,665文字

そのため今年の冬場の家族でインフルエンザ患者が1人も出なかった。そして3月が過ぎ4月になり土志田二男が長男の一男と長女の和子と3人で小学校へ通うようになった。4月に近くの桜の名所に土志田勇の家族5人で、おにぎり持参で出かけて花見を楽しんだ。米山夫妻は家の近くの大きな桜の木を散歩して見に行き、写真を撮って帰ってきた。
1989年4月にトヨタ株を2400円で2万株4800万円で売り、税引き後利益4100万円で残金が4251万円となった。5月には、土志田勇の一家が西武園遊園地へピクニックへ出かけ歩き回って帰って来た。夏は、サマーランドへ出かけて、めいっぱい遊んできて、家に帰り、直ぐ寝た。米山夫妻は、暑いときには、部屋でエアコンを効かせて、体調管理に気をつけていた。やがて9月、10月の快適な季節となった。そして今年は11月に、しばらくぶりに八ヶ岳の麓までドライブして9人で出かけて美しい紅葉を楽しんで夕方帰って来た。やがて12月が過ぎ1989年が終わり1990年を迎えた。1月を迎えて、今年もインフルエンザに注意して予防対策をして、生活をしていたが、土志田勇の次男の二男が小学校でインフルエンザに感染した。そこで、米山夫妻が離れの部屋に避難して、2週間して、二男が回復して、母屋に戻ってきて3月を迎え、4月になった。1990年5月になり、透析を続けていた米山恒夫さんが透析している病院で腹水がたまってきたので、もっと大きな病院で治療した方が良いと言われて、大学病院へ転院するように言われて書類を書いて6月に八王子の大学病院に転院して腹水を抜いたが、数週間で、また腹水が溜まる様になった。10月に腹水の溜まり方が少なくなったので退院したが、11月下旬に、また腹水が溜まったので3日入院して退院してきた。12月下旬も年末年始となるために3日入院して退院した。そして1991年を迎えた。1月8日から入院して退院することが出来なり急に体力が落ちてきた。奥さんも月水金の透析の時に、米山恒夫さんの横について長い間、付き添っていた。2月2日、風邪の症状が出て食事が取れなくなり点滴栄養に頼り始めると急激に痩せてきて3月には、げっそり痩せて、昼間も寝ているようになり3月20日に意識が途切れるようになった。土志田勇と種子が担当医に状況を聞くと食事を取れなくなり免疫が落ちて感染したと言い、この2,3日が山でしょうと告げられた。そして1991年3月24日、帰らぬ人となった。奥さんの米山幸子さんが昨晩から寝ずの看病していたが昨晩、午前2時過ぎに奥さんの手を握り、長い間ありがとうと小さな声で言ったきり、意識不明になったと教えてくれた。午前6時に担当医からご臨終ですと告げられると、米山幸子さんは、呆然として、窓から遠くを見つめていた。取り乱すこともなく、来る時が来たという感じだった。その後、土志田勇が葬儀の連絡をして3月29日、八王子斎場で葬儀を行うことになり、1991年3月28日が、お通夜で告別式が3月29日と決まった。葬式の案内を印刷して、土志田家の近所の親戚に配った。米山家では、町田に米山建男さんの兄弟が2人おり、葬儀の案内を送った。結局、米山建男さんの弟の郁夫さん1人が出席するだけで、埼玉北部の実家とは、縁が遠くなり、音信不通だったようで知らせなかった。葬儀には、米山さんの会社関係者3人と弟の郁夫さんの4人の出席だけで、その他、12人は全て土志田家の近所の親戚となり質素な葬儀となった。葬儀も滞りなく、終了し土志田家から車で20分程の場所にある八王子の墓地に埋葬された。その後、家に帰り、米山幸子さんが土志田恒夫さんに、お礼を言った。その後、米山建男さんの残した遺書を奥さんの幸子さんが土志田恒夫に渡した。それには、本当に長い間、土志田家の皆様にお世話になり、誠にありがとうございましたと、最初に書いてあった。思い返せば、埼玉北部の田舎で育ったが戦後の混乱期、食べるものもなく、故郷に居場所がなくなり、仕方なく都会に出て来た。、
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