6
文字数 4,344文字
とあるどこかそのへんに、ひとりの人がいました。その人は特徴を自覚せず、皆の印象は「無難で人当たりのいい人」でした。
その人は生まれ、生きて、子ども時代にあることを学びました。
大人は、良い子にしていると褒めてくれる。「良い子」の中身は勉強がよくできる子、努力ができる子、周りに合わせられる子、そして、大人に従順な子。「良い子」を目指して挫けそうになり頼りたい時、大人は「我慢しなさい」と言い、こちらから目を背けた。でも、自分は褒められたい。だから頑張る。
周りの友達は、均質が好きだった。オレンジ色に染まるべきとき、素直に空色を欲した自分は破門され、端っこが似合う人になった。
よくわからない。だけどこれが当然なのだろう。わかった、オレンジを好きになる。これがきっと正しい友達。
自分は、これでいい。
そしてその人は生き続け、またあることを学びました。
大人は、もう自分を褒めない。これまでは「ああしろ、こうしろ」と指導し先導してきた。今は「未来は自分で決めろ。自分で責任を持て」と言う。少しくらい教えて欲しい。「大人の世界」の生き方を、教えて欲しい。しかしやはり、知らずに行かねばならないのだろう。それが普通の人のあるべき姿だと思った。わかった、そうする。頑張って努力して、「あるべき普通の姿」に合わせるよ。
自分は、これでいい。
そしてその人は生き続け、大人になり、社会に出て、働きました。その過程で経験を重ね学んでいきました。幼い頃に学んだ「努力」を当たり前のようにしました。同時に「自分」という存在の「非・普通性」と直面する事態が増えていきました。
自分は普通の人より断然劣っている。どれほど努力しても更なる努力を求められ、最善だと思った結果に改善点を突きつけられる。きっと努力が足りないんだ。もっとやれる、もっと期待に応えなくては。改善して、向上して、上を目指して自分を変え続ければ、いつか普通になれる。普通の人として、認めてもらえるはずだ。
自分には何が足りないんだろう。何がだめなんだろう。自分は、どうして、結果が出せないのだろう。
誰も答えは教えてくれない。きっと自分で答えを掴み、成功することが、普通の大人のすることだ。だからそうする。
自分は、これでいいはずだ。いつか普通になれるはずだ。
その人は努力に否定され続け、他人に否定され続け、頑張った先で、暗闇にたどり着きました。そこでようやく気づきました。これまで必死に続けてきたのは、努力ではなく、我慢であったことに。そして、これまでひたすら自分を否定して、自分ではない普通の何かになろうと、叶わぬ幻想を追い求めていたことに。
自分は何になりたかったのだろう。
何のために、誰のために。
自分とは、何だ。これは、何だ。生きるって、何だ。
自分は思う。
経験して痛い目をみるまで理解できないなんて、バカだな。予測すらできないなんて、バカだな。
自分の限界を知らないなんて、バカだな。ブレーキがあることすら知覚できてないなんて、バカだな。
お人好し過ぎて、バカだな。無闇に人を信じて人に合わせて自分の意志を隠すなんて、バカだな。
バカだな。努力が結実しない理由もわからないなんて、バカだな。
ああ、自分はなんて。
***
肩に触れられた感覚で覚醒する。
綺麗な紺色の瞳と目が合った。
「酷くうなされていたようですね」
紺色の中に心配の色が見えた瞬間、反射的に目を逸らしてしまった。
自分は二人に慣れていない。
あなたがいると分かっているのに、いつ去るのかと思案する自分がいる。期待されて裏切る前に、見放して欲しい。このままそこにいて欲しいのに。自分が一番欲しくて一番苦手な言葉を言わずにいてくれた優しいあなたなら、一方的に背を向けることは、しないだろうに。そう信じたいのに。
ああ、自分はなんて。
「あなたの瞳は今、何を見ていますか?」
情けない自分の姿を。そう答える訳にも行かず、瞼を押し上げ世界を見た。
「星ひとつない夜空です」
自分は小舟の船床に寝そべっていた。穏やかな波が船側に押し寄せ、波が壊れる音がした。
「少し体を起こしてみましょうか。固いベッドでは体が強張ってしまったでしょう」
伸ばされた手に支えられ上半身を起こす。先ほどとは全く違う景色が見えた。
「見えますか」
視線の先には月虹 。その弓で守るのはいつか見た藤色の夕暮れ。星がなくとも完成された美しさがそこにあった。
「あなたの瞳は今、何を見ていますか」
「自分には」
振り向くと、彼の背後に星ひとつない暗闇が迫っていた。音もなく忍び寄る虚無感と喪失感。不意に胸に浮かんだ言葉は「戻りたくない」。
「言い方がよくなかったですね。ごめんなさい」
「え?」
「あなたは何を見たいですか?」
「何を、見たいか」
「ええ。あちらに広がる暗がりを見るのも、向こうに広がる夕暮れに視線を向けるのも、あなた次第です。もしくは狭間を意識したり、私と視線を合わせ続けることも可能でしょう。はたまた船床で目を伏せることさえ」
全身が震え出しそうだった。答えは決まっている。なのに決め切れない。
人の判断基準は過去からもたらされる。自分はそう思う。
失敗だらけの過去が出す答えの信憑性は。
後悔だらけの自分の信頼性は。
水面が強く波打ち船を揺らす。
彼は咄嗟に空を見上げ、徐々に忍び寄る漆黒に一瞬顔を曇らせた後、またこちらに向き直った。そこにはあの優しい微笑みが戻っていた。
「今すぐ決めなくても大丈夫ですからね。ただ、一つだけ伝えさせてください」
「はい」
「過去は、変えられません。未来は、確約できません。今、何を見るかで星の配置は変わります。北を目指せば北極星が、南を目指せば南極星が手招きます。あちらに向かえば乙女座が、こちらでは魚座が待っています。そこに星がなければ、その手で描き足すこともできるのです。星が既に出来上がっているとは限りませんからね。過去がどうあれ、或いは未来が見えずとも、何がなくとも、羅針盤はあなたの中にあります。ずっと、あります」
虹がきらり、輝いた。目と鼻の先で待っている。
『ねえ。本当にそれでいいの』
聞き慣れた声が介入した。それもそのはず、自分の隣には、自分が座っていた。いつかの自分が、冷たい瞳でこちらを捕らえる。
『櫂は君が握っているんだよ。他人の声を聞いていいの?これまで同じように聞き入れたとき、何があったか忘れたの?』
「でも……」
戻さないで。もうそっちに戻さないで。
ワトソンの柔らかい手が肩に触れた。そして思い出した。
「違う。今度は違う。聴きたいから聴く。信じたいから信じる。義務感じゃなく、自分の意志でそう決めた。今はこれがいい」
過去 に言葉を差し挟まれる前に背を向ける。
「ワトソンさん。自分を呼んでください」
そうやって教えてください。自分は自分であることを。
「ええ、喜んで。それではその名をお聞かせください。本当は存じ上げていますが、あなたの声で教えてください。あなたが、誰であるかを」
「自分、は」
一瞬の戸惑いを突いて、背後から伸びる手に喉元を撫でられそのまま引き戻された。
『ほら、思った通りだ。まだわからないんでしょう。見失ったままなんでしょう』
背中から伝わる失望感。声音が煽る無価値感。
それでもまだ、虹はそこで待っている。
ワトソンさんが言った。
「忘れてなどいないはずです。見失っても、たとえなくしたとしても、あなたには未来を望む瞳がある。さあ、教えてください。あなたの」
『黙ってよ』
瞬間、ワトソンさんの輪郭が揺れ、姿が霞み始める。彼が咄嗟に伸ばした手の向こうに夜が透けて見えた。唇が懸命に動いているのに、音が溶けて聞き取れなかった。
『ほら、戻ろうよ』
やがて船の上には二人きり。
『無変化は無感覚への道標 。単調を繰り返せば二度と傷つくことはない。常時結果が見通せていくからね。身を委ねてよ、守ってあげる。君を傷つける人から、環境から、全てから遠ざけてあげる。安心してよ、君を裏切ったりしない。自分は君だからね』
「…………守って欲しい。もう傷は増やしたくない。だけど思い出したんだ。自分は周りばかりを気に掛けてしまう。でもそれは意思がないからじゃない。きっと、優しさなんだ。笑顔でいてほしいからって、我慢を我慢と思わなかったからだ。でもやっと気づけた。自分も笑顔でいたい。そう願っていい」
他人は怖い。いつの頃からかそう思っていた。
ひとりでいたい。いつの頃からかそう願っていた。
その根底にあるのはたぶん、一緒にいたい気持ちだと思う。
人が好きで、好きだから無条件に信じて、嫌いになる理由を探せない。
離れていくのは必然、去っていくのは彼らの自由。
あなたと一緒にいたいから、自分の意志で信じる。
いまだに他人 は怖い。壁は、まだある。けれどそれを乗り越えて来ていい人は、自分が決める。それを壊す環境は、自分の居たい場所じゃない。変化と痛みは必ずしも共存しない。取捨選択は自由の始まり。
自分は強くなった訳ではないと思う。
優しい世界に生きることを、期待しはじめたんだ。
そこにいきたいと、ようやく自分に言えたんだ。
『そっか』
解放される体。振り向くと自分は泣いていた。偽りのない、喜びから生まれた微笑みと一緒に。その胸の向こうに、虹が輝いている。
『ねえ』
「うん?」
『呼んでよ。自分の名前』
腕を伸ばして自分を抱きしめる。その名を読んだ刹那、自分が自分の中に溶け込み戻ってきた。
自分は自分だ。夜の部分も星の部分もどこかにあるはずの太陽の部分も、全部で自分だ。
***
「おかえりなさい。気分はどうかな?」
目を覚ますと、見覚えのある微笑みが迎えてくれた。
「ワトソンさん……」
なぜだかうまく声がでない。彼は無理しないでと添えてくれた。
「起きて早々に申し訳ないのですが、お名前を教えていただけますか」
名前を告げると一層深まる彼の笑み。
「よかった。本当によかった」
「あの……」
「申し遅れました。私はワトソン・ラスター。あなたの主治医」
そう言って解放した眼帯の奥には透明な瞳。宝石のような光輝を秘めて。
「鉱化治療の専門医です。あなたが輝石の護りを受け、もうすぐ百日目。ようやく逢えましたね」
握られていた手がそっと離れる。自分の手には光沢があり、内側から星が生成されているように見えた。
「ご安心ください。回復期に見られる症状ですよ。一週間もすれば引くでしょう。かさぶただと思ってもらえればわかりやすいでしょうか」
「先生、自分は」
そのときもらった言葉に自分は神様に感謝した。普段その存在は意識に上がらないのに、理解を超える喜びに包まれると距離が縮まるらしい。
よかった。
ここにいられてよかった。
あなたに出会えてよかった。
生きて、出会えてよかった。
生まれてよかった。
自分は自分で、よかった。
その人は生まれ、生きて、子ども時代にあることを学びました。
大人は、良い子にしていると褒めてくれる。「良い子」の中身は勉強がよくできる子、努力ができる子、周りに合わせられる子、そして、大人に従順な子。「良い子」を目指して挫けそうになり頼りたい時、大人は「我慢しなさい」と言い、こちらから目を背けた。でも、自分は褒められたい。だから頑張る。
周りの友達は、均質が好きだった。オレンジ色に染まるべきとき、素直に空色を欲した自分は破門され、端っこが似合う人になった。
よくわからない。だけどこれが当然なのだろう。わかった、オレンジを好きになる。これがきっと正しい友達。
自分は、これでいい。
そしてその人は生き続け、またあることを学びました。
大人は、もう自分を褒めない。これまでは「ああしろ、こうしろ」と指導し先導してきた。今は「未来は自分で決めろ。自分で責任を持て」と言う。少しくらい教えて欲しい。「大人の世界」の生き方を、教えて欲しい。しかしやはり、知らずに行かねばならないのだろう。それが普通の人のあるべき姿だと思った。わかった、そうする。頑張って努力して、「あるべき普通の姿」に合わせるよ。
自分は、これでいい。
そしてその人は生き続け、大人になり、社会に出て、働きました。その過程で経験を重ね学んでいきました。幼い頃に学んだ「努力」を当たり前のようにしました。同時に「自分」という存在の「非・普通性」と直面する事態が増えていきました。
自分は普通の人より断然劣っている。どれほど努力しても更なる努力を求められ、最善だと思った結果に改善点を突きつけられる。きっと努力が足りないんだ。もっとやれる、もっと期待に応えなくては。改善して、向上して、上を目指して自分を変え続ければ、いつか普通になれる。普通の人として、認めてもらえるはずだ。
自分には何が足りないんだろう。何がだめなんだろう。自分は、どうして、結果が出せないのだろう。
誰も答えは教えてくれない。きっと自分で答えを掴み、成功することが、普通の大人のすることだ。だからそうする。
自分は、これでいいはずだ。いつか普通になれるはずだ。
その人は努力に否定され続け、他人に否定され続け、頑張った先で、暗闇にたどり着きました。そこでようやく気づきました。これまで必死に続けてきたのは、努力ではなく、我慢であったことに。そして、これまでひたすら自分を否定して、自分ではない普通の何かになろうと、叶わぬ幻想を追い求めていたことに。
自分は何になりたかったのだろう。
何のために、誰のために。
自分とは、何だ。これは、何だ。生きるって、何だ。
自分は思う。
経験して痛い目をみるまで理解できないなんて、バカだな。予測すらできないなんて、バカだな。
自分の限界を知らないなんて、バカだな。ブレーキがあることすら知覚できてないなんて、バカだな。
お人好し過ぎて、バカだな。無闇に人を信じて人に合わせて自分の意志を隠すなんて、バカだな。
バカだな。努力が結実しない理由もわからないなんて、バカだな。
ああ、自分はなんて。
***
肩に触れられた感覚で覚醒する。
綺麗な紺色の瞳と目が合った。
「酷くうなされていたようですね」
紺色の中に心配の色が見えた瞬間、反射的に目を逸らしてしまった。
自分は二人に慣れていない。
あなたがいると分かっているのに、いつ去るのかと思案する自分がいる。期待されて裏切る前に、見放して欲しい。このままそこにいて欲しいのに。自分が一番欲しくて一番苦手な言葉を言わずにいてくれた優しいあなたなら、一方的に背を向けることは、しないだろうに。そう信じたいのに。
ああ、自分はなんて。
「あなたの瞳は今、何を見ていますか?」
情けない自分の姿を。そう答える訳にも行かず、瞼を押し上げ世界を見た。
「星ひとつない夜空です」
自分は小舟の船床に寝そべっていた。穏やかな波が船側に押し寄せ、波が壊れる音がした。
「少し体を起こしてみましょうか。固いベッドでは体が強張ってしまったでしょう」
伸ばされた手に支えられ上半身を起こす。先ほどとは全く違う景色が見えた。
「見えますか」
視線の先には
「あなたの瞳は今、何を見ていますか」
「自分には」
振り向くと、彼の背後に星ひとつない暗闇が迫っていた。音もなく忍び寄る虚無感と喪失感。不意に胸に浮かんだ言葉は「戻りたくない」。
「言い方がよくなかったですね。ごめんなさい」
「え?」
「あなたは何を見たいですか?」
「何を、見たいか」
「ええ。あちらに広がる暗がりを見るのも、向こうに広がる夕暮れに視線を向けるのも、あなた次第です。もしくは狭間を意識したり、私と視線を合わせ続けることも可能でしょう。はたまた船床で目を伏せることさえ」
全身が震え出しそうだった。答えは決まっている。なのに決め切れない。
人の判断基準は過去からもたらされる。自分はそう思う。
失敗だらけの過去が出す答えの信憑性は。
後悔だらけの自分の信頼性は。
水面が強く波打ち船を揺らす。
彼は咄嗟に空を見上げ、徐々に忍び寄る漆黒に一瞬顔を曇らせた後、またこちらに向き直った。そこにはあの優しい微笑みが戻っていた。
「今すぐ決めなくても大丈夫ですからね。ただ、一つだけ伝えさせてください」
「はい」
「過去は、変えられません。未来は、確約できません。今、何を見るかで星の配置は変わります。北を目指せば北極星が、南を目指せば南極星が手招きます。あちらに向かえば乙女座が、こちらでは魚座が待っています。そこに星がなければ、その手で描き足すこともできるのです。星が既に出来上がっているとは限りませんからね。過去がどうあれ、或いは未来が見えずとも、何がなくとも、羅針盤はあなたの中にあります。ずっと、あります」
虹がきらり、輝いた。目と鼻の先で待っている。
『ねえ。本当にそれでいいの』
聞き慣れた声が介入した。それもそのはず、自分の隣には、自分が座っていた。いつかの自分が、冷たい瞳でこちらを捕らえる。
『櫂は君が握っているんだよ。他人の声を聞いていいの?これまで同じように聞き入れたとき、何があったか忘れたの?』
「でも……」
戻さないで。もうそっちに戻さないで。
ワトソンの柔らかい手が肩に触れた。そして思い出した。
「違う。今度は違う。聴きたいから聴く。信じたいから信じる。義務感じゃなく、自分の意志でそう決めた。今はこれがいい」
「ワトソンさん。自分を呼んでください」
そうやって教えてください。自分は自分であることを。
「ええ、喜んで。それではその名をお聞かせください。本当は存じ上げていますが、あなたの声で教えてください。あなたが、誰であるかを」
「自分、は」
一瞬の戸惑いを突いて、背後から伸びる手に喉元を撫でられそのまま引き戻された。
『ほら、思った通りだ。まだわからないんでしょう。見失ったままなんでしょう』
背中から伝わる失望感。声音が煽る無価値感。
それでもまだ、虹はそこで待っている。
ワトソンさんが言った。
「忘れてなどいないはずです。見失っても、たとえなくしたとしても、あなたには未来を望む瞳がある。さあ、教えてください。あなたの」
『黙ってよ』
瞬間、ワトソンさんの輪郭が揺れ、姿が霞み始める。彼が咄嗟に伸ばした手の向こうに夜が透けて見えた。唇が懸命に動いているのに、音が溶けて聞き取れなかった。
『ほら、戻ろうよ』
やがて船の上には二人きり。
『無変化は無感覚への
「…………守って欲しい。もう傷は増やしたくない。だけど思い出したんだ。自分は周りばかりを気に掛けてしまう。でもそれは意思がないからじゃない。きっと、優しさなんだ。笑顔でいてほしいからって、我慢を我慢と思わなかったからだ。でもやっと気づけた。自分も笑顔でいたい。そう願っていい」
他人は怖い。いつの頃からかそう思っていた。
ひとりでいたい。いつの頃からかそう願っていた。
その根底にあるのはたぶん、一緒にいたい気持ちだと思う。
人が好きで、好きだから無条件に信じて、嫌いになる理由を探せない。
離れていくのは必然、去っていくのは彼らの自由。
あなたと一緒にいたいから、自分の意志で信じる。
いまだに
自分は強くなった訳ではないと思う。
優しい世界に生きることを、期待しはじめたんだ。
そこにいきたいと、ようやく自分に言えたんだ。
『そっか』
解放される体。振り向くと自分は泣いていた。偽りのない、喜びから生まれた微笑みと一緒に。その胸の向こうに、虹が輝いている。
『ねえ』
「うん?」
『呼んでよ。自分の名前』
腕を伸ばして自分を抱きしめる。その名を読んだ刹那、自分が自分の中に溶け込み戻ってきた。
自分は自分だ。夜の部分も星の部分もどこかにあるはずの太陽の部分も、全部で自分だ。
***
「おかえりなさい。気分はどうかな?」
目を覚ますと、見覚えのある微笑みが迎えてくれた。
「ワトソンさん……」
なぜだかうまく声がでない。彼は無理しないでと添えてくれた。
「起きて早々に申し訳ないのですが、お名前を教えていただけますか」
名前を告げると一層深まる彼の笑み。
「よかった。本当によかった」
「あの……」
「申し遅れました。私はワトソン・ラスター。あなたの主治医」
そう言って解放した眼帯の奥には透明な瞳。宝石のような光輝を秘めて。
「鉱化治療の専門医です。あなたが輝石の護りを受け、もうすぐ百日目。ようやく逢えましたね」
握られていた手がそっと離れる。自分の手には光沢があり、内側から星が生成されているように見えた。
「ご安心ください。回復期に見られる症状ですよ。一週間もすれば引くでしょう。かさぶただと思ってもらえればわかりやすいでしょうか」
「先生、自分は」
そのときもらった言葉に自分は神様に感謝した。普段その存在は意識に上がらないのに、理解を超える喜びに包まれると距離が縮まるらしい。
よかった。
ここにいられてよかった。
あなたに出会えてよかった。
生きて、出会えてよかった。
生まれてよかった。
自分は自分で、よかった。