文字数 1,986文字


 それから30年後。
 『名もなき救い主』に命を救われた少女、由美は運命の定め通りに外科医となって、日々、命と向き合っている。

 その晩、緊張の連続を強いられる、しかも長時間にわたる手術を終えた由美は、宿直室のベッドにどっと倒れこんだ。
 疲労はピークを超えていて靴を脱ぐことさえ億劫だったが、まだ緊張が解けずにいるのか、頭だけはやけに冴えていて目を閉じても眠れない……。

 救急患者は何の前触れもなくやってくる、特に事故の場合は救急隊からの連絡を受けて大急ぎで準備を整え、負傷者を受け入れるとすぐさま手術に取り掛からねばならないことが多い、おおまかな状態は救急隊から報告を受けているが、実際に運び込まれるまで詳細はわからない、しかも大抵は一刻を争う事態なのだ。

 たった今手術を終えたのは交通事故に会った小学生の女の子、複数の臓器にダメージを受け、出血も多かったが、頭を強く打ちつけていなかったのと搬送が速かったのが不幸中の幸いだった。

「集中治療室を出られるまではまだ大分かかりますけど、大丈夫ですよ、峠は越えました」

 夫に肩を抱かれるようにして一心に祈っていた母親は安堵でへたり込み、父親は何度も何度も頭を下げた。
 こうして手術室の前で待つ家族に良い報告が出来た時は、医者になって良かったと心底思う、必ずしもそんな時ばかりではないのが残念だが……

 とは言え、運び込まれた時は本当に危険な状態だった、手術は時間との戦い、女の子の生命力が死との戦いを続けていられるうちに救い出すには、由美も極度の集中を長時間持続しなければならない、『なんとか助けてあげたい』という思いが由美を支えていたのはもちろんだが、もうひとつ、脳裏に浮かぶある人の微笑みが由美を勇気付けてくれていたのだ。

 折しも今日はクリスマスイブ、クリスマスイブには特別の思い出がある。
(あの子、あの時の私と同じくらいの歳ね、きっと、それもクリスマスイブに……)
 ガラス窓越しに小さく聞こえて来る賑やかなクリスマスソング。
(そう、あの時もこの曲が流れてたな、不思議と良く憶えてる……)
 そんな事を思いながら、由美は眠りに落ちて行った。



「絵里ちゃん、具合はどう?」
 数日後の朝の回診、あの晩の救急患者、絵里はまだ集中治療室からは出られないものの、順調に回復している。
「先生……お腹が痛い……」
「まだ痛むわね、でも大丈夫よ、だんだん良くなるから……痛いのも生きてる証拠なのよ」
「……私、あのまま死んじゃうと思った……」
「実際、危なかったわね、長い手術になったけどあなたも良く頑張った、偉かったわ」
「……怖かった……」
「もう大丈夫よ、でも私や看護士さんの言う事を良く聞いて早く治ってね、またお友達と一緒に学校へ行ける様になるから」
「うん……先生、助けてくれてありがとう」
「どう致しまして、でもその気持ちは忘れないでね、私だけじゃないのよ、すぐに救急車を呼んでくれた人も、救急隊の人も、看護士さん達も……沢山の人があなたを助けようと頑張ってくれたんだから、お父さんとお母さんも手術室の前でずっとお祈りしていてくれたのよ」
「うん……」
「私もね、丁度あなたくらいの時に交通事故に遭った……いえ、遭いそうになったの、でもね、ある人が私を突き飛ばしてくれて、代わりにその人が車に撥ねられて亡くなっちゃった……それまで全然知らなかった人なのに、見ず知らずの私の代わりに……その時から医者になろうと決めたのよ、私を助けてくれたその人の命はもう戻らないけど、私が一人でも多くの人の命を助けることが出来れば、それが恩返しになるんじゃないかって思って」
「…………」
 絵里は何も口にはしなかったが小さく頷いた。
「あなたも大きくなったら誰かを幸せにしてあげてね、たった一人でもいいの、あなたが誰かを幸せにしてくれたら、私もあなたを一生懸命に助けた甲斐があるわ、私を助けてくれた人も助けた甲斐があったって思ってくれるんじゃないかな……人の世の中ってそういうものじゃないかって私は思ってるのよ」
「うん」
「でも、まずは早く元通りに元気になってお父さんとお母さんを安心させてあげて、それが今あなたが一番しなくちゃいけないことよ」
「はい」
「約束ね」
 

 由美はあの晩、由美の身代わりになって撥ね飛ばされた男性が、宙に舞いながらも微笑みかけてくれたのを今も鮮明に覚えている。
 なにやら黒い影に抱えられるように男性が天に昇って行ったのも……。
 そして、あの時、医者になろうと心に決めたのは間違っていなかったと確信している。
 由美に命を、そして人の命を救う喜びを授けてくれたくたびれたスーツ姿の名もない救い主は今も変わらず微笑みかけてくれているのだから。
  

(終)
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