共生

文字数 6,642文字

それから歳月が流れ、5年前の3月にわが師である中村先生は他界された。そのひと月後のことである。ぼくはまだその死を受け入れられないでいた。そして、日々の暮らしの中で発生する作業をこなしていた。その日は、前夜から続く雨で庭がぐじゃぐじゃだったので、ハウスの草花の様子を確認後、農機具の手入れを始めた。農機具専用ハウスで、黙々と刃先の手入れをしていると、ハウスの隅に懐かしい先生愛用の登山グッズが無造作においてあった。そのリュックサックの傍らに、見覚えのあるスケッチブックが3冊立てかけてあった。よく見ると、そのうちのひとつにメモが挟んであったので、思い切って開いてみた。するとそこには『このスケッチブックを本来の所有者である冨田に返却して下さい』と書かれてあった。その字は紛れもなく先生の筆跡だったので、これは先生の遺志だと確信し、妹の葉子さんにそのスケッチブックを見せに行った。
「葉ちゃん、先生のスケッチブックにこのメモが挟んであったよ」とそのメモを渡すと「なにそれ、わたし何も聞いてないわよ」と彼女は困惑した表情だった。
「でも、これって先生の字だよね」と尋ねると「どっから、でて来たの」「先生の登山用具の傍らにおいてあった」と応えると「そう」と小首をかしげ、ひと呼吸置いてから「わかったわ。取りあえず、わたしが一時預かっておくわ」「そして、富田さんが見えた時に確認するわ」と言って、書庫で保管した。
それから数日後、あれは虫の知らせだったのか。それとも、故人が呼び寄せたのか。先生の喪が明けた頃、富田さんが来訪された。それはゴールデンウィーク中、一番日和のいい五月晴れの日だった。焼香を済ませ居間に戻ってこられた富田さんに、「お久しぶりです」とぼくは深々と頭を下げた。「えーっと、たしか中村の助手だった人だよね」と眉間にしわを寄せ、名前を思い出そうと額に手を当てられた。とっさに「はい、柊です」とぼくは答えた。「すまない、柊くん、この齢になるとなかなか人の名前がすっと出てこなくて」
ぼくは、首を横にふり微笑んだ。「君も、連休に合わせて来たの」と彼が尋ねた。「いいえ、ぼくは今でもここの住人です」すると、彼は小首を傾けて「きみ…」と言ったその視線はぼくの左手に向けられた。そして「独身だよね。中村の妹さんとはどういう…」と探りを入れてきた。
ぼくは、彼から視線を逸らさず「葉子さんは、尊敬する先生の妹さんであり、ぼくのあこがれの女性です」「いまは先生の遺志をついで、この場所を葉子さんと一緒に守って行きたいと、日々奮闘しています」彼は最初、戸惑いを隠せない様子だったが、満面の笑顔で、ぼくの右手を掴んで両手で握りしめ「ありがとう。心から礼を言うよ。そして、葉子ちゃんとのことぼくも影ながら応援するよ」と顔をほころばせ、何度も頷いた。そこへ、葉子さんがお茶の用意をして入ってきた。
「富田さん、久しぶり。こんな僻地までわざわざ兄のために来てもらって、本当にすみません」
「今日は、泊まっていかれます」と彼女がもてなしの言葉をかけた。「いや、そんなにゆっくりもできないかなぁ」「そうなんですか、ゆっくりされればいいのに」と彼女はがっかりした様子だった。ぼくも同調して「せっかくなんですから予定を変更して、もう少しゆっくりしていってくださいよ」と心にもない言葉が口から飛び出した。
彼はぼくの気持ちを察し、首を横に振った。しばらく、お茶を飲みながら世間話をしていると、彼女が急に席を立って、居間を出て行った。2、3分してから年季の入ったスケッチブックを持って戻ってきた。それは先日、先生の登山用品の傍らに置いてあった、あのスケッチブックである。
彼女は背表紙を向けて「富田さん、このスケッチブックに見覚えない。」と差し出した。
すると彼は、突然の申し出に少し首をかしげ考え込んだ。そして、そのスケッチブックを手にとり開くと、そこには見覚えのある文字や草花の描写があり、彼は大きく何度も頷いた。
「ほう、ここにあったのか」と深く感心した様子で、そのスケッチブックを懐かしそうに眺めた。その目頭は次第に熱くなり、すこし鼻声で「いやぁ、あんたの兄貴には頭が下がるわ。ほんまに、かなわんなぁ」と関西弁になり一筋の涙が頬を伝った。
なぜなら、そのスケッチブックの本来の所有者は、富田さんの妹であり“コスモスの君”でもある絵梨さんのものだった。そのスケッチブックが先生に渡った経緯が、いま明かされようとしていた。
彼が回想している様子を、ぼくと葉子さんはしばらく見守っていた。彼が鼻をムズムズさせ、ジェスチャーでティッシュを捜している様子だったので、ティッシュボックスを差し出すと、軽く会釈して思い切り鼻をかんだ。そして彼は静かに語り始めた。「いま考えたら、中村にとっても絵梨にとっても辛い時期だったと思うよ」
先生の初恋は、あの後富田少年の父親の転勤により急展開を迎えた。彼は関西のスポーツ校に進学。中村少年は地元の公立高校に進学した。卒業式の翌日、富田少年と家族は、西へ向かって旅立った。中村少年は、見送りに富田少年の家に向かった。ちょうど、引越しの荷物が運び出され、富田少年と絵梨さんがトラックに乗り込むところだった。絵梨さんの病気は回復し、家に戻っていた。中村少年と富田少年はしっかり握手すると「高校が違っても、俺たちの友情は終わらないからな」「当たり前だろ」「手紙よこせよ」「お前もな」と互いに連絡を取り合う約束をした。絵梨さんはすでに目に涙をためたまま、必死にこらえていた。その潤んだ瞳のまま瞬きもせず、ひと言ひと言搾り出すように言葉をつないだ。
「優くん、お願いがあるんだけど、どうか断らないで」
「うん、なに」
「このスケッチブック、もっとたくさん好きなお花の絵を描きたかったんだけど、見に行くことができなかったから…」と一息置いて「優くんが、これから見に行くお花の絵をたくさん描いて、スケッチブックを埋め尽くしてほしいの。そして、今度会う時に、そのお花の絵を一緒に見に行こう」とスケッチブックを差し出した。その瞬間涙が一気に溢れ出し、涙で顔がくしゃくしゃになった。「わかった。約束する」と中村少年は力強く応え、スケッチブックを左手で受け取り、右腕を彼女の肩に回して優しく抱き、彼女の頬の涙をその手で拭った。中村少年の心は言いようのない切ない気持ちで満たされていた。その思いを、胸の奥に閉じ込め、彼女と友を新天地へと送り出した。富田さんは「別れ際の中村と絵梨が、ずっと見えなくなるまで互いに見詰め合っている光景を、今でも鮮明に覚えてるよ」
「あれは、見ているこっちまで辛くなるよな」とその話を締めくくり、眉をひそめて黙ってしまわれた。ぼくも話の終盤に差し掛かる頃には、やるせない感情がこみ上げてきた。するとぼくの背中越しに、しくしくとすすり泣きが聞こえたので、振り返ると葉子さんが肩を震わせて泣いていた。「そんなことがあったなんて、今の今まで知らなかった」としみじみと涙を流し「それで、兄があのスケッチブックを肌身離さず持ち歩いていたのね」とうなづいた。
彼女が「富田さん、もっと兄のこといろいろ聞かせて」と懇願したので、結局彼は一泊することとなった。まだ外は明るかったが、定刻どおり午後6時になると、葉子さんが「準備できたわよ」とリビングで世間話をしていたぼく達に声をかけた。「随分早い夕食だね。いつもこうなの」と彼が尋ねたので「そうですね、田舎は都会と生活スタイルが違いますので」と応えた。そして、一呼吸置いて「近隣の方も日の出と日没に合わせて皆さん動かれますよ」と付け加えた。
テーブルには、ぼくがここに来てから始めてお目見えする、赤ワインとワイングラスが3客真ん中に置かれていた。ぼくは驚きを隠せず「葉ちゃん、ワインどこに隠してたの」と尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑った。すると、彼がワインボトルを手に取りラベルを確認した。「これって、同窓会で中村が酔っ払った時の奴か」「この家は本当に物持ちがいいよなぁ」と冗談を交えて言うと、彼女がその言葉を真面目に受け止めて「えっ、まだ飲めるよね。アルコールだから大丈夫でしょ」と不安そうに応えた。彼は「大丈夫。大丈夫」とにこやかに微笑んだ。
夕食はアルコールの効果もあり、とても盛り上がった。営業職の彼の会話は、ウイットに富んでいてとても楽しかった。彼女もアルコールで上機嫌になったこともあり、ずっとケタケタと笑い続けていた。あんなに楽しそうな彼女を見たのは、後にも先にも初めてだった。
ぼくはアルコールの力を借りて、聞き難いことを図々しく尋ねた。夕食後、リビングでくつろいでいる彼の目を直視し、ぼくは話を切り出した。
「富田さんは、ぼくと葉子さんが一緒にいるのは不自然だとお考えですか」
「いや、俺の頭はそんなに古臭くないよ。別にいいんじゃない」
「そうですか…」
「もうひとつ、聞いてもいいですか。先生が生涯独身を貫いてきたのは、絵梨さんのことがあるとお考えですか」ソファに浅く座りなおした彼は、ぼくの目を優しく見つめた。
「そうだなぁ…」
「中村が絵梨さんのことを思う気持ちは、中学生の頃のまま全く変わっていないんだろうな。正直、あのスケッチブックを見た瞬間にそれを悟ったよ。大した奴だ」と感慨深げに微笑んだ。すると数秒後に、突然彼が思い出し笑いを浮かべた。「何です。何かおかしなことでもあるんですか」とぼくが詰問すると「そうだなぁ。中村から硬く口止めされていたんだが、喪が明けたことだし、化けて出て込んだろう」と話を切り出した。
それは先生が、留学先のイギリスから帰国した時のこと。偶然空港のロビーで、先生と富田さんは再会した。「中村、何年ぶりだ。中学卒業以来だから20年ぶりか」「そうだよな」と先生が応えると、間髪をいれずに富田さんが話し始めた。
「中村、お前イギリスに留学してるって聞いたけど、日本に帰ってきたのか」先生は頷いた。
「お前、本当に変わらないよなぁ。俺は結婚してすっかりおっさんになっちまったけど」と照れ笑いをした。「まさか、このまままっすぐ帰ろうなんて思っちゃいないだろうな」とほくそ笑んだ。そして先生の腕を掴み、半ば強引に食事に誘った。
スーツケースを駅のコインロッカーに預け、ふたりは旧交を温め、終電まで語り明かした。
世間話に始まり、お互いの回想録へと話が及んだ。彼は、先生の手をちらっと見て「中村、あっちにいい女は居なかったのか」と小指を立てた。
「いや、そんなことはないけど…」と先生は、ばつが悪そうだった。「そうか、良かった。お前おくてだから。心配してやってんだぞ」と背中をパンパンと叩いた。「大丈夫だよ。相変わらず兄貴分だなぁ」と先生も苦笑いした。「そうだなぁ、魅力的な女性は星の数ほどいたし、恋人もいたけど…」「いやぁ、ぼくにもわからないよ。ただ…、なにか踏み切れなくてね」と先生が困った表情を見せると「おいおい、難しく考んなよ」と豪快に笑った。先生は視線を落としたまま、言葉を捜していた。彼は冗談っぽく「おい中村、まさかお前…まだ、恵梨に義理立てしてるんじゃないだろうな」とちゃかした。すると先生は、憤慨した様子で「彼女は過去の人ではないよ。彼女は今もここにいるんだ」とシャツの左ポケットあたりを掴んだ。「ぼくが草花と接するときには、いつも彼女が傍にいて語りかけてくれる。彼女の草花への豊かな愛情と細やかな心遣いには、魅了されつづけていた」と真剣な表情を滲ませた。「もちろん、付き合っていた時には恋愛感情もあったし、ひとりの少女として愛おしく思っていた。だが、この自然と拘わる仕事に携わる中で、彼女の生きざまから学ぶことが本当に多かったんだ。絵梨さんはぼくにとって唯一無二の存在だから」と言葉を結んだ。彼は、まるで頭をハンマーで殴られたようだった。それは20年前に亡くなった妹さんのことを、今でも慕ってくれている友に対し、自分が軽率に思えたからだ。彼は気を取り直して、深々と頭を下げた。「ありがとう。本当にありがとう」とその場でうづくまった。先生は、彼の両肩に腕を回し「頼むから、頭を上げてくれ。ぼくじゃないんだ」と応えた。そして、彼の顔を覗き込み「絵梨さんの人間性が、ピュアで素晴らしいんだ」と笑顔で応えた。
彼は、次第に前のめりになって話を聞くぼくの目を優しく見つめ「参考になったかい」と話を結んだ。「はい、改めてピュアな先生の人柄に感じ入ってます」と高潮した面持ちで応えた。「そうか」と彼は静かに微笑んだ。
翌朝、彼は帰っていった。ぼくはライトバンで駅まで送ることにした。彼は別れ際に再度、先生の位牌に手を合わされた。そして、あのスケッチブックを小脇に抱え車に乗り込んだ。「富田さん、今度はご家族で遊びにきてね。何にもないところだけど、新鮮な野菜と美味しい空気はいっぱいあるから」と葉子さんは微笑んだ。「全くだね。本当にいい骨休めになったよ。お兄さんには感謝してもしきれないなぁ」「こんな、いいお土産までもらって」とスケッチブックを頭上に上げた。「いいえ、こちらこそ。本当に最高のタイミングです。ありがとうございました」と彼女は深々と頭を下げた。ぼくが車にエンジンをかけると「じゃ、また」と彼は軽く会釈を返された。
彼女は、車が四辻を曲がるまで手を振り見送っていた。彼はバックミラーからその姿を見ていた。車が県道に差し掛かると「柊くん、コスモスの小路はどのあたりなんだ。もう、通り過ぎたのか」と彼がおもむろに口を開いた。「いえ、駅とは逆方向なのでその道は通りませんが、迂回しましょうか」と申し出ると「そうだなぁ、大きく迂回しなくてもいいなら、そうしてもらえるとありがたい。お恥ずかしい話だが、一度もその場所を訪れたことがなくてね。この機会に是非見ておきたいんだ」と懇願された。ぼくは、Uターンするために大きくハンドルを切った。その場所に着くと車から降りて、ぼくと彼はコスモスの小路を歩き出した。まだ、開花シーズンでもないので青々とした若葉が他の草花に混じって茂っていた。彼は足を止め、目をつぶった。そして深く息を吸い込み「若葉の匂いがする」とつぶやいた。ぼくも同様に目をつぶり、新芽の臭いをかいだ。そして、誰とはなしにまた歩き始めた。小路の出口付近に来ると「柊くん、つまらん事を聞いて悪いけど、コスモスの見頃はいつ頃なんだ」「10月から11月の始め頃まで、結構長く楽しめますよ」と応えると、その答えに軽く頷いた。そして彼は振り返り、広大なコスモスの畑を眺めた。その表情には、どこか哀愁が漂っていた。しばらくふたりは、様々な思いでコスモスの畑を見つめていた。
彼から聞いた話によると、高校入学当初、中村少年と富田少年はひと月に一通の間隔で文通していたということである。高校で登山部に入部した中村少年は、山に登るたびにスケッチブックを携行し、目に留まった山野草や高山植物を、片っ端から描いていった。それは、絵梨さんと交わした約束を忠実に履行することでもあった。富田少年は元来筆不精だったため、次第に返信が遠のいていくのだが、送られてきた手紙には、妹の絵梨さんと中村少年のことを気遣って、必ず最後に『絵梨も元気で頑張っているよ』の一文が添えられていた。ところが実際の絵梨さんは、生活環境の急激な変化に対応できず、病気を再発させ闘病生活へと戻っていた。とうとう八ヶ月後に、その短い命を閉じたのだった。十一月の終わり、中村少年のもとに喪中はがきが届いた。そこに手書きで『妹のこと本当にありがとう』と書かれていた。彼はそのはがきを握りしめ、木枯らしの舞うコスモスの小路へと向かい、彼女の事を思って静かに涙を流した。そして月日が流れ、中村先生の愛用品として絵梨さんのスケッチブックは山登りの際に必携されることとなった。先生は彼女との約束を、自らの決めごととして一生守り続けた。常に彼女の存在を、描く花たちの中に確認しながら記憶し、記録していった。描いた花は再度訪れるため、決してその場所から、花を採取することも持ち帰ることもしなかったのである。それは、最後の最後まで完全に守られた。    (終)
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