出会い

文字数 4,920文字

コスモスを漢字にすると秋桜となる。桜が使われていることから、日本人好みの花だと言えるだろう。昨今、秋の風物詩ともいえるこの花は、メキシコが原産国である。開花した姿はパラボラのような形で、宇宙という別訳にもなんとなく頷ける。夏から秋へと空気の変わる時期に、澄み切った青空のもと田畑一面に清々しい風が横たわっていた。その風に身を委ねるようにコスモスの花が揺れている。まるで、コーラスでも歌っているかのように。濃ピンク、薄ピンクや白色の花を咲かせたコスモスは可憐な姿で、私達に小さな幸せを運んでくれる。さらに農家にとってもこの時期は、稲の刈入れが終息に向かい、ひと段落といったところ。そのコスモスが咲き乱れる様は、農作業の労苦をひと時忘れさせてくれる、癒しそのものだ。ぼくの敬愛する中村先生にとってもコスモスは、独特の世界と特別の意味を持つ花であった。
毎年この時期に、近隣の農家の方から、新米の連絡が入るのを楽しみにしていた。ちょうど昨日電話が入り、昼食を済ませると、ライトバンを走らせた。その帰りに決まって通るルートがあった。地域の住民が“コスモスの小路”と呼ぶ、コスモス畑を周遊するルートである。フロントガラス越しに広がるコスモス畑の大パノラマ。五年前に他界された先生との思い出が、まるで昨日のことのように、鮮明に蘇えってきた。あの日もよく晴れて、真っ青な空にうろこ雲が広がっていた。コスモス畑が眼下に広がるこの道に入ると、先生が「フフフフーン」と鼻歌を口ずさまれた。その曲は、聞き覚えのあるフォークソングだったように思う。『クラシック好きな先生にしては、少し意外な一面を見た』とぼくは思った。先生が懐かしそうに口ずさむ表情が気になり「先生、どうされたんですか。何だか嬉しそうですけど…」といぶかった。
すると先生は、どこにも焦点を合わさず遥か遠くに目をやりながら「いや、昔のことを思い出してね」と照れくさそうに笑われた。そして助手席側のドアガラスを全開にし、ドア越しにコスモスの花を愛でていた。その表情からは哀愁が漂っていた。それは、この花への郷愁めいたものだったのだろうか。
ちょうど、コスモス畑も終わりにさしかかった時、先生はポツリポツリと話し出された。「ぼくの母親が十月生まれでね。コスモスの花がとても好きだったんだ…」と、生涯独身を通した先生から、初めて明かされた淡く切ない初恋の話。
それは、先生が中学一年生の時だった。二学期、彼岸花が影を潜めた九月の終わり。母親の誕生日を翌週に控えていた先生は、学校帰りに“コスモスの小路”と呼ばれるこの場所に、開花の状況を確認するために寄り道をされた。まだ、満開と呼べるものではなかったが、早咲きのコスモスがちらほらと咲き始めていた。八才の歳に母親と一緒に訪れられてからは、毎年欠かすことなく、母親の誕生日に、ここのコスモスをプレゼントされていた。そのため、この時期になると毎日のように、寄り道をして開花の状況を調べに来ていた。見頃を知っている周辺の住民が、訪れる様子もなく人けは全くなかった。翌週、誕生日を三日後にひかえ、いそいそと開花の状況を観察しに来られた。十月初旬の頃、まだまだ日中は日差しが強かった。通り道を挟んで、コスモス畑をスケッチする少女がいた。淡いピンクのリボンをつけた大きな麦藁帽子を被った少女は、色白でこの辺りでは見かけない子だった。年の頃は小学校高学年ぐらいだろうか。長袖のブラウスが華奢な体を隠していた。太陽の光に眼を細めながら、一心不乱に色鉛筆を持つ手を動かしている。なぜか、少女の姿が周りの風景と溶け込んでいるのが印象的だった。誕生日当日通年どおり、少年がコスモスを摘もうとカバンから鋏を取り出すと「やめて、切らないで。花を摘んでどうするの」と、以前この場所でスケッチをしていた少女が走りよってきた。おとなしそうな少女の風貌には似つかわしくない強い口調に、思わずに面食らった少年は「いや、あの、お母さんの誕生日にプレゼントしようと思って…」と言葉を詰まらせた。
少女の顔色を伺いながら「いけなかったかなぁ」と許しを請うように尋ねると、少女は気を取り直した様子で「ごめんなさい、驚かせてしまって。気を悪くしたよね」と頭をぺこりと下げた。その表情は、気弱で内気そうな少女に戻っていた。
そこで少年は、単刀直入に「ところで、ここで何してるの」と尋ねた。
「えぇ、お花の絵を描いていたの」
「そうか、先週もここで絵を描いてなかった」
「そうね、描いてたわ」
「それって、もう出来上がったの」
「えっ、まあ…」と言葉を詰まらせた。
「ちょうどいま、細かいところを修正してたの。葉っぱの部分とか、茎の部分とか細かいところが難しくて…」と悲観して、声が段々小さくなった。
「そうなんだ。確かに葉っぱが細いから描きにくいよね」と同調した。
「その描いた絵、良かったら見せてもらえる」とにこっと笑うと、少女はためらいがちに小さく頷いてスケッチブックを差し出した。その絵は、色鉛筆と水彩絵の具を使用して描かれており、全体的にふわっと柔らかいとても女性らしい絵だった。
「わあ、可愛いなぁ」と感嘆して叫んだ。少女は「ほんと!」
「ありがとう。そんな風に言ってくれたのあなたが初めてよ。嬉しいわ」とはにかみながら、嬉しそうに微笑んだ。「『今回は結構うまく描けたかなぁ』って思ってたから、もっと嬉しい」
「そうなんだ。良かったね」とにんまりと目を細めた。
「ねぇねぇ、無茶苦茶うれしい。誰かに今の気持ちを伝えたい」と顔をほころばせ、コスモスに向かって話し始めた。
「コスモスさん、聞いてくれる。今日とっても嬉しいことがあってね。わたしの友達が…」と言いかけて、少年の方をチラッと見た。すると少年は、にっこり微笑んで大きく首を縦に振った。少女は安堵しておしゃべりを続けた。
「わたしの描いた絵を褒めてくれたの。それも可愛いって言ってくれたのよ」
「わぁーい」と被っていた帽子を空に向かって放り上げた。少年も「わぁーい」と同様に学生帽を放り上げた。ふたりは顔を見合わせて、アハハハと軽快に笑った。
その時、ふたりの笑い声に呼応するように、コスモスの一群が風もないのにゆらりゆらりと左右になびいた。その光景を見て少年が興奮気味に声を上げた。
「うわっ、すごいや。風もないのにコスモスが揺れている。ぼくたちのおしゃべり聞いてたのかなぁ」
すると、少女も「本当ね、すごいわ。風もないのに揺れてる。私たちとおしゃべりしたいのかも」ふたりは目を合わせ、満面の笑みを浮かべた。そして、首を右に傾けてコスモスの花に耳を近づけた。
「あれっ、コスモスがしゃべった」と少女が耳をそばだてた。
「えっ、どれ」と少年も耳をそばだてた。
「あっ、まただわ」
「どこ、なんて聞こえるの」
「えーっと…」と少女はその場にかがんで花に顔を近づけ、耳に手を当てた。
「聞こえた」と少年も少女に寄り添い、同様に身をかがめた。少女は振り返り、唇に人差し指を当てた。そしてふたりは息を潜め、耳を研ぎ澄ませた。数秒ほど経った時に、ふわっとした風が、コスモス畑を横たわるように吹いた。ちょうどその時、少女が肩をピクッと動かせた。「『ここよ。わたしはここよ』って言ってる」と緊張気味に少女が小声でつぶやいた。「ほんとう?」と少年が半信半疑で尋ねると、少女は首を大きく縦に振った。少年も一層花に顔を近づけ、耳に手を当てたが、何も聞こえなかった。
「聞こえないよ」と面白くなさそうに少年が応えると、「おかしいわね。確かに聞こえたんだけど…」と小首をかしげた。
「あっ、また……呼んでる」と少女が少年の学生服の袖口をギュッと掴んだ。
「どこ、どこ、どっちの方から聞こえる」と少年は、キョロキョロあたりを見回した。すると、さっきまで揺れていたコスモスがぴたっと止まった。「あっ、聞こえなくなった」と、なりを潜める様にかがんでいた少女が身体を起こした。そして慌てて、少年の袖口を掴んでいた手をほどき「ごめんなさい」と顔を赤らめた。少年は微笑んで、少女のほんのり薄紅色に染まった顔をやさしく見つめた。ふたりは、コスモスの小路を挟んだ草むらにしゃがみこんで、コスモスの花を愛でながら、“好きな季節は”“好きな花は”“好きな科目は”とお互いの話をし始めた。少年は少女の屈託のない仕草と彼の話に黙って聞き入る表情にときめきを感じるのだった。ふたりは、時間が経つのも忘れるほどに談笑した。ちょうど日が暮れる頃『くしゅん!』と少女が小さくくしゃみをした。「わたし寒さに弱くて。ごめんなさい、もう帰るわ」と立ち上がろうとした。すると、軽い立ちくらみに襲われ、よろけてつまずきそうになった。
少年は慌てて「大丈夫…」と心配そうに少女を見上げた。「平気よ、大丈夫。いつものことだから」と少女は元気なく答えた。
「うん、わかった」と少年も立ち上がった。別れ際に「明日もここに来るよね」と少年が問うと、少女は「たぶん」とにっこり笑った。そして、ふたりは逆方向へ帰っていった。少年は何度も振り返り、少女のうしろ姿を目で追った。
向き直ると、真っ青な秋空を夕日が真っ赤に染めていた。コスモスの花たちも、まるで沈む夕日を眺めるように咲いている。その息をのむ光景に、思わず立ちすくむ少年だった。パステル画のような光景に酔いしれた少年は、にわかに気温が下がってきたことを肌で感じ、現実の世界に引き戻された。そして、少女の名前も住所も聞いていないことに気づいた。振り返って走り出そうとしたが、すでに少女の姿は見えなくなっていた。後に残されたのは、コスモス畑を横たわる清々しい秋風だけ。そして、夕日はクライマックスに差し掛かり、周辺の里山を真っ赤に染めていく。空いっぱいにグラデーションが何重にも重なっている。当時を振り返った先生が『言葉にならないほどの美しさだった』と後から語られた。さらに、話は続く。
「秋の日はつるべ落とし」という諺にもあるように、日没から暗くなるまでの間隔が短い。少年が家につく頃には、周りはすっかり暗くなっていた。門前に、子供の帰りを心配して出迎える母親の姿があった。少年は母親に向かって走り出した。「おかあさーん!」
「どうしたの、何かあったの。怪我はない。大丈夫」
「ごめんなさい、お母さん。心配かけて…ぼ・ぼく」と話を続けようとした。
すると、母親はその言葉をさえぎる様に、優しくわが子を抱きしめた。「大分とひんやりしてきたわね。さあ、早く中に入りましょ」と言い、羽織っていた手編みのショールを息子の肩にかけ、小脇に抱きかかえるようにして家の中に入った。息子が帰宅して安堵した母親は、遅くなった理由を問い詰めることもなく、夕飯の支度に戻った。少年にはまだ、夕日に映えるコスモスの群生した風景が余韻として残っていた。そして、少女のあどけない仕草や屈託のない笑い声も頭から離れなかった。少年はベッドに横になり、ボーっと天井を見つめていた。そして、『この胸の高鳴りは何なのだろう』とずっと考えていた。
ちょうどその時「優ちゃん、ごはんよ」と母親が呼びにきた。「何回も呼んだのに、具合でも悪いの」と少し不機嫌な様子で語気を強め、少年の額に手を当てた。「熱はなさそうね。大丈夫」と心配そうに少年の顔を覗き込んだ。少年は、後ろめたい気持ちから「大丈夫だよ」と視線を逸らせた。なぜか、まったく食欲が沸いてこなかった。母親は自らの誕生日で、好物ばかりをこしらえていた。嬉しそうにおしゃべりしていたが、少年の耳には入ってこず、上の空だった。プレゼントを用意できなかったことに自責の念はあったが、足早に自室に戻った。そのまま倒れるように、ベッドに横になりボーっと天井を眺めた。気力が全くわいてこなかった。少年の頭の中は少女のことが9割を占めていた。それが、まさに恋のはじまりだと気づくのに時間はかからなかった。この続きは、もうひとりの登場人物によって明らかにされた。
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