第二話  はじまりの終わり

文字数 3,512文字

 「威容」という形容詞がぴったりの、バプティズムと名乗るロボットの姿。
 バプティズムは大地に二本の足でしかと立ち、その金色の瞳でバアルを見下ろした。
「主のみ名により命令する、悪霊よ去れ」
 バプティズムはそう言い、光り輝く拳をバアルに振り下ろした。バアルは木っ端微塵といったふうで、粉々に壊れた。
 僕とマリヤは、倒れているスレイマンに駆け寄った。
 死んでいた。
 さっきまで生きていた人間が死んでいる。
 うそだ。
 いまになってごはんが変な味だとか毛皮が臭いとかそういうことを考えたのを後悔した。スレイマンは僕とマリヤを助けてくれたのに。
 バプティズムのほうを見る。
 ちんと静まり、先ほどの輝きはない。
 近寄ってみる。明らかに、バアルやアシュタロテとは違う、文明が存在した時代に作られたものだ。
「これ……動くのかな」
「……どうなのかしら……」
 二人でバプティズムの後ろに回る。
 フタのようなものがある。開けると椅子があり、その上に干からびた人間の死骸が乗っていた。
「ひっ」
 思わず声が出た。
 しかしマリヤはひるまず、人間の死骸を引きずり出して、
「ヨシュア、この人生きてる」
 と、嘘みたいなことを言った。
「うそだろ」
「本当よ。脈もあるし息もしてる」
 ……確かに息があるようだ。
「わた……しは……」
 その人物は苦しげに話し始めた。僕とマリヤは、その人物の顔を見つめた。
「わた……しは……未来に……偶像との戦いが……あることを……未来予知システム「エノク」が探知……して……」
 『未来予知システム「エノク」』。
 なんだか怖い。文明は未来を予知することまでできたのか……。
「聖霊……充満で……そしてみことばで……バプティズムは……動く……」
 聖霊。
 またよく分からない概念が飛び出してきた。みことば、というのはなにか権威づけられたひとの言葉だろうか。
 その人物は、それだけ話して、ぷつりと死んでしまった。
 ……とりあえず、バプティズムに人間が乗り込めることは分かった。コクピットには椅子がふたつある。それぞれ座ってみた。
 バプティズムのコクピットはノアのブリッヂのような複雑なものではなく、ボールのようなものに触れるだけでよいようだ。ボールは、椅子ふたつの間にある。
 僕は右手を、マリヤは左手を伸ばして、ボールに手を触れる。
 ばちばちと視覚が爆ぜた。
 指を伝わり熱いエネルギーが流れ込んでくる。それはちょうど、空っぽだった命の器に命を注ぐような感覚で、僕はすさまじいエネルギーに満たされた。
 マリヤのほうを見る。マリヤが燃えている!
「マリヤ! 燃えてる!」
「ヨシュアも燃えてるわ!」
 真っ赤な輝きに包まれ、唐突に僕の口は知らない言葉を話し始めた。ゾクゾクする、だけれど幸せがこみ上げてくる。
 明らかに異常なのに、不快感はない。
 むしろ、気持ちがいいくらいだ。
「なにこれ……」
 マリヤがそう呟く。
 それに答えようと口を開いたとき、脳内のインプラントが激しく反応した。まるで炎で熱されて、温まったみたいに。
 大量の言葉や概念が脳内に流れ込む。その意識の奔流に気絶しそうになる。
 圧倒的なエネルギーが体内を巡り、それに脳内のインプラントが激しく答えている。文明、というものが、おぼろげに見えてきた。
 体系的な科学、文学……そして神学。そうか、この真っ赤に燃え上がる僕らは、まさに三位一体のうちの「聖霊」によってバプテスマを受けているのだ。
 そして聖霊を注がれた僕らは、バプティズムを動かすことができるーーいや。バプティズムは動かない。バプティズムを動かすには「みことば」が必要なのだ。みことば……とは、聖書の言葉だ。そうだ、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」も、聖書のみことばだ。
「苦難の日には、わたしを呼び求めよ!」
 僕はそう叫んだ。バプティズムはゆっくりと動き出し、がしんがしんと歩を進める。
 石造りの建造物を出ると、スレイマンの家が燃えているのが見えた。バアルに燃やされたのだ。
 アララト山のふもとの村は、もはや生きている人がいるのかわからない状態で、僕とマリヤはバプティズムから降りて生きている人を探そうとしたーーそのとき、無数のバアルが、空を駆って飛んできた。
 マリヤが叫んだ。
「主のみ名によって命じる、悪霊よ手を離して出て行きなさい!」
 バプティズムの腕が、バアルをなぎ払った。バアルの群れはただの焼き物になって散らばった。
 ……無敵じゃないか。まるっきしチートだ。
 バアルはもう飛来しなくなった。今度こそバプティズムを降りる。
「だれかー! 生きてる人はいませんかー!」
 そう叫ぶと、ぼこ、と地面が盛り上がり、そこから村の人たちが続々出てきた。
「なんじゃあこれは」
「バアルでもアシュタロテさまでもない」
 村の人々はびっくりしてバプティズムを見上げている。
 ……スレイマンの両親が、
「……スレイマンは」
 と尋ねてきた。
「バアルに襲われて」
「あぁ……」
 それだけで理解してもらえたようだった。
 シェルターから最後に出てきた老人が、
「天子さま」
 と、僕とマリヤに話しかけてきた。
「……なんでしょうか」
 この村には古い言い伝えがあって……と、老人は語り始めた。
「山の上に天子さまの船がつくとき、『起動の地』で、『御使い』が目を覚まし、真なる命を世界にもたらすと」
 ではバプティズムはその『御使い』なのだろうか。真なる命とはなんなのだろうか。わからない。
「スレイマンに案内させた場所こそ、『起動の地』です」
 ……やはり、バプティズムは御使いなのだ。
「真なる命とは」
「分かりません。ですがこれに書いてあるそうです」
 ボロボロの分厚い本を渡された。
 ボロボロだがあまり開かれなかったのか中は綺麗だ。開いてみると「聖書」とあった。
 ……これが聖書。
 前半は旧約聖書、後半は新約聖書というふうになっていて、開いたとき脳内のインプラントの「旧約聖書は『これから救い主がくる』という内容、新約聖書は『救い主が来られた』という内容」というアーカイブが開いた。
「天子さま、読めるのけ」
「読め……ますよ」
「わたしも読めます」
「おらたちは読み書きができねえ。その本に書いてあることを教えてください」
 暫し黙ってから、
「内容が多すぎて説明できないです」
 と答えた。そうとしか答えようがなかった。
 村人たちは気落ちした顔をした。スレイマンが死んでしまい、村は焼けてしまい、聖書の内容もわからず、この人たちは悲しんでいる。なにか元気の出るようなことをしてあげたい……。
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」
 そんな言葉が口を突いて出た。
 村人たちは僕を見た。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」
「それは……その本に書いてあることけ?」
 僕は頷いた。
「誰が慰めてくださるのけ?」
「主……三位一体の主が……慰めてくださります」
「キリストはその罪のない命を投げ出して、わたしたちの罪の贖いをしてくださいました」
 マリヤも口が勝手に動くというふうに、そう言った。
「「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」」
 僕とマリヤはほぼ同時にそう言った。
 村人たちは涙目で、
「その主ていう神様は、どんなお姿をしているのけ?」
 と尋ねてきた。
「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」
「偶像ちゅうのは、アシュタロテさまやバアルのことけ」
「そうだと思います……」
「みんながバアルやアシュタロテさまを作るのをやめたら、平和になるべなあ……」
 そうか。
 文明とは、平和のことだ。科学技術や文学の研究でなく、人が己を律して平和を作ることこそ、平和だ。
 そして、平和は聖書のみことばを通して実現されるのだ。
 ……僕とマリヤの、やるべきことが分かった。
 みことばを世界に広め、平和を世界に広めることだ。そして、バアルやアシュタロテといった偶像を打ち破ることだ。
 神様は僕とマリヤを用いてくださる。
 翌朝村の人々に道を教わり、アララト山を下って、人のたくさんいる町ーーそこではバアルが崇拝され兵器として使われているーーを目指した。バプティズムの歩みは一歩一歩確実で、やるべきことははっきり分かっている。
 みことばーー命のことば、あなたのことばを、世界中に広める。
 その決意を、小さく握りしめた。
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