プロローグ 長い長い眠りからの目覚め
文字数 3,051文字
「温かい……」
そう感じて、目を覚ました。
文字通り凍りついた体に血が巡る。36度5分に調節された血が体に通い、僕は命が体を流れているのを感じた。
最初は機械によって強制的に温められた血が巡るだけだったが、代謝を下げるためにゆっくりの駆動になっていた心臓が正常に動き始め、肺が温まって呼吸が始まり、脳が穏やかに現状を認識し始めた。
僕はコールドスリープの状態にあった。昔のことは上手く思い出せない。しかし、きっと何千年も眠っていたに違いない、という予感がした。コールドスリープをするということは、何千年も眠る必要があったということだからだ。
カプセルを出る。体を改めて見てみると、簡単な服を身につけていて、サンダルを履いていた。
ここはどこだろう。
過去の記憶が少ないゆえに、己が何者で、ここがどこで、なんのためにコールドスリープされていたのか分からない。
とりあえず僕は今いる場所がどこなのか、あちこち歩いてみようと踏み出した。
床は硬質な素材で、カプセルの安置されている部屋の壁も、叩くとカツカツ言うような素材だ。狭く、ひんやりと冷たい。
ドアがある。開くだろうか。ノブに手を触れると、ドアは勝手に開いた。出て行く。
部屋の外は「植物」がたくさん「植えられて」いた。僕の思考の外側から、言語が流し込まれているのをはっきりと感じ、どうやら僕の脳にはなんらかの受信機能ないしインプラントが取り付けてあるらしいと分かった。この調子で、もうちょっと言葉を思い出したい。
植物が植えられているということは野外なのだろうか。見上げると、天井にはガラスがはまっており、真っ暗な空に星がきらめいている。
……宇宙?
宇宙に一人きりなんて嫌だ。僕は僕の他にコールドスリープさせられている人がいないか、探してみることにした。
どうやらここは宇宙船の内部らしい。重力がきちんと働いているところをみると、僕を凍らせた人々はかなり高度な科学を持っていたようだ。
ーー僕のいた部屋のドアにそっくりなドアを見つけた。
ノブを回すが開く気配はない。
ドアを叩いてみる。反応はない。
ちょっと冷静になり、ドアの上を見てみる。そこには「マリヤ」と刻まれていた。なんで文字が読めるんだろう。分からないけれど特に困ることではないしむしろありがたいから気にしないことにした。
ではこの部屋にはマリヤという女の子がいるのだろうか。自分の部屋も見てみる。「ヨシュア」とある。
僕はヨシュアだ。
そう認識した瞬間、曖昧だった自分の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
「僕は、ヨシュアだ」
そう呟くと、全身に名前がこだました。
僕はそのとき、言葉には力があると確信した。僕の言葉ですらそうなのに、例えば神様だったらーー。
……神様?
よく分からない概念だった。
その言葉の意味があまりに広かったからだ。
僕の脳は泥人形も木彫りの像も、魚の頭も自分の先祖も「神様」として認識する。しかし何かが違う気がする。もっと、人には分からない、高次の存在としての神様が存在するのではあるまいか。姿は見えず、だけれどそこにいて、泥人形と違ってあがめることに意味のある神様が。
泥人形は作らねば拝むことはできない。人間が作らねば拝むことのできないものが、どうして世界を生み出せるというのか。
神様とはなんなのか考えていると、きい、とドアの開く音がした。
振り返ると、僕の着ているものに似た服を着た女の子が、おっかなびっくりといった顔で僕を見ていた。
「きみが……マリヤ?」
「マリヤ……わたしの名前?」
「そうだ。僕はヨシュア」
「ヨシュア。よかった、他に人がいて」
マリヤはにっこり笑った。
それからしばらく、他にコールドスリープさせられている人がいないか探し回った。しかしどうやら、この宇宙船に乗っている人間は僕とマリヤだけのようだった。
たまたま、ブリッヂにつながる通路を見つけ、僕とマリヤはブリッヂに向かった。たくさんの観測機器が静かに作動していて、前方に青い星が見えた。
「ようこそ」
と、ディスプレイに表示された。
「この宇宙船はなに?」
マリヤがそう言った。ディスプレイに回答が表示される。
「文明母艦『ノア』です」
「……文明」
そのとき僕の頭にはっきりと、人類は独裁者の命令で文明を放棄したこと、その裏で秘密裏に僕とマリヤに文明を託して宇宙に打ち上げた経緯が思い浮かんだ。
僕が何歳なのかはわからないが……こんな子供に文明なんていう重たくてでっかいものを委ねた人たちの気が知れない。
「文明母艦『ノア』は、現在地球に向けて航行中です」
「地球」
マリヤがおうむ返しする。
「独裁者の滅亡が確認され、文明が復権することについて好機であると判断されたからです」
「それは誰からの通信で知ったの」
僕が尋ねる。
「定期観測機器からの通信によります」
……。
機械が機械から受け取った情報なんて、アテになるのだろうか。
だがおそらく地上にはこの『ノア』に通信で連絡の取れる文明というものはないのだろう……。
僕はポカンとした顔で、ディスプレイを見ていた。
横を見るとマリヤも同じ顔をしていた。
「これからおよそ八時間後に、本艦はアララト山山頂に着陸します」
アララト山。どんなところだろう。山ってどんなものだろう。
「二人にはこれから文明とは何か、インプラントのデータの引き継ぎを願います」
「わたしたちのなかに、文明とは何か、っていうのが入ってるの?」
「そうです」
どうもそうは思えないが、やるほかあるまい。二人でブリッヂの椅子に着き、ディスプレイの表示通りの動作でインプラントを起動する。
……。
インプラントから、ディスプレイに表示されている形式の応答はない。ただ言語の情報が次々入ってくるだけで、それは文明とは何か、ではなく、言葉の意味や言葉の指すもの、そういった情報だった。
何千年も凍っていたから、エラーを起こしたのだ。
文明そのものがどういったものかは分からない……手詰まりだ。そう思った瞬間、文明についての情報が、ピコンと音を立てて頭に入ってきた。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
たったそれだけの情報だった。
わたし、って誰だろう。
しかしそれでも、神様、という概念で呼ばれるものだと、なんとなく想像できた。
マリヤは苦しそうな顔で、同じく
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
と、呟いた。
どうやらこれが、僕とマリヤに与えられた唯一の文明であるようだった。分からない。呼び求めれば助けてくれる誰かがいるのだろうか。
「神様」という概念が、助けてくれるのだろうか……助けてくれるとしたら、その神様は、概念ではなく実在だ。神様がもし神様でなく実在するのであれば、それはきっと泥人形ではない。人間には理解の及ばない、高次の存在だ。
それが、いやその方が、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と仰せになるのであれば、何も悩むことなく、その方を呼び求めるべきではないのか。
僕は叫んだ。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
……。
なんの答えもなかった。
無言で歯をくいしばる。
結局、「神様」というのは概念なのだな。
僕はそんなことを考えた。
ーーのちにこの言葉が僕とマリヤを救うことを、僕はまだ知らない。
そう感じて、目を覚ました。
文字通り凍りついた体に血が巡る。36度5分に調節された血が体に通い、僕は命が体を流れているのを感じた。
最初は機械によって強制的に温められた血が巡るだけだったが、代謝を下げるためにゆっくりの駆動になっていた心臓が正常に動き始め、肺が温まって呼吸が始まり、脳が穏やかに現状を認識し始めた。
僕はコールドスリープの状態にあった。昔のことは上手く思い出せない。しかし、きっと何千年も眠っていたに違いない、という予感がした。コールドスリープをするということは、何千年も眠る必要があったということだからだ。
カプセルを出る。体を改めて見てみると、簡単な服を身につけていて、サンダルを履いていた。
ここはどこだろう。
過去の記憶が少ないゆえに、己が何者で、ここがどこで、なんのためにコールドスリープされていたのか分からない。
とりあえず僕は今いる場所がどこなのか、あちこち歩いてみようと踏み出した。
床は硬質な素材で、カプセルの安置されている部屋の壁も、叩くとカツカツ言うような素材だ。狭く、ひんやりと冷たい。
ドアがある。開くだろうか。ノブに手を触れると、ドアは勝手に開いた。出て行く。
部屋の外は「植物」がたくさん「植えられて」いた。僕の思考の外側から、言語が流し込まれているのをはっきりと感じ、どうやら僕の脳にはなんらかの受信機能ないしインプラントが取り付けてあるらしいと分かった。この調子で、もうちょっと言葉を思い出したい。
植物が植えられているということは野外なのだろうか。見上げると、天井にはガラスがはまっており、真っ暗な空に星がきらめいている。
……宇宙?
宇宙に一人きりなんて嫌だ。僕は僕の他にコールドスリープさせられている人がいないか、探してみることにした。
どうやらここは宇宙船の内部らしい。重力がきちんと働いているところをみると、僕を凍らせた人々はかなり高度な科学を持っていたようだ。
ーー僕のいた部屋のドアにそっくりなドアを見つけた。
ノブを回すが開く気配はない。
ドアを叩いてみる。反応はない。
ちょっと冷静になり、ドアの上を見てみる。そこには「マリヤ」と刻まれていた。なんで文字が読めるんだろう。分からないけれど特に困ることではないしむしろありがたいから気にしないことにした。
ではこの部屋にはマリヤという女の子がいるのだろうか。自分の部屋も見てみる。「ヨシュア」とある。
僕はヨシュアだ。
そう認識した瞬間、曖昧だった自分の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
「僕は、ヨシュアだ」
そう呟くと、全身に名前がこだました。
僕はそのとき、言葉には力があると確信した。僕の言葉ですらそうなのに、例えば神様だったらーー。
……神様?
よく分からない概念だった。
その言葉の意味があまりに広かったからだ。
僕の脳は泥人形も木彫りの像も、魚の頭も自分の先祖も「神様」として認識する。しかし何かが違う気がする。もっと、人には分からない、高次の存在としての神様が存在するのではあるまいか。姿は見えず、だけれどそこにいて、泥人形と違ってあがめることに意味のある神様が。
泥人形は作らねば拝むことはできない。人間が作らねば拝むことのできないものが、どうして世界を生み出せるというのか。
神様とはなんなのか考えていると、きい、とドアの開く音がした。
振り返ると、僕の着ているものに似た服を着た女の子が、おっかなびっくりといった顔で僕を見ていた。
「きみが……マリヤ?」
「マリヤ……わたしの名前?」
「そうだ。僕はヨシュア」
「ヨシュア。よかった、他に人がいて」
マリヤはにっこり笑った。
それからしばらく、他にコールドスリープさせられている人がいないか探し回った。しかしどうやら、この宇宙船に乗っている人間は僕とマリヤだけのようだった。
たまたま、ブリッヂにつながる通路を見つけ、僕とマリヤはブリッヂに向かった。たくさんの観測機器が静かに作動していて、前方に青い星が見えた。
「ようこそ」
と、ディスプレイに表示された。
「この宇宙船はなに?」
マリヤがそう言った。ディスプレイに回答が表示される。
「文明母艦『ノア』です」
「……文明」
そのとき僕の頭にはっきりと、人類は独裁者の命令で文明を放棄したこと、その裏で秘密裏に僕とマリヤに文明を託して宇宙に打ち上げた経緯が思い浮かんだ。
僕が何歳なのかはわからないが……こんな子供に文明なんていう重たくてでっかいものを委ねた人たちの気が知れない。
「文明母艦『ノア』は、現在地球に向けて航行中です」
「地球」
マリヤがおうむ返しする。
「独裁者の滅亡が確認され、文明が復権することについて好機であると判断されたからです」
「それは誰からの通信で知ったの」
僕が尋ねる。
「定期観測機器からの通信によります」
……。
機械が機械から受け取った情報なんて、アテになるのだろうか。
だがおそらく地上にはこの『ノア』に通信で連絡の取れる文明というものはないのだろう……。
僕はポカンとした顔で、ディスプレイを見ていた。
横を見るとマリヤも同じ顔をしていた。
「これからおよそ八時間後に、本艦はアララト山山頂に着陸します」
アララト山。どんなところだろう。山ってどんなものだろう。
「二人にはこれから文明とは何か、インプラントのデータの引き継ぎを願います」
「わたしたちのなかに、文明とは何か、っていうのが入ってるの?」
「そうです」
どうもそうは思えないが、やるほかあるまい。二人でブリッヂの椅子に着き、ディスプレイの表示通りの動作でインプラントを起動する。
……。
インプラントから、ディスプレイに表示されている形式の応答はない。ただ言語の情報が次々入ってくるだけで、それは文明とは何か、ではなく、言葉の意味や言葉の指すもの、そういった情報だった。
何千年も凍っていたから、エラーを起こしたのだ。
文明そのものがどういったものかは分からない……手詰まりだ。そう思った瞬間、文明についての情報が、ピコンと音を立てて頭に入ってきた。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
たったそれだけの情報だった。
わたし、って誰だろう。
しかしそれでも、神様、という概念で呼ばれるものだと、なんとなく想像できた。
マリヤは苦しそうな顔で、同じく
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
と、呟いた。
どうやらこれが、僕とマリヤに与えられた唯一の文明であるようだった。分からない。呼び求めれば助けてくれる誰かがいるのだろうか。
「神様」という概念が、助けてくれるのだろうか……助けてくれるとしたら、その神様は、概念ではなく実在だ。神様がもし神様でなく実在するのであれば、それはきっと泥人形ではない。人間には理解の及ばない、高次の存在だ。
それが、いやその方が、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と仰せになるのであれば、何も悩むことなく、その方を呼び求めるべきではないのか。
僕は叫んだ。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
……。
なんの答えもなかった。
無言で歯をくいしばる。
結局、「神様」というのは概念なのだな。
僕はそんなことを考えた。
ーーのちにこの言葉が僕とマリヤを救うことを、僕はまだ知らない。