第一話 バプティズム起動
文字数 3,864文字
文明母艦『ノア』は、大気圏に突入し、地上に降りてゆく。
アララト山はかつてトルコと呼ばれたエリアの中にあり、真っ白い雪に覆われている。こんなところにこんな簡単な格好で降りたら寒いのではなかろうか。
「きれい」
呑気な口調でマリヤがそう呟く。確かに雪はとてもきれいだ。本当に文明が損なわれた世界のようで、山から見下ろす世界には文明と呼べるものは存在していないように思われた。
文明を放棄するにあたって密かに地球を脱出したことは覚えているけれど、なぜ人類ーー独裁者が文明を放棄したのかまでは覚えていない。インプラントも反応しない。
そのとき、ブリッヂの窓から見える下界に、炎が巻き起こるのが見えた。あれはなんだろう。山火事だろうか。マリヤも心配そうにそれを見ている。
「なにかしら、あれ……」
「人間が文明を放棄したんだから、大したことはないさ」
「そうよね、文明を放棄したなら戦争なんて起きる筈がないもの」
空を何かが飛んでいく。鳥だろうか。鳥にしてはいささかいびつな形をしていて、不完全なデザインだ。
そのとき、艦内にブザーの音が響いた。ディスプレイは赤に点滅している。
「敵性体を認識。これより排除シークエンスに入ります」
「て……敵?」
一瞬意味が分からず、僕はマリヤのほうを見た。マリヤも意味が分からない顔だ。
「地上には文明はなくなったんじゃないのか」
「どういうことなの……」
意味が分からないでいると、激しい衝撃とともに、ブリッヂの窓に何か突き刺さった。石だ。銃弾ですらない石だ。まるで投石機で投げたような。
「いったんここを出よう。安全なところに隠れなきゃ」
僕はそう提案した。マリヤは小さく頷いた。ブリッヂを出て、植物の植えられたエリアに向かう。
ごうんごうん……
ごうんごうん……
『ノア』の動力源から、音が聞こえる。まるで心臓が動くような音だ。そして艦内では、敵を処理するプログラムが作動するのを読み上げる合成音声が冷たく響いている。
僕たちはどうなるんだろう。
あの「敵」とはなんなのだろう。
まだ独裁者による恐怖政治が続いているのだろうか。そして文明的でない投石機で攻撃してきたのだろうか。
合成音声が、
「反重力制御システムダウン。落下まであと三分」
と、そう読み上げた。
うそだろ……。
「乗組員は安全を確保してください」
安全を確保しろって言ったって、どうしようもないではないか。その場で頭を抱えてうずくまる。
があん
『ノア』の船底がなにかにぶつかり、衝撃が起きた。
ああ、恐怖ってこういう感情なんだ。
死ぬかもしれないと思うと、奇妙なほど冷静な僕が僕を見下ろしているようで、それもまた奇妙な恐怖だった。
「メインシステムがダウンしました」
「ハッチを開放します 乗組員は速やかに下船してください」
全くなんの感情もなく、電子合成の声が冷たくそう告げた。床がゆっくりと開き、降りていくと寒々とした、いや寒い山だった。
「さっぶ……」
僕はそう呟く。マリヤも顔を真っ青にして震えている。
「まず……だれか人を探そう」
「いないわよ。こんなところに」
マリヤは歯をかちかち言わせている。僕も本当に寒くなってきた。急いで下山しなければーー。
「あんたら、天子さまかあ?」
奇妙な抑揚の声。振り返ると毛皮を着た、僕やマリヤとそう変わらない年頃の少年がいた。
「あなたは、ここの人?」
「そうだよお。おらのアシュタロテさまがあんたらを見つけて、これは天子さまが降りてきたのだから、迎えに行けえっていわれてよお」
「アシュ……タロテ……?」
聞いたことのない言葉だった。
だがその言葉には底知れない不気味さがあった。
「知らねえのけ?」
僕とマリヤは頷く。
その少年は僕とマリヤに、変な匂いのする毛皮の上っぱりを渡した。着る。暖かいが変な匂いがする。
「アシュタロテさまはよう、おらの村の男なら誰でも持ってるんだあ。魔法の砂を泥に混ぜてよう、こねるんだ。そうすれば、泥からむくむくと人の形になるんだ」
……それって、偶像ってやつじゃないのか。
「アシュタロテさまは、目で見たものを教えてくれてよう、そいだらこのでっかいのが山に降りてきたからよう、迎えにきたんだ。おらの村に来てくれ」
マリヤをチラッと見る。
「いいんじゃないかしら。人がいるって分かったわけだし」
「……そうだね。なんだかお腹が空いたよ。……あ。名前、なんていうの」
「おらか? おらはスレイマンだ」
スレイマン。ずいぶん似合わない名前だ。
スレイマンと山を降りていくと、中腹に小さな村があった。村人はそれほど多くないようだ。
「スレイマン、おかえりんしゃい。天子さまは連れてきたけ?」
中年の女性が駆け寄ってきた。
「……天子さま、天子さまではねえですか」
同じく中年の男性が僕とマリヤの手を握る。なんとなくネチョっとしている。
「あの、僕は、その……天子さまとかいうご立派なものではなくて……」
「わたしもです」
中年男性は、
「でも天からきんさったでしょう。アシュタロテさまが教えてくださったんです」
と、ニコニコしている。
「こんたところでねく、中に入りさってください」
……小屋が見えた。招かれるまま中に入る。なにかが煮えていて、やっぱり変な匂いがする。部屋の奥には祭壇があり、奇妙な泥人形が祀られていた。
「これがアシュタロテさまですだ」
「アシュタロテ……」
既視感があった。
そうだ、『ノア』を襲った、鳥にしてはいびつな飛行物体だ。おんなじ色だ。
「これって、空を飛べるんですか?」
僕はすかさずそう尋ねた。中年男女とスレイマンは頷き、さらにニコニコになった。中年男性が答える。
「そうです。空を飛んで悪いやつをやっつける神様です」
……神様。
「悪いやつって、敵対する勢力があるんですか」
マリヤがそう訊くと、スレイマンは、
「バアルっていう神様を拝む連中がいるのでさ。バアルは拝んではだめな神様だ」
と、即答した。
「でも、バアルを拝んでいるひとは、アシュタロテを拝んではいけないって思っているんじゃないかしら?」
「だからバアルを拝んではならんのでさあ」
なんだか変な理屈だ。
とにかく僕とマリヤは、煮えている肉と豆のスープを木のお椀に注いでもらい、それをハフハフ食べた。冷えていた体がポカポカしてきたが、いささか獣くさい。おそらく着せてもらった毛皮の中身だ。
味はともかくお腹いっぱいになって、毛皮の布団で眠ることにした。明かりを落として目を閉じる。
ーー真夜中のことだった。
びしゃん、と変な音がした。
この家の三人は、アシュタロテの祭壇に食べ物を並べ、奇妙なお題目を上げ、まさにアシュタロテを「崇拝」していた。
「……なんだろ」
「バアルが攻めてきました」
スレイマンはそう答えた。
「これからこちらもアシュタロテさまで反撃するんでさ」
……。
部屋に置かれている泥人形が震えた。
ごう、と音を立てて、泥人形ーーアシュタロテは開いた屋根を抜けて空に飛んでいった。
「天子さまはこちらへ」
スレイマンはそう言い、小屋を出た。追いかける。
「ここです」
案内されたのは、古い石造りの建物だった。
「……ここは?」
「わからねえです。おらのじっちゃんのそのまたじっちゃんの、そのまたじっちゃんの時代よりずーっと昔からあって、なんのためにだれが作ったのか、さっぱりわからねえです」
文明が存在したころに作られたものだ。僕はそう思った。
上空からアシュタロテとバアルが戦う音、と思われる音が響く。なんだかとても怖い。マリヤも同じ顔をしている。
ぎっ。
鈍く軋む音が聞こえた。
薄暗い遺跡のなかを、何かが進んでくる。
なんだろう……。
怖いのを紛らわそうと、
「今日の朝、なんか山のふもとのあたりで炎が起きてたけど、あれもアシュタロテとバアルの戦い?」
と、スレイマンに尋ねる。スレイマンは頷いた。
ぎっ。
ぎっ。
軋む音はにわかに接近してきた。
「……バアル」
スレイマンはそう言い、近づいてきたなにかを睨みつけた。
それとほぼ同時に、近づいてきたなにかーーおそらくバアルーーが、眩い炎を放った。その炎はスレイマンを直撃して、スレイマンは一瞬で火だるまになった。
「スレイマン!」
スレイマンは意識がないようだった。毛皮の服や頭髪の焼ける匂いが鼻を突いた。
じりじりと、バアルは間合いを詰めてくる。
殺される。
すさまじい恐怖が襲ってきた。パニックを起こしそうになった。
そのときマリヤが呟いた。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
重ねるように僕も言った。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
二人で叫んだ。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
びりびりと建物が振動した。なんだ? 地震か?
建物の床が割れて、バアルやアシュタロテの放つ光とは全く違う、「栄光」という言葉がふさわしい光が溢れた。ゆっくりと、「栄光」は姿を現した。
……それは、アシュタロテなどの泥人形とは明らかに違う、光り輝くロボットだった。巨大な体躯はゆっくりと現れ、力と尊厳に満ちていた。
「バプティズム一号機、メインシステム作動」
光り輝くロボットは、そう名乗った。
アララト山はかつてトルコと呼ばれたエリアの中にあり、真っ白い雪に覆われている。こんなところにこんな簡単な格好で降りたら寒いのではなかろうか。
「きれい」
呑気な口調でマリヤがそう呟く。確かに雪はとてもきれいだ。本当に文明が損なわれた世界のようで、山から見下ろす世界には文明と呼べるものは存在していないように思われた。
文明を放棄するにあたって密かに地球を脱出したことは覚えているけれど、なぜ人類ーー独裁者が文明を放棄したのかまでは覚えていない。インプラントも反応しない。
そのとき、ブリッヂの窓から見える下界に、炎が巻き起こるのが見えた。あれはなんだろう。山火事だろうか。マリヤも心配そうにそれを見ている。
「なにかしら、あれ……」
「人間が文明を放棄したんだから、大したことはないさ」
「そうよね、文明を放棄したなら戦争なんて起きる筈がないもの」
空を何かが飛んでいく。鳥だろうか。鳥にしてはいささかいびつな形をしていて、不完全なデザインだ。
そのとき、艦内にブザーの音が響いた。ディスプレイは赤に点滅している。
「敵性体を認識。これより排除シークエンスに入ります」
「て……敵?」
一瞬意味が分からず、僕はマリヤのほうを見た。マリヤも意味が分からない顔だ。
「地上には文明はなくなったんじゃないのか」
「どういうことなの……」
意味が分からないでいると、激しい衝撃とともに、ブリッヂの窓に何か突き刺さった。石だ。銃弾ですらない石だ。まるで投石機で投げたような。
「いったんここを出よう。安全なところに隠れなきゃ」
僕はそう提案した。マリヤは小さく頷いた。ブリッヂを出て、植物の植えられたエリアに向かう。
ごうんごうん……
ごうんごうん……
『ノア』の動力源から、音が聞こえる。まるで心臓が動くような音だ。そして艦内では、敵を処理するプログラムが作動するのを読み上げる合成音声が冷たく響いている。
僕たちはどうなるんだろう。
あの「敵」とはなんなのだろう。
まだ独裁者による恐怖政治が続いているのだろうか。そして文明的でない投石機で攻撃してきたのだろうか。
合成音声が、
「反重力制御システムダウン。落下まであと三分」
と、そう読み上げた。
うそだろ……。
「乗組員は安全を確保してください」
安全を確保しろって言ったって、どうしようもないではないか。その場で頭を抱えてうずくまる。
があん
『ノア』の船底がなにかにぶつかり、衝撃が起きた。
ああ、恐怖ってこういう感情なんだ。
死ぬかもしれないと思うと、奇妙なほど冷静な僕が僕を見下ろしているようで、それもまた奇妙な恐怖だった。
「メインシステムがダウンしました」
「ハッチを開放します 乗組員は速やかに下船してください」
全くなんの感情もなく、電子合成の声が冷たくそう告げた。床がゆっくりと開き、降りていくと寒々とした、いや寒い山だった。
「さっぶ……」
僕はそう呟く。マリヤも顔を真っ青にして震えている。
「まず……だれか人を探そう」
「いないわよ。こんなところに」
マリヤは歯をかちかち言わせている。僕も本当に寒くなってきた。急いで下山しなければーー。
「あんたら、天子さまかあ?」
奇妙な抑揚の声。振り返ると毛皮を着た、僕やマリヤとそう変わらない年頃の少年がいた。
「あなたは、ここの人?」
「そうだよお。おらのアシュタロテさまがあんたらを見つけて、これは天子さまが降りてきたのだから、迎えに行けえっていわれてよお」
「アシュ……タロテ……?」
聞いたことのない言葉だった。
だがその言葉には底知れない不気味さがあった。
「知らねえのけ?」
僕とマリヤは頷く。
その少年は僕とマリヤに、変な匂いのする毛皮の上っぱりを渡した。着る。暖かいが変な匂いがする。
「アシュタロテさまはよう、おらの村の男なら誰でも持ってるんだあ。魔法の砂を泥に混ぜてよう、こねるんだ。そうすれば、泥からむくむくと人の形になるんだ」
……それって、偶像ってやつじゃないのか。
「アシュタロテさまは、目で見たものを教えてくれてよう、そいだらこのでっかいのが山に降りてきたからよう、迎えにきたんだ。おらの村に来てくれ」
マリヤをチラッと見る。
「いいんじゃないかしら。人がいるって分かったわけだし」
「……そうだね。なんだかお腹が空いたよ。……あ。名前、なんていうの」
「おらか? おらはスレイマンだ」
スレイマン。ずいぶん似合わない名前だ。
スレイマンと山を降りていくと、中腹に小さな村があった。村人はそれほど多くないようだ。
「スレイマン、おかえりんしゃい。天子さまは連れてきたけ?」
中年の女性が駆け寄ってきた。
「……天子さま、天子さまではねえですか」
同じく中年の男性が僕とマリヤの手を握る。なんとなくネチョっとしている。
「あの、僕は、その……天子さまとかいうご立派なものではなくて……」
「わたしもです」
中年男性は、
「でも天からきんさったでしょう。アシュタロテさまが教えてくださったんです」
と、ニコニコしている。
「こんたところでねく、中に入りさってください」
……小屋が見えた。招かれるまま中に入る。なにかが煮えていて、やっぱり変な匂いがする。部屋の奥には祭壇があり、奇妙な泥人形が祀られていた。
「これがアシュタロテさまですだ」
「アシュタロテ……」
既視感があった。
そうだ、『ノア』を襲った、鳥にしてはいびつな飛行物体だ。おんなじ色だ。
「これって、空を飛べるんですか?」
僕はすかさずそう尋ねた。中年男女とスレイマンは頷き、さらにニコニコになった。中年男性が答える。
「そうです。空を飛んで悪いやつをやっつける神様です」
……神様。
「悪いやつって、敵対する勢力があるんですか」
マリヤがそう訊くと、スレイマンは、
「バアルっていう神様を拝む連中がいるのでさ。バアルは拝んではだめな神様だ」
と、即答した。
「でも、バアルを拝んでいるひとは、アシュタロテを拝んではいけないって思っているんじゃないかしら?」
「だからバアルを拝んではならんのでさあ」
なんだか変な理屈だ。
とにかく僕とマリヤは、煮えている肉と豆のスープを木のお椀に注いでもらい、それをハフハフ食べた。冷えていた体がポカポカしてきたが、いささか獣くさい。おそらく着せてもらった毛皮の中身だ。
味はともかくお腹いっぱいになって、毛皮の布団で眠ることにした。明かりを落として目を閉じる。
ーー真夜中のことだった。
びしゃん、と変な音がした。
この家の三人は、アシュタロテの祭壇に食べ物を並べ、奇妙なお題目を上げ、まさにアシュタロテを「崇拝」していた。
「……なんだろ」
「バアルが攻めてきました」
スレイマンはそう答えた。
「これからこちらもアシュタロテさまで反撃するんでさ」
……。
部屋に置かれている泥人形が震えた。
ごう、と音を立てて、泥人形ーーアシュタロテは開いた屋根を抜けて空に飛んでいった。
「天子さまはこちらへ」
スレイマンはそう言い、小屋を出た。追いかける。
「ここです」
案内されたのは、古い石造りの建物だった。
「……ここは?」
「わからねえです。おらのじっちゃんのそのまたじっちゃんの、そのまたじっちゃんの時代よりずーっと昔からあって、なんのためにだれが作ったのか、さっぱりわからねえです」
文明が存在したころに作られたものだ。僕はそう思った。
上空からアシュタロテとバアルが戦う音、と思われる音が響く。なんだかとても怖い。マリヤも同じ顔をしている。
ぎっ。
鈍く軋む音が聞こえた。
薄暗い遺跡のなかを、何かが進んでくる。
なんだろう……。
怖いのを紛らわそうと、
「今日の朝、なんか山のふもとのあたりで炎が起きてたけど、あれもアシュタロテとバアルの戦い?」
と、スレイマンに尋ねる。スレイマンは頷いた。
ぎっ。
ぎっ。
軋む音はにわかに接近してきた。
「……バアル」
スレイマンはそう言い、近づいてきたなにかを睨みつけた。
それとほぼ同時に、近づいてきたなにかーーおそらくバアルーーが、眩い炎を放った。その炎はスレイマンを直撃して、スレイマンは一瞬で火だるまになった。
「スレイマン!」
スレイマンは意識がないようだった。毛皮の服や頭髪の焼ける匂いが鼻を突いた。
じりじりと、バアルは間合いを詰めてくる。
殺される。
すさまじい恐怖が襲ってきた。パニックを起こしそうになった。
そのときマリヤが呟いた。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
重ねるように僕も言った。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
二人で叫んだ。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」
びりびりと建物が振動した。なんだ? 地震か?
建物の床が割れて、バアルやアシュタロテの放つ光とは全く違う、「栄光」という言葉がふさわしい光が溢れた。ゆっくりと、「栄光」は姿を現した。
……それは、アシュタロテなどの泥人形とは明らかに違う、光り輝くロボットだった。巨大な体躯はゆっくりと現れ、力と尊厳に満ちていた。
「バプティズム一号機、メインシステム作動」
光り輝くロボットは、そう名乗った。