第1話

文字数 3,907文字


魁が帰ると、今日も煙草の匂いが部屋中に立ち込めていた。おかあさん、と小さく呟いてみても、煙草の主は肺を焦がすような煙と、楽しそうに通話をしている大声とを発するだけで、魁の方を見向きもしなかった。母が気づいてくれないことは、魁にとっては慣れてしまったことだったが、それでもやはり少し寂しくなって、唇をきゅっと噛んだ。
しばらくしても、母の電話がまだ終わらないのを察すると、自分もいつも通りに近所の古書店から特別に借りてきた図鑑を持って、また外へ出ていった。
アパートの古びた鉄階段を降りると、じめじめした雨の香りに、焦がされた喉と肺とを優しく撫でられる。空を見上げると、灰色の雲に一面を覆われていて、今にも降り出しそうな気配を帯びていた。けれども太陽が雲に隠されて見えないのは、魁にとってはありがたいことだった。日差しがあまりにも強く照りつけると、本の白いページが反射して眩しいのだ。魁は湿り気のある空気を無意識にも肌に纏いながら、アパートの駐車場の隅へ駆け寄っていった。そこが読書のための、魁のお気に入りの場所だった。崩れかけて穴が開いたコンクリートの地面に本を立てかけると、しゃがみ込んで読むのにちょうどよくなる。今日もそうやって、自分の顔よりも大きい図鑑を、熱を帯びた地面に置いた。しばらく表紙を眺めて、タイトルを呟いてみる。「か、い、い、ぶ、つ、じ、て、ん」。『(こどものための)怪異物事典』。その名の通り、怪異について子供向けに解説している図鑑なのだろう。次に魁は表紙の絵を指でなぞった。巨大なウナギのように黒光りする魚に、九つの尻尾を持った毛並みの綺麗な白キツネ、そして素敵な服を着た、色とりどりの瞳のひと。子ども向けに脚色されてはいるものの、色彩豊かなそのイラストに、魁は古書店で見たときから心を奪われたのだ。さらに、古書店主のおばあさんが言うには、怪異というものはどこかに存在するものらしい。怪異という、自分たち人間とは別の不思議ないきものがいる。そう聞いてから、その不思議な生き物に出会うことが、魁にとっての小さな夢になっていた。そのためにはまず、怪異のことを知らなくては。魁はより一層心を弾ませて、固い表紙をめくった。

ーー*はじめに
むかし、この世界にはわたしたち人類のほかに、怪異が暮らしていました。
怪異はわたしたち人類よりも多くのことをしり、多くのことができる存在です。たとえば、地下に住む巨大ナマズは、地震のおこし方をしっています。また、魔法つかいはそのひとりひとりが実にいろいろな力を持っており、その力でわたしたちを助けてくれました。
しかし、いまではもう、そのほとんどがいなくなってしまいました。わたしたちの前から、姿を消してしまったのです。ーー

序文中のたった一文に、魁は強い衝撃を受けた。表紙のウナギは巨大ナマズで、素敵なひとは魔法つかい。心の中でそう納得した後の、「しかし、いまではもう、そのほとんどがいなくなってしまいました」という文言。それを一文字一文字目で追いながら、えっ、と声を漏らさずにはいられなかった。怪異を見つけるという芽生え始めた夢が、早くにもへし折れてしまったようだ。魁の幼心にもそれが直感的にわかって、背中には一筋の汗がつたった。思わず図鑑を閉じかけてしまったが、序文の続きがまだある。いつもより長く瞬きをして、魁はそれを読むことにした。

ーーけれども、わたしは信じています。わたしたちの目に見えなくなったり、感じれなくなってしまったり、あるいは怪異についてしっている人びとが少なくなってしまったのだと。
ですから、この事典を手にしているあなた。どうか若い力で怪異を見つけてください。感じてください。そして、怪異のことをしってあげてください。
あなたたちの力のきせきを、心からねがっています。
ーー著者・編者一同ーー

今度は、少し難しいことが書いてあるような気がして、魁は首を傾げた。結局、怪異というものはいるのか、いないのか。どちらともはっきりと書かれていないように思えて、魁はすっきりしなかった。とにかく、怪異は存在すると言ってくれた古書店のお婆さんに、今度聞いてみなければならない。それまでは、この序文を書いたひとのように、怪異のことを信じてみよう。そうして、目次を飛び越えて、ようやく怪異の解説のページに入っていった。

1.魔法使い
魔法使いは、おそらく世界でいちばん有名な怪異です。私たち人類とほぼ同じすがたをもち、同じことばを話し、くらし方もそっくりです。ちがうところといえば、魔法使いもほかの怪異と同じように、とくべつな力を持っているというところでしょう(人類と怪異の大きなちがいこそ、「怪異には、生まれたときからとくべつな力がある」というところだといわれています。→23ページ[コラム])。数年ほど前までは、魔法使いは私たちと共にくらし、それぞれが持つふしぎな力で私たちの生活を助けてくれました。けれども、魔法使いがこの世界に生まれてくる数は、だんだん少なくなっているのです。あるひとりの先生の考えでは、科学が発展することによって人類自身にできることが増え、魔法使いの力を必要としなくなってきているためだとーーーー

いくら子ども向けといっても、もう少し年長の子どもを読者として想定された本のようで、魁は説明の文字をひとつずつ追うのがやっとになっていた。何せ、読み方のわからない漢字は、小さいふりがなも追わなければいけないのだから、魁の読書時間はとてつもなく長くなる。だが、魁は自分の頭で十分に理解するのが難しい事柄に直面したときこそ、胸を躍らせる質だった。そのため、まだ自分の前に現れたことのない、未知の存在ーーー「怪異」を「知る」ということは、魁に向いているともいえることだった。最も、魁自身はまだそのことを自覚していないようで、一文字一文字呟きながら、その内容を十二分にも理解しないまま「魔法使い」の説明文を読み切った。それから、溜まった唾を飲み込み、乾いた息を吐き出して、改めて見開きのページ全体を見る。半分、つまり一ページ分のスペースには、読み終わったーーー音読したばかりの説明文で埋め尽くされているが、その前の一ページ、もう片方にはそのスペースいっぱいに魔法使いのイラストが描かれているのがわかった。その絵は表紙にもいた魔法使いと同じ者をモチーフとしているようだ。口元には柔らかい笑みを浮かべてはいるが、瞳は厳しい冬を思わせるような、黒に似た濃い藍色をたたえている。魁はしばらくその絵と、説明文とを交互に眺め続けていた。
しばしの間、読書中の魁を気遣うように流れていた静寂が、その一瞬にして破られた。重たい雨雲を運んできた強い風が、唸り声をあげながら激しく吹き込んできたのだ。魁はずっと同じ体勢のまま、足をぐっと踏ん張って耐え抜こうとした。大きくて重い図鑑は、風にそのページを軽く攫われていったが、小さな手はそれを何度も守り抜いた。耳元では風の音が嘲笑うかのように突き抜け、目には細かい塵が入ってきつく閉じてしまう。やがて風は少しずつおさまっていき、より強くなった雨の匂いだけを残して去っていった。魁は本を広げた腕をそのままにして、辺りを見回した。気づけば玄関を出たときよりも空は暗みを増していて、もう既のところで雨粒が落ちてくるのか、それとも厚い雲の向こうで日が西に傾いているのか、どちらかもわからなかった。
こうして現実に引き戻されてしまった魁は、再び図鑑に顔を戻した。見ると、そこには魔法使いではなく、「星人」と書かれたページが広げられていた。本当に魔法にかけられたかのように、魁の目は瞬いた。それは、「星」という文字になぜか心を奪われたからだった。「日に生きる人」で、「ほしびと」。「日」はお日さま、太陽のことで、その名前のとおりにきらきらとした暖かい光を纏っている子どものイラストが描かれている。だが、魁には「日」と「生」とが合体して、ひとつの文字になっているようにも見えるのだ。このふたつの漢字は、日常的にもよく見かけていたから、その読みも意味も知っていた。けれども、ここでは「星」というひとつの文字に「ほし」という読みがなが振られている。「ほし」。「ほし」って、なんだろう。「日に生きる」だから、生き物なのだろうか。魔法使いと同じ怪異で、柔らかい太陽の光を浴びて輝くふしぎないきもの。
ふと、魁は空を見上げた。大きな雲の隙間から、一筋の光が差し込んでくる。空の青肌も見えず、雨の匂いもじめじめと残っていたが、魁はじきに晴れてきてしまうのだろうと思った。今日の読書はもうお開きにしようと、最後に「星人」のイラストを目に焼き付けると、本を閉じて、差し込んでくる日の光を仰ぐ。
ふいに、魁はその光が、自分の方へ段々と近づいているのに気がついた。同時に、瞼に焼き付いた「星人」の影絵が、光の線を囲むようにちらちらと踊り出した。あれは、太陽の光ではない。魁は直感的にそう閃いた。その途端、線は巨大な点に、光の塊になって、視界を奪った。先刻の一迅の強風も比にならないくらいの突風が、波のように押し寄せる。光に眩んだ瞳は閉じられて、雷のような轟音が近くでしたことのみがわかった。暗い影を落とす空は、ついに大粒の雨を地面へ叩きつけた。一瞬にして濡れそぼった魁だったが、自分ができうる限りの全速力をもって、アパートの屋根へ、自宅の玄関へとかけていった。その渦中においても、ある一つの考えを頭に留めるのをやめなかった。

もしかすると、あれが、あの光が「ほし」なのではないか。
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