一幕
文字数 1,956文字
ある一軒家のお宅のチャイムを鳴らし、インターホン越しにお客さまと挨拶を交わす。
だが、「迷惑なので帰ってください」とすぐ切られてしまった。
何件か回ってみたが、いい反応はしめしてもらえない。
昨今、訪問販売=詐欺という図式が出来てしまい、まっとうな訪問販売の
営業は迷惑している。
もうすぐ入社して一年が立ち、二年目の春を迎える。
今年、初めての後輩ができ、教育係をまかされることになった。
出来る先輩として成果を残したいが現実はうまくいかない。
その声が聞こえたのか、隣の席から『嫌ね。わざとらしい』と言う声が聞こえる。
教育指導をしてくれた、先輩の鈴木美晴は不安そうに言ってくる。
彼女は俳優として活動していた頃、お世話になった所属事務所の社長の娘で、
付き合いも長い。
だから、この会社に安心して就職できた。
まぁ、社長のコネがあったから就職できたとは思う。
だがこの会社を社長が紹介したのには、理由があると思っている。
当然、一つは社会復帰だが、もうひとつの思惑は、
お客さまと接することで、演技力の維持をさせるためだろう。
営業は、短い時間で相手を信用させ、商品を買わせる。
対人スキルと、意外と演技力が必要な職業だ。
幸い、自分には演技力がある。
人をその気にさせる手法も知っている。
だが、対面でなら落とす自信はあるが、最近はインターホンで断られてしまい
さらに、お客様に冷たいあしらわれるたびに心が折れそうになる。
それを美晴さんに説明しても、共感を得るのは難しいだろう。
とりあえず、可愛い後輩を演じて濁しておくか
と言いつつ、美晴さんはどこか嬉しそうだ。
先輩というものは難しく、甘えすぎもいけないが、
頼らないと機嫌を損ねるものだ。
機嫌のいい美晴さんと軽く雑談を交わしつつ、仕事のメールチェックをする。
だが、先程の言葉が頭をよぎる。
確かに、安定した給料がもらえるが、
自分がどんどん埋もれているような気がしている。
まるで同じ時間の中をループしているような、自分だけ可笑しな感覚に捕らわれている。自分の代わりなんていくらでもいる
芸能界もそうだ。わかっていても自分を輝かせ、生きていると実感させてくれるのは今ではテレビの向こう側の世界なんだ。
社長に頼めば、また戻れるんじゃないのかと甘い考えが頭に浮かぶ。
だが、社長にも、同じ事務所の先輩・後輩にたくさん迷惑をかけた。
簡単に戻れるわけがない。
そうすれば、もっと活躍できたはずなのに。
0歳から赤ちゃんモデルとしてテレビCMに出て、
子役としてキャリアを積み、俳優へと転身を遂げた。
順風満帆の人生を一瞬でぶち壊したのは、自分自身の自殺未遂。
自殺未遂という世間の印象も悪く、仕事が激減し、芸能界を引退した。
ふっと時計に触れる。その下に、手首を切った痕が残っている。
俺はどうして手首を切ったのだろう。それがいまだにわからない。
自殺未遂をした前後の記憶が、思い出せない。
他にも、所々抜け落ちている記憶がある。
何か大事なことを忘れているような気もする。
考えても、思い出せない。
だけどはっきりわかっていることは
自殺未遂をしたことで、大事な母親の本性を知ってしまった。
母は俺を金を稼ぐ道具としか見ていなかった。
俳優をやめた直後、母は俺が稼いだお金をもって家を出ていった。
それが母の答えなんだ。俺は捨てられた。
母子家庭のため、俺には母親しかいないのに。
そもそも母子家庭になったのも、
俺が芸能活動をしていることを父はよく思っていなかった。
それで喧嘩になり、離婚した。
芸能界という場所でいろんなもの得て、失ってきた。
不都合があればすぐに干されて、芸能界から消えていく
そんな非情な世界だ。
それでもなお芸能界に戻りたいと思っている自分はなんて愚かなんだろう。
演じるという快楽を味わいたくてたまらない。
演じてたいんだ。やっぱり俺は根っからの表現者なのだ。