第2話
文字数 5,075文字
依頼人に会う当日、ボクは安全運転を心がけながら、どこかぼんやりとした気分で目的地のマンションへ向かった。助手席に座っている若宮さんは終始ご機嫌で、先ほどから口に含んだこんぺいとうをカコカコと鳴らしている。
ボクは昨日、彼女へ次に会えるのは年明けになると告げた。彼女は寂しいけど我慢するとか何とか言っていたが、内容はほとんど覚えていない。そんなことよりも、二十四日と二十五日に若宮さんがボクの予定を決めていないのは、ひょっとして若宮さん自身に予定があるのかもしれないという可能性に気がついてしまった。
冗談じゃない。ボクは若宮さんのために二十四日と二十五日に連休を取っているし、レストランこそ予約はしていないが二人で食べるクリスマス料理も考えている。クリスマスツリーだって十一月に入ってからリビングに出しているし、そのクリスマスツリーになぜか若宮さんが依頼の手紙を刺して保管しようとするので、それを取り除く作業だってずっとしている。それなのに二十四日でもなく二十五日でもない平日に、ボクは何をしているんだ。
依頼人の自宅近くの駐車場へ車を止めると、目の前に老舗感あふれる焼き鳥屋が目に入った。そういえば、あれはテレビでチキンの丸焼きを特集していた時のことだ。若宮さんが「美味しそうだね」と言ったので、「買ってきましょうか?」と尋ねると「いらない」と返されたのだ。理由を聞くと、あの形がダメらしい。チキンの丸焼きがどうにも猫が手足を折りたたんだ後ろ姿に見えてしまい「バラバラにするのはちょっとね」と、悩ましげな表情を返された。
その日の夜、ボクはそのお店がチキンの丸焼きだけでなく部位ごとの販売をしているのをホームページ確認した。後日、さっそく複数部位を買って帰ると「美味しいね」と、若宮さんが喜んで食べてくれたのを覚えている。
そんな幸せだった記憶を思い出していると、ボクらはいつの間にか依頼人のマンションの玄関前に立ち、開かれた扉へ若宮さんが自己紹介をしているところだった。驚くほど記憶と時間が飛んでいた。
「初めまして、『目明し堂』の若宮です。こちらは僕の――」
いつもより優しげな声で若宮さんがあいさつをし、ボクにも自己紹介を促す。
「あ、世羅です……」
ボクはあわてて名前だけを告げた。依頼人の中年女性は自分の名前を静かに答え、ボクらを部屋の中へ招き入れた。今気がついたが、依頼人はずい分と憔悴しきっている。その証拠に妙妙たる雰囲気を持つ若宮さんを見て狼狽えもせず動揺するわけでもなく、ただ無反応だ。
短い廊下を進みリビングであろう扉を開くと、部屋の右手に置かれたベッドの上へ灰色に黒い縞模様を持つ大きな猫が気持ちよさそうに寝そべっていた。その猫を目にしたとたん、若宮さんは依頼人へ確認する。
「小太郎くんですね?」
「あ、はい。小太郎くんです」
二人によると、大きな猫は小太郎くんという名前のようだ。ボクは今、知ったが。
「ご挨拶してもいいですか?」
「あ、えぇ。どうぞ」
積極的な若宮さんに依頼人が少し狼狽えたのを見て、ボクは安心する。少し正気が戻ったのかもしれない。
「初めまして、『目明し堂』の若宮です」
若宮さんはベッドに近づき膝をついてあいさつをすると、小太郎くんは目を開け頭を上げた。若宮さんは小太郎くんの顔の前に人差し指を差し出す。小太郎くんは差し出されたそれへふんふんと鼻を鳴らし、まるで興味がないと言わんばかりに目を閉じ頭を元の位置へ戻した。若宮さんは「ありがとう」と小さな声でお礼を言い、小太郎くんの額をなでた。
それを見たボクもあいさつをすることにする。その方が若宮さんが喜ぶからだ。ボクも膝をつき、人差し指を小太郎くんの顔の前へ出す。
「初めまして、世羅です」
小太郎くんはもう一度頭を上げ、ボクの指にもふんふんと鼻を鳴らす。すると今度は頭を元の位置に戻すことなく、ボクの人差し指を自ら鼻近くに当て、そこから滑らすように何往復も自分の両頬へ擦りつけた。
「まぁ、君だもんね」
若宮さんはムッとした表情をしたが、あれはただ羨ましがっているだけなので気にしないでいいだろう。ボクも小太郎くんへ「ありがとうございます」とお礼を言い頭をなでると、先に座っていた若宮さんの隣へ移動する。依頼人は小太郎くんが寝そべっているベッドを背にして座り、小さなテーブルを挟んだ向かい側に若宮さんが座っている。
「太郎くんは、どんな子でした?」
ボクが隣へ座りかけると、若宮さんはいつも通り突然話を切り出す。依頼人はとくにあわてることなく「太郎くんは……」と、小太郎くんではない誰かを静かに語り出した。
「とても優しい子でした。あと、すごく食いしん坊です」
若宮さんはベッドでくつろいでいる小太郎くんを、依頼人越しに見ている。依頼人の話を聞かなければならないが、小太郎くんから目が離せないのだろう。
「医療事故が原因で亡くなったと聞きましたが?」
「はい……私のせいなんです。夜、あの子が少し咳をしているのが気になって……私は」
今回の依頼は手紙ではなく、若宮さんへ直接連絡が入ったそうだ。依頼人は「太郎くん」という猫を飼っていて、夜に太郎くんの具合が悪くなり、夜間営業もしている病院へ診察に連れて行ったところ、誤診による医療事故で命を落としてしまったとのことだ。
それを聞き、ボクは医師としてとても耳が痛い。あってはならないことだが、どれほど優秀な医師でも失敗を犯さない者は一人もいない。ボクら医師は自分のできうる限りで最大限に手を尽くし、ただ奮闘する他ないといつも思う。
依頼人は辛い出来事を口にしているため、涙がこぼれ始める。「すみません」と、依頼人がテーブルの上に置かれたティッシュへ手を伸ばすと、信じられないことに若宮さんは自分の鞄からハンカチを自ら取りだし、依頼人へ差し出した。泣いた依頼人へハンカチを渡すのは、いつもボクにさせているというのに。
「よろしければ貰ってやってください。僕、ハンカチを買うのが趣味なんです。受け取っていただければ新しいのを買えますから」
「すみません」
依頼人は申し訳なさそうに、黒猫の刺繍がされた白いハンカチを若宮さんから受け取る。ちなみにあのハンカチは昨日、ボクが若宮さんに言われて用意した物だ。
「私があの咳に気がつかなければ、あの子は……こんなことにならなかったはずなんです。もう少し様子を見るだけにしておけば……いつもの病院へっっ」
「病院を訪れたのは最善の策だと思いますよ」
若宮さんは慰めるように依頼人へ語りかける。
「一緒に長い時間を過ごされているあなただからこそ、変化に気がつけたんです。悪いことではありません」
「でもっそのせいでっっ……」
依頼人は動揺し、次の言葉が続かない。よかれと思って取った行動が最悪の結果を招いてしまったのだ。素直に肯定できないのは当然だろう。
「悲しい記憶というのは、生涯つきまといます。後悔もね」
若宮さんは視線を小太郎くんから依頼人へ移すと、まるで自分にもそんな記憶があるように続ける。
「忘れたころに、ふと思い出すんだから質が悪い」
依頼人は声を出すことなくうつむき、ハンカチで顔を押さえ無言のまま涙している。
「それはもう、仕方がないことだと思うんですよ。だから、受け入れるしかない」
小太郎くんはベッドから降り、依頼人の膝へ乗り上げた。
「悲しい記憶も辛い記憶も……その都度襲ってくる後悔も。全部受け入れて、無理に忘れようとしなくていいんです」
若宮さんはそんな二人を見つめながら「そして――」と、少しだけ微笑んだ。
「悲しむだけ悲しんだら、楽しいことを思い出しませんか?」
小太郎くんは依頼人の膝の上で目を閉じ、ただじっと手足を折りたたんでいる。
「太郎くんは優しい子だったんでしょ?」
依頼人は止まらない涙を流しながら無言で何度も頷く。
「なら、今のあなたを見たらすごく心配しますよ。あなたの中でくらい、幸せな太郎くんでいいじゃないですか。辛い太郎くんを思い出してしまったら、その後は美味しい物をたくさん食べて、幸せそうで、食いしん坊な優しい太郎くんを思い出しましょうよ」
辛い記憶を止めることができないなら、幸せだった時の記憶で塗り替えてしまえばいいと若宮さんは提案する。
「ご自身を責めるなとは言いません。僕が言ったところであなたの後悔は消えませんしね。ただ、これが反対ならどうです? 太郎くんがしたことであなたが命を落とすことになったら、あなたは太郎くんを責めるんですか?」
「そんなことはしませんっ!」
依頼人は力強い鼻声で若宮さんの意見に反論した。
「もしそんなことになっても、それは私の運が悪かっただけです!」
若宮さんは優しく笑う。
「太郎くんも一緒だと思いますよ」
依頼人は声につまり、先ほどよりも涙が多くこぼれ落ちる。
「もし、先に亡くなったのがあなただったら……残された太郎くんがあなたを思って毎日自分を責め、泣き暮らしていたらどう思います?」
依頼人は片手で顔を覆い、前屈みになり泣いている。残された片手で支えられているとはいえ、依頼人の不安定な膝の上で小太郎くんは器用にバランスを取っていた。
「できるだけ幸せな太郎くんを思い出してください。太郎くんの嬉しい顔、楽しい顔、たまにはおやつを貰えなかった時のしかめっ面も」
うつむいたまま何度も頷き、嗚咽が漏れ始める。
「できる限りでいいんです。それでも辛い記憶は湧き出てきますが、その時は小太郎くんに慰めてもらったらいい」
若宮さんはふっと少しだけ笑い「あなたは」と続ける。
「太郎くんが亡くなって一ヶ月後に小太郎くんを保護したとき……太郎くんの生まれ代わりだと喜びつつ、代わりにするなんて二人に失礼なんじゃないかと罪悪感を持っているらしいですね」
「す、すみません」
泣きながらも素早い返答をした依頼人に、若宮さんは今度は可笑しそうに笑った。
「それでいいと思いますよ。太郎くんの生まれ代わりでいいじゃないですか。そう思わないと辛くて生きていけないほど、太郎くんを大切にされていたんでしょ? 人間以外の生き物は『寛大』です。自分を大切にしてくれるなら、あなたのその思いくらい許してくれますよ。小太郎くんも、ね?」
若宮さんは膝の上で依頼人の両手で支えられた満足げな小太郎くんへ同意を求める――が、もちろん無視された。
会ったときに憔悴しきっていた依頼人は、ボクらが帰るころには幾分か元気を取り戻し、楽しそうに太郎くんの思い出話もできるようになっていた。若宮さんが言ったように、あとは小太郎くんが支えてくれるだろう。今回の依頼は誤診した獣医と動物病院に何か仕掛けるのかと思っていたが「あそこは悪い病院じゃない、やりきれないけどね」と、若宮さんはその言葉だけで終わらせた。どうやら太郎くんを失った依頼人を励ますためだけに依頼を引き受けたらしい。
「ペットロスも大変ですね」
帰りの車の中で依頼を無事解決した若宮さんへそう伝えると、呆れたような声で「世羅くん」と忠告された。
「その言葉はあまり使わない方がいい。家族が亡くなって『身内ロス』なんて言葉使いやしないだろ? 相手によっては気分を害するからよした方がいい」
「……すみません」
そこまで気にするようなことだろうかと思ったが、わざわざ相手の嫌がる言葉を使う趣味はボクにはないので使わないでおこう。少なくとも若宮さんの前では絶対に使わないと心に誓う。
「それに今回のように猫が好きな人はね、ちょっと難しいんだ。一般的に猫と一緒に住む人は猫に『癒やし』を求める、と言われているようだけど――」
ちょうど信号が赤になり車を止めると、助手席に座る若宮さんに顎をなでられた。若宮さんへ視線を移すと目が合い、魅力的に微笑まれる。
「猫に『救い』を求めているようにしか見えないよね、僕には」
『救いを求める』だなんて、まるで信者が神に祈るような言い方だと思いつつ、今日は前髪が丁寧にはねていることを確認する。寝癖をなでてみるが直る気配はない。まぁ、いつものことか。
「そうだろ? 世羅くん」
「そうですね」
正直よくわからないが、若宮さんの機嫌がいいので賛同しておこう。信号が青に変わり、ボクはアクセルを踏む。ペットロスは禁句で神は猫だという新事実よりも、ボクには大きな気がかりがある。
『本当に若宮さんは二十四日と二十五日に予定はないのだろうか?』
ボクの頭は若宮さんについた寝癖とそのことで、ただ一杯だった。
ボクは昨日、彼女へ次に会えるのは年明けになると告げた。彼女は寂しいけど我慢するとか何とか言っていたが、内容はほとんど覚えていない。そんなことよりも、二十四日と二十五日に若宮さんがボクの予定を決めていないのは、ひょっとして若宮さん自身に予定があるのかもしれないという可能性に気がついてしまった。
冗談じゃない。ボクは若宮さんのために二十四日と二十五日に連休を取っているし、レストランこそ予約はしていないが二人で食べるクリスマス料理も考えている。クリスマスツリーだって十一月に入ってからリビングに出しているし、そのクリスマスツリーになぜか若宮さんが依頼の手紙を刺して保管しようとするので、それを取り除く作業だってずっとしている。それなのに二十四日でもなく二十五日でもない平日に、ボクは何をしているんだ。
依頼人の自宅近くの駐車場へ車を止めると、目の前に老舗感あふれる焼き鳥屋が目に入った。そういえば、あれはテレビでチキンの丸焼きを特集していた時のことだ。若宮さんが「美味しそうだね」と言ったので、「買ってきましょうか?」と尋ねると「いらない」と返されたのだ。理由を聞くと、あの形がダメらしい。チキンの丸焼きがどうにも猫が手足を折りたたんだ後ろ姿に見えてしまい「バラバラにするのはちょっとね」と、悩ましげな表情を返された。
その日の夜、ボクはそのお店がチキンの丸焼きだけでなく部位ごとの販売をしているのをホームページ確認した。後日、さっそく複数部位を買って帰ると「美味しいね」と、若宮さんが喜んで食べてくれたのを覚えている。
そんな幸せだった記憶を思い出していると、ボクらはいつの間にか依頼人のマンションの玄関前に立ち、開かれた扉へ若宮さんが自己紹介をしているところだった。驚くほど記憶と時間が飛んでいた。
「初めまして、『目明し堂』の若宮です。こちらは僕の――」
いつもより優しげな声で若宮さんがあいさつをし、ボクにも自己紹介を促す。
「あ、世羅です……」
ボクはあわてて名前だけを告げた。依頼人の中年女性は自分の名前を静かに答え、ボクらを部屋の中へ招き入れた。今気がついたが、依頼人はずい分と憔悴しきっている。その証拠に妙妙たる雰囲気を持つ若宮さんを見て狼狽えもせず動揺するわけでもなく、ただ無反応だ。
短い廊下を進みリビングであろう扉を開くと、部屋の右手に置かれたベッドの上へ灰色に黒い縞模様を持つ大きな猫が気持ちよさそうに寝そべっていた。その猫を目にしたとたん、若宮さんは依頼人へ確認する。
「小太郎くんですね?」
「あ、はい。小太郎くんです」
二人によると、大きな猫は小太郎くんという名前のようだ。ボクは今、知ったが。
「ご挨拶してもいいですか?」
「あ、えぇ。どうぞ」
積極的な若宮さんに依頼人が少し狼狽えたのを見て、ボクは安心する。少し正気が戻ったのかもしれない。
「初めまして、『目明し堂』の若宮です」
若宮さんはベッドに近づき膝をついてあいさつをすると、小太郎くんは目を開け頭を上げた。若宮さんは小太郎くんの顔の前に人差し指を差し出す。小太郎くんは差し出されたそれへふんふんと鼻を鳴らし、まるで興味がないと言わんばかりに目を閉じ頭を元の位置へ戻した。若宮さんは「ありがとう」と小さな声でお礼を言い、小太郎くんの額をなでた。
それを見たボクもあいさつをすることにする。その方が若宮さんが喜ぶからだ。ボクも膝をつき、人差し指を小太郎くんの顔の前へ出す。
「初めまして、世羅です」
小太郎くんはもう一度頭を上げ、ボクの指にもふんふんと鼻を鳴らす。すると今度は頭を元の位置に戻すことなく、ボクの人差し指を自ら鼻近くに当て、そこから滑らすように何往復も自分の両頬へ擦りつけた。
「まぁ、君だもんね」
若宮さんはムッとした表情をしたが、あれはただ羨ましがっているだけなので気にしないでいいだろう。ボクも小太郎くんへ「ありがとうございます」とお礼を言い頭をなでると、先に座っていた若宮さんの隣へ移動する。依頼人は小太郎くんが寝そべっているベッドを背にして座り、小さなテーブルを挟んだ向かい側に若宮さんが座っている。
「太郎くんは、どんな子でした?」
ボクが隣へ座りかけると、若宮さんはいつも通り突然話を切り出す。依頼人はとくにあわてることなく「太郎くんは……」と、小太郎くんではない誰かを静かに語り出した。
「とても優しい子でした。あと、すごく食いしん坊です」
若宮さんはベッドでくつろいでいる小太郎くんを、依頼人越しに見ている。依頼人の話を聞かなければならないが、小太郎くんから目が離せないのだろう。
「医療事故が原因で亡くなったと聞きましたが?」
「はい……私のせいなんです。夜、あの子が少し咳をしているのが気になって……私は」
今回の依頼は手紙ではなく、若宮さんへ直接連絡が入ったそうだ。依頼人は「太郎くん」という猫を飼っていて、夜に太郎くんの具合が悪くなり、夜間営業もしている病院へ診察に連れて行ったところ、誤診による医療事故で命を落としてしまったとのことだ。
それを聞き、ボクは医師としてとても耳が痛い。あってはならないことだが、どれほど優秀な医師でも失敗を犯さない者は一人もいない。ボクら医師は自分のできうる限りで最大限に手を尽くし、ただ奮闘する他ないといつも思う。
依頼人は辛い出来事を口にしているため、涙がこぼれ始める。「すみません」と、依頼人がテーブルの上に置かれたティッシュへ手を伸ばすと、信じられないことに若宮さんは自分の鞄からハンカチを自ら取りだし、依頼人へ差し出した。泣いた依頼人へハンカチを渡すのは、いつもボクにさせているというのに。
「よろしければ貰ってやってください。僕、ハンカチを買うのが趣味なんです。受け取っていただければ新しいのを買えますから」
「すみません」
依頼人は申し訳なさそうに、黒猫の刺繍がされた白いハンカチを若宮さんから受け取る。ちなみにあのハンカチは昨日、ボクが若宮さんに言われて用意した物だ。
「私があの咳に気がつかなければ、あの子は……こんなことにならなかったはずなんです。もう少し様子を見るだけにしておけば……いつもの病院へっっ」
「病院を訪れたのは最善の策だと思いますよ」
若宮さんは慰めるように依頼人へ語りかける。
「一緒に長い時間を過ごされているあなただからこそ、変化に気がつけたんです。悪いことではありません」
「でもっそのせいでっっ……」
依頼人は動揺し、次の言葉が続かない。よかれと思って取った行動が最悪の結果を招いてしまったのだ。素直に肯定できないのは当然だろう。
「悲しい記憶というのは、生涯つきまといます。後悔もね」
若宮さんは視線を小太郎くんから依頼人へ移すと、まるで自分にもそんな記憶があるように続ける。
「忘れたころに、ふと思い出すんだから質が悪い」
依頼人は声を出すことなくうつむき、ハンカチで顔を押さえ無言のまま涙している。
「それはもう、仕方がないことだと思うんですよ。だから、受け入れるしかない」
小太郎くんはベッドから降り、依頼人の膝へ乗り上げた。
「悲しい記憶も辛い記憶も……その都度襲ってくる後悔も。全部受け入れて、無理に忘れようとしなくていいんです」
若宮さんはそんな二人を見つめながら「そして――」と、少しだけ微笑んだ。
「悲しむだけ悲しんだら、楽しいことを思い出しませんか?」
小太郎くんは依頼人の膝の上で目を閉じ、ただじっと手足を折りたたんでいる。
「太郎くんは優しい子だったんでしょ?」
依頼人は止まらない涙を流しながら無言で何度も頷く。
「なら、今のあなたを見たらすごく心配しますよ。あなたの中でくらい、幸せな太郎くんでいいじゃないですか。辛い太郎くんを思い出してしまったら、その後は美味しい物をたくさん食べて、幸せそうで、食いしん坊な優しい太郎くんを思い出しましょうよ」
辛い記憶を止めることができないなら、幸せだった時の記憶で塗り替えてしまえばいいと若宮さんは提案する。
「ご自身を責めるなとは言いません。僕が言ったところであなたの後悔は消えませんしね。ただ、これが反対ならどうです? 太郎くんがしたことであなたが命を落とすことになったら、あなたは太郎くんを責めるんですか?」
「そんなことはしませんっ!」
依頼人は力強い鼻声で若宮さんの意見に反論した。
「もしそんなことになっても、それは私の運が悪かっただけです!」
若宮さんは優しく笑う。
「太郎くんも一緒だと思いますよ」
依頼人は声につまり、先ほどよりも涙が多くこぼれ落ちる。
「もし、先に亡くなったのがあなただったら……残された太郎くんがあなたを思って毎日自分を責め、泣き暮らしていたらどう思います?」
依頼人は片手で顔を覆い、前屈みになり泣いている。残された片手で支えられているとはいえ、依頼人の不安定な膝の上で小太郎くんは器用にバランスを取っていた。
「できるだけ幸せな太郎くんを思い出してください。太郎くんの嬉しい顔、楽しい顔、たまにはおやつを貰えなかった時のしかめっ面も」
うつむいたまま何度も頷き、嗚咽が漏れ始める。
「できる限りでいいんです。それでも辛い記憶は湧き出てきますが、その時は小太郎くんに慰めてもらったらいい」
若宮さんはふっと少しだけ笑い「あなたは」と続ける。
「太郎くんが亡くなって一ヶ月後に小太郎くんを保護したとき……太郎くんの生まれ代わりだと喜びつつ、代わりにするなんて二人に失礼なんじゃないかと罪悪感を持っているらしいですね」
「す、すみません」
泣きながらも素早い返答をした依頼人に、若宮さんは今度は可笑しそうに笑った。
「それでいいと思いますよ。太郎くんの生まれ代わりでいいじゃないですか。そう思わないと辛くて生きていけないほど、太郎くんを大切にされていたんでしょ? 人間以外の生き物は『寛大』です。自分を大切にしてくれるなら、あなたのその思いくらい許してくれますよ。小太郎くんも、ね?」
若宮さんは膝の上で依頼人の両手で支えられた満足げな小太郎くんへ同意を求める――が、もちろん無視された。
会ったときに憔悴しきっていた依頼人は、ボクらが帰るころには幾分か元気を取り戻し、楽しそうに太郎くんの思い出話もできるようになっていた。若宮さんが言ったように、あとは小太郎くんが支えてくれるだろう。今回の依頼は誤診した獣医と動物病院に何か仕掛けるのかと思っていたが「あそこは悪い病院じゃない、やりきれないけどね」と、若宮さんはその言葉だけで終わらせた。どうやら太郎くんを失った依頼人を励ますためだけに依頼を引き受けたらしい。
「ペットロスも大変ですね」
帰りの車の中で依頼を無事解決した若宮さんへそう伝えると、呆れたような声で「世羅くん」と忠告された。
「その言葉はあまり使わない方がいい。家族が亡くなって『身内ロス』なんて言葉使いやしないだろ? 相手によっては気分を害するからよした方がいい」
「……すみません」
そこまで気にするようなことだろうかと思ったが、わざわざ相手の嫌がる言葉を使う趣味はボクにはないので使わないでおこう。少なくとも若宮さんの前では絶対に使わないと心に誓う。
「それに今回のように猫が好きな人はね、ちょっと難しいんだ。一般的に猫と一緒に住む人は猫に『癒やし』を求める、と言われているようだけど――」
ちょうど信号が赤になり車を止めると、助手席に座る若宮さんに顎をなでられた。若宮さんへ視線を移すと目が合い、魅力的に微笑まれる。
「猫に『救い』を求めているようにしか見えないよね、僕には」
『救いを求める』だなんて、まるで信者が神に祈るような言い方だと思いつつ、今日は前髪が丁寧にはねていることを確認する。寝癖をなでてみるが直る気配はない。まぁ、いつものことか。
「そうだろ? 世羅くん」
「そうですね」
正直よくわからないが、若宮さんの機嫌がいいので賛同しておこう。信号が青に変わり、ボクはアクセルを踏む。ペットロスは禁句で神は猫だという新事実よりも、ボクには大きな気がかりがある。
『本当に若宮さんは二十四日と二十五日に予定はないのだろうか?』
ボクの頭は若宮さんについた寝癖とそのことで、ただ一杯だった。
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