第6章 語り聞かせ

文字数 3,127文字

第6章 語り聞かせ
 伝統的には昔ばなしは語り聞かせによって世代間で継承されてきています。しかし、今日、昔ばなしは、一般的に、読み聞かせを通じて大人から子どもに伝えられています。それには活字メディアだけでなく、映像も含まれます。口承文学を特定のヴァージョンに絞って編集し、文字化したものです。書き言葉で表現されていますが、声に出して読まれることを前提にしています。

 話し言葉は場に依存します。そこでは話し手と聞き手が文脈を共有します。話し方や表情、しぐさなど非言語的情報もコミュニケーションを構成しています。一方、書き言葉は場に依存しません。書き手と読み手は時空間を共有していないのです。表記に内容を補完する情報が含まれることもありますが、行間を読む以上の言語的コミュニケーションの補完はなかなか困難です。話し言葉に比べて、場に依存しない分、書き言葉は汎用性が高くなります。

 場を共有しますので、絆を確かめ、強めるには、書き言葉より話し言葉の方が機能的です。語り聞かせにしろ、読み聞かせにしろ、昔ばなしが声に出して世代間で伝えられるのはそうした作用があるからです。

 読み聞かせは書物を前提にしています。ハードとソフトが一体化していますから、読み聞かせの思い出には本が欠かせません。話の内容はいつも同じです。しかも、記されている言葉は土地のものであるとは限りません。

 もちろん、昔ばなしには著作権がありませんから、本によって同じお話でも若干異なります。また、それを翻案にして映像化したものにも違いがあります。昔ばなしがテキスト化されても、正典化に至る可能性はあまりありません。ただ、語り聞かせと違い、読み手が内容を改変することはないでしょう。読み方の裁量に恐らくとどまります。

 語り聞かせでは、語ることが作ることを伴います。意図的・無意図的な変形があり得ます。読み聞かせなら、聞き手はテキストを自分で見て、間違えがなかったか確認できます。変形が起きていたら、聞き手は不平を口にしたり、咎めたりするかもしれません。一方、語り聞かせはライブ演奏ですので、聞き手は細部をさほど気にしません。声は消えていきますから、だいたいの内容がいつもと同じであれば、聞き手は満足する者です。

 古典文学の写本でさえ複数のヴァージョンがありますから、昔ばなしにそれがあっても不思議ではありません。記憶頼りですので、口承過程で伝言ゲームのような意図しない変形が起こるのは当然です。また、語り聞かせは、スタンダード・ナンバーのライブ演奏です。一人の語り手が繰り返し話す中でもいつの間にか変わってしまうこともあり得ます。

 もっとも、今後、伝承してきたとお話をでっちあげたり、昔ばなしを特定の意図に二兎づいて歪めて正典と称したりする情報操作がネット上で行われるかもしれません。しかし、伝言ゲームの実証研究も行われ、成果を上げています。1973年に起きた豊川信用金庫の取り付け騒ぎがその代表例です。今は社会的な伝言ゲームの過程がたどれない時代でもありません。

 語り手が諸般の事情から意図的に変形することもあり得ます。話を膨らませる拡大や短くする縮小、複数の話を融合させる統合、一つの話を複数に分ける分離などがあり、その際、設定や場面、展開、結びが変わってしまうこともあり得ます。

 現在まで伝承されてきた昔ばなしには似たお話が少なくありません。それは偶然の一致と言うより、同じ話が人の移動によって各地に広まったと考えられます。一例が僧侶です。彼らは布教のため、全国各地を回ります。その際、庶民が関心を持つようなお話を語っています。特に、江戸時代は、落語の『三軒長屋』が示す通り、中国の小咄や物語の本が輸入・翻訳されています。僧侶たちはそれを参考に各地で話を語り、それが昔ばなしとして現地で伝承されていったというわけです。外国の物語と似た話がある理由もそのためでしょう。

 設定・構造・テーマなど共通しているのに、結びだけ異なるお話もあります。例えば、山口県の『果報者と阿呆者』と広島県の『月夜の果報者』はどちらも「果報は寝て待て」をテーマにした喜劇で、オチが違っているだけで他はほぼ同じです。それらを照らし合わせると、意図的か無意図的かはともかく、変形の過程があったことは確かです。

 変形以外にも類似が認められる作品が多くあります。設定が違うだけで、物語の構造やテーマが似ているものがあります。こうした構造類似系は道徳的規範のお話によく見受けられます。また、トピックは同じであるけれども、設定や構造が異なっているものもあります。トピック類似系は起源や語源、由来などの昔ばなしで特に認められます。

 さらに、二つの物語タイプが融合しているものがあります。具体的に説明しましょう。いわゆる男勝りの母親が肝だめしで気の弱い息子を一人前にするという物語があります。また、長者が娘の婿を肝試しで選ぶという物語があります。それぞれ独立して一つの昔ばなしとして語り継がれています。前者は岩手県の『手出し峠』、後者は鳥取県の『かわらけ売り』が一例です。ただ、両者には肝だめしという共通点があります。そこを媒介にして二つのタイプが融合した昔ばなしもあるのです。京都府に伝わる『むこのき゚もだめし』が好例です。

 語り聞かせの口承文学の隆盛は識字率の変遷と必ずしも因果性を持っていません。近世は以前に比べて庶民の識字率が全般的に向上しています。江戸時代、都市を中心に出版産業が活気を呈しています。けれども、地方の貧しい庶民が本を入手することは容易ではありません。それは確かです。ところが、語り聞かせの習慣は近代に入ってからも続いています。公教育の普及により識字率が飛躍的にさらに向上、児童書も安価に全国的に出版されるようになります。

 そうした環境であっても、語り聞かせは祖父母=孫の世代間で廃れていません。武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』にも言及があります。後の水木しげる夫人は1932年に島根県能義郡大塚村(現安来市大塚町)に生まれています。家は、戦前、煙草製造や呉服屋を営んでいます。大塚村では豊かな家ですから、本や雑誌もあります。彼女は祖母の語る昔ばなしを姉妹と共に楽しく聞いたと書いています。『ひょうたん千と針千本』がその一例です。大人になった後に姉妹と再会した時、昔ばなしを語り聞かせる祖母の思い出で盛り上がっています。

 昔ばなしが祖母と孫たちの絆を強める働きをしています。また、その場を共有していた姉妹の間のそれもそうなっています。語り聞かせの昔ばなしが祖母に人格化されています。語りも台詞も土地の言葉です。さらに、亡くなる直前に祖母がいつもの昔ばなしを変形し、布枝を主人公にした物語を語り、将来への不安を抱く孫を励ましています。やはり昔ばなしは絆の文学です。

 昔ばなしの中には、家族間だけでなく、地域の言い伝えとして共同体が語り継いでいるものもあります。それらは、地名を始めとする自然環境の名前の由来、地域の行事・信仰の起源、災害など禍をめぐる教訓といった共同体全体で共有しなければならない物事に関する物語です。言うまでもなく、これらが融合しているお話もあります。

 共同体に関連した幕末期の事件・出来事が語り継がれている場合もあります。京都府の山国隊が一例です。丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)の農民が部隊を結成、因幡鳥取藩に付属して官軍に参加、戊辰戦争を戦っています。その後、地元の村人はこの時の活躍を語り継いでいます。こうした口承の様子は、『日本発見』シリーズの京都府の回でも、言及されています。
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