第1話 ルピナスの丘

文字数 1,123文字

 植物園に行こうと思ったんです。

 五月は藤が見事で。他にはツリガネソウ、クレマチス、シャクナゲも。
でも一番の撮影スポットはルピナスの丘です。ルピナスが群生している丘。

 ルピナスというのは、青や紫、ピンク、白色の小花が鈴なりになっている花で、藤の花を逆さにしたような背の高い花です。

 それでカメラの手入れをしようと。
なぜか新しく買ったばかりのカメラが見当たらなくて。
そのとき、聡子(さとこ)がいないことに気がつきました。聡子というのは妻です。

 カメラは玄関で見つかりました。
結局その日、聡子は帰ってきませんでした。また実家に行って私の悪口を言っているのでしょう。
 聡子は鈍感で愚鈍な女です。私は(しつけ)をしているだけなのですが伝わらないようです。


 翌日、バスで植物園に向かいました。
窓の外を眺めていると大学病院が見えてきました。粒子線治療を行っている病院です。
聡子が私を無視するようになったきっかけを思い出しました。

 思い出しただけでも釈然としない話です。どうして私が聡子の妹の治療費を立替えなければならないのでしょうか。
そっちの血縁関係でなんとかするべきでしょう。

 だいたい子宮頸がん治療に粒子線照射300万円は高すぎる、もっと身の丈にあった治療をするべきです。はっきりと断りました。

 あのとき聡子にしては珍しく食い下がりました。
100万でいいから一時貸してくれないかと。妹の保険の満期で返すからと。

 信用できません。私は誰も信用していません。
それに一切贅沢せず、倹約して残した大切な貯蓄を崩したくはない。

 カメラ? ああ、カメラにはお金を惜しみません。
真面目に働いている自分へのご褒美です。
それに私の作品は、現実よりも美しく転写することができる。鑑賞した人を(いこ)わせることができる。そういった自負があります。

 カメラ。
カメラは? 肩から下げていたはずなのに。カメラが無い。
最近体調が悪く、考えがまとまらないのです。胸が苦しく左肩が痛むし吐き気も。
仕方ないので、スマートフォンで撮影することにします。


 植物園に着きました。
バスから降ります。こんなにいい天気なのに妙に冷えます。
まず植物園の全体地図を確認してルピナスの丘へ向かいます。

 やはり足元から冷える。
見ると裸足であったことに気がつきました。いつから裸足だったのでしょう。恥ずかしさもあるので隅を歩きます。

 丘の斜面にルピナスの群生が見えてきました。色とりどりに光を受け輝いています。
去年の会心の一枚は、出展用にパネルにしたことを思い出しました。


 不思議です、歩けども歩けどもルピナスの丘に辿(たど)りつきません。
すぐそこに見えているのに。
丘は陽に包まれて明るいのに、自分の周りには夕闇が迫ってきます。
 寒い。冷たい。


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