リンボ、あるいは図書館(後篇)

文字数 3,510文字

 彼は、老人だった。腐木(ふぼく)のようだった。窓際に立って、じっと、そこに映る自分の顔を眺めていた。樹木の年輪のように皺が刻まれ、目蓋(まぶた)は眠たげに垂れ下がり、頭髪はすっかり白くなっていた。時の重圧が彼を(ひし)いでいた。
「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ(おぼろ)なり。()れど、かの時には顔を(あは)せて相見(あひみ)ん」
 彼は記憶に言葉を求めた。脳裏に言葉があぶり出しのように浮かんだ。本をめくらずとも、それは常に彼の内側にあった。彼のこころは言葉を欲した。言葉は彼に無尽蔵に与えられた。雨のように惜しみなく。(あられ)のように(かしま)しく。そして、言葉以外のなにものも、図書館は与えてくれなかった。彼の世界には言葉しかなかった。太初(はじめ)(ことば)あり、そして永遠に言葉だけがあった。彼だけが言葉から疎外されていた。胡乱(うろん)な他者のように、取るに足りない異物として。
 彼は窓から離れ、自分を取り囲む書物の海を見まわした。彼が泳ぎつづけた言葉の大海。泳いだ? 溺れつづけているだけなのかもしれない。無限に引き延ばされた溺死。いまもなお。
 泡のように、さまざまな想いが浮かんでは消える。彼はもう詩を書かない。書きとめようとは思わない。どうせ瞬く間に消えてしまう想いを、だれにも届かない叫びを、自らの血で刻みつけようと、無意味な悪あがきにのたうちまわったこともあった。そしてもちろん、なにも残らなかった。
 いまはもう、詩は書かない。遠い昔、自分が死に物狂いでなにを書こうとしたのかも、忘れてしまった。ただ、砂浜に残る(わだち)のような感情の痕跡が、時たま彼のこころに触れて、幽かな音楽が広がり、そして消えた。未生(みしょう)のように深い静寂。それもいずれは消える。記憶も、記憶への震えも、なにもかも。
 彼は老いた。すっかり老いた。だれとも出会わず、なにも起こらず、どこにも行けず、いちども眠らず、ただただ老いた。年老いた。それでいてなおも彼は、生まれたばかりのような、存在することへの違和感に捉えられた。空疎な自己に煩わされた。身体の重みに意識が釣り合わなかった。
「われ隠れたるところにてつくられ地の底所(そこべ)にて(たへ)につづりあはされしときわが骨なんぢにかくるることなかりき。わが(むくろ)いまだ(また)からざるになんぢの(みめ)ははやくより(これ)をみ日日(ひにひに)かたちづくられしわが百体(ひゃくたい)(ひとつ)だにあらざりし時にことごとくなんぢの(ふみ)にしるされたり」
 彼が生まれたとき、彼がかたちづくられたとき、彼を見守るものはいたのか? 彼の存在は認知されたのか? だれとも出会えないこの生涯の、その出発点において。彼はだれかの本に記されたのか? (ばく)たる夢のようなその記憶に。この図書館に存在する無数の本は、その一片にさえ満たないのか? 言葉は(すな)よりも多く、(すな)のようにこぼれていく。だれにもそれはとらえられないのか?
 彼は階段を上った。彼の足取りは重かった。眠りも食事も必要としない身体。だが、いつの頃からか、疲労は彼を蝕むようになった。憑かれたように疲れて、疲れに憑かれたままだった。眠りを経験しない彼は、それを癒やす術を持たなかった。琥珀に閉じ込められた虫が、もしも目覚めたままだとしたら、(ひとや)のような彼の意識にも似るのかもしれない。だが、彼は慣れた。永遠のような疲労にも慣れた。慣れることしか許されなかった。望まずとも存在しつづけるかぎりは。
 幼い頃の彼が軽快に走り抜けた階段を、老残の彼は見る影もなくゆっくりと上る。それはあたかも、彼の読書がたどった変遷を物語るようでもあった。若年のみぎり、彼は急き込むように、不在の食事の代わりのように、(むさぼ)るように書物を漁った。落ち着きのない回遊魚のように、新たな言葉に触れつづけた。そうしなければ、空虚に呑まれてしまうとでもいうかのように。
 いまの彼は、知らない言葉をあくせくとは求めない。全知の夢を追ったりもしない。悠久の時間さえあれば、図書館の本をすべて読み尽くすことも可能だと思っていた。だが、そんな行為に意味はない。生存と同じくらいに意味はない。むしろ彼は、何度も繰り返し読んだ本に立ち止まり、慣れ親しんだ言葉をひたすらに注視することで、いままで知らなかった言葉の表情に驚いたり、底流に潜んでいる音楽に気がついたりというような、歩みの遅い読書を好むようになっていた。本の数は有限だが、言葉の味わいは無限だと悟ったのだ。そして老いの実感は、本についてだけではなく、自分の生についても、明らかな事実を告げていた。彼の孤独は無限かもしれないが、彼の人生は有限だという厳然たる事実を。
 彼は最上階である九階にたどり着いた。手近な書棚から、馴染みの本を手に取り、愛おしむように慎重にめくった。その本は、すべての階に、すべての本棚にあった。言葉に多少の異同はあったが、大まかな輪郭は変わらない。詩を書いていた頃の彼は、その本を意地でも読まなかった。なぜかはわからない。図書館に遍在するその本が、世界の象徴でもあるかのように、孤独の淵源でもあるかのように、彼は執拗(しゅうね)く忌み嫌った。だが、それも長くは続かなかった。本への憎悪は、本への愛ほどには、こころに根づくことはなかった。少なくとも彼にとっては。彼は愛に負けたのだ。なにも愛さずに生きるのは辛い。ひとりきりの彼は、言葉に(つまず)き、言葉に魅入られ、言葉を愛してしまった。たとえ言葉が彼を愛してくれなくとも。
「空の鳥を見よ、()かず、刈らず、倉に収めず、(しか)るに(なんぢ)らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる者ならずや」
 記された言葉を眼で追いながら、記憶に刻まれた言葉を呼び覚ます。その二重唱は、ときに美しく、ときに不調和で、ときに優しかった。書かれた言葉は、すべて記憶の模倣にも思えた。読んだはずのない言葉を読むときでさえ、自分はこの言葉を知っている、この言葉は自分の中にすでにあったと、そんな既視感をたびたび覚えた。日の下には新しき者あらざるなり、いかなる日の下にあるかわからないこの図書館においても、それは真理であるように思えた。
 彼は本を閉じ、書棚に戻した。鳥。彼がいちども見たことのない空を飛ぶ、彼がいちども見たことのない生きもの。彼の夢。彼の他者。だが、彼はたしかにその影を見たのだ。たしかにその痕跡に触れたのだ。彼でも言葉でもないなにかに。
 彼は書架の海をかきわけて、目的の棚へと赴いた。九階まで上るのは久しぶりだった。彼の世界の頂上。天にもっとも近いその場所に、彼は彼にとっての聖遺物を安置していた。彼の(はかな)い福音の残像。彼の(つたな)い青春の虚像。紙の鳥と、白い羽根。
 まがいものの鳥は、ほどなくして見つかった。だが、そのそばに羽根はなかった。彼はそれらをつがいのように寄り添わせて安置したはずなのに、白い羽根は忽然と消えていた。彼が白紙で折った鳥だけが、無様な姿で佇んでいた。
「…………」
 彼は紙の鳥を手に取った。詩を失って、羽根からも見捨てられて、その鳥はもう、惨めな玩具にすぎなかった。なんらの輝きも宿していなかった。彼の夢は、いつのまにか(つい)えていた。
 彼は鳥を殺すことにした。折られた紙を、過去に葬るように、繊細な手つきで元に戻した。皺のついただけの、ただの白紙。血で書きなぐった詩など、跡形もない。そこに刻んだ言葉も想いも、もう忘れてしまった。
 彼はその白紙をまた折り始めた。今度は鳥ではない。鳥を模倣した文明の利器。人を運び、人を殺す、空を飛ぶ機械。いちども見たことのない飛行機を模して、彼はまたしてもまがいものをこしらえ上げた。
 中央の吹き抜け部分まで歩き、手すりから身を乗り出して、彼はかつての詩であり鳥であり夢であったはずのなにかを、彼の手から解き放った。風にたゆたうように、終着を引き延ばすように、紙の飛行機がゆっくりと墜ちていく。やがて、林立する書棚の陰に隠れ、見えなくなった。
 彼はその場を離れ、階段を下り始めた。足取りは重く、表情は物憂く。彼にはもう、なんらの希望もなかった。彼は老いた。すっかり老いた。そしてこころに相変わらず浮かぶのは、いまや答えが出たように思える、ただひとつの疑問。彼に終生つきまとった疑問。
 ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?
 そんな憂鬱に苛まれていた彼の生に、定められた時が来た。

 彼は、死人だった。眠っていた。終わったからだ。永遠のような辺獄(リンボ)の孤独が。
 彼のそばには、だれかがいた。何者かがいた。眠りにも触れられないほどかすかな優しさが。
 泣き終えた魂のように黙す彼の傍らに、おびただしいほどの白い羽根が、弔花(ちょうか)のように添えられていた。天使が昇り降りするという梯子にも似た、その階段に横たわる死体の傍らに。
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