リンボ、あるいは図書館(前篇)

文字数 4,333文字

 彼は、赤子だった。泣いていた。生まれたからだ。孤独しか許されない世界に。
 彼のそばには、だれかがいた。何者かがいた。記憶にも残らないほどかすかな気配が。
 ちぎれた魂のように泣きわめく彼の傍らに、一枚の白い羽根が、音もなく舞い落ちた。

 彼は、少年だった。ふてくされていた。いくら椅子で叩いても、窓は割れなかった。そんなことは初めからわかっていたことだ。決して出られはしないのだ。書物しか他者のいないこの静寂の牢獄(ひとや)からは。
 彼は気がつくと、この場所にいた。いつのまにか存在していた。望んだのかどうかもわからずに。そして彼は、ひとりぼっちだった。他人をだれひとり見たことがなかった。
 彼を生んだ者は? いない。見当たらない。どこにもいない。彼は空気から生まれたのだろうか。
 彼を育てた者は? いない。見当たらない。どこにもいない。彼は書物に育てられたのだろうか。
 本。それだけは、この場所にはおびただしく存在した。彼の生涯を囲んでいた。言葉が海のように広がっていた。そして彼は、言葉の海しか見たことがなかった。自分の体液を除けば、水にすら触れたことがなかった。
 体液。彼は涙を流すことはできるし、唾液を分泌することもできるし、血を流すこともできる。しかし尿とは縁がない。排泄を必要としない身体だった。そんな肉体があり得るのだろうか?
 食事。彼はなにも食べず、なにも飲まなかった。飢えを知らず、渇きを覚えなかった。肉食の罪とも、断食の祈りとも無縁だった。すべて最初から絶無だった。そんな身体が生きられるのだろうか?
 しかし、彼は存在していた。肉体とはいいがたい肉体で。身体とはいいがたい身体で。時の刻み目だけは宿しながら。彼はたしかに成長していた。でなければ、どうして赤子が少年になれるというのだろう。けれど、この空間に時が流れているのかは定かではない。この場所には昼夜の概念がなかった。ずっとぼんやりと仄明るいままだ。眠ることのない彼と同じように、眠ることのない空間。あるいは眠ったままの空間。書物は眠っているのだろうか? 目覚めているのだろうか? どちらともいいかねた。
 窓。外への扉はどこにも見当たらないが、窓はいくつも存在していた。しかし、そこから見える景色は、きわめて貧しいものでしかなかった。白い霧。それだけだった。向こう側は、ある。窓の外には、なんらかの空間がある。それだけはわかる。それだけしかわからない。いつも白い霧。霧の向こう側は、見えない。だれかがいるのか? なにかがあるのか? 彼にはわからなかった。すべて不可知の雪白だった。けざやかな白。消毒されたような外界。純白の晦冥(かいめい)だった。
 鏡。この場所に純粋な鏡はない。ただ、窓は不完全な鏡でもあった。彼の顔がぼんやりと淡く映っている。幼い少年の顔が、不機嫌そうに眉根をしかめている。その顔が美しいものなのか醜いものなのかも、彼にはわからない。他者が存在しないのに、顔の美醜を判断できるだろうか? 彼の顔が唯一の基準であり、無意味な標準だった。
 彼はもういちど、椅子を振りかぶって窓に叩きつけた。鈍い打音。空気の揺らぎ。そして静寂。窓は割れず、牢は破れない。彼は諦めた。どうせ、ここから出られはしないのだろう。最初からわかっていたような気もする。物心つくより前からずっと。彼にこころはいつ芽生えたのか? いつのまにか存在していた。彼そのものも、彼のこころも。
 彼は椅子を床に置き、服の袖で手の汗を拭った。ゆったりとした着心地の白い長衣。その衣服は、本棚に混じる衣装戸棚に、数えきれないほど用意されていた。すべて同じような白い長衣だが、大きさには幅があった。小柄な子どもから大柄な大人まで、探せば必ず相応の服が見つかるとでもいうように。彼のいかなる成長にも対応するとでもいうように。
 窓に背を向け、彼は彼を取り巻く世界を一望する。いくつもの机、いくつもの椅子、いくつもの書見台、そしておびただしいほどの書架、おびただしいほどの書物、腹立たしいほどの静寂。それが彼の生まれた世界であり、彼の生きる世界であり、彼の知っているただひとつの世界だった。
 図書館。その名称が、この世界にもっともふさわしい呼び方なのだろう。しかし、その言葉は近似値だ。図書館とは、知を求める人間のために開かれた、書物だけが住まう場のはずだ。人がそこで生まれ、成長し、だれに会うこともなく、孤独に幽閉される場ではない。だが、彼はここで生まれ、ここで成長し、ここに囚われている。彼のゆりかごであり、彼の牢獄であり、彼の墓場でもあった。図書館は、彼の全世界だった。彼に与えられたすべてだった。だれひとりいない、静けさに満ちた言葉の安置所が。
 名前。彼に名前はない。名づけてくれる他人はいなかったし、自分でも名づけようとは思わなかった。だが、名前のない彼は、あらゆるものの名前を知っていた。太陽も月も見たことのない彼は、太陽と月という名前を知っていた。朝も夜も経験したことのない彼は、朝と夜という名前を知っていた。そしてその名が指している概念をことごとく理解することができた。太陽と月の輝きも、朝と夜の明暗も。思い出も経験もなしの理解。まるで、あらかじめ刷り込まれていたかのように。本を読むための知は、すでに授けたとでもいうかのように。
 文字。書物には、文字が書かれている。情報を伝える記号。概念、思想、感情、記憶、歴史、物語。あらゆる想念が文字によって綴られている。連続する文字には、言葉に特有の律動が刻まれ、ひとつらなりの音楽が流れていた。それは書き手の呼吸であり、こころの色彩でもあった。だが、この図書館にある本たちは、いかなる文字によって書かれているのだろう。彼には読める。彼には理解できる。だがその文字は、どんな地域にも国家にも紐付けられていない、この図書館だけの文字だった。彼ひとりのための文字であり、彼ひとりのための言葉だった。
 彼は脱兎のごとく駈け出した。机と椅子のあいだを抜けて、階段まで走る。白い長衣をはためかせ、素足のまま、足音さえも(かそ)けく。
 階段。図書館には、階段があった。書架のひしめく広大な空間の片隅に、取って付けられたようにひっそりと佇む、昇り降りのための空間。そこにも、音を吸い取るような静寂はわだかまっていた。空気が震えるのを忘れていた。彼が足を踏み入れないかぎりは。
 彼は階段を急ぎ足で上った。一段飛ばし、二段飛ばし。軽快な足取りは、少年の若さを告げていた。華やいだ生気が、その足運びを許していた。老いる運命を蹴散らすように。つつましく若年にすがるような。
 九階にたどり着く。それが彼の世界の頂上だった。これよりも上はない。彼の最大限の遠出。報われない登攀(とうはん)。世界の果ては、あまりにも近かった。
 どの階も同じようなものだった。本棚、本棚、本棚。窓を挟んだ壁は、すべて本で埋めつくされている。梯子も用意されていた。彼のちっぽけな背丈を押し潰すように、言葉が蝟集(いしゅう)する書棚は(そび)えていた。この図書館に、本はいくつあるのだろう? 数える時間は十分にあるが、数えたことはなかった。
 彼は上を見上げた。屋根は遠く、なにも語らない。空の片鱗も見せず、ただただ天を閉ざしていた。触れられそうもないし、触れたところで、どうなるものでもない。そこにも窓はある。しかしその天窓も、他の窓と同じように、白い霧を映すだけだった。それは空ではない。太陽も月も星も見えなかった。それは断じて空ではなかった。壁と同じような景色だった。なんらの可能性も含まれていなかった。
 彼は上を見上げるのをやめて、中央の吹き抜け部分から下を見下ろした。九階から一階まで、風の通り路のように貫かれている空間。手すりに胸を乗せて、足をぶらぶらさせながら、彼は彼の世界の底を眺めた。天よりはよほど近くに感じられた。高所から見下ろす景色には、ある種の誘惑が潜んでいる。彼は、まだその誘惑に従ったことはない。しかし、それは常に意識されていた。結局のところ、この世界から逃れるためには、それしか道はないのではないか?
 彼は危険な決意に傾く前に、手すりから降りて、階段へと歩き出した。とぼとぼとした足取りは、先ほどとは異なり、精彩を欠いていた。彼の肉体に疲労はなくとも、彼の精神は気落ちしていた。
 階段をゆっくりと下りながら、彼は相変わらず同じ疑問に取り憑かれる。彼にこころがあるかぎり、いつまでも消えないであろう疑問。
 自分は、何のために生まれたのだろう。何のために存在しているのだろう。だれもいない世界に、ただひとり無為に時を過ごして……。
 答えはない。語り合える相手もいない。ひとりで悩み、ひとりで考えるだけだ。まだ少年にすぎない彼は、すでに晩年のような徒労感に包まれていた。
 ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?
 そんな憂鬱に苛まれていた彼の足が、ふと止まった。階段の踊り場に、なにかが落ちている。見覚えのない、それでいてどこか懐かしさを覚えるようななにかが。さっき上ってきたときは、そんなものはなかったはずだ。
 彼はそれを拾った。一枚の、白い羽根だった。翼から抜け落ちたばかりのような、空の記憶を宿しているような、美しく軽やかな白い羽根。
 彼は手にとったそれを、呆けたように眺めた。動くものなどない彼の世界に、初めて現れた予兆。他者の気配。
 ふと我に返り、辺りを見まわした。もちろんだれもいない。なにもいない。永遠のような静寂だけ。彼の見知っている沈黙だけ。だが、それならば、この羽根は?
 彼は階段を急いで駈け下りた。八階、七階、六階と、各階を鼠のように走りまわった。閉じ込められた実験鼠のような悲壮な探索行。床に積みあげられた本の山が、慌ただしい彼と衝突していくつか崩れた。
 探索は失敗に終わった。彼は依然として、自分しかいない世界に突き当たるだけだった。孤独はあまりにも完成されていた。でも、それならば、この羽根は?
 一階まで戻ってきて、結局なにも見つけられなかった彼は、記憶にすがるように、手近な棚から本を取り出してめくった。たしか、その本にあったはずだ。
 お目当ての記述はすぐに見つかった。
「脊椎動物の一綱。哺乳類と同様に温血。爬虫類と同様に卵生。嘴を持ち、身体は羽毛に包まれている。前肢が翼となり、空を飛ぶものが多い」
 翼を持つ生物。鳥。一度たりとも目にしたことのない、飛翔する生物。羽根を持つもの。
 寂しさすら消え入る静かな図書館に、音も立てず、鳥が訪れたとでもいうのであろうか。
 幽霊の足跡でも見るように、彼は手にした白い羽根を飽かず眺めた。
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