第1話
文字数 4,573文字
サチは大切な僕の幼馴染だった。いつも一緒にいた。ずっと一緒にいられると思っていた。
そんなサチが、今、僕の目の前で死んだ。
その日はいつも通りの一日だった。アラームなしでいつも通りの時間に起きた僕は、眠気眼をこすりながらシャワーを浴びた。一人暮らしを始めてから、こうして朝シャワーを浴びることが習慣になっていた。
シャワーを浴び終え、僕は支度を始めた。スマホで今日の予定を確認しながら歯磨きをする。そういえば、一人暮らしをし始めてから朝ご飯を食べなくなった。忙しない一人暮らしの朝に、そんなことをしている暇なんていのだ。
洗面台の鏡に自分の顔が映る。あまり自分の顔は好きではない。好意的に表現すれば、中性的といえる容姿だと思う。身長もそこまで高くないし、体躯も細い。実際、中性的と言う言葉を、誉め言葉かのように言われることも多々ある。けれど、裏を返せば男らしくないということに過ぎない。虚弱で、弱々しい。
やはりそんな自分のことが、僕はあまり好きではない。
歯磨きを終えた僕は、簡単に服を着替え、鞄に荷物を詰め込み、ものの数十分でマンションを後にした。
駐輪場で自転車に乗り、走らせること数十分。大学に着いた。記号のような顔見知りの人に挨拶をされた。意味もなく、迷いもなく、それに返事をする。
講義室に入り、どこの席に座ろうかなと周りを見渡した。琢磨の姿はなく、僕は内心苦笑いしながら、窓側の席に座った。
ぼんやりと黒板を見つめながら講義を受ける。教授の言っていることは特に頭の中に入ってこず、そのまま素通りしていく。
僕としてはサチと同じ大学に入ることが最大の目標であり、それを達成することが出来たので、もう講義の内容なんてものはどうでもいいのだ。
意識だけ宇宙旅行にでること100分。ようやく講義が終わった。僕が今日残っているのは四限の講義だけだった。それまで相当時間がある。大学に居てもやることがないので、僕は一旦自宅に戻り、ご飯を食べ、そして大学に戻ってきた。無論、四限の講義中も意識は宇宙に飛び立っていた。
講義が終わり、帰り支度をしていると、サチから連絡が来た。
『今帰り?』
『そうだよ』
『ご飯食べ行こうよー』
『いいよ。噴水のとこいるね』
講義室を後にした僕は、大学の中庭にある噴水の前でサチを待った。
「なぎさー」
少しすると、僕の名を呼びながら、サチが駆け寄ってくる。僕は思わず顔がほころんだ。
落合った僕らは、近くのファミリーレストランに向かった。
サチ。僕の大切な幼馴染。
サチと僕とが知り合った時の、明確な記憶はない。父さん曰く、僕がまだ幼稚園に入る前、実家の近くの公園によく遊びに行っていたのだが、そこで気が付いたらサチと仲良くなっていたらしい。
今でもそういう気質はあるが、幼少期の僕は輪をかけて人見知りが激しく、自分から人に話しかけることが出来ない子供だったそうだ。恥ずかしい話だが、僕はサチと二人で遊んでいる時、他の誰かが来ると、決まってサチの背中に隠れていたそうだ。
サチは僕より3つ年上で、母親を生まれてすぐになくしている僕からすると、サチはお姉ちゃんと言うよりもお母さんのような存在だった。ことあるごとにサチに頼っていたし、守られていたという自覚はある。
だからこそ今は、僕がサチに頼られる男になりたいと思っているものの、長年沁みついたこの関係性は、未だ変化を見せていない。
「お腹すいたね」
ファミレスの席に着き、サチは開口一番そう言った。サチは趣味が食事と言っても過言ではないほど食べることが好きだった。昔は、僕の父さんが家を空けている日に、態々家に来てご飯を作ってくれたこともあり、料理の腕前も確かだ。鶏が先か、卵が先か。食べるのが好きだから料理もうまくなったのか、料理がうまいから食べるのも好きになったのかよく分からない。
僕はドリア。サチはハンバーグやらサラダやらを頼んでいた。特段サチの食べる量が多いとは思わないが、しかし僕と比較すると多いと感じてしまう。
「相変わらず少食だねえ。そんなんじゃおっきくなれないよ?」
サチが僕をからかう。サチの決まり文句だ。僕はこのからかい文句にきまりの悪さを感じる。惨めな気持ち、というほど強い拒絶ではないが、言われて良い気持にはならない。
「僕の方が身長高いし……」
そう、僕はごにょごにょと反撃をした。しかしサチはそんなこと意に介していないようで、ニコニコとした表情を崩さなかった。
サチはおおらかだ。あまり怒っている姿を見たことはない。しかしその普段とのギャップの所為か、怒った時は滅法怖い。
悩みとかあるのかなあと思うが、多分ないのだろうと思う。少なくともその表情から、悩みと言うものは感じ取れなかった。
そのおおらかさの表れか、サチは女性の中では背が高い方だと思う。確か161センチあると言っていた気がする。流石に僕はそれより身長が高いが、しかし並んで歩いていると、そこまで背に差は感じられない。目線はほとんど一緒だ。
そう考えると、やはりきまりが悪い。
「……」
ほどなくして料理が運ばれてきた。いただきますと行儀よく手を合わせるサチに倣って、僕も手を合わせた。
サチは出てきた料理を食べると、幸せそうに「おいしいね」と笑った。
僕はそんなサチの表情が好きだった。ただ見ているだけで、空腹以外のものが満たされていくような感覚。
僕自身は男にしては少食で、食べることに関して関心はない。こだわりも特に強くない。けれど、サチと一緒にご飯を食べるのは好きだった。
その理由は間違いなく、サチのこの表情が見られるからに他ならない。
料理を平らげた後も、飲み物を飲みながら少しの間雑談に花を咲かせた。結局、ファミレスを出る頃にはすっかり暗くなっていた。
自転車で大学まで来ている僕とは対照的に、サチは電車で来ていた。ここで別れてもいいのだろうが、僕らは言葉もなく歩き始めた。
二人乗りを提案してもいいのだろうが、僕はこうして二人で歩いて帰るのが好きだった。
僕とサチはずっと一緒にいた。そしてこれからも一緒にいることだろう。そのことを僕は信じて疑わない。けれど、僕はそれを強く願う。このままずっと、こうした何気ない幸せを噛み締めていたい。サチと二人で。
大学からしばらく歩くと、閑静な住宅街に着く。僕たちの住むマンションは勿論別のマンションだが、お互いこの辺りに部屋を借りていた。サチの住む部屋から近い方が何かと便利だろうという父さんの配慮だった。
一気に人通りが減り、街灯がまばらになる。一人暮らしを始めてからしばらく経つが、やはりサチと二人で歩いていると、少し周りを警戒しながら歩いてしまう。サチはそんなこと知らないので呑気だが、しかしそれでいいのだ。
少し歩くと、曲がり角に差しかった。ここを曲がってしばらく歩くとサチの下宿先があり、真っすぐに行けば僕の下宿先がある。当然僕はサチの下宿先まで送るつもりでその角を曲がると、そこに、明らかに不審な男が立っていた。
全身黒色のコーデに身を包んでいる男。この夜と同化している、というよりも、その黒は、夜よりも濃く、暗いものに見えた。
フードを被っている所為で表情は窺えないが、それがより男の怪しさを助長させていた。
まず道路の真ん中に立っていることがおかしいし、よくよく見てみると、男は自分の指をくわえ、口から唾液を漏らし、息が荒かった。
気味が悪い。
僕はサチより一歩前に出た。
「……」
警察に通報するか?いや、今ここで通報して襲われるのも困るな……。別に何かをされたわけでもないし。
「サチ、今日は僕の家に泊りなよ」
色々と考えた結果、僕の出した結論がそれだった。
「……うん」
サチも男の異様な雰囲気に気圧されていたようで、いつになく神妙な面持ちをしていた。
僕は男から視線を離さないように、その角を何事もなかったかのように通り過ぎようとした。
その時だった。
僕は男と、目が合った。
その目は、真っ赤に充血していた。
その瞬間、全身の身の毛がよだった。
男が真っすぐにこちらに向かって走ってきたのだ。
逃げなきゃ。いや、でもサチを……。
サチを守らなきゃ。
そう思ったのに、僕の体は全く動かなかった。硬直していた。蛇に見込まれた蛙のように、全身が強張って言う事を聞かない。
まずい。死ぬ。
思わず目をギュッと閉じた瞬間、
「なぎさっ!!」
サチが声を聞こえた。
そしてその声が聞こえた後、強い衝撃が僕を襲った。僕は思わず後ろによろけて、その場に尻もちをついてしまった。しかしそれは男に何かされたからではなかった。
サチが身を挺すように、僕に体当たりしたのだ。
そんな、サチ……。なんで。
そうして僕の目に飛び込んできた景色は、サチの背中に男の手が貫通している姿だった。
「………!!!」
あまりにも非現実的な光景だった。何が起こっているのか、まるで理解できない。
サチが……サチが死んだ?男の手に貫かれて?
そんなの、そんなのおかしいじゃないか。
だって、そんなの、どう考えたって。
サチは……サチは……。
サチは僕をかばって死んだ。殺された。
僕は最後まで、サチを守れなかった。
僕は最後まで、サチに守られてばかりだった。
非現実的な光景の中、サチが僕を見た。確かに視線が合った。
サチは微かに口を動かしながら、こう言った。今にも消え入りそうな声で。
「にげて」
と。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
その瞬間、僕は走りだしていた。
けれど、自転車に躓き、その場に倒れ込んだ。
頭に鈍い衝撃が走る。
「うっ……うぅ……」
惨めだ。あまりにも惨めだ。
僕は、僕は何もできなかった。
僕には、何もできない。
立たなきゃ。立って逃げなきゃ。
そう脳は指令を送っているのに、やはり体が動かない。
見ちゃだめだ。後ろを、振り返っちゃだめだ。
それなのに、ダメだと分かっているのに、僕は後ろを振り返った。
そこに広がっていた光景は、まさに絶望一色だった。
まず男の手がサチの背中から抜かれ、サチの細い体から大量の血が噴き出した。
そして力なく倒れ込むサチ。その腕を、男は不躾につかみ、体を起き上がらせた。
何すんだよ。何すんだよ……。
そうして男はゆっくりと。ゆっくりと……。
「やめろ……やめてくれ……」
視界が滲み、ぼやけていく。
男はゆっくりと、サチの首筋を嚙み千切った。
血が噴き出す。
人が人を食う。あまりも非現実的な光景だ。でも確かに血の匂いがするのだ。これは現実だと、否応なく実感してしまう。
サチが声にならない叫び声をあげる。
もうやめてくれ……。
気が付いた時には、僕の口の中はパンパンに張れていた。胃の中のものが逆流していた。そんなことにすら、僕は気が付かなかった。
僕はその場で嘔吐した。グロテスクだ。あまりにも、なにもかも。
「ああ……ああ……」
視界が暗くなっていく。
男はその間も、サチの体を噛み千切っていた。それはまるで、サチのことを食べているかのようだった。
僕の意識は、そこで終わった。
まるでこの光景を拒絶するかのように。
そんなサチが、今、僕の目の前で死んだ。
その日はいつも通りの一日だった。アラームなしでいつも通りの時間に起きた僕は、眠気眼をこすりながらシャワーを浴びた。一人暮らしを始めてから、こうして朝シャワーを浴びることが習慣になっていた。
シャワーを浴び終え、僕は支度を始めた。スマホで今日の予定を確認しながら歯磨きをする。そういえば、一人暮らしをし始めてから朝ご飯を食べなくなった。忙しない一人暮らしの朝に、そんなことをしている暇なんていのだ。
洗面台の鏡に自分の顔が映る。あまり自分の顔は好きではない。好意的に表現すれば、中性的といえる容姿だと思う。身長もそこまで高くないし、体躯も細い。実際、中性的と言う言葉を、誉め言葉かのように言われることも多々ある。けれど、裏を返せば男らしくないということに過ぎない。虚弱で、弱々しい。
やはりそんな自分のことが、僕はあまり好きではない。
歯磨きを終えた僕は、簡単に服を着替え、鞄に荷物を詰め込み、ものの数十分でマンションを後にした。
駐輪場で自転車に乗り、走らせること数十分。大学に着いた。記号のような顔見知りの人に挨拶をされた。意味もなく、迷いもなく、それに返事をする。
講義室に入り、どこの席に座ろうかなと周りを見渡した。琢磨の姿はなく、僕は内心苦笑いしながら、窓側の席に座った。
ぼんやりと黒板を見つめながら講義を受ける。教授の言っていることは特に頭の中に入ってこず、そのまま素通りしていく。
僕としてはサチと同じ大学に入ることが最大の目標であり、それを達成することが出来たので、もう講義の内容なんてものはどうでもいいのだ。
意識だけ宇宙旅行にでること100分。ようやく講義が終わった。僕が今日残っているのは四限の講義だけだった。それまで相当時間がある。大学に居てもやることがないので、僕は一旦自宅に戻り、ご飯を食べ、そして大学に戻ってきた。無論、四限の講義中も意識は宇宙に飛び立っていた。
講義が終わり、帰り支度をしていると、サチから連絡が来た。
『今帰り?』
『そうだよ』
『ご飯食べ行こうよー』
『いいよ。噴水のとこいるね』
講義室を後にした僕は、大学の中庭にある噴水の前でサチを待った。
「なぎさー」
少しすると、僕の名を呼びながら、サチが駆け寄ってくる。僕は思わず顔がほころんだ。
落合った僕らは、近くのファミリーレストランに向かった。
サチ。僕の大切な幼馴染。
サチと僕とが知り合った時の、明確な記憶はない。父さん曰く、僕がまだ幼稚園に入る前、実家の近くの公園によく遊びに行っていたのだが、そこで気が付いたらサチと仲良くなっていたらしい。
今でもそういう気質はあるが、幼少期の僕は輪をかけて人見知りが激しく、自分から人に話しかけることが出来ない子供だったそうだ。恥ずかしい話だが、僕はサチと二人で遊んでいる時、他の誰かが来ると、決まってサチの背中に隠れていたそうだ。
サチは僕より3つ年上で、母親を生まれてすぐになくしている僕からすると、サチはお姉ちゃんと言うよりもお母さんのような存在だった。ことあるごとにサチに頼っていたし、守られていたという自覚はある。
だからこそ今は、僕がサチに頼られる男になりたいと思っているものの、長年沁みついたこの関係性は、未だ変化を見せていない。
「お腹すいたね」
ファミレスの席に着き、サチは開口一番そう言った。サチは趣味が食事と言っても過言ではないほど食べることが好きだった。昔は、僕の父さんが家を空けている日に、態々家に来てご飯を作ってくれたこともあり、料理の腕前も確かだ。鶏が先か、卵が先か。食べるのが好きだから料理もうまくなったのか、料理がうまいから食べるのも好きになったのかよく分からない。
僕はドリア。サチはハンバーグやらサラダやらを頼んでいた。特段サチの食べる量が多いとは思わないが、しかし僕と比較すると多いと感じてしまう。
「相変わらず少食だねえ。そんなんじゃおっきくなれないよ?」
サチが僕をからかう。サチの決まり文句だ。僕はこのからかい文句にきまりの悪さを感じる。惨めな気持ち、というほど強い拒絶ではないが、言われて良い気持にはならない。
「僕の方が身長高いし……」
そう、僕はごにょごにょと反撃をした。しかしサチはそんなこと意に介していないようで、ニコニコとした表情を崩さなかった。
サチはおおらかだ。あまり怒っている姿を見たことはない。しかしその普段とのギャップの所為か、怒った時は滅法怖い。
悩みとかあるのかなあと思うが、多分ないのだろうと思う。少なくともその表情から、悩みと言うものは感じ取れなかった。
そのおおらかさの表れか、サチは女性の中では背が高い方だと思う。確か161センチあると言っていた気がする。流石に僕はそれより身長が高いが、しかし並んで歩いていると、そこまで背に差は感じられない。目線はほとんど一緒だ。
そう考えると、やはりきまりが悪い。
「……」
ほどなくして料理が運ばれてきた。いただきますと行儀よく手を合わせるサチに倣って、僕も手を合わせた。
サチは出てきた料理を食べると、幸せそうに「おいしいね」と笑った。
僕はそんなサチの表情が好きだった。ただ見ているだけで、空腹以外のものが満たされていくような感覚。
僕自身は男にしては少食で、食べることに関して関心はない。こだわりも特に強くない。けれど、サチと一緒にご飯を食べるのは好きだった。
その理由は間違いなく、サチのこの表情が見られるからに他ならない。
料理を平らげた後も、飲み物を飲みながら少しの間雑談に花を咲かせた。結局、ファミレスを出る頃にはすっかり暗くなっていた。
自転車で大学まで来ている僕とは対照的に、サチは電車で来ていた。ここで別れてもいいのだろうが、僕らは言葉もなく歩き始めた。
二人乗りを提案してもいいのだろうが、僕はこうして二人で歩いて帰るのが好きだった。
僕とサチはずっと一緒にいた。そしてこれからも一緒にいることだろう。そのことを僕は信じて疑わない。けれど、僕はそれを強く願う。このままずっと、こうした何気ない幸せを噛み締めていたい。サチと二人で。
大学からしばらく歩くと、閑静な住宅街に着く。僕たちの住むマンションは勿論別のマンションだが、お互いこの辺りに部屋を借りていた。サチの住む部屋から近い方が何かと便利だろうという父さんの配慮だった。
一気に人通りが減り、街灯がまばらになる。一人暮らしを始めてからしばらく経つが、やはりサチと二人で歩いていると、少し周りを警戒しながら歩いてしまう。サチはそんなこと知らないので呑気だが、しかしそれでいいのだ。
少し歩くと、曲がり角に差しかった。ここを曲がってしばらく歩くとサチの下宿先があり、真っすぐに行けば僕の下宿先がある。当然僕はサチの下宿先まで送るつもりでその角を曲がると、そこに、明らかに不審な男が立っていた。
全身黒色のコーデに身を包んでいる男。この夜と同化している、というよりも、その黒は、夜よりも濃く、暗いものに見えた。
フードを被っている所為で表情は窺えないが、それがより男の怪しさを助長させていた。
まず道路の真ん中に立っていることがおかしいし、よくよく見てみると、男は自分の指をくわえ、口から唾液を漏らし、息が荒かった。
気味が悪い。
僕はサチより一歩前に出た。
「……」
警察に通報するか?いや、今ここで通報して襲われるのも困るな……。別に何かをされたわけでもないし。
「サチ、今日は僕の家に泊りなよ」
色々と考えた結果、僕の出した結論がそれだった。
「……うん」
サチも男の異様な雰囲気に気圧されていたようで、いつになく神妙な面持ちをしていた。
僕は男から視線を離さないように、その角を何事もなかったかのように通り過ぎようとした。
その時だった。
僕は男と、目が合った。
その目は、真っ赤に充血していた。
その瞬間、全身の身の毛がよだった。
男が真っすぐにこちらに向かって走ってきたのだ。
逃げなきゃ。いや、でもサチを……。
サチを守らなきゃ。
そう思ったのに、僕の体は全く動かなかった。硬直していた。蛇に見込まれた蛙のように、全身が強張って言う事を聞かない。
まずい。死ぬ。
思わず目をギュッと閉じた瞬間、
「なぎさっ!!」
サチが声を聞こえた。
そしてその声が聞こえた後、強い衝撃が僕を襲った。僕は思わず後ろによろけて、その場に尻もちをついてしまった。しかしそれは男に何かされたからではなかった。
サチが身を挺すように、僕に体当たりしたのだ。
そんな、サチ……。なんで。
そうして僕の目に飛び込んできた景色は、サチの背中に男の手が貫通している姿だった。
「………!!!」
あまりにも非現実的な光景だった。何が起こっているのか、まるで理解できない。
サチが……サチが死んだ?男の手に貫かれて?
そんなの、そんなのおかしいじゃないか。
だって、そんなの、どう考えたって。
サチは……サチは……。
サチは僕をかばって死んだ。殺された。
僕は最後まで、サチを守れなかった。
僕は最後まで、サチに守られてばかりだった。
非現実的な光景の中、サチが僕を見た。確かに視線が合った。
サチは微かに口を動かしながら、こう言った。今にも消え入りそうな声で。
「にげて」
と。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
その瞬間、僕は走りだしていた。
けれど、自転車に躓き、その場に倒れ込んだ。
頭に鈍い衝撃が走る。
「うっ……うぅ……」
惨めだ。あまりにも惨めだ。
僕は、僕は何もできなかった。
僕には、何もできない。
立たなきゃ。立って逃げなきゃ。
そう脳は指令を送っているのに、やはり体が動かない。
見ちゃだめだ。後ろを、振り返っちゃだめだ。
それなのに、ダメだと分かっているのに、僕は後ろを振り返った。
そこに広がっていた光景は、まさに絶望一色だった。
まず男の手がサチの背中から抜かれ、サチの細い体から大量の血が噴き出した。
そして力なく倒れ込むサチ。その腕を、男は不躾につかみ、体を起き上がらせた。
何すんだよ。何すんだよ……。
そうして男はゆっくりと。ゆっくりと……。
「やめろ……やめてくれ……」
視界が滲み、ぼやけていく。
男はゆっくりと、サチの首筋を嚙み千切った。
血が噴き出す。
人が人を食う。あまりも非現実的な光景だ。でも確かに血の匂いがするのだ。これは現実だと、否応なく実感してしまう。
サチが声にならない叫び声をあげる。
もうやめてくれ……。
気が付いた時には、僕の口の中はパンパンに張れていた。胃の中のものが逆流していた。そんなことにすら、僕は気が付かなかった。
僕はその場で嘔吐した。グロテスクだ。あまりにも、なにもかも。
「ああ……ああ……」
視界が暗くなっていく。
男はその間も、サチの体を噛み千切っていた。それはまるで、サチのことを食べているかのようだった。
僕の意識は、そこで終わった。
まるでこの光景を拒絶するかのように。