第1話

文字数 2,000文字

古谷(ふるたに)近藤(こんどう)はいつものバーにいた。

「カメラなんです。きっかけは」

古谷はそう言ってグラスに口をつけた。

「カメラ?」

「そう。何か趣味をと思ってカメラを買ったんです。本当は景色のいいところへ行きたかったんですが、休みもとれなくて、手始めに空いた時間で何か被写体になるものがないかと、街をうろついていたわけです」

「そこへ奥様が偶然通りがかった、と」

「そう。ファインダーを覗いてたら彼女が現れて、あまりに美しくて思わずシャッターをきってしまったんです。それで、勝手にすみませんと話しかけたのが彼女との始まりでした」

「そうだったんですね」

「ユートピアを作りたかったんです、日々の生活の中に。現実の辛さを忘れさせてくれる理想の世界を。お恥ずかしい話ですが、プロポーズでも言ったんです。『君にとってのユートピアを僕は作りたい』って」

「ユートピア、ですか」

「はい。それまでは金はあっても虚しいだけでした。部屋の灯り、帰宅を笑顔で迎えてくれる人、おいしい手料理。家庭というものが僕にとってのユートピアだったんですよ」

「なるほど。…それで、実現しましたか」

「形だけは。帰れば灯りはついてるし、笑顔でおかえりなさいと家政婦の松村さんが言ってくれて僕の好物が用意されている。妻が松村さんに伝えてくれているので。…しかし近藤さん、全く形だけです。中身は空っぽだ。ユートピアなんてやっぱり存在しない。あるのは現実だけです。話してるだけで虚しさが込み上げてくる。僕に必要なのは愛情だった。結婚さえすればそれは手に入るものだと思っていた。けれど妻には愛情なんてこれっぽっちもない。妻には他に男がいるに違いない。僕にはわかる。それでも僕は愛しているんですよ、妻を。ユートピアを守りたいんです」

近藤は深く頷いた。

「あぁ、でも僕は近藤さんに出会えて運が良かった。僕には親しい友人もいなかったし、ここであなたと出会うまではこんな話誰にもできなかった。きっとあなたに出会わなければ今日も松村さんの作った料理を1人虚しく食べていたと思います。それに今回のことも、何とお礼を申し上げたらいいか」

「いやいや、僕は何も。知り合いの探偵を紹介したまでです」

「おかげで妻のここ1か月の行動を入手できました。…このカメラで」

古谷はカバンの上に乗せてあるカメラをポンポンと叩いた。

「え?このカメラは…」

「そうです。妻と出会った時に持っていたカメラです。この2人の思い出のカメラで不貞の証拠写真を撮ってもらうことにしたんですよ。…そこまですればさすがに僕も踏ん切りがつきます」

「…そうですか。で?証拠は撮れたんですか?」

「…それが怖くて1人じゃ見られなくて。実は…ここに」

古谷はカバンから分厚い封筒を取り出した。

「…近藤さん、一緒に見てくださいませんか?」

「…私は構いませんが…いいんですか?」

「1人ではどうしても見られません。乗りかかった船だと思って…どうか先に見ていただけませんか」

「…わかりました」

近藤は封筒の中の写真に目を通し、その間古谷はカウンターに肘をつき、頭を抱えるようにしていた。

「…古谷さん」

「…はい」

「シロです」

「へ?」

「何もありませんよ、ほら」

古谷は差し出された写真の束を近藤の手から奪い取るようにして1枚ずつ確認した。

「エステや美容院に買い物…まあ、贅沢な時間の使い方をしていますが、奥様も寂しかったんじゃないですか?古谷さん、お仕事がお忙しいから」

「よ、良かった…!」

古谷は近藤の手をとった。

「ありがとう、ありがとう近藤さん!証拠を掴むなんて、1人じゃ踏み切れなかった。アドバイスしてくれてモヤモヤが晴れました!ありがとうございます!」

「良かった。愛情も時間とともについてきますよ、きっと」

その後古谷は上機嫌で帰っていった。




近藤は電話を取り出した。

「あぁ、もしもし?今帰ったよ、君のご主人。何も疑わず、言ったこと素直に受け止めてたよ。探偵を買収しただけで大丈夫だったかと思ったけど、心配することなんて何もなかったな」

『ふふ。鈍感でしょう、あの人。だから結婚したのよ。あの人ね、私にべた惚れだから嫌われたくないみたい。
家のことは家政婦に任せればいいし、お金も時間も好きに使えるし、私にとってこんなユートピア、他にないわ。
私が愛してるのはあなただけよ。ありがとう、私のユートピアを守ってくれて。…ねえ、次はいつ会える?』

「ああ。じゃあ明日にしよう、連絡するよ」

近藤は電話をきると、店に入ってきた若い女に手を上げて合図した。

「あら近藤さん、電話中だった?」

「きみの気にするような相手じゃないよ。なあ、明日ちょっと金が入るんだ。週末、旅行でも行かないか」

「いいの?電話のお相手とじゃなくて」

「僕のユートピアを作ってくれてるただの鈍感な女だよ」


近藤は鼻で笑って小さく呟いた。
「離婚されちゃ困るんだよ。守りたかったのは君のじゃない、僕のユートピアだ」
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