ありゃぁ雪だ

文字数 2,791文字

 じいちゃんは寡黙な人だった。
 挨拶したときも、呼んだときも、どっちがいいか聞いたときも、いつも静かにニコリとするだけ。
 電話のときだって「ん」って短く言うくらい。
 だからじいちゃんの声をちゃんと思い出そうとすると、必ずあの言葉になる。
「ありゃぁ雪だ」



 子供の頃、長い休みといえばじいちゃんの家というのが定番だった。
 それも僕一人だけで。
 両親ともに働いていたし、僕には学校に行かない日に遊べるほど仲が良い友達はいなかったし。
 じいちゃんの家に行けば好きな番組を見ることができたし、ゲームをどれだけやっても遅くまで起きていても怒られないし、それに一人暮らしの長いじいちゃんは料理も上手だったし。
 特に冬休みは、お年玉をたくさんもらえるのがたまらなく嬉しかった。
 これには雪かきのバイト代も含まれていたから。
 じいちゃんの家は積雪量の多い地域にあるから雪の季節は毎日のように屋根の雪かきをしなきゃいけない。
 放置し過ぎると家が潰されるくらい積もり続ける。
 サボって少し溜めてしまうと雪が重みで氷みたいになって取り除くのがさらに大変になる、というのは隣のおばあちゃんが教えてくれた。
 そう。僕はその時期、周囲の家の雪かきも手伝っていたのだ。
 小学生の頃は本当に「手伝い」という感じだったが、中学生にもなれば体も大きくなり、一人で三、四軒分雪かきをすることもあった。
 重労働ではあったけど、その労働に見合う分以上にお年玉やらバイト代やらを大量にもらっていた。
 じいちゃんの家のご近所さんは親戚でもないのに皆、自分の孫のように可愛がってくれた。

 そんな嬉しいことだらけのじいちゃんの家で、一つだけ受け入れ難いことがあった。
 夜中に家がきしむ音。
 その音は僕が中学生になったくらいの頃から聞こえ始めた。
 お向かいのおじいちゃんは、雪が積もるとその重みで家鳴りが起きるものだと教えてくれた。
 じいちゃんの家は古い木造の平屋だったし、そういうものだと言われたらそうなのかもしれないけど、でもその音は家鳴りという言葉では納得感を得られない何かがあった。
 どうにも人が歩きまわっているように聞こえたから。
 屋根には雪が積もっているのに、雪の上ではなく屋根のすぐ上を歩いているような足音に聞こえるのが嫌だった。
 しかも屋根の端の方からあちこち歩き回って、最後は必ず僕の真上でぴたりと止まるのが嫌だった。
 止まった後、トイレに立つとまるで僕を追いかけるように音はついてきた。
 布団を頭からかぶっても、さらに耳を塞いでも、その音は小さくならなかった。
 底冷えみたいに忍び込んで響いてくる音。
 テレビを点けようがイヤホンで音楽を聴こうが、耳にこびりついて逃げられない。
 真上で止まったあとは、足踏みみたいな音がじわじわ大きくなってくるような気さえする。
 何度も何度も踏みしめられているような、聞いているとだんだん息苦しくなってくる音。
 あまりにも不安になるからじいちゃんの寝ている部屋に避難した。
 そのときに言われたのがあの言葉。
「ありゃぁ雪だ」
 最初に聞いたときは、じいちゃんがしゃべったことの方が珍しくて怖さはどこかへ行ったほど。
 ただそれでも、中学生になったばかりの僕には一人でその夜を越えることができなくて、じいちゃんの部屋に布団を運んでそこで耐えて夜を明かした。
 一冬に必ず一回、その音が聞こえる夜があった。

 音のあった夜の翌朝は、なぜか雪かきが免除された。
「たまには自分で動かんと(なま)んべ」
 手伝いにきてくれたお向かいのおじいちゃんが笑いながら言う。
 雪かきのために屋根へと登っているじいちゃん達の足音は遠く感じる。
 あの音はもっと近かった。
 雪かきが終わるまで、僕は布団の中にこもって過ごすのが常だった。
 いつもならそれでおしまい。
 でも今年は二回目があった。
 一回目の翌日。
 音は随分と近い気がした。一回目のときよりも。
 屋根の内側どころか天井裏を歩いているんじゃないかってくらいに。
 しかも音の始まりは一回目と同じ場所だったのに、今度は音の動き方がまるで違う。
 音が、円を描くようにゆっくりと回り込みながら近づいてくる。
 蚊取り線香が燃え尽きてゆくように、じわじわと。
 次第に追い詰められてゆくような気持ちになる。
 明らかに最終地点がわかった上で歩いてきている。
 しかも速度もだんだん早くなってゆく。
 そう考えたら駄目だった。
 もう我慢できなかった。
 僕は高一にもなって、じいちゃんの布団に逃げ込んだ。
 去年のお年玉で買ったカナルタイプのイヤホンを耳の奥にぎゅっと押し込んで、馬鹿みたいに明るい曲をエンドレスリピートした。

 目が冷めたとき、じいちゃんの体がやけに冷たくて泣きそうになった。
「じいちゃんっ!」
 大声で叫んでじいちゃんの肩を叩くと、ふぅ、と小さなため息の後、じいちゃんは言った。
「ありゃぁ雪だ」
 朝から熱い風呂を沸かして、交代で体を温めた。
 僕が風呂を出ると、母親から着信が入っていた。
 僕はその日のうちに帰宅することになり、慌てて帰る用意をした。
 お向かいのおじいちゃんが車を出してくれて、僕はそれに乗る。
 じいちゃんはやらなきゃいけないことがあるらしく、玄関まで見送ってくれたあと、すぐに家の中へと引っ込んだ。
 雪は止んでいたけれど、積もった雪と空の境界とがちょっと見にはわからないくらい空は白かった。
 真っ白いじいちゃんの家が遠ざかる。
 そのとき僕は見てしまった。
 じいちゃんの家だけ、屋根に積もっている雪の量が倍くらいあるのを。
 他の家と比べて異様に盛り上がっているその雪を見つめているだけで、また体の芯が冷えてくる気がして、目を逸らした。



 家に帰ってから、ゲームソフトを一つ、じいちゃんの家に忘れてきたことに気付いた。
 じいちゃんに言って送ってもらおうとスマホを見たら、じいちゃんの家の電話番号が見つからない。
 もしかしてアドレス帳から消えてる?
 不安になって母親に尋ねると、眉間にシワを寄せられた。
「当分は電話も手紙も禁止」
「どういうこと?」
「何の理由もなしにこんなこと言わないわよ。わかってちょうだい」
 それっきりだった。
 ゲームソフトは父親が同じのを新しくすぐに買ってくれたけど、じいちゃんとは縁を切ったみたいに疎遠になって、あれから何年も経つけれど、いまだに。
 今では話題に出すことすらはばかられる雰囲気で、とてもじゃないけど蒸し返せない。
 あの雪の音が本当は何だったのかわからないけれど、それはずっと考えないようにしている。
 あの夜のことを思い出そうとすると、どんなに暖かくしていても、底冷えするような冷気がまとわりついてくるから。
 じいちゃんの家とは遠く離れた、どんな場所であっても。
「ありゃぁ雪だ」
 そう自分で自分に言い聞かせて、震えて夜明けを待つ。



<終>
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