4 戦後の経済成長

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4 戦後の経済成長
 1945年8月15日、国民は玉音放送によりポツダム宣言を日本が受諾したことを知り、9月2日、GHQによる占領統治が始まる。
 賀川昭夫は、『現代経済学』において、戦後の経変動の軌跡を次のように区分している。



期間
実質平均年成長率
戦後復興期
1945~54
9%
高度経済成長期
1955~73
9.2%
安定成長期
1974~85
4.0%
バブル経済期
1986~91
4.9%
平成不況期
1992~
1.2%


 日本はこの戦争を通じて近隣アジアならびに太平洋地域に多大な破壊をもたらしたが、日本自身も大きな損害を被っている。戦死者185万人、負傷・行方不明者67万人、空襲などにより離散者875万人に上る。また、国富は40%が喪失し、1935年の水準にまで下落、原材料ストックに至っては、4分の1が失われ、1935年の80%にまで落ちこんでいる。さらに、鉱工業生産力は最盛期のわずか10%しかない。
 このような状況に加えて、膨大な数の失業者の発生が見こまれている。敗戦と共に、軍人360万人と軍需産業従事者160万人が職を失い、外地から650万人が着の身着のままで引揚げてくる。彼らも食っていくために、何としてでも仕事にありつかねばならない。
 けれども、敗戦国日本は経済制裁を受けている状態であり、原材料と燃料は国内だけで調達しなければならず、製品も内需頼みという有様である。
 しかも、1944年と45年は米が不作で、例年の60%しか収穫できていない。農家も自分たちが生きてためにと米をなかなか外には出さない。都市の食糧不足は深刻化し、1946年5月19日、戦後初のメーデーでは腹をすかせた労働者の怒りが爆発する。米よこせとデモ行進し、後に「食糧メーデー」と呼ばれることになる。このままでは秩序の維持は不可能であると危機感を覚えた最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「暴民デモ許さず」の声明を出しながらも、ワシントンにさらなる食糧援助をするか増派するかどっちか選んでくれと打電する。当局は、賢明にも、前者を選択する。この小麦の援助は朝鮮戦争により米国内でも食糧が不足したときまで続く。
 1947年、後に経済白書と呼ばれる年次経済報告は、国家財政は赤字、代表的企業も赤字、国民の家計も赤字であり、日本経済は「縮小再生産」の道を辿りつつ、「インフレ」の危機に襲われていると切羽詰った現状を明らかにしている。
 インフレは、庶民が給与だけでは生活できないレベルにまで進行する。旧制中学卒の公務員の初任給が500円である。ところが、肉うどんの価格が5円、卵が6円であり、それぞれが月給のほぼ100分の1に相当する。かりに両者を300倍すると、前者が15万円であるのに対し、後者は1500円と1800円である。今日では、1800円の卵を探すのは至難の業である。また、その頃、後の三島由紀夫夫人杉山瑤子と一緒に疎開していた女性が結婚することになったが、その式場は日本橋三越である。売るものがないので、昼は式場、夜は進駐軍のダンス・パーティーの会場として貸し出されている。ハネムーンは熱海だったが、米持参である。手ぶらでは、旅館にも泊まれない。こうしたインフレの下、人々はいわゆる筍生活を余儀なくされている。
 1948年12月、GHQは日本経済自立のために、経済安定9原則を提示する。それは、均衡予算・徴税強化・資金貸出制限・賃金安定・物価統制・貿易改善・物資割当改善・増産・食糧出荷改善の9項目であり、これを遵守させる目的で、総司令部はデトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジを招請して具体的な政策立案に当たらせる。彼は赤字歳出を許さないと強硬な姿勢で、1ドル=360円の単一為替レートを設定、1949年度の予算は超緊縮均衡予算となる。それまでは物品別に異なる為替レートが用いられている。このドッジ・ラインにより、インフレは抑制されたものの、デフレが始まり、中小企業は倒産し、失業者が街に溢れ、赤旗が各地で林立する。革命の雰囲気さえ漂っている。
 そんな1950年、朝鮮戦争が勃発する。それに伴い、在日米軍を主体とする国連軍が日本に大量の物資・サーヴィスを発注する。1952年までの3年間で10億ドルもの特別需要が生まれ、ドッジ・ラインで青息吐息の日本経済は息を吹き返す。この特需で最も重要なのは、事実上、経済封鎖が解除され、貿易が復活したという点である。これにより、縮小再生産から拡大再生産の道へと歩み始めることになる。
 この朝鮮戦争を始めとして、戦後の節目となる出来事を挙げるとしたら、それらは次のようになろう。



分岐点
1950年
朝鮮戦争
1965年
昭和40年不況
1971年
ニクソン・ショック
1973年
第一次オイル・ショック(第4次中東戦争)
1979年
第二次オイル・ショック(イラン・イスラム革命)
1985年
プラザ合意
1997年
金融危機
2008年
リーマン・ショック


 1956年、通産省は経済白書に「もはや戦後ではない」と記す。この名文句は、日本経済は戦後復興期から自立的な経済成長の時期に移行しなくてはならないという決意表明である。ここから高度経済成長が始まる。
 高度経済成長は、要約するならば、旺盛な設備投資による経済成長の時代である。企業は、幸先がいいとなれば、イノベーションを活発に行い始める。まず、現場に新しい機械を導入し、それで儲かったなら、次には工場を建て替える。さらに売り上げが伸びたら、工場群を新設する。設備投資によって国民所得が上昇し、それを消費に使う。国民所得は設備投資に依存し、消費は遅れて増加する。この経済成長において、設備投資が先であって、消費はその後である。設備投資が経済を引っ張り、消費が後押しする。
 この経済成長期に普及するのがいわゆる「カンバン方式」である。在庫をできる限り、つくらない。このトヨティズムはトヨタにとどまらず、鉄鋼や機械部品など関連産業にも波及する。日本は在庫を最小限にする方式に支えられた高品質低価格の商品で世界の市場を席巻する。しかし、この在庫に対する神経質さは、新自由主義が支配的なると、希薄になり、リーマン・ショックの際に、本家のトヨタの経営を脅かすことになる。
 戦後の代表的な好況期には次のようなものがある。



期間
神武景気
1954年11月~57年6月(31ヶ月)
岩戸景気
1958年6月~61年12月(42ヶ月)
オリンピック景気
1962年10月~64年10月(24ヶ月)
いざなぎ景気
1965年10月~70年7月(57ヶ月)
バブル景気
1986年12月~91年2月(51ヶ月)
いざなみ景気
2002年2月~07年10月(69ヶ月)


 高度経済成長期には、四つの大きな景気があり、神武景気・岩戸景気・オリンピック景気・いざなぎ景気とそれぞれ呼ばれている。いずれも日銀が公定歩合を引き上げることで意図的に終息させているが、前の三つといざなぎ景気では理由が異なっている。
 神武景気からオリンピック景気までの場合、政府・日銀の政策判断は国際収支の悪化を懸念材料としている。景気がよくなれば、原材料や機械の購入により輸入が増加する。ところが、国際競争力のある製品がまだ十分でなかったため、外貨準備高が少なく、国際収支の赤字が増加する。この状態が続くと、日本の支払能力が疑われ、円の信用度が下がる危険性が増す。輸出先も通貨が切り下げられそうならば、それを待ってから買う方が得であるから、日本製品は売れなくなり、貿易赤字はさらに悪化する。この悪循環を断ち切るために、日銀は公定歩合を引き上げ、過熱した景気を冷ます。すると、輸入は激減し、また企業も在庫を減らすために、値引きして製品を輸出するので、国際収支は改善していく。こういう過程を注意しながら、日銀は、頃合いを見計らって、公定歩合を再び引き下げ、経済はまた好況へと向かう。昭和30年代は、このようにして好不況を繰り返している。
 1965年は節目の年である。日本は、明治維新以来の悲願だった国際収支の黒字の常態化を達成する。外貨の流出を気にする必要がなくなり、経済政策の中心が金融政策から財政政策へと移行する。この年から海外渡航が原則自由化され、Made in Japanだけでなく、人も海外に飛び出していく。
 1964年10月、東京オリンピックが終了すると、政府・日銀は金融の引き締めを図る。ところが、想定外の大型倒産が相次ぐ。この年、サンウェーブと日本特殊鋼がつぶれ、翌年には山陽特殊製鋼が当時としては史上最悪の負債総額500億円で倒産する。大幅赤字に転落して、取り付け騒ぎが起きた山一證券は、田中角栄蔵相の指導力による日銀特融で何とか生きながらえる。
 実は、この間、慌てた日銀は公定歩合を1%以上も下げたのだが、効果はほとんどなく、結局、65年7月に、戦後初の建設国債、いわゆる赤字国債の発行を決断する。これを受け、株価は上昇に転じ、不況から脱却する。こうして経済政策の主体が金融から財政へと変わる。
 金融政策と財政政策は、経済政策としては同じよう効果を発揮する。ただし、財政支出の増大が民間投資を圧迫するクラウディングアウトが完全に生じているときには、財政政策は有効ではない。金融政策を選択しなければならない。一方、将来に対して悲観的見通しが支配知る場合、投資や消費が抑制されるため、金融政策ではなく、財政政策の方が効力を示す。
 経済政策には、認知の遅れ・実行の遅れ・効果の遅れという三つの遅れが伴う。経済状況が変化しても、指標として表面化するまでに時間がかかるなどして政策当局が認識されるのに遅れが生じる。政策発動の必要性が認知されると、通常、それを実行するまでには政府・与党内部での調整や国会での議論、関係機関との折衷などが待っている。政策が実行されたとしても、実際に効果が出るまでにはしばらく時間がかかる。金融政策は実行の遅れは少ないが、効果の遅れは大きいとされているのに対し、財政政策はその逆である。皮肉なことに、財政政策が主力となった後の70年代、永田町は保革伯仲の時代に突入している。
 いざなぎ景気はこのような状況から、これまでの景気以上の長期に続く。1967~68年頃に、日本は完全雇用を達成する。68年の日米の学生運動の間には、社会的・経済的背景の点で大きな隔たりがある。しかし、公害とインフレという二つの問題が深刻化する。日銀は戦後初めてインフレ抑制のために、公定歩合の引き上げに踏み切り、いざなぎ景気は幕を閉じる。
 高度経済成長期は1970年をすぎてからも続くが、実質的に60年代で終わっている。1970年代、日本を含めた先進諸国は世界的な同時ショックを三度も味わう。日本経済は、安い原油と実力以上に低く抑えられた円の対ドル為替レートを背景に、奇跡とまで称された経済成長を達成してきたが、その三度の危機によって両輪が奪われてしまう。
 第2次世界大戦後、ドルは世界における基軸通貨、すなわち公共財としての地位を維持してきたが、ヨーロッパ各国や日本が経済復興を遂げ、アメリカは膨大な軍事支出・援助支出を続け、その上、1950年代後半から国際収支の赤字幅が次第に拡大し始め、ドルに対する信任がゆらいでいく。1971年8月15日、突如、リチャード・ニクソン大統領はドルと金との交換を停止すると表明する。事実上、このときに固定相場制が崩壊したのだが、各国の当局者は対応に追われ、紆余曲折をたどる。しかし、とうとう、73年2月、主要国がすでに全面的な変動相場制に移行していた現状に、日本も追随する。
 ニクソン・ショックにより、急激な円高ドル安が進み、輸出関連産業が大打撃を受け、日本経済は不況に陥る。1970年代を通してドル安基調であり、日本企業はそれに対処するため、生産性の向上とイノベーションに励み続ける。
 1973年10月6日、度4次中東戦争が勃発すると、OPECは原油の公示価格の大幅な値上げと減産、イスラエル支援諸国への禁輸を発表する。ヨム・キプール戦争は10月26日にイスラエル側の勝利で終決したが、減産カルテルは続き、翌年の1月には原油価格を2倍にすると産油諸国は決定する。
 おりしも、田中角栄首相が日本列島改造計画をぶち上げ、不動産や建築資材等への投機のため、インフレが急速に進んでいたときである。原油価格の高騰はインフレをさらに加速させ、消費者物価指数は、74年、23%も上昇してしまう。福田赳夫蔵相が命名した「狂乱物価」抑制のため、日銀は公定歩合を引き上げる。企業の設備投資は冷えこみ、同年、マイナス1.2%と戦後初めてマイナス成長を経験する。
 生産の減少や失業者数の増加などの経済活動の停滞と物価の上昇が併存する従来と違うタイプの不況に陥る。この状態は「スタグフレーション(Stagflation)」とめいめいされるが、それは「停滞」を意味する「スタグネーション(Stagnation)」と「インフレーション(Inflation)」を合成した造語である。
 スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油というのは、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は。限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。
 スタグフレーションへ対応するためには、政府が総需要を増やすような金融・財政索をとることは好ましくない。このタイプの不況では、失業率の増加と物価上昇が起こる。生産量を元の水準に戻すことができたとしても、物価も上昇してしまう。むしろ、生産性の向上を推進する技能訓練・教育を推奨する公共政策が効果的である。「省エネ」はその代表例である。
 日本政府は奇策ではなく、この総需要の抑制という手堅く、オーソドックスな政策をとる。その結果、日本経済は5年ほどで回復している。
 1979年、イランでイスラム革命が起き、同国からの原油輸出が中断される。このときも、日本政府・日銀は先の危機とほぼ同様の総需要の抑制という対応をとる。欧米諸国と違い、イランと友好的な関係を続けた外交努力も認められるが、これにより、日本の傷は浅くすんでいる。この回復の速さが、80年代に日本的経営が賞賛され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と讃えられた一因であったことは見逃せない。
 他方、アメリカは経済統制に走る。74年、ニクソン大統領はガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名する。彼の辞任後、石油価格を始めとして統制は多岐に亘る。原油価格の高騰に伴い、物価が急騰し、アメリカの国内産業はパニックに陥る。燃費の悪い大型車に偏重してきたビッグ3は、日本の小型車に市場を奪われ、製造業は生産性が悪く、急速に国際競争力を失い、失業率は急激に上昇する。ドワイト・アイゼンハワー大統領から国防長官に指名されたチャールズ・ウィルソンGM最高経営責任者は、1952年、その資格を審査する議会の公聴会で、「ゼネラル・モーターズにとってよいことはこの国にとってもよいことです(What's good for General Motors is good for the country)」と証言したが、両者の利益は乖離し始める。デイビッド・ハルバースタムは、『覇者の驕り』の中で、「米自動車産業がモノを生産することから利益ばかりを追うことに変わっていった」と批判している。多くの地方自治体の財政が逼迫し、78年、クリーブランドが大恐慌以来都市として初めて破産する。
 辞任したニクソンに代わってジェラルド・フォードが大統領に就任したが、選挙で選ばれていなかったため、指導力を発揮できず、有効な経済政策を打ち出せない。インフレ抑制には熱心だったけれども、1975年初め、失業率は大恐慌以来最高の9%弱に達している。にもかかわらず、この共和党政権は雇用創出を高所得者層の減税により購買力の向上に期待している。次のジミー・カーター大統領は、環境対策に熱心でありつつも、金融界の望む政策をとり、規制緩和によって景気浮揚を試みている。今では忘れられているが、当時、彼は、グローバー・クリーブランド以来、最も共和党に近い民主党大統領と見なされている。しかし、イラン革命により、彼の経済・外交政策が大打撃を受け、二期目を務めることなく、ホワイトハウスを去る羽目になる。その後、カーターは最も偉大な元大統領として精力的に世界を飛び回っている。
 カーターに代わって就任したロナルド・レーガン大統領は、ポール・ボルカーFRB議長と共に、インフレ抑制を優先し、金融引き締め、ドル安基調を是正すべく、高金利政策に方針転換する。このドル高円安を背景に、日本からアメリカ市場に向けて自動車・家電製品が続々と輸出される。しかし、連邦政府は、高金利政策と膨大な軍事費により、財政赤字と貿易赤字、いわゆる「双子の赤字(Twin deficit)」に陥る。85年初めにはアメリカの貿易赤字が放置できないほど深刻化してしまう。
 レーガン政権は対外的に無茶な要求を繰り返している。1980年代、途上国が債務危機に陥ったとき、アメリカはIMFにその諸国ではなく、自国の銀行を救済させている。貸し付けたアメリカの品行が危なくなれば、世界経済に重大な悪影響を及ぼすというのがその理由である。また、日本には、自由防衛期待性を建前として維持するために、自動車の「自主的」な輸出規制をさせている。
 1985年9月、ニューヨークのプラザ・ホテルで、各国が協調してドル安に誘導する合意が結ばれる。日米の金融当局は1ドル=240円の為替レートを200円程度に下げたい思惑だったが、円高ドル安が急速に進み、87年には、1ドル=140円台に突入する。
 ドルが世界経済を牽引する時代は、ニクソン・ショックですでに終わっている。今やドルを世界経済が支えなければならない。ドルの信用度が凋落したとしても、北米市場は、言うまでもなく、世界最大規模であり、その消費が世界経済に与える影響は大きい。
 日銀は、この円高を抑えるべく、87年、公定歩合を2.5%にまで思いきりよく下げる。この金融緩和により、バブル景気が本格化し、株価と地価が高騰する。株価は、1982年10月から上昇基調が続いていたが、86年春より急騰し、89年末に4年前の約3倍、3万8915円に達する。一方、地価は、83年頃より東京都心の商業地が上昇に向かい、その後、東京圏から大都市圏へとこの動きは拡大し、さらに全国へと及ぶ。東京・名古屋・大阪の三大都市圏(の商業地の公示地価は、86年から跳ね上がり、91年には3倍にまで上昇する。
 実は、バブル経済は、株価と地価(住宅価格)が3倍を目指して急騰する現象である。 今回の金融危機にも、同様の動向が見られる。アメリカの株価はITバブルの始まった95年から07年までに3倍を超え、住宅価格は97年より06年までに3倍に到達している。
 日本では「地価」、アメリカにおいては「住宅価格」としてデータを集計・公表するのは、不動産に関する民法上の認識の違いによる。日本の場合、地主と住宅の所有者が異なっている物件も少なくないように、土地と住宅を別個に考える。この発想は、先進国の中では例外的である。他方、アメリカにおいては、住宅の建てられれていない土地の取引もあるが、上部構造と下部構造がセットで扱われるのが一般的である。不動産をめぐる認識は、基本的人権が所有権から始まったことを考えれば、その国における近代化を考察する際の重要なテーマの一つとなりうる。
 バブルの原因は何かという問いは経済学者の間で盛んに議論され、さまざまな説が提示されている。ただ、大幅な金融緩和によるカネ余りがバブルを引き起こす一因であることは確かであろう。準大手の投資銀行ソロモン・ブラザーズの元副社長ヘンリー・カウフマンによれば、バブルを防ぐには企業・家計・金融部門の負債残高の対名目GDP比率が急増しないようにつねに監視・規制することが不可欠である。日本のバブル期において、企業と家計の負債残高の名目GDPに対する比率は、85年度の264%から89年度には319%に50ポイントも上昇している。アメリカでも、同様に、負債残高の名目GDP比率は97年から07年までに50ポイント増えている。さらに、金融部門の負債残高の名目GDP比率も日米ともに上昇している。日本の経験を踏まえるならば、9・15を迎える前に、連邦政府とFRBはもう少し打つ手はあったはずである。
 カウフマンは1980年代前半にすでに今回の金融危機の到来を危惧している。準大手のソロモン・ブラザーズは、おりからの債権の自由化を受けて、「モーゲージ債」と呼ばれる金融の新商品を販売する。これは各種の債権を投資銀行が購入し、さまざまな方法を用いて新しい債権へと組み直したもので、後に複雑化、すなわち不可視化する。従来、投資銀行は仲介業務を主な事業内容としてきたが、この「自己勘定」と呼ばれるビジネスは初めての独自のモデルとウォール街で脚光を浴びる。しかし、自己資本に乏しい投資銀行はその資金を外部から調達しなければならず、レバレッジに依存することとなる。それに対し、ソロモンの副社長ヘンリー・カウフマンは、金融はあくまでもバイプレーヤーに徹するべきだという信念に基づき、このハイリスクな手法は恐ろしい危機を招くと取締役会等で警告する。けれども、同調する声は一切なく、彼はその地位を追われる。
 新たな金融商品を考案したとソロモンのレーダーたちは他の投資銀行から高額な報酬でヘッド・ハンティングされ、それを防ぐために、ソロモンも巨額なボーナスを提示し、他者もツイヅいる。投資銀行業界はサラリー・キャップのないフリーエージェント制へとなし崩しに突入したようなもので、売り上げをほとんどこの人件費に費やす有様となってしまう。とうとう自社株を賞与として提供することも常態化する。金危機後、ウォール街は賃金の硬直性という現代経済学における基本的な課題など人事だといわんばかり態度を示し、全米から怒りをかうことになる。
 80年代後半、企業は余ったカネを本業の設備投資よりも、不動産や証券の購入に回している。金融機関もそれを積極的に推奨する。財テクをしない経営者はバカだと思われる雰囲気が巷に漂う。バブル前夜に殺害された豊田商事の永野一男会長は、産業をヒエラルキーとして捉え、いわゆる実業よりも虚業の方が高級だと考えている。彼によれば、製造業が最も下位に属し、次が商品を流通させる商社、その上が銀行や保険会社、最高位に位置づけられるのが投機だというわけだ。経営者は永野理論通りに邁進する、
 しかし、バブル経済では、株価と地価の高騰はあっても、消費者物価はさほど上昇していない。おまけに、年平均経済成長率にしても、4.9%であり、安定成長期をわずか1%弱上回っているにすぎない。加えて、本業以外には無謀なまでに手を伸ばしたものの、次世代を牽引する産業も生まれてもいない。はじけた途端、あれもこれもと拡大方針をとった企業は設備・雇用・債務が共に過剰になってしまう。こうしたデータを見るだけでも、健全な設備投資の経済成長に対する影響力の大きさを改めて実感するのみならず、バブルの空疎さがわかる。
 いつの時代・社会でも、バブルには過信がつきものである。狂信者を冷静にさせるのは難しい。もっとも、バブルに踊りながらも、こんな馬鹿騒ぎがいつまでも続くはずはないと感じていたものも少なくなかっただろう。崩壊に向かっていく途上、おかしいと思いながらも、この生活を失いたくないから疑問をさしはさまない。そのときが遠くないとしても、もう少しだけパーティを楽しんでいたい。
 1989年から日銀は公定歩合を段階的に引き上げていく。1年ほどの間に2.5%から6%にまで公定歩合が上昇した急激な金融引き締め政策は、バブルを崩壊させる。92年の成長率は1.0%、93年0.3%、94年0.6%と低迷し、日本経済は「失われた10年」とも呼ばれる打長期不況に沈む。
 92年の宮澤喜一内閣から20001年の小泉純一郎内閣成立までの間に、政府は180兆円もの財政出動を実施するが、経済状況は思うようには改善しない。とうとう、小渕恵三首相は、199年4月、総額6194億円に及ぶ地域振興券を配布して、消費による景気浮揚を狙ったが、多くが貯蓄に回り、まったくの失敗に終わる。投資は将来を見越して行うものであり、消費もそれを後追いして増える。投資が伸びないのは将来に不安があるからであり、それを見ずに消費を刺激しても、持続性はない。おまけに、1993~94年頃からデフレへと突入し、その後、デフレ・スパイラルに陥る。デフレからの脱却が90年代半ばからの重要な経済問題と位置づけられるが、なかなか解決できない。
 小泉内閣成立前後から、いわゆる「小さな政府」論、すなわち日本は大きな政府から小さな政府を目指さなければならないという議論が激しく展開されたが、それはしばしば短絡的である。実際には、政府支出を見る限り、1970年代に入るまでは日本は一貫して小さな政府である。一般会計における政府支出の対GDP比は、1970年代後半に上昇したものの、それ以前は10%程度であり、80年代でも10%台である。政府支出が急増したのは90年代からであり、2001年には38%にまで拡大している。特に、公共投資の伸びが著しく、国際的に比較しても、高水準である。ただし、この時点でさえ、一般政府総支出が増加傾向であとしても、OECD諸国の中では低い方である。また、他の先進諸国の平均と比べて、最終消費支出と社会保障移転の割合が小さく、総資本形成、すなわち公共投資が大きい。なされえるべきは小さな政府論だったのかということは、依然として、検証されなければならないだろう。
 長期停滞に対処するため、企業は新卒採用を絞りこみ、就職氷河期が到来する。正社員を解雇したり、賃金カットしたりするのは難しい。そこで、採用抑制による固定費削減を実施している。こうした環境から、いわゆるフリーターが多様な働き方の一つとして世間でも認知される。事実、日本企業の新卒偏重は是正すべき習慣であったが、この採用抑制は中長期的展望を欠いており、企業や労働者、社会全体にとっても大きな損害として後に跳ね返ってくる。企業内のいびつな年齢構成は、団塊世代の大量退職の時期に、社の宝とも言うべきノウハウやスキルの継承がうまくなされず、生産性や品質の低下を招いてしまう。いくら働いても雀の涙ほどの給与の現状では、消費が伸びず、デフレが継続し、出生率が上向くはずもない。しかも、1998年以来、自殺者は3万人を超え、その中には経済問題が主因と思われるケースも多く含まれる。親が低収入のために育てられなかったり、虐待したりするなどの理由で施設に預けられる子供の数も急増している。人々の心はすさみ、寒々とした雰囲気が社会を覆う。
 バブルがはじけてしばらくすると、金融機関を含めた各企業の無責任さと強欲さが次々と明らかになり、また、膨大な不良資産を抱えていることも判明する。1996年1月に開会された第136回国会は、住宅金融専門会社の不良債権処理のために6850億円の公的資金の投入をめぐって第紛糾する。経営破綻した住専の不良債権処理に税金を使うことに世論が反発し、それを受けて野党がピケをはり、国会審議をとめる。これは、後に「住専国会」と呼ばれることになる。
 こうしたバブルの企業経営はずさん以外の何物でもなかったが、形式的な完璧さが実態を伴っていないとどうなるかは、エンロンの不正経理事件がよく物語っている。もしそれが字義通り働いていれば、一切の不正など起きようもなかったけれども、エンロンのシステムはまったく機能していなかったことが発覚している。経済では、性悪説に基づかねばならず、独立性が最も不正を防止できる。
 1995~96年に経済の好転の兆しが見えてきたため、97年4月1日、橋本龍太郎内閣は財政の健全化を果たすために、消費税率を3%から5%に引き上げ、2兆円の所得税減税を打ち切り、社会保険料も値上げするなどの約9兆円もの大増税を実施する。しかし、これで景気悪化が急速にぶり返す。北海道拓殖銀行や山一證券、日本債権信用銀行、日本長期信用銀行、日産生命、三洋証券など金融機関が倒産・廃業に追い込まれ、日本発の世界金融危機が起きるのではないかと巷で噂される。
 都市銀行の再編が進む過程で、メイン・バンク制が崩れ、大手企業は銀行からの融資よりも、市場から資金を調達するようになる。こうした変化は企業の情報開示を促したことは認められるが、目先の利益に走る短期業績主義を蔓延させる。儲けは社員の給料ではなく、株主の配当や内部留保金へと優先される。それに応える役員は高額な報酬・退職金を手にする。05年に会社法も改正され、会社は株主のものと規定する。
 けれども、そのイデオロギーを日本に吹きこんだアメリカでは、リーマン・ショック以来。それが再考を促されている。数多くの企業が公的支援を受けているが、それは元々は税金である。また、再建されるクライスラーの株主構成は労組が55%を占め、GMでは労組が17%、連邦政府が60%を保有する。政府に財源は税金であり、納税者が間接的にGMを所有していることになる。これは大陸ヨーロッパでよく見られるステークホルダー資本主義である。
 90年代に入って、大型合併が日本の経済界で相次いでいる。大きくなれば、スケール・メリットを生かせるし、外資による買収防衛にもなる。しかし、大型企業の登場は必ずしも効率性の向上につながっていない。三越と伊勢丹の合併は、お互いの企業風土の違いが大きく、スケール・メリットなどない。おまけに、いざメガ化すると、大きすぎてつぶせないと公的支援が必要となり、国家財政を圧迫する。
 1999年2月、日銀は、短期金利の指標である無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15%に誘導すると発表し、いわゆるゼロ金利政策を実施する。ところが、民間投資は一向に回復しない。いくら金融を緩和しても、景気が上向かないこの時期、日本は「流動性の罠」にはまっていたと考えられる。不況に陥り、将来の見通しも暗い状況では、中央銀行が多少利子率を下げても、企業は設備投資に回さない。この場合、利子率が下方硬直するだけで、金融政策は有効ではない。これが「流動性の罠」と呼ばれる状態である。対策としては効果的な財政政策が必要であるが、日本政府の無駄な公共事業の悪癖は直らない。とにかく景気対策を求めるために、財政規律が緩み、有効性を慎重に審査することもなく、カネがばらまかれる。これでは経済成長床とか、投入した税金の回収さえままならない。
 2001年に発足した小泉純一郎政権は高い支持率を背景に、「構造改革」と総称される政策を実施する。すでに傾いていた新自由主義の方向へ妄信的と呼べるほど思いきって進めていく。政府による規制を野放図なまでに緩和し、道路公団や郵政三事業を民営化する。
 2001年から続くゼロ金利政策を始めとする金融緩和、ならびに2004年以降の円安、北米や欧州、新興諸国の需要拡大により、日本の輸出関連産業は売り上げを伸ばし、2002年2月から好況に入る。もっとも、その間、製造業は生産拠点を人件費の安い中国や東南アジアへと移し、国内でも、製造業にまで適用範囲が広げられた派遣法の2004年の改正による非正規雇用層に拡大され、雇用の調整弁を整備している。企業がいくら儲かっても、労働者の賃金の上昇にはつながらず、株主への配当や役員高額報酬、内部留保金に消える。企業買収も恐い。それに備えなければならない。なるほど、自由貿易体制が日本にとって有益であり、内需に頼っていては大幅な産業発展は望めないことは確かである。繰り返される不況の中で生産性の向上とイノベーションに励んだおかげで、多くの企業の体脂肪率は低下し、国際競争力のあるアスリートトに育っている。しかし、体脂肪は減らしすぎると、健康にはよくない。基礎体力も維持できなくなる。それよりも、足腰を鍛えるべきだ。少子高齢化に伴う国内市場の縮小を言い訳に、大手企業は内需を捨て、極端な輸出依存へと経営方針を転換し、国内経済の基礎体力は急激に弱体化する。これは、結局、実感なき好景気にすぎない。「すべての産業はまず内需にその根底を持たないと発達しないように思う」(石橋湛山『国産果物進歩』)。
 高度経済成長期は景気がよくなれば、収入も増え、明日への希望があり、人々はよく消費したが、いざなみ景気にはそんな光景は見られない。給料も上がらず、いわゆる消えた年金を始めとする社会保障制度への不信が将来への不安を増幅し、財布の紐は堅い。未来のない景気である。
 2006年11月15日付『朝日新聞』は、いざなぎ景気とバブル景気、いざなみ景気を次のように比較している。なお、景気の期間区分については先の説とは異なっているので、データに若干違いが見られる。

主な景気拡大期の特徴
いざなぎ景気
65年11月~70年7月
バブル景気
86年12月~91年2月
現在の景気
02年2月~
経済成長(実質国内総生産・年平均)
11.5%増
5.4%増
2.4%増
企業収益(経常利益・年平均)
30.2%増
12.1%増
10.8%増
物価(消費者物価指数)
27.4%上昇
8.5%上昇
0.4%下落
地価(全国市街地価格指数・商業地)
95%上昇
69%上昇
30%下落
月給(毎月勤労統計調査)
79.2%増
12.1%増
1.2%減
パート労働者比較(毎月勤労統計調査)
(データなし)
11.1%(91年2月)
21.4%(06年8月)
完全失業率(期中の最高~最低)
1.0~1.6%
2.0~3.1%
4.0~5.5%
高齢化率(65歳以上の割合)
7.1%(70年)
12.1%(90年)
20.7%(06年)
消費ブーム
3C(カラーテレビ、車、クーラー)
日産シーマ、大型テレビ
デジカメ、DVD、薄型テレビ


 物価や地価もさることながら、月給のデータは目を覆いたくなるばかりである。「所得半減計画」でも立てているのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。企業収益も落ちているけれども、労働者の置かれている環境は、明らかに悪化している。
 ソニーやパナソニック、ホンダなど戦後日本を代表する企業は財閥ではなく、町工場出身である。GHQは、1945年、政府に財閥の解体を指示する。対象となったのは三井・三菱・住友・安田の4大財閥、銀行中心の川崎・野村・渋沢、産業資本の浅野・大蔵・古河・、軍需産業拡大で生まれた日産・日窒・理研・中島・日曹である。この財閥解体がなければ、こうしたやる気と頑張りに溢れた企業は発展できず、戦後の経済成長も違う姿になっていたかもしれない。社長は社員の代表であり、「おやじさん」であり、「おかみさん」である。彼らは社員と寝食を共にし、現場からの声をよく聞き、それを開発・営業・経営に生かす。しかし、今の大手企業はかつての財閥のようになってしまったとも見受けられる。
 こうした大転換は制度学派の主張を裏付けている。アメリカで主流の新古典派は市場の自動調節メカニズムを重視し、カール・ポパーの反証可能性よろしく、変化は漸進的に解決されていく。小さな危機に関しては、確かに、新古典派の理論が妥当であろう。一方、ジョン・K・ガルブレイスに代表される「異端」とも呼ばれる制度学派の考えは、トマス・クーンのパラダイム理論同様、大きな危機に際して、適切である。制度は生まれたときには、その意義・理由はあったが、一度動き出すと、それが生き延びていくこと自身が目的となってしまう。そうした制度は市場のメカニズムに任せていては改善できず、意識的に改革していかなければならない。戦後日本の場合、この財閥解体がパラダイム・シフトである。
 不安定で薄給の雇用に加えて、セーフティー・ネットが不十分である現状では、出生率が上がるはずもなく、ますます少子化が進むのも必然であろう。すでに日本では、生産年齢人口(15歳~64歳)が減少に転じ、2005年には総人口の減少も明らかとなっている。生産年齢人口の減少が始まれば、住宅価格は下落する。世帯数は人口ほどに急速に減らないだろう。しかし、将来、住宅需要は減少することはあっても、好転するのは望めない。住宅建設は、地価のみならず、国内の景気に大きな影響を与える。建設資材などの他に、引越に伴う耐久消費財の買換えの需要を呼ぶ。なるべく金を使わずにすませたいと思いながらも、引っ越すと、短すぎるカーテンで我慢しても、なんだかんだと出費がかさむ。少子高齢化の問題は社会保障に限らない。
 収入の低下は、地方経済にとっても、その再生を難しくする要因となっている。税収の減少は言うまでもないが、地方が活性化するためには、特産品の全国展開や観光旅行客の誘致が欠かせない。しかし、収入が少なくなれば、人々はとにかく安いものを優先的に購入し、旅行も控えざるをえない。これでは、地方は輸出や海外からの観光客の呼びこみなど外需に依存せざるをえなくなる。世界的な景気後退が起きれば、この偏重った経済は簡単に苦境に陥る。
 夏休みに、田舎にある母親の実家にリュックを背負って泊まりに行くと、祖父母がやさしく迎えてくれて、都会ではできなかった体験をちょっと恐がりながらも、胸を躍らせる。そんなバブル経済前まで常識的だったことは、今の子供たちは経験できない。迎えに来た祖父母の自動車に乗って、家までの道すがら、窓から見えるのは、シャッター街と放置された巨大建造物、自転車をこいでいる老人である。
 内需のみの経済が縮小再生産の道を辿ることは終戦直後の経験が教えてくれる。しかし、その主張は内需によって支えられている。彼らの言説は日本語によって守られているのであり、英語に翻訳されて世界で議論されるレベルにはない。
 自分が生き残るためにとられる選択の個人的な合理性が、それに反して、社会的な共倒れを招いてしまう。ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは、『資本主義・社会主義・民主私擬』の中で、人々は経済的行動ではパフォーマンスが高いのに、政治的な場合には低いと言ったが、経済もそれほどではない。
 こうしたしなやかさとしたたかさを失った日本経済がリーマン・ショックに襲われる。基礎体力が落ちた状態では、易々とは堪えきれない。麻生太郎首相は、当初、バブルの経験を世界に伝えると嘯いていたが、急速に各種経済指標は軒並み悪化し、そんな余裕などないことが露呈する。麻生政権は、総選挙によって誕生したわけではない。70年代のフォード大統領がそうだったように、選挙を経ない政権は弱く、経済危機への対策も不徹底になりかねない。新しい出来事だけが起きているわけではない。過去の教訓通り、打ち出される政策は見当はずれだったり、遅すぎたりして効果を上げない。政策当局は過去の経験を生かしながら、やりくりしていくほかないのに、それを怠っている。とうとう、09年2月25日付『フィナンシャル・タイムズ』紙の社説に、日本の不況は政治のせいだと書かれてしまう。
 2009年3月19日、IMFは、ロンドン郊外のホーシャムで開かれたG20財務相・中央銀行総裁会議に提出した資料を公表する。2009年の世界全体の成長率はマイナス0.5~マイナス1.0%になると予測しているが、1月時点の世界経済見通しでは、戦後最低ではあるものの、それでも0.5%のプラス成長であり、下方修正したことになる。09年のアメリカの成長率のマイナス幅は、1月予測のマイナス1.6%から2.6%に拡大すると報告している。一方、09年の日本の成長率を1月予測のマイナス2.6%からマイナス5.8%へとさらに下方修正し、10年もマイナス0.2%と見こみ、08年から3年連続のマイナス成長と予想している。世界的景気後退の震源地のアメリカ以上に、日本の方が経済のダメージが大きいと危惧されている。「危険は侮ると、早く来る」(プブリリス・シルス)。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年
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賀川昭夫、『現代経済学』、放送大学教育振興会、2005年
河合幹雄、『日本の殺人』、ちくま新車、2009年
金田一秀穂、『気持ちにそぐう言葉たち』、清流出版、2009年
斎藤貴男、『経済小説がおもしろい。』、日経BP社、2001年
堺憲一、『日本経済のドラマ 経済小説で読み解く1945-2000』、東洋経済新報社、2001年
佐高信、『経済小説の読み方』、光文社文庫、2004年
巽孝之、『アメリカ文学史のキーワード』、講談社現代新書、2000年
林敏彦他、『消費者と証券取引』、放送大学教育振興会、2007年
森毅、『二番が一番』、小額館文庫、1999年
森村誠一、『銀の虚城(ホテル)』、角川文庫、1979年
谷沢永一編、『石橋湛山著作集4 改造は心から』、東洋経済新報社、1995年
アーサー・ヘイリー、『ホテル』上下、高橋豊訳、新潮文庫、1,981年
ヘンリー・カウフマン、『カウフマンの証言―ウォール街』、伊豆村房一訳、東洋経済新報社、2001年
カール・マンハイム、『イデオロギーとユートピア』、高橋徹他訳、中公クラシックス、2006年
ジョン マクレオッド、『物語りとしての心理療法―ナラティヴ・セラピィの魅力』、下山晴彦議他訳、誠信書房、2007年
Gergen. Kenneth J, The Saturated Self: Dilemmas of Identity in Contemporary Life. Basic Books. 2000

『世界文学全集27』、集英社、1975年
『城山三郎全集』全14巻、新潮社、1,980~81年
『ヘンリー・ジェイムズ作品集』全8巻、図書刊行会、1983~85年
DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年

asahi.com
http://www.asahi.com/
Britannica Online Encyclopedia
http://www.britannica.com/
FINANCIAL TIMES
http://www.ft.com/
NIKKEI NET
http://www.nikkei.co.jp/
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http://www.nhk.or.jp/
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http://www.yomiuri.co.jp/index.htm
WSJ.com
http://online.wsj.com/

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