1 帝国主義と日本語教育

文字数 5,406文字

植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立
Saven Satow
Aug. 31, 2002

「過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ」。
田山花袋『一兵卒』
 「いかにもこの都市は中心を持っている。だが、その中心は空虚である」。
ロラン・バルト『表象の帝国』

1 帝国主義と日本語教育
 日本近代文学の形成に関して、言文一致運動と国民国家確立が関連づけて論じられる。だが、国民国家や言文一致といったドメスティックな観点だけでなく、日本近代文学の誕生には、植民地支配が影響を与えている。国民国家として近代日本の体制が確立し、言文一致体が形成されるのは明治20年代であるけれども、日本近代文学の規範が確定するのは明治40年代である。その間、1895年(明治28年)に日清戦争の勝利を通じて台湾を植民地とした後、急速に帝国主義化している。国民国家建設というドメスティックな状況からアジアで最初の帝国主義国家へと向かう過程に近代日本は移っている。国民国家としてだけではなく、近代日本が帝国主義体制を整備していくのと同時に、日本近代文学が自然主義文学や私小説を主流として形成されている。

 言文一致運動は資本主義化や国民国家形成と不可分の関係にあるが、国語や標準語は必ずしもそのような関係にはない。これらの概念が近代日本の言語政策をめぐる特異さを強調させる。明治政府が近代的な国家建設の際に参考にしたドイツでは、1898年にはドイツ舞台発音として発音の標準化、さらに1901年には正書法の統一化が試みられているものの、各地域に見られる文法上の違いは依然として残っている。

 また、アンシャン・レジームのフランスにおいては、1635年、アルマン・ジャン・デュ・プレジ・ド・リシュリューがアカデミー・フランセーズをフランス語の統一を目的に設立する。確かに、標準化への意志は感じられるものの、国語ではない。

 石黒魯平は、1950年に発表した『標準語』の中で、標準語は「東京語を土台にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使おうと日本民族各員が追求する理想的言語体系」であり、現に普及している「共通語」と区別すべきだと言っている。神保格は、1941年(昭和16年)に公表した『標準語研究』において、標準語を「東京の山の手の教養ある人々の言語」と定義しているように、1949年以前には、標準語という用語しかない。けれども、戦前の標準語が帯びていた意味は、政治的には、石黒の定義しているものである。この標準語への意志が国語である。標準語を極端に志向した国語は国民国家形成には不可欠な発音や正書法の標準化とは異なり、そこには政治的意図が潜んでいる。

 なお、今日、標準語と共通語は次のように区別されている。標準語はデジュール・スタンダードの言語である。法的規定が必要だ。一方、共通語はデファクト・スタンダードの言語である。法的規定が不要だ。その共通語は書き言葉に基づく話し言葉である。近代日本語に共通語はあっても、標準語はない。

 しかも、この国語は教育を通じて、「国民」に徹底化されていくだけではない。植民地の住民にも国語教育が推進されている。日本の植民地支配の特徴の一つとして、日本語教育への偏重がある。異言語や異民族に対する日本語の位置に関して、内地・植民地・満州国・占領下東南アジアという地域によって偏差があり、さらに日本語と諸言語の力関係について、さまざまな見解があるにもかかわらず、日本語普及は疑問の余地なく遂行され、日本語の脅威の下に晒される諸言語やその話者への配慮は欠落している。

 世界的に独立した後も旧宗主国の言語を公用語として使い続けているケースが少なくない。ところが、日本語にはそのうな状況がない。大韓民国では、その反発として、日本語の歌が公共の場に流れることを原則的に禁止している。帝国中央の施策として、1942年(昭和17年)に官制公布された大東亜建設審議会の第二部会(文教施策)の答申「大東亜建設ニ処スル文教施策」がある。その中の「大東亜諸民族化育方策」には「現地ニ於ケル固有語ハ可成之ヲ尊重スルト共ニ大東亜ノ共通語トシテノ日本語ノ普及ヲ図ル」と記されている。ちなみに、「大東亜ノ共通語」という意味の場合には、政府・軍部・官僚は「国語」ではなく、「日本語」を用いる。

 同年2月、マレー半島を帝国陸軍第二五軍が占領すると、シンガポールを昭南特別市と改称して、昭南軍政監部が軍政を担当し、4月、各学校における教授用語を指示した「小学校再開ニ関スル件」を公布している。軍政監部は、その中で、マレー語学校ではマレー語と日本語、インド語学校ではタミル語と日本語、その他の学校では、華僑義勇部隊が占領に抵抗したという理由から中国語学校の再開を認めなかったため、マレー語と日本語とする決定を下している。

 イギリス統治下のマレー半島では、民族間の別学が原則とされ、マレー語学校・インド語学校・中国語学校・英語学校が並存している。英語学校はイギリス人入植者と現地の有力者の子供だけが通学できることになっていたが、優秀であれば、他の子供たちにも編入の可能性が残されている。英語学校以外ではほとんど英語教育を行っていない。それどころか、そもそも現地住民に対する教育に熱心ではない。イギリスは民族や宗教で住民をわけ、その間の対立を煽り、植民地を支配する政策、すなわち分割統治を採用している。

 1943年3月に、第二五軍のスマトラ移駐に伴い、馬来軍政監部へと変わると、軍政監部は、7月に、「初等学校ノ名称及ビ教科ニ関スル件」を公布し、現地住民向けの学校の名称をすべて「普通公学校」に改めさせ、日本語を一年生から義務化するだけでなく、マレー語・タミル語・中国語の教授時間を週三時間以内に制限している。このように、イギリスの植民地支配に比べると、植民地・占領地での日本の言語教育は際立っている。

 ただ、戦略的重要性による地域差はあるものの、東南アジアでは現地の言語への配慮を多少見せている。と言うのも、日本は占領の意義として近代化という成果を十分に示しえなかったからである。軍部の意図や戦略・戦況に左右されながら、各地域で一地域一言語という原則を立てる。だが、宗主国によって近代化が伝えられていた東南アジアにおいて、日本が占領しても、近代化の成功を誇示できない。

 フィリピンでは、英語も当分の間使用を認めるという条件付きながら、タガログ語と日本語を公用語とする規定を占領軍は出す。しかし、1943年のフィリピン独立後、日本語を公用語とする規定はなくなっている。また、オランダ領インドネシアでは、インドネシア語の教育と一緒に日本語を教える教育体系を指示している(インドネシア語は、戦後も、マレーシアを含めた周辺地域とのパワー・バランスによって形成されている)。もっとも、いずれのケースも、配慮は見せつつも、日本語教育を積極的に実施している。

 また、大陸侵略を進めていく過程で、ペーパー国家の満州国は日本化され、それに伴い、日本語の普及も強化されている。日本側は建国イデオロギーの一つの「五族協和」を言語政策でも実行し、1937年前後から日本語の地位を引き上げている。38年の新学制において、三つの国語、すなわち満州語・モンゴル語・日本語の一つとして日本語を位置づけ、行政・司法・教育・通信などの国家運営の基幹部門で優位な位置を占める政策をとっている。これは満州国の傀儡性だけでなく、日本語の普及度・認知度が低く、こうした制度を用いなければ、日本語への権威が保てないためである。

 ウイグル文字から派生した満州文字で記す満州語は、一時期、中国で最も広く話されている。18世紀、清の乾隆帝が保存に力を注いだものの、現在では、ほぼ消滅の状態にある。

 満州国には、日本語で運営される中央と満州語や中国語、モンゴル語が使われる地方とが並存している。その乖離を解消する目的で、日本語の広範な徹底普及を一時的に放棄し、「満語カナ」という中国語をカタカナで表記する計画を実行している。このプランは、満州国民生部国語調査委員会によって研究され、1944年に公布されている。表記をカタカナにすることで低い識字率を向上させると同時に、カタカナに親しませることで日本語の学習を容易にしようという隠れた日本語普及のシステムでもある。それは日本語の影響下に該当する地域の言語を置こうとする意図に基づいている。

 東南アジアや満州だけでなく、占領地域に日本語を普及させる際、日本は標準語原理主義を前提にしている。軍部・政府は諸地域間の交流言語として、また日本との連関を保たせる目的で、日中戦争勃発以降実体化してきた「東亜共通語」としての地位を日本語に与える政策をとっている。それに伴い、表記法や表記文字も含めた基礎日本語の議論も、内地での日本語の整理の問題と関連して、活発になっている。

 普及を優先させるなら、より簡素化された日本語の方が効率的であろう。1943年の内閣情報局が300語を選定した『ニッポンゴ』に見られる極めて単純化された日本語の場合であっても、それは純正日本語に至る前段階であり、非ネイティヴ・スピーカーで完結する日本語の形態を認めていない。

 アラビア語では、時代の変遷を経て多少の変化を受けているものの、書き言葉(フスハー)に手を加えることは『コーラン』の改変につながる理由から、認められていないが、話し言葉の変化は容認され、各地域で異なる話し言葉(アンミーヤ)が使われている。

 イスラム教徒が多く住むアフリカにおいて表記文字にラテン・アルファベットが用いられるのも、『コーラン』の絶対性が原因である。『コーラン』は、原則的に、翻訳が認められていない。他方、大航海時代以来アフリカに進出した欧州のキリスト教宣教師はふきょうのために『聖書』を現地の言語に翻訳する。その表記に際して、ラテン文字を採用している。これが現在に至るまでアフリカ諸言語がラテン・アルファベットでつづられる理由である。ルターの聖書翻訳がドイツ語をつくったように、アフリカ諸言語でも同様の事態が起きている。

 アラビア語に対して、表記の変更は国体への手入れに等しいといった論調がありながらも、簡易化の論議が可能だったのは、日本語の普及自体に植民地支配を正当化する役割を持っていたからである。東亜新秩序から大東亜共栄圏へと日本を中心とした新秩序体制を構築する際に、日本語は「東亜共通語」でなければならない。けれども、植民地の言語同化政策は国語調査会の系譜にある委員会が認定した標準語が正統な日本語であり、リンガフランカに伴う無意図的な変化やピジン化を最初から排除している。支配地域における使用言語は日本語であればよいのではなく、標準語でなければならないという帝国主義政策は、他国の場合と比較すると、強迫観念にとりつかれている。

 こうした占領政策がとられたのは、日本語が植民地政策において特別の意味を持っていたからである。政治や司法、官庁、軍部が日本の帝国主義を正当化するために、国家的プロジェクトとして日本語に過剰な意味づけを行っている。日本語は、近代日本において、天皇制以上の政治的イデオロギーである。日本語の表記に関する問題は言語学ではなく、国内外の政治情勢と密接に結びついている。

 日清・日露の両戦争の勝利を通じて、台湾や朝鮮半島、中国大陸へと侵略を進めていく中で、漢字廃止の運動も盛んになり、加えて外地での日本語教育の問題から漢字を制限しようという動きが高まっている。ところが、昭和に入ると、極端な復古主義・国粋主義の立場からそれに抵抗しようという勢力が生まれる。教育の現場での方言の尊重という意見が内地では出ていたものの、植民地において、正しい日本語の確立と確実な教授が要請されていた理由から、標準語の絶対性は揺るがせない。大日本帝国は、言語の面でも、大東亜共栄圏の規範とならなければならない。不純な日本語では日本の帝国主義政策が不純ということになってしまう。

 1902年(明治35年)に政府によって設置された国語調査委員会は調査方針の一つとして「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」をあげている。なるほど、言文一致に関しては、文学者が積極的にかかわっているように、民間主導で達成されている。対して、標準語を目指す国語は、文学以外の領域で始まり、学校現場を通じて、広まっている。

 けれども、自然主義文学から派生したドメスティックな文学である私小説という特殊な文学ジャンルが日本近代文学の主流となっていく過程には、帝国主義政策が関連している。日本の国語政策が日本的帝国主義と不可分であるとしたら、日本近代文学はこの日本的帝国主義の産物である。それどころか、日本の帝国主義を強化する役割の一端を担っている。日本近代文学は、西洋の近代文学とは異なった方法で、植民地支配に加担している。

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