裏切り者の少女・ユダ
文字数 5,883文字
地方都市ラミタは、五十年前までシリニス王国の王都だった。
しかし、ロムニア帝国に征服されて半世紀経ってなお、人心は未だに安定していない。
原因は、ロムニア帝国の信仰にある。
古より盛んだったシリニス王国における唯一神への信仰が、数百年前、ロムニア帝国へと伝播し、やがて盛んになった。
問題だったのは、伝播した教義がロムニア帝国で致命的なほど変容してしまったことだ。
つまり、シリニス王国で信仰の対象だった『契約の書』、つまり、『神法の書』や『預言者の書』といった諸書の意味が真逆になったのである。
例えば、「善なる神が良き世界を創造した。なのに、人は神の意に反し知恵を得て、堕落し、神から授かりし楽園を失った」という物語がある。
この物語をロムニア帝国に君臨する“悪しき教会”の祭司が解釈すれば、「悪なる神が悪しき世界を創造した。それゆえに人は神の意に反し知恵を得て、悪神の従属を断ち切ろうとして逃亡した」となる。
こうして旧シリニス王国においては、善なる神の「啓示」として扱われている『契約の書』が、ロムニア帝国では「悪神と人間における従属と抵抗の物語」に変化したのである。
こうした信仰のあるロムニア帝国では、皇帝が祭司長を兼任する神権政治を行っており、“悪しき教会”以外の教えを一切認めていない。さらに、信仰のあり方も壮絶さを極める。
例えば、過去との決別のやり方を挙げるだけで十分だろう。
ロムニア帝国には、かつて信仰されていた民族の神々を現した素晴らしい彫刻や神殿の数々があった。彼らの父祖が築いた見事な遺産だったという。
しかし、時の皇帝は、非情にもそれら父祖の遺産を「悪神ヤルダバオートの化身であり、穢れた汚物である」として、目につく一切を破壊した。
そういった経緯を経た今、彼らが、信仰するのは、神話の神々でも、父祖の霊でもない。
悪しき造物主・ヤルダバオートを不意に生んでしまったという至高神・バルベーローだけである。
この世界は、バルベーローの統べる真なる王国を摸倣し、ヤルダバオートが愚かにも造ってしまった劣化物であり、それゆえに、人々の魂も、その肉も偽りに満ちている。この悪しき世界、すべてが悪に満ちているのだ。
ならば、人は造物主の思いのまま、悪に染まるだけなのだろうか。
断じて、否である。
――人には「運命にあがなう意志」があるではないか!
人が人たる意志。
それだけがこの悪辣な世界から抜け出すための武器となり、それだけが救いへとつながる。
――悪を破壊する「意志」を強くもって、自らの魂の偽り、肉の偽りを認め、かつ絶望せずに世界と戦え。
この世界の真実を認めぬ、ヤルダバオートのシモベたちを殺戮し、蹂躙し、滅ぼすべし。
さすれば、悪神ヤルダバオートの手から逃れて、彼の統べる偽りの世界ではない、善神の統べる真なる世界へと己が魂を上昇させることができる。
異教徒特等殺戮官ルアスのもつ使命感の背景には、おおよそこんな理屈が潜んでいた。
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帝国の悪神信仰がために、ロムニア帝国が五十年前にシリニス王国へ侵攻したとき、老若男女すべてが武器をもち、抵抗した。
しかし、広大な経済圏と生産力を誇る帝国に、歴史があるとはいえ弱体化していたシリニス王国がかなうわけもない。
民の半数が失われたという熾烈な抵抗戦の後、意外なことにロムニア帝国は実に寛容な政策をとった。シリニス王国を一領邦とはいえ存続させ、かつ彼らの信仰も容認したのである。
しかし、旧王国民は、帝国のやり口が一時的なものにすぎないとわかっている。大陸全土を征服するまでの処置でしかない、と。帝国が大陸全土で行っている戦争に勝利し、覇権を確立すれば、凄惨な殺戮が始まるのだ。
そうだとわかっていても、生き残った人々は新たな支配者の慈悲にすがるしかなかった。
さらに、そんな帝国の寛容政策も、十年前に旧シリニス王国を混乱させた「勇者」によって大きく動揺し、より厳しいものへと変化していった。
「造物主ヤルダバオート、至高神バルベーローがあると帝国人はいう。しかし、神は二つあろうはずがない。ただ一人の善なる神が、良き目的のために世界を創造した。ゆえに、神が悪の原因となるはずがない」
「神と世界が悪しきものにしか見えないのは、彼ら帝国人が己の罪を自覚しないため、無意識のうちにそれらを世界に投影しているだけにすぎない」
そんな主張を「勇者」は、旧王国の各地で繰り返し、帝国の「悪しき教会」の教えを真っ向から否定していった。
さらに、勇者は、帝国の支配下で、旧来の伝統に縛られた教えを細々と受け継ぐ祭司たちをも非難した。
悪に屈し、自らの信念さえ曲げる者もまた悪だ、と。
こうした伝道の結果、彼の言葉は多くの人々を動かし、帝国の蜂起を期待する人々の熱意をその一身に背負うことになったが、その一方で、帝国の祭司や旧王国の祭司にも届き、心の底から嫌悪されて、何度も殺されかけた。
しかし、そんな状況にあっても、「勇者」はその名のとおり、己が勇気を曲げずに、幾つもの厳しい言葉を世界に投げかけることをやめず、幾つもの奇跡を起こしてみせた。
しかし、問題がある。
「勇者」の最後があまりにもあっけなかったのである。
帝国に蜂起する気配を見せないまま、皮肉なことに、信頼していた弟子によって帝国に売り渡されて、つまらない罪人と一緒に処刑されたのだ。その後、勇者の信奉者たちは、勇者が復活し、未来へ導いたと主張した。
こうした主張に、帝国人は勇者とその信奉者たちを嘲笑し、「ペテン師」と呼んでいた。帝国の蜂起を熱望していた人々も多くが「勇者」に失望し、少なくない人々が奇妙なことに帝国人と同様に勇者を「ペテン師」扱いしている。
だから、帝国の官吏であるルアスは、自称「勇者」を、そして彼を信じる者たちを、常日頃、”哀れな狂人”として心の底から嘲笑していたのである。だから、命を奪うことをためらわなかった。むしろ、悪神のシモベ、ペテン師の詐術にかかった精神から救っているとすら考えていた。
彼にとって、”狂人”の殺戮は、むしろ慈悲であり、世俗の救済だったのだ。
ルアスは一人、指揮官に与えられた個室でため息をついた。
今彼は、白石が綺麗に積み上げられた要塞にいる。ここは、地方都市ラミタ郊外にある帝国軍駐屯地の司令部として使われていた。
質素ながら丈夫な木机の向かい側に座っていたのは、哀れなほど華奢な少女だった。
年は17歳くらい。
白髪白肌の見目麗しい少女である。
ルアスよりも3つほど幼いだけだが、髭を生やしたルアスが大人びているのと、少女の華奢さと童顔が相まって、外見上の落差は大きかった。
親子ほどの差とはいわぬまでも、少女がルアスを「おじさん」と呼んでも不自然ではないくらいには。
あまり大きな声ではなかった。
しかし、少女の緋色の眼から、確固とした信念が伝わってくる。
ユダと呼ばれた少女は、質素な椅子を吹き飛ばさんばかりに、立ち上がる。
彼女の白い面貌が赤らんでいた。
ルアスの言葉にひどく立腹したのは明らかだ。
ルアスは苦笑した。
眼前の少女はずいぶんと素直である。
だから、その分、御しやすい。
おどけるルアスを、ユダは睨みつけた。
ユダの言葉に対し、ルアスは意外にもとても申し訳なさそうな顔を見せた。
それは演技ではなかった。
狂人とはいえ覚悟を示した少女の願いだ。
そして、帝国の官吏たる自分が応えられるはずなのだ。
しかし、どうにもならない。
このような馬鹿げた事態が残念でならなかった。
「この少女が“裏切りのユダ”でさえなければ、な」と内心考えながら、ルアスは大きなため息をつく。
ルアスの言葉に、ユダはもはや答えなかった。
二人に言葉が途切れた頃合いに、鉄の剣と鎧で武装した兵士が入室してきた。
兵士はかかとを威勢よく合わせ、右手を胸の前に置く敬礼を終えると、懐から羊皮紙を差し出す。
ルアスは一言だけ応じ、無表情のまま、兵士から紐で縛られた羊皮紙を受け取る。
蝋封を取り、紐をほどいて、ゆっくりと中の手紙を取り出した。
ルアスがそうしている間に、再度敬礼しつつ兵士は静かに去り、再び個室には二人だけが残った。
「この偽り世界は悪しき神が統べている。きっと、そのせいだろう。奇妙な出来事というのが、しばしば起きる。例えば、私も君も望んでいる行為を、しかも、本来それを推奨すべき立場の帝都の連中が許さないといったことが」
そして、ルアスは羊皮紙をユダに見せる。
少女は、しかし、その文面を見る前に、ルアスの行為そのものに対して、あからさまな嫌悪を示し、整った面貌を歪めた。
ルアスは手紙の送り主に苦笑しながら、続けた。
ユダは気味が悪いとばかりにルアスを見た。
明らかな不安を抱く彼女を見て、ルアスはその思考が想像できる。
帝国軍の兵士に殴られ、捕縛され、罵声を浴びせられながら、ここまで「いかに死ぬべきか」だけを考えていたのだろう。
死ぬ覚悟がやっとできたと思ったのだろう。
きっと、今も「釈放」の命令に、安心するどころか、怒りを感じているのだろう。
確かに、ルアスから見ても、局長はユダの信念を弄んでいる。
とはいえ、ルアスに言わせれば、おかしな判断をする局長も、おかしな信仰をもつユダも、「どちらも狂っている」としか思えなかったが。
「あのペテン師を君が裏切った当時、グラディウス卿は特等殺戮官だった。君のことをずいぶんと持ち上げたものだよ。勇者の処刑という功績をより際立させるために。その結果、帝国の中枢たる教部省で花形の、教理局長官に出世したわけだ。それだから君を処分すると局長の名誉が傷つく。だから、一つの解釈が示される。“一度だけなら、誤解かもしれない”と」
「私は忠実な信徒だが、そのためにも出世したいと望んでいる。だから、こういう案件については、上司へのお伺いは立てることにしているわけだ。もちろん、上の意向を思いやれない人間と思われぬよう、必要最低限にしているけれど」
ルアスの非情な物言いに、ユダは深いため息をついた。
唐突な感謝の言葉だった。
あまりに意外だったせいだろう。
ルアスは、まるで駄馬が突然空中をぐるぐると駆け回ったのを見たかのように、目をしばたたかせる。
ユダとのやり取りがひと段落すると、ルアスは外から兵を呼んだ。
先ほど入室した兵以上に、ルアスにキビキビと敬礼する。
ルアスを尊敬する眼差しが眩しい。きっと彼直属の兵だろう。
兵士は「心得ております」と最敬礼した。
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去り際に堂々と宣言するユダに、ルアスは愉快とばかり笑った。
そういってルアスは立ち上がると、ユダの耳元でひそかに耳打ちをした。
すぐに答えようとしたユダを、しかしルアスは止めた。
「これは俺個人の純粋な疑問だ。だから、今度会うときまでの宿題にしよう。君が君の信念と言葉に忠実である限り、どうせまた会うことになるしね。それまでに悩み、考えるがいい。君の狂気は好みだからね。最後まで見届けてやりたい」
ルアスは、ユダに微笑んだ。
それは人間に対するものではない。
手負いの動物を見るような、獰猛な目つきだった。