「天主」は誰に覇者の冠を授けるか

文字数 3,837文字

 第八話 天主への途行き 続き

 不思議と痛みはなかった。
 すると驚くことに失った左腕は元に戻っている。アカーシャはゴータから授かった「クスシ(薬師)」のことを想い浮かべた。今度は左脚が吹き飛んだ。アカーシャは老女を落さぬよう地面に倒れ込む。しかし今回も左脚は間髪を入れずに元通りとなる。
 アカーシャの隣には淡い水色のベールを纏った嫋やかな女性が立つ。様々な薬草を入れた小壺を抱いてる。アカーシャは礼を陳べようと同じ背丈の女性の顔を覗き込む。ベールに隠され表情までは伺い知れないが、パンチャマの薬草使いシリと同じ香りがした。

 帝釈天は不機嫌そうに再び火焔を今度はクスシ目掛けて飛ばした。ところが火焔はみるみるうちに花々に替わり次第に帝釈天の廻りに纏わりつく。やがて帝釈天自身も樹木に替わってしまった。豊かな葉を茂らせ枝先には真っ赤な丸い花が連なる。
 この大樹は後に火焔樹(カエンボク)と云われ、種子は食用、花、樹皮、葉は薬用に、また丸い花は子供たちが水鉄砲替わりにして遊ぶ。

「また、命拾いしたな」
 首にしがみつく老女が愉し気に囁いた。クスシは掻き消えた。

 次は第三天・夜摩天。ハルニラと見間違うような見目麗しい美女だった。物欲、それに男女の性欲から離れられないでいる。美食、見世物、賭け事、珍品、金品、豪華な調度品、様々な色気を誇る美女たちが居並ぶ。物欲、金銭欲、色欲の世界。
 アカーシャに我欲はない。それに愛する者は今は遠くのハルニラのみ。どんなに妖艶な姿形の女子に変化(へんげ)しようが心は揺るがない。
 と、今度はどこかの宮殿の様子が現れた。五歳くらいの極彩色の絹の唐衣を着飾った子供が、見目麗しい女官を従えて玉座に座る。背中の老女が、
「その子供お前に似ていないか?」
 アカーシャはじっくり観察する。確かに自分の幼少期に似てる気もする。
「その子はアンタの三十二人いるうちの三番目の孫じゃ。血で血を洗う身内の争いに勝った運のよい子じゃよ。お前さんのひとり息子には実に十人の側妻(妾)が居るようじゃ。怖いのう。おヌシがいくら清貧を唱えても、一族はどんどん堕落してゆく。ハハ、人間の性(さが)じゃよ」
 これは真実なのか? アカーシャは戸惑う。さらに驚愕する事実らしきものを知らされることになる。

 第四、第五天は兜卒天と化楽天。
 天にも聳えるほどの宮殿がアカーシャの前に聳える。その名前は「紫禁城」代々中原の覇者の居城と、兜率天は言う。
「さあ、中に入って見よ!」
 金銀や宝玉をあしらった見事な調度品と、四方の壁と天井には聖獣(瑞獣)たちが極彩色で描かれる。中央にひと際、豪華絢爛たる台座が見える。
「それが中原の覇者の玉座よ。ヌシが中原を統一して以降、代々の覇王がここに座って権力を誇示した。窓から外を見てみよ!」
 アカーシャは言われるままに。立錐の余地もなく整列する軍隊。全員が見事な甲冑を付け鋭利な槍を携えている。至る所に「覇王」を称える軍旗がたなびく。
「それが覇者の軍隊。そして。次の窓を見てみよ!」
 見事に整然とした街並みが見える。大きな道路が縦横に何十本も連なる。道路脇には商家らしい建物が所狭しと並ぶ。どの建物も立派だ。豊かな暮らしぶりが窺える。人々の往来も足繁く活気に満ちている。人々の顔は一様に明るい。
「覇王よ、満足かな?」
 化楽天が含み笑いを見せる。
「次は商家の中を見てみよ。人の暮らしぶりはどうかな、フフ」
 アカーシャは唖然とした。鮮やかな紫の絹の衣装を纏った主人と妻が仲睦まじく沢山の料理を前にしている。身なりの佳い子供たちも揃った。楽しい夕餉が始まるらしい。ところが、台所や井戸端にはむさ苦しい身なりの奴隷たちが足かせを嵌められたまま働かされている。
 年老いた奴隷は歩くたびに苦悶の表情を浮かべる。若い男子も表情は暗い。女が見当たらない。と、次の部屋には、一目で性奴隷判る淫らな形態(なり)の女子が複数控えている。どの顔も恍惚とした表情を浮かべている。恐らくは幻覚の薬草(覚醒剤)を飲まされている。
「アカーシャよ、ヌシは『奴隷解放者』ではなかったか?」
 アカーシャは愕然とする。
「これが現実よ。お前の子孫はまた奴隷を産む。では、もう少し暮らしぶりを見てみろ」
 今度は田畑が見える。しかし実りがない。土壌は水気がなく干からびている。たぶん何か月も雨が降らない。ギラギラとした太陽に水牛の白骨も散らばる。一本の大樹の元には、やせ細った老若男女が身を寄せ合い死を待っている。待ちかねたカラスが上空を群れを成して舞う。 
「人間の所業とは所詮かようなもの。あるべき姿に舞い戻る。ヌシが騒いだ処で何も変わらぬ。最後に次の窓を見てみよ」
 懐かしい、ここは育ったパンチャマの洞窟。しかし様子が変だ。よくハルニラと戯れた滝壺の池が幾つかの巨石に覆われている。頭上も土砂で塞がれた。もはや天空の窓は存在しない。たぶん相当あとの時代のことだろうか。
 シリの薬草小屋ももはやなかった。辺りには見慣れたパンチャマたち。洞穴には大勢のパンチャマが暮らす。アカーシャの頃よりも人数は倍する。暮らしぶりは何も替わっていない。自分が居た頃と同じ。
 アカーシャは深く溜息をついた。成すことの意味を問われる光景だった。人間の業(ごう)が垣間見えた。それでも、弱い者を救いたい。今もパンチャマの子供に縋るような眼(まなこ)を見た。これだけは何時の世でも変わらぬもの。
「さて、どうする。中原の統一は止めるか? 四天と五天は将来の人間界の様子を見せたぞ」
 老女が耳元で囁く。
「ええ? どういうことですか?」

 そのうち最後の祠が見えて来た。第(大)六天。見れば十歳前後の女の子。長い黒髪をひとつに結って頭上に乗せている。ワッパを縛る布は赤い。これが仏に最も近い存在なのか。この女子は天魔と呼ばれる。
 月夜がにわかにかき曇り、漆黒の暗雲が立ち込める。辺りには冷たい風が渦を巻くように天空に向かう。次の瞬間には迅雷がアカーシャの眼前に落ちた。
 おおーっ! 
 アカーシャは老女を庇って道に蹲る。宙に巻きあがった石ころが背中にあたる。天魔は雷と強風を自在に扱う。しかも愉し気に。嬌声がもれる。まともに当たれば人間などは粉々に吹き飛んでしまう。迅雷は次々に近くに落ちる。途は深く抉れこのままでは老女共々に上って来た谷底に落ちてしまう。
 するとクスシが従者のニッコウ(日光)とガッコウ(月光)を現出させた。二つは東西に分かれ輝きを放ちながら宙に弧を描く。すると迅雷を落していた暗雲が消滅し星空が戻った。強風も徐々に勢いを削がれてゆく。
 ちっ!
 途に降り立った天魔が舌打ちした。
「天主さま、クスシがおられるとは伺っておりませんでしたぞ」
 天魔の声はやはり女子の声だ。
 アカーシャはようやく身を起こした。体中が土砂まみれだ。すると庇っていたとばかり思っていた老女が途の中央にしっかりと立っている。衣服に汚れはなく少し若返った気さえする。なんだ。これじゃ、どっちが庇護していた側なのか、分かりゃしない。
 見れば老女の前には、樹木に替えられた第二天以外の五天が一様に跪き頭(こうべ)を垂れている。老女は今までは全く違う威厳のある声で謂う。
「こやつの心には欲がない。命を棄ててまでワレ(弱き者)を援けようとした。こんな人間はそうは居ない。私はしばしこの男に(中原)を任せようと思う。但し、一代限り。後継は許さぬ」
「パンチャマのアカーシャよ。ヌシに『覇王の冠』を授ける。冠に聖獣(瑞獣)は従う。中原を佳く統治せよ!」
 アカーシャは何が起きているのか理解できない。
「アンタは大丈夫だったかい? どれ、どうやら第六天も通れそうだ。あと少しで頂上の極楽とやらだな。さあ、背中に…」
 アカーシャは老女を背負い頂上の楽土に連れてゆくつもりでいた。そんなアカーシャに老女は愛おし気な眼差しをむけた。時を交わさず、アカーシャは気を失った。
 明くる朝、野営地の帆(テント)の中で眼が覚めた。夢だったのか? 随分としっかりとした現実感のある夢だった。アカーシャは立ち上がると体中のアチコチが痛む。見れば、そこら中、傷だらけだ。打撲痣に、擦過傷。
 痛む腰に手を当てながら帆の帳(とばり)を開けると、地面に何やら光輝くものが置かれている。摩訶不思議なことに手を触れると、瑠璃光の王冠は意思があるかのように宙を舞いアカーシャの頭に収まった。
 王冠には文字が刻まれ金色に発光する。

 『 奴隷解放者に中原は従う 』

 この日、伝説の「覇王の冠」を被ったアカーシャを見たリョフは驚愕の眼差しをその背後にも向けた。麒麟、青龍、鳳凰、鸞、霊亀、恢羊が付き従っている。これにリョフの白虎が加われば天の瑞獣が揃うことになる。(晋国の朱雀を除いて)
 その日、櫓に登り全軍の前に姿を現したアカーシャの後方の空には七体の『天の瑞獣』が舞い上がったのだ。その優雅で神聖な姿に兵士たちはどよめいた。と同時に天意は我が軍にあると思い知ったのである。

 この事実は瞬く間に近隣諸国に駆け巡り、アカーシャに従属する郷士たちも現れ始めた。こうしてアカーシャの軍は膨れ上がって行った。
 アカーシャが老女を背負って登った山々は後に五台山と呼ばれ中国仏教の聖地となる。これ以降、中原の覇を求める者たちはこの故事に倣って幾度となく山の頂を目指したが、誰ひとりとして『天主』に遭えたものは居ない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み