神の山 (二)

文字数 9,979文字

                           NOZARASI 10-2
   神の山 (二)

「ふーッ」
 やっと炭焼き小屋の広場までたどり着き、金鉱脈の塊を下ろした二人が、期せずして大きな吐息を吐く。そして顔を見合わせる。
「作蔵さん、作蔵さん!」と、藤次が大きな声で作蔵を呼ぶ。
 小屋の中から藤次の呼びかけに応える作蔵の弱々しい声が聞こえた。
「作蔵さんッ!」
 様子がおかしい。二人は押し合うように小屋へ跳び込んでゆく。
 作蔵が、炉端に力無く寝そべっていた。それは一目で体の具合がかなり悪いのだと察せられた。
「どうした。何処が悪い」
「ははは、腹ん中が痛くて、力が入らねぇ」
 作蔵の笑いが萎んでゆく。
「大丈夫か、作蔵さん」
「いつから悪い」
「三日ほど前からです。前にもこんなことがありましたが、二日ほどで治りました。なぁに寝てりゃぁ心配いらねぇと思います。それより、見つけたんでございますね」
 口を利くのも大変な様子であるのに、作蔵は二人の喜びに気づいていた。
「うん、お蔭様で見つけることが出来たよ。長い瀞場の対岸の、滑滝の上の涸れ沢だ」
「あそこだったんですか。猟師たちに、龍の涸れ滝って呼ばれているところですね」
「龍の涸れ滝?」
「あの岩場の上の方に、そこだけ違った色の岩肌がむき出しになってましたでしょ。雨に濡れると、ちょうどそこだけが黒く浮き上がり、龍に見えるって、昔っから猟師たちがそう呼んでます。上の方の木やなんかに浸み込んで、少々の雨では水は流れません」
「龍の涸れ滝か。その龍が鉱脈だったんだよ」
「まさしく金の玉を追う龍だな」
「今夜は御祝いですね。濁酒、新しいのがそろそろ飲めるんじゃないですか」
 寝そべったままの作蔵が嬉しそうに言った。が、その息は上がり、苦しげである。
「ありがとう、作蔵さん」
 濁酒を嘗めるように口にしただけだった作蔵は、その夜明けから苦しみ始めた。
 担いで山を下り医者に見せるという正行と藤次を、作蔵は苦しい息を継ぎながら、きっぱりと断った。
「おらの死に場所は此処です。今、山を下りれば、もう絶対帰っては来れねぇ。此処で死にてぇ、此処で死なせて下せぇ」
 涙ながらに作蔵が頼み込む。
 正行は悩んだ。それは藤次も同じであった。
 そんな二人に、作蔵が言うのであった。
「人それぞれに相応しい死に場所ってものがあるんじゃないかと思うんです。おらには此処がその場所です。子供の頃、在所の寺の坊さんがガキどもを集めて、百姓の子だってイロハぐらいはと、読み書き教えてくれたんですが、その坊さんが、昔、偉いお坊さんが桜の花の下で死にたいと歌を詠んで、その歌の通り、ちゃんと花の下で死ねたと。その高き徳ゆえの、仏様のお導きだって……。おらなんか、そんな徳もなんも持ち合わせちゃぁいねぇ。が、此処で死にてぇ。此処がおらの花の下なんです。おらの我が儘、これだけは聞き届けて下さいまし」
「しかし、息子さんにも……」
 藤次の心配に、
「心配いらねぇよ、藤次さん、息子たちには話してある、此処がおらの死に場所だって。訪ねて来て、もし死んでいたって、お前たちのせいじゃねぇ、何も悔いることはねぇんだって。それがおらの幸せなんだって」と、作蔵は己に言い聞かせるが如くに。穏やかに応える。
「……」
「正行様は気が付いてなさるでしょ。おらはね、本当は寂しがりなんですよ、誰よりも人が恋しい性質なんですよ。ですが、面倒な人付き合いってものが下手糞なんですよ。ごたごたと色んな事がありましたがね、此の山で暮らすと決めたのは、炭焼きのせいもあるんです。おらの炭はね、問屋が高く買ってくれるんで、在所の連中がね、焼き方を教えろって、何人も頼んで来ましたよ。みんなの炭が高く売れれば、あっしも嬉しい、頼って来た者には親身になって教えました。ですがね、窯の中の木の並べ方、これが一番大事なんですがね、伐り出してきた木の太さや曲がり具合を確かめながら、ほんの僅かな火の通り道を幾つか作ってやるんです。火の通りが良すぎても悪過ぎてもいけねぇ、その塩梅が難しい。ガスガスの炭になっちまったり、燃え過ぎちまって灰が多くなったり、芯まで本当の炭になってくれなかったりするんです。適当にやったって、歩留まりは悪いがそれなりの炭は焼けます。そんな焼き方に馴れっこになってしまった者たちには解ってもらえねぇ。解らねぇから何処かで手を抜いちまう。それですべてが駄目になる。外にも、窯焚きの火具合、煙の色、煙の匂い。いくら教えても解らぬやつには解らねぇんです。生まれつきの勘、何年も何年も炭焼きながら身につけた勘。そんなものは教えられるものじゃねぇ。要領口で教わっただけで、今日明日にも良い炭焼けると勘違いしてやがる。解らなければ何度失敗したってまた根気よく一から焼いてみるんですよ、それしかねぇんですよ。結局誰も焼けなかった。嘘教えてるなんて悪口はまだいい方だ、自分だけ銭儲けたいから、肝心の所は教えないんだなんてのは赦せねぇ。でも、そんな奴らに言い訳するのも面倒臭いと思うのがおらの生まれつきの性分、此処へ籠るようになったのはそんな人付き合いのせいが大きいんです。幸い、息子に良い嫁さんが来てくれて、可愛い孫が生まれて、これでもういつ死んでもいいなぁって……。里に帰ってたある日、寺の大きな桜見上げ孫あやしながら、ここから見る桜ももうすぐ綺麗に咲き競う頃だなぁって思いだしてたら、おらの死に場所は此処じゃねぇ、この神の山の此処だってだって、ふと気付いたんですよ。此処は好い、春は雪解けを追うように草木の生命が蘇り、いろんな花が咲き乱れる。山桜が烟るように咲き競う頃は、まるで夢の中だ。その中に包まれてると、なんでか涙が出て来るんです。夏は噎せ返るような緑に、煩いほどの蝉の声。遣る事も無い節だから、ボーッとしているだけなんですが、これがまた、たまんないほど好いんですよ。秋は何も言うことはありませんや。神の山から下って来るあの山の紅葉、死にてぇくらいに綺麗じゃございませんか。冬も好い。澄み切った何処までも高い蒼い空。その蒼に突き刺さる、人を寄せ付けぬかのような凛とした冬木立。雪が降れば、吸い込まれていきそうな、あの静けさ。温かい囲炉裏の火の前に座り、チビリ、チビリとやる濁酒。時々持ちあがって来る人恋しさも、そんな思い出を辿れば、何とか耐えられるんですよ。正行様達が来られて、最初は煩わしさに重かった心が、いつの間にか、お二人山に入って何日も戻って来ねぇと、少しずつ寂しさが膨らんで、いつ戻るんだ、早く戻って来ねぇかなぁなんて、山の方ばかり見てたりしてたんですよ。嬶ぁ貰って、息子が生まれ、いつの間にか大きくなりやがって、孫まで出来て、すぐに嬶ぁが先に逝っちまった時に、人と暮らす幸せなんて、もう終わったんだと思ってました。後は死ぬだけだ、人に迷惑は掛けたくねぇ、ひとりで死ぬんだって、そう思って此処へ登って来ました。それが、庄屋さんに頼まれて、仕方なく引き受けたお二人の温かさに救われるなんて……」
「作蔵さん、もういいよ。少し寝た方がいい」
 心配する藤次の言葉に、
「ありがとうよ。でもな、藤次さん、喋りたいんだよ、死んでもいいから喋っていたいんだよ。多分、強がって、二十年近く、此処で寂しさを堪えていたんだよ。それがよ、あまり喋らなくてもよ、一緒に居ると何となく嬉しい、そんな家族みたいな付き合いの出来そうな他人に、初めて巡り遭えたんだよ。黙って喋らせておいてくれよ」と作蔵は、微笑みを浮かべ、心の内を訴えるように頼み込むのであった。
 正行は、作蔵の目の奥に、死を覚悟した者の光を見たような気がした。
 それは、穏やかな光をしていた。
 が、その夜、予期せぬ事態が小屋を襲った。
 作蔵の苦しげな息使いが、夜の静けさの中、二人の迷いを弥増し、不安を掻き立てる。
 眠気が二人を襲い始めた頃、その息遣いとは異質な、鞴が大きく空気を吸い込むような音が外の闇から聞こえたような気がした。
 正行も藤次も、互いの感じた訝しさを確かめるかのように目を見合った。
 鉈を抜いた藤次が、入口へ素早く動いた。
「熊か?」と、正行が闇を窺う藤次に訊く。
「暗くて良く見えません」と、訝る藤次。
 その時、一陣の風に乗って、何とも言い現わし難い異臭が二人の鼻を突いた。
 野生の獣独特の匂いを強くしたような異臭に、
「熊だッ!」と藤次が身構えた。
 正行も刀を腰に差し身構える。
「奴だ……。神の山の金を取り戻しに来たんだ」
 作蔵が半身を起こし、苦しい息の下から呻くように言った。その手には、あの鉈がしっかりと握られ、小刻みに身体が震えていた。
「作蔵さん、これは熊の臭いだ」
「おらもそう思う。だが、この小屋に熊が出たことはねぇ。人が居て危ねぇって分かってる所に、山に食い物のあるこの季節、普通の熊は絶対に来ねぇ。藤次さん、薪を焼べろ。いっぱい焼べろ。そして、小屋の二、三間前に放れ。どんどん投げて山積みにして燃やせ」
「おうッ」と、作蔵の言葉に応えた藤次の動きは早い。正行も手伝い、勢い良く火のしっかりと付いた薪から小屋の前へ放るように積み始めた。
 薪の燃え盛る香りと異様な匂いが混じり合い、弥が上にも緊張が高まってゆく。
 小屋の中の様子を窺うかのように辺りの闇をうろついているらしい奴の、「グフッ!」というような息遣いが、その闇の奥から確かに聞こえた。
 その闇に、突然、奴が三人を威嚇するように、いきなり仁王立ちになった。
「うおぅ!」
 藤次が驚愕の叫び声をあげる。
 燃え盛る炎の向こうの闇に、その明かりに照らされ、巨大な影が浮かび上がった。
「熊の化け物だ!」
 藤次の声が、明らかな恐怖を孕んでいる。
「グフッ!グフッ!」と、吠え声とも何とも判らぬ異様な息遣いが辺りの闇を震わし、巨大な影が炎に揺れながら左右に動く。時折止まると、炎を映し橙色に光る不気味な目が、小屋の方を悠然と睨み付け射竦めている。
 身の丈二丈といえば少し大袈裟になろうが、違いなくそれに近い体躯の大熊が、敵意を顕わにし、その闇にいた。
「月の輪が無ぇ。何だ、こいつは」
「藤次さん、間違いねぇな、奴だ」
「どうすりゃいいんだ。あんなでかいやつに敵いっこねぇ」
 一層の恐怖に、藤次の声が震えている。
 藤次が恐怖を抱くのも無理は無い。百貫は優に超えようかという図体である。とても、人がまともに戦えるとは思えなかった。
「心の臓だけだな」
 作蔵が、吐息のような声で言う。
「心の臓ったって、どうやって突くんだよう」
 普段はあれほど冷静な藤次が、今は恐怖に我を失いかけている。それほどに、闇の向こうの大熊の迫力は凄まじいものであった。
 正行も刀の柄に手を掛けては見たものの、ただその無力さを痛感するだけであった。
 巨大な影が、スーッと漆黒の闇に消えた。
 緊張を強いられたままのジリジリとした時間が静寂の闇に流れて行く。藤次は、小屋の外のその闇を見据えたまま黙し、時折不安げな顔で正行達の方を振り向くだけであった。
 いつしか山の端に薄明が差し始め、夜が白々と明け放たれて行く。
「行ったみたいですよ」と、安心したような藤次の声。
「いや、これは、奴からの警告だ、小屋の廻りの何処かに潜んでいる。今夜、きっとまた来る」と、作蔵が苦しげな息の下から言う。
 それを裏付けるかのように、朝の湿った重たい風が、大熊のあの臭いを確かに運んでくる。
 昼が過ぎ夜になっても、大熊の動く気配はない。が、あの臭いだけは小屋の周囲に確かに流れていた。
 その夜も、小屋の前に薪を燃やした。
「来たッ!」と言う藤次の強ばった声に、正行も闇を窺う。
 巨大な姿が一瞬闇に浮かび、漆黒の中に溶け込んで消えた。後は、薪の燃え盛る音だけが、パチパチと夜の静寂を弥増すだけであった。
「威かしやがって」と、藤次がホッとしたように言った。
「その通り、奴は威しているんだよ。甚振るようにジワリジワリとな。それにな、ずーっと奴の臭いがしてるだろ、奴は、それを狙って、小屋の風上へ風上へと動いているんだよ」と、作蔵が真剣な眼差しで藤次を見て言った。
「風を使って人を甚振るなんて、そんな。奴は熊だろ」と、藤次が情けない声を出す。
 その夜、大熊はそれっきり姿を現さなかった。が、作蔵の言うように、あの臭いだけは消えず、恐怖に満ちた緊張を強いられた。
 ジワジワと苛まれていくような夜が明けた。
「明るい内は多分来ねぇ、今のうちに寝ておいた方がいい。きっと今夜襲ってくる」と作蔵が、寝そべったままの格好で言う。苦しそうであったが、その目だけは爛々としていた。

「来たぞ!」藤次の声と共に、己の巨体を誇示するかのように立ち上がった大熊の姿が、今夜も燃やされている焚き火の明かりに浮かび上がった。
「グフッ!」と、あの短い唸り声を出すと、巨大な影は小屋に向かって動き始めた。
 正行も藤次も、思わず小屋の入口から身を退き、半身を起こす作蔵を守るかのようにその前に片膝をつき、刀と鉈をそれぞれに構えた。
「バリッ、バリッ!」
 もの凄い音がしたと思った次の瞬間、小屋の入口の壁は跡形も無く庇ごと剥ぎ取られ、その向こうに、燃え盛る火を背に浮かびあがった巨大な熊の立ちあがった姿があった。
 小屋といっても、雪の重みに潰されぬよう、それなりに頑丈に作られてある。その入り口をいとも簡単に破壊してしまった。
 藤次が囲炉裏の薪を投げつける。
 髪の毛の焼けるような匂いがするにはした。だが、火を怖れる気配は無い。
 半分崩れかけた小屋の中へ踏み込もうとする巨大な熊に、小屋が小さく見えた。
「なんてでかさだ」
 藤次が溜息のように言葉を吐いた。
「来るぞ、藤次!」
 正行の言葉の終らぬうちに、大熊は囲炉裏を踏み拉き三人に迫ろうとした。が、自在鉤に掛けた鍋が返り、「ジュバッー!」という音と共に灰神楽が巻きあがった。
 一瞬怯んだ大熊に、「今だっ!」とその機を捉え、鉈を振り上げた藤次が果敢に突っ込んでゆく。
 大熊の前足が藤次の顔へ真横に一閃され、「バシッ!」と、鈍い音を発した。
 藤次がまるで虫けらのように弾き飛ばされ、板壁に叩きつけられた。
 本能的に顔を庇おうとした藤次の左手がダランと下がって、鉤裂きにされた袖から溢れるように血が流れ出していた。
「藤次!大丈夫かっ!」
 叫ぶや否や、正行が左の胸へ身体ごと突きを狙って飛び込んだ。
「グファ!」
 大熊が正行の方へ身体ごと振り返っただけで、正行の身体は、藤次とは逆の方へ放りだされる。
 己の身体を貫いた正行の刀の痛みに驚いたのか、大熊はジリジリと壊れた小屋の入口まで退って胸の傷を舐めている。肋骨に当たって、そう深くは刺さらなかったようだが、何寸か切っ先が入ったような手応えはあった。
「正行様ッ!」
 藤次と作蔵の口から、同時に声が上がる。
「大丈夫だ。藤次、お前こそ大丈夫か。かなりひどそうだぞ」
 左手をダランと下げたまま、
「痛ぇ。ですが大丈夫ですよ。こんなんじゃ、この藤次、死には致しませんや」と、無理に笑い顔を作って藤次が強がる。
「来ますよ、今度は本気だ。野生ってやつは、手負いになると手に負えない本性を現しますよ」と、半身を起こした作蔵が言う。
「本性?」
「はい、人間なんかにゃ想像もつかねぇ本性をね」
「……」
 作蔵の言葉に、二人は生唾を飲み込んだ。
 その言葉を裏付けるかのように、「グルルル」と、低い唸り声を発しながら頭を垂れ、一層の怒りを顕わにし、大熊は再びゆっくりと小屋の真ん中へ踏み込んで来た。
「藤次、また来るぞ、気をつけろ。作蔵さんは、一番奥へ下がっていてくれ」
 正行が指示する。
 大熊の目付きが明らかに変わっていた。
 三人は、狂気に充ちた異形の眼光に射竦められ、身の毛立つ。
「グフッ!」と短く唸り、頭を低く構えた大熊は、明らかに正行を狙っていた。
「正行様!気を付けて!狙われてます!刺された仕返しにきますよ」と、作蔵の声が飛ぶ。
 獣が仕返しなんぞと、そんな事があるのかと、正行は一瞬思ったが、自分に狙いを定めたその恐ろしい大熊の眼光を目の当たりにし、得心せざるを得なかった。得心しては見たものの、圧倒的な野生の力の前に、正行に策も勝ち目もあろう筈は無かった。
 頭を低く下げ、ジリジリと迫る大熊に、突きの構えはとったものの、何処を攻撃すればよいのか、大熊の体勢からして、心の臓を狙うことは、とても不可能のように思えた。
「こいつ、心の臓を狙われている事が解っているのだ」と、大熊の迫力に気圧されるように退がりながら、正行はそう感じ、また身の毛立ってゆくのを覚えた。狭い小屋の中、すぐに作蔵の傍まで追い詰められてゆく。これ以上退がれば、自由には動けない作蔵も危ない。
「正行様、鼻っ面を叩っ斬るか、口の中を突く。こうなればそこだけしかありませんよ」
 妙に落ち着いた作蔵の声が背後からした。
 素早く振り向くと、作蔵がニコッと、あの人懐っこい笑顔を見せた。
「鼻っ面を叩っ斬るか、口の中を突き刺すんだな、作蔵さん」
 その笑顔に応えた途端、正行の心は、不思議に落ち着いて行くのであった。
 少しの沈黙が小屋を包んだ。
「来ますよ、正行様」
「来るな!」と、正行の感じる一瞬前に作蔵が低く呟いた。
 グッ!グッ!と踏み込むように頭を前に迫り出し、正行を噛まんとした大熊の鼻っ面目掛けて、正行の一閃が走る。
「グファー!」と、異様な叫び声を上げた大熊が、狂ったように両手を振りまわし、鼻を掻くようにしながら立ちあがった。
 小屋の梁が、「バキッ!バキッ!」と凄まじい音と共に折れ、小屋が大きく傾いた。
 立ち上がった間隙を突き、正行が心の臓へと飛び込む。が、切っ先の届く前に、「ウワー!」と悲鳴を上げ、壁に投げつけられ、左の脇腹から真っ赤な血が噴き出す。
「正行様ッ!」
 じっと鉈を構え機を窺っていた藤次が悲鳴のような声で正行を呼ぶ。
 同じように叫んだ作蔵の声が正行の耳に聞こえた。
 次の瞬間、藤次が片手に掴んだ鉈の柄を胸に当て、大熊の懐へ跳び込んだ。
 続けざまに正行を襲おうとし、虚を突かれた熊の胸の中に、抱き込まれるように藤次がいた。
 その藤次を引き剥がさんと、大熊の爪が藤次の背中を引っ掻く。
「ウウー!」引き剥がされまいと片手で大熊の毛を鷲づかみにし堪える藤次が、痛みに呻きながら必死に右手に掴んだ鉈を心の臓に届けと突き立てるのであったが、所詮人の力の及ぶところでは無かった。
 遂に引き剥がされ、丸太のように床に放り出され、激痛に気を失い行く藤次の目に、黒い影が大熊を襲うかのように跳んだのが見えたような気がした。
 正行も見た。作蔵が信じられないような身の軽さで、あの鉈に両手を添え、大熊の懐へ跳び込んだのを。が、正行もまた眠るように気を失っていった。

 どれほどの時が流れて行ったのであろうか、もう辺りは陽の光に満ちようとしていた。
「正行様、正行様」
 正行は自分を呼ぶ藤次の声で目が覚めた。
「大丈夫でございますか、正行様」
 藤次が心配そうに覗き込んでいた。
「ああ。痛ッ!藤次、お前の方こそ」
 着物ごときつく縛られた左脇腹に激痛が走る。傷薬の匂いもした。藤次が手当てをしてくれたらしい。 
 大熊の一撃を避けたようとしたが、避け切れなかった。だが、辛うじて直撃は避けられたようであった。その後、藤次が大熊に抱きつき引き剥がされた後に、作蔵が宙を飛んだのを見た。
「作蔵さんは?」
 正行の問いに、藤次が無言のまま首を横に振って目線を移した。
 その目線の先には、巨大な熊の亡骸が横たわり、その胸に抱かれるかのように、作蔵が息絶えていた。
 横たわる大熊の左胸に、あの鉈が二本、紅い血に染まり突き刺さっていた。
「おらが仕留めていさえすれば、作蔵さんは死なずに済んだんだ。おらの鉈が、こいつの心の臓を少し外れたんだ。だから作蔵さんが、最期の力を振り絞って跳んだんだ」
 藤次がしゃくり上げるように泣きだす。
「泣くな、藤次!」と言いつつ、正行もまた流れ落ちる己の涙を止めることは出来なかった。

「作蔵さんをこのままにして山を下りる訳にはいきません」
 怪我の痛みを堪え、藤次が顔を歪めて言う。
 それは正行も同じであったし、怪我の酷い二人だけで山を下るのは不可能に思えた。
「おらが死んだら小さい方の窯で焼いて下さい。いつ死んでもいいように、窯の中には、木が組んであります。その上へ乗せて、窯を塞いで、火口を少し切って火をつけ、火が回ったら火口を少し大きめに切れば、かなりの勢いで中へと燃え盛り、木は全て灰になります。人間なんて半日と掛かりませんよ」と、昨日、作蔵に教えられていた。
 正行も手伝って、木の枝で作った杖に縋りながら藤次と二人、小さな方の炭焼き窯で亡骸を荼毘に付した。
 濁酒の甕を洗って、その中に作蔵の骨を納め、ほんの少し濁酒を注いでやり、蓋を戻した。
 翌朝、山を下りる支度をしていると、作蔵の息子と孫がやって来た。
 血まみれの包帯に包まれた二人を見、何が起きたのかと驚き青ざめ、更に、無残に破壊された小屋の中に横たわる大熊を見、身体を強張らせ震えていた。
 作蔵の死を告げると、
「毎日この山の方を見るようにしているんですが、昨日、大きな煙が見えたんです。夏に炭を焼く筈が無いけどなぁと訝っていたのですが、親父が、この小さな窯は俺を焼く窯だなんて言っていたのを昨夜思い出しまして、これはと、朝飯も食わず、慌てて登って参りました」と、息子は力無く言った。

 若い頃蝦夷地に渡ったことがあるという在所の住職の話では、羆と呼ばれる蝦夷地の大熊に似ているが、昔語りに、とてつもない大きな羆が現れて村を襲ったという話は聞いたことがあるがと絶句し、遙か遠く離れてはいるが、津軽の方では、海峡を渡ってきた羆が人を襲ったという話も伝わっている。もしかすると、こいつもそういった羆なのではあるまいかと……。

 藩出入りの商人が、金鉱師を連れて調べに来た。が、山金故、純度は高いが埋蔵量は少ないとの事で、五年から十年足らずで掘り尽くしてしまうのではないかということであった。それでも、幾らかは藩の窮状を救う助けにはなりそうであったし、幸い、今年は米の出来も良いらしい。
 勿論、正行の報告を聞き、最初は色めき立った上の者たちも、時間が経つ程に下がってゆく鉱脈の評価に、意気消沈していったのは言うまでも無い。
 正行にも、「この財政状況ゆえ、大怪我までさせてしもうたのに、その苦労にも報えぬ。堪えてくれ」と、この事が無くとも、いずれはなれたであろう郡奉行への約定と、雀の涙ほどの報奨金が下されただけであった。
 そして、藤次には、士分が与えられ、名字帯刀も赦された。
 その祝いの朝、「屋敷の北側に籐次の屋敷を作って、嫁御を探してやらねばな」とほほ笑みながら言う正行に、志緒が、「里の父が、人はな、目に見えぬ力で繋がれている、運命のように結びついた気の合う者は、ましてやであろうと口癖のように言っていましたが、籐次殿は、正に旦那様とはそういう運命を持たれた方だったのでしょうね。あの神の山の蒼い空のように澄み切ったあの目をみると、心が休まる気がいたします」と、微笑みを返す。
「作蔵さんもそうさ……、仲間なのさ、そして志緒もな」
 志緒が、溢れ落ちてくる涙をそっと拭った……。
 
 あの作蔵の鉈は、家の神棚に祀られ、毎朝、屋敷の者皆で手を合わせることを怠りはしなかった。
 あの事件以来、正行は、特別に何かない限り、家の者皆、共に膳を囲むことにした。藤次、吉造、賄いの房、それに妻の志緒と母。六人で囲む膳のひととき、酒を酌み交わす藤次が、「骨折り損でしたね、正行様。作蔵さん、あの濁酒の甕の中で笑ってますよね」と、慰めるように言ってくれるのであったが、正行は、作蔵の笑っている皺だらけの顔と、優しいあの漆黒の眼差しが浮かびはしたが、骨折り損だったと思う事なんぞは微塵もなかった。
 あの山で過ごした藤次と作蔵との二年の月日は、正行にとって、二度と訪れることは無い何物にも換え難き大切な時であったと、しみじみと振り返るのであった。
「金なんぞより、うーんと大切なものを掘り当てた故、骨折り損では無かったよ」と、正行は心の中で呟き、やっと怪我の癒えてきた藤次の肩を、黙って軽く叩いた。
 同じように、己の脇腹にも残ったあの時の傷跡を見る度に、正行は、あの山小屋の二年の月日を、宝物のように大切に、その胸に仕舞い直すのであった。
                                  
      神の山      ―完―
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み