神の山 (一)

文字数 17,218文字

                             NOZARASI 10-1

  神の山 (一)

「おらの生き死には、この山の生き物たちと同じですよ。神様がお決めになられたこの山の定めみたいなものの中で、この山の命あるものと共に生きながら、いつかは死んで土に還って行く。おらに何ぼかでも神仏のお情けや、運というものがあるとすれば、死ぬほど苦しんだって、定められた寿命の中で、何とか生き延びてゆけますよ。幸いこれまで病らしい病には遇っておりませんで。それに、おらは此処が好きだ、此処で死ぬんだと決めておりますから」
 山奥での老人の一人暮らしを案じて訊く正行に、作蔵は、六十を疾うの昔に越えたであろうと一目で分かる皺だらけの顔に、外連味のない穏やかな笑みを浮かべ、そう応えた。
 作蔵の炭焼き小屋は、南面に山岳信仰の本山を持つ雄大な山塊の北面に位置し、人々に神の山と崇められるこの広大な山塊の懐に葉脈のように伸びた沢筋へ入るのには、これ以上都合の良い所は無いといえる要の場所に在った。
 城下から小屋まで五里余り、屋敷から通うのには具合が悪い。何とか伝手を頼み、気乗りのしなかった作蔵を説き伏せてもらい、小屋を使わせてもらう事が出来たのであった。
 作蔵は、ひとり息子に嫁が来て、やがて孫が出来るとすぐ、それまでは炭焼きの季節だけこの小屋に籠もっていたのを止め、一年中此処で暮らすようになっていた。
 作蔵の焼く炭は良く締まっていて、火付きも火持ちも、そして火力も良いと評判で、他の炭より高値で問屋が引き取るという。息子が米を作っているのだが、炭の年貢の割り付け額は、それを上回るのだと、作蔵を世話してくれた庄屋は言った。
 その庄屋の話では、頑ななほどの人嫌いだという。だが、初めて此処を訪れた時に会った印象からは、正行にはそうとは感じられなかった。案の定、寝食を共にして見れば、一見気難しそうな風貌ではあるが、陽に焼けた皺だらけの顔の中に、そこだけが丸いような、優しい光を帯びた漆黒の目、打ち解けると妙に人懐っこく、噂のように、根っからの人嫌いでは無いように思えた。
 雪解けの春から初雪の頃まで、この山塊の支流を辿り、広大な山々、谷々を虱潰しに踏査してゆくのが、正行の今度の勤めであった。
 ひと月に一度、四、五日ほど城下へ戻り、上役への報告や小屋での食料の調達などの雑用を済ますと、屋敷に腰を落ち着ける間もなく、すぐにまた山へ籠らなければならなかった。
 藩から命じられ、金の鉱脈を探し求めているのであるが、昔、熊撃ちの猟師が親指ほどの金の塊を見つけて来たという言い伝えと、川下で採れる僅かな砂金の他には、これといって頼れるものは無かった。
 が、二年続きの飢饉で藩の財政は逼迫し、この上の飢饉が重なれば、破綻することは目に見えていて、雲を掴むような話にさえ頼らざるを得ないというのが、今の藩の実情であった。勿論、金鉱が見つかったとしても、一朝一夕に金が採れるというのでもない。それを担保に、藩出入りの商人達から、当座の金と、開発の資金を引き出そうというのである。
 そんな話に、父から教わったその方の知識が少しばかりあるというだけで白羽の矢を立てられた正行こそいい迷惑ではあった。
 郡奉行を務めていた父は、殊の外石が好きであった。どんな石でも良いのである。藩内の見回りのついでに、色んな石を持ち帰る。庭の片隅にわざわざ小さな小屋を拵え、棚を作り、何処其処の石、水晶に近い石英故、此の地の何処かに水晶があるのかもしれないだの、青素を含む故、鉄や金の混じる可能性もあるなどと、添書きと共に収められていた。
 正行の知識というものもその程度であった。が、他にそれらしき者も居ず、まして上意である、そんな雲を掴むような話にはと、断る訳にもいかなかった。二年という期限を付けられ、小者の藤次を連れ、春の雪解けを待って秋まで山をうろつく暮らしが始まった。
 藤次は若い。足腰も驚くほどに達者である。何かの時は心強い。
 屋敷の小者は、今は藤次と吉造の二人。
 一人で十分間に合うのだが、先年他界した父の子供の時から仕えている吉造は、すっかり年老いて、今では屋敷内の雑用を任せる以外、ほとんど役には立たなくなっていた。
 四年ほど前、庭の敷石に躓き、足を痛めてしばらく動けなくなった後、思うように動かぬ自分の体に苛立ち、辞めて在所へ帰ると言い張る吉造を懸命に引きとめたのは、正行も、母も、妻の志緒も同じであった。
「吉造のお葬式はこの家から出します」と、きっぱりと志緒に言われた吉造が、嬉し涙に噎びながら数日後に連れて来たのが、遠縁の者だという藤次であった。
 年は十九。正行より八つ年下であった。
 気の良い若者である。吉造の言うように、せっかちなところを除けば、常人ではこれはと思うような重い荷物も苦にもしない程、その足腰は頗る強く、仕事の呑込みも良いし気も利いている。小者としては申し分のない男であった。それに、「山家の育ちですから」と、本人も言うように、若いに似合わず、山で生きてゆくのに欠かせないような知識も豊富である。まるでこの度の任務を予見し、吉造が連れて来てくれたかのようであった。

 初めての年の梅雨明け近く、急な大雨に見舞われ、沢筋の奥に閉じ込められた時、降り続く雨の中、増水、濁流の圧倒的な大自然の恐怖を目の前に焦る正行に、「こういう時は、絶対に動いちゃなんねぇだ。下へ行けば行くほど水嵩は増し、流れも人を寄せ付けねぇ。鉄砲水の恐れだってある。今日止まなくても明日、それでも止まなければ明後日。待てるだけ待ちゃぁいい。降り止まなかった雨はねぇと、昔から決まっていますだ」と、こういう時は我慢の一手だと、普段は結構畏まった物言いをする藤次が、土地の言葉を丸出しにし冷静を装いながら正行を諭すのであった。きっと、心の何処かで、自分の焦る心にも、そう言い聞かせていたに違いない。が、この男のこういう場合の肝っ玉の太さは、何故か心を落ち着かせ頼り甲斐があり過ぎるほどにあった。
 川岸から半町ばかり離れた一段高い小さな台地の、そう高くは無い崖の僅かに庇状になった所へ太い枝を斜めに立て掛け、扱いて柔軟にした蔓で固く結びつけ格子状に組むと、青葉の多く付いた木の枝を下から順に、逆しまに重ねてゆく。強く降る雨が、滑るようにその木の葉の上を伝い落ちてゆく。ほとんどといって良い程、雨は中には入ってこなかったし、葉に当たる雨粒の音も、少し気になりはしたが、我慢できぬと言うほどではなかった。
 藤次は次に、人の頭くらいの川原の石を、床になる部分に敷き詰め、その上に枯れ木や流木を並べ、真ん中に石で囲った小さな囲炉裏を作った。もう大分濡れて、とても燃やせそうもない小さな木切れも集め、二人の座るのに邪魔になりそうなほど積み重ねるのであった。
 大きな倒木を鉈で切り刻み、まだ雨の浸みていない芯を更に小さく切り刻んでゆく。山に入る時いつも身につけている、油紙に包んだ火打石と、油を浸み込ませた端切れの解した物を使い、手妻のようにいとも簡単に火を熾す。
 正行は戸惑いながらも感心しきり、手伝うというほどの手伝いもできなかった。それほどに藤次の動きは無駄というものが無く、手出しは却って邪魔になるのではないかとさえ思われた。
 パチパチと音をたてて燃え始めた俄造りの囲炉裏に、先ずはと軽く低頭し、パンッ、パンッと柏手を叩き、口の中で、「ナムアブランケンソワカ……」と、何やら呪文のようなものを唱え、「これでよし!」と、藤次が満足そうに狭い小屋の中を見渡す。
「こうしておけば、囲炉裏に近い木から少しずつ乾いて、薪として使えます。太い木だって、まだ芯までは濡れてはいません、直に乾きます。火付きが悪いので少し煙たいですが、そのうち慣れます。それに何より、周りの木や石が温まってくれば、うんと違いますから」と、藤次。
 石の間を風も通る、乾きも速い。
 感心していた正行が、「食い物は持つのか?」と問う。
 藤次が、ニヤリと意味ありげに笑う。
 何かの時にと多めに持ってきている食料も、もう作蔵の小屋に引き返そうかという頃で、控えめに食い繋いで三日か。食べるのを抑えようとする正行に、「この時期の大雨の後の山の夜は意外に冷えます、殊に明け方は厳しい。此処は狭いので、あまり火を強くは燃せない以上、食べるものは食べておかねば身体が持ちません。腹いっぱいとはいきませんが、腹七分、お食べになってくださいませ」と、事も無げに言う。
 案の定、濡れ切った身体は、夜明けの寒さにブルブルと震え、歯の根も合わさらぬほどに堪えた。藤次が木を少しずつ焼べ足し火を燃し続けてくれてはいるが、藤次の言ったように、食べる物を食べていなければ、細々と燃やし続けるこの囲炉裏の火だけでは、とても耐えきれるものではなかったろう。やがて服も乾いて、次の夜からはあまり寒くは感じなかったが、それでも夜明けの寒さは、この季節としては尋常では無かった。
 三日目の夕、空に僅かに明るさが戻り、雨は小止みを繰り返しながら回復の兆しを見せ始めてきた。が、本流の流れはまだ轟々と音を立て、訳の解らぬ何かに猛り狂い当り散らすかのような奔流と化したままであった。
 食料は底を突き、湿気に少しふやけたような干し飯が、もう今夜の分さえ危ぶまれるほど、巾着の底に僅かに残るのみであった。迷う正行を余所に、藤次は巾着を裏返し、懇ろに一粒も残さず摘まみ出し、自分の手にパラパラと零すと、さあ食べてしまえと言わんばかりに、正行の掌に最後の干し飯を乗せた。
 明らかに藤次の干し飯は少ない。だが、それを言っても藤次は譲らないだろう。正行は、手のひらに載せられた干し飯に、藤次への感謝も籠めて低頭するのであった。
 その夜から、幸い雨は小降りになり、四日目の朝目覚めた時には雨も止み青空も覗いていた。水嵩も目に見えて低くなり、水の色も泥濁りから薄い笹濁りに変り、二人は顔を見合わせ、ホッと胸を撫で下ろすのであった。
 そろそろ腹の虫が騒ぎ始めた頃、「よし、見込み通りだ、もう大丈夫。腹も減ったし、ちょっと遊びに参りますか、正行様」と、藤次が意味ありげに笑いながら正行を誘った。
 訝る正行が連れていかれたのは、一町ほど離れた小さな流れ込みであった。普段なら恐らく、チョロチョロの水しか流れてはいないだろう、沢と呼ぶのも憚られるような流れであるのだろうが、この雨で、数倍、いや数十倍の流れと化していた。と言っても小沢、少し勢いを付ければ正幸にも飛び越せるほどのものである。
 その流れの水は、沢の本流よりも一足早く、もうかなり綺麗に澄み、流れの底の砂も見えるようになっていた。藤次がその流れをひょいと飛び越すと、水の中を黒い影が幾つも走った。
「いますよ」と、藤次が嬉しそうに振り向く。
「岩魚か?」と、正行の問いに、「はい」と応えると、小沢へ向かい軽く低頭し、また何やら呪文を唱え、藤次は膝ほどの流れへ入り、無造作に石の下を弄った。
「でかいや」と、まるで子供のような笑顔で、捕まえた尺を越えた岩魚を藤次が翳して見せた。
 しかし藤次は、その岩魚を、まるで木切れでも放るように流れの中に放してしまった。
「何故放す?」と、正行が訝る。
「あんなでかいのは美味くありません。大丈夫ですよ、まだまだいますから。大水が出ると、流れのきつい本流を避けて、こいつらこんな所へ逃げ込んで来るんですよ。狭い流れへ何匹も集まって、子供でも獲れますよ」と笑う藤次の言葉通りであった。
 石の下から藤次が次々に岩魚を掴み獲る。
「このくらいが一番旨い」などと言いながら、七、八寸の岩魚に軽く低頭し、「ナムアブランケンソワカ……」と、いつもの呪文を少し大きめな声で唱え、頭を石に打ちつけては岸辺へ放り投げる。
 殺生の場合、藤次の呪文が少し大きく聞こえて来るのは、この男の優しさであるのだろうかと、正行はこのとき初めて気づいた。
 楽しそうな藤次の様子に誘われ、正行も流れへ入ると見様見真似で石の下を探る。指先にヌルリとした岩魚の感触がし、思わず緊張が走る。。
「いましたか」と、藤次が、正行の表情からそれと察し、声を掛けて来る。
「そうっと、鰓の所まで指を摺り上げ、首根っこを、ギュッと掴んで下さい」
 藤次の言葉通りに、ヌルリとした岩魚の胴に指を這わせ、硬い感触の鰓を思いっきり掴んで石の下から引っ張り出す。
 藤次に差し上げて見せると、
「これで二、三日は食い繋げますよ。もっとも、明日になれば沢を下れますが」と、藤次が嬉しそうに笑って言った。
「焼くのか?塩も味噌も、もう無いのだろ」と、味気ない素焼きの岩魚の味を想像しながら正行が諦め気味に呟くと、
「味噌がまだ少し残っていますよ」と、また、藤次の意味ありげな笑いである。

 山へ入る備えをしている時、「何か他に要るものがあるか?」と、正行が藤次に訊いた。
「山では、戴きましたこの短いのより、良い鉈が欲しいのですが」と、藤次は腰に差した刀を撫でながら遠慮がちに鉈を欲した。
「鉈か。元刀鍛冶の鍛冶鉄の物が良いと聞いたことがあるが、それで構わぬか」と正行が応えると、
「えッ、鍛冶鉄のでございますか。あっしが選んで構いませんか」と、嬉しさを隠し切れぬ笑顔で藤次が訊く。
 翌日、城から下がる折に回り道をし、城下外れの鍛冶鉄へ二人で立ち寄る。
 並べられた、造りの違う幾つかの鉈を前に、藤次が迷わず手に取ったのは、短刀をそのまま太くしたような刃渡り一尺二寸ほどのしっかりした鉈であった。樺細工の鞘も付いていて、鉈の良し悪しなど知らぬ正幸が見ても中々の物であった。
 鍛冶鉄を出て往来を歩きながら、大事そうに小脇に抱え込んだ鉈に時折目をやる藤次の顔が子供のように輝き嬉しそうである。
「申し訳ございません、あんなに値の張るものだとは思いませんでしたので」と、しきりに気にしている。
「私も驚いたよ、鉈があんなにするとはな。しかし、値で選んだのではないし、気に入った物が一番良いのではないのか。それに、鍛冶鉄も、自信の出来の物だと言っていたし、道具は良いものに越したことは無い。大切に使ってやれば、道具もそれに応えてくれるというものだ」と、正行は気にしなかった。

 藤次がその鉈を使って、この避難小屋を造り、今また岩魚を捌いている。
 残り少ない味噌を大きな葉の上で水を少し加え引き伸ばしてゆく。
 味噌がもう残り少ないのでそうしているのかとみていると、
「こうすると、味噌の節約になりますし、岩魚の滑る身体にも塗りやすい。それに、焼いてゆくと味噌の味が岩魚の身によぉく沁みます。とっても旨いですから、楽しみにしててください」と言いながら、それを串に刺した岩魚に塗って囲炉裏の火に翳すと、次に掛かる。
 岩魚の鰓の後ろを、皮だけに切れ目を入れ、まるで着物の襟を掴んで剥がすように器用に皮を剥き、三枚に下すと身だけを鉈で小さく敲き、山菜の蟒蛇草と味噌を少し加え、更に叩き続ける。やがて、蟒蛇草の粘りが絡むように糸を引いてくる。
「流石鍛冶鉄、良い鉈でございます。腕ほどもある立ち木を一振りでバッサリ切れるかと思えば、このように細かな仕事も熟せます。俺の宝物、地獄まで持って参ります。ありがとうございました」と、流れで鉈を洗い、草臥れた腰の手拭で大事そうに拭きながら礼を言う藤次の顔が、如何にも嬉しそうである。
「これでよし。後はこいつだ」と、今度は岩魚捕りの帰りに見つけた独活の皮を剥き、流れに軽く曝して灰汁を抜き、平たい岩の上に並べた。
 囲炉裏に翳された岩魚の味噌焼きから香ばしい香りが漂い、空きっ腹の二人の鼻と胃袋を擽る。
 さて、やっと遅い朝餉である。
「如何でございますか」
「旨い!」
「でしょッ」
 藤次が如何にも自慢げな笑い顔を見せる。
「もうひとつ贅沢を言わせて貰えば、酒が欲しくないか、藤次」
 余裕の戻って来た正行の冗談に、
「ははははは」と、藤次が高らかに笑い、うんうんと頷く。
「岩魚ばかり食っていては口に尽きます。合間に、この独活にちょっとその葉っぱの上に残った味噌を付けて召しあがってみてください」
 独活を勧める藤次の顔が悪戯っぽい。
 さぞかし美味なのだなと期待しながら味噌を付け、躊躇いなくガブリと独活に食らいついた正行が、「おー、これは……」と、後の言葉を失った。独活の旨さは正行の期待を遥かに超えていた。
 藤次の顔が、為て遣ったりとほくそ笑む。
「春には同じようにして家でも独活を食うが、これは別物だな。ますます酒が欲しくなるなぁ、藤次」と、正行がもう本気である。
「採ったばかりの独活の白根を、皮を剥いて流れに曝して灰汁を抜いただけ。そのまんま食ってもいけますが、味噌があればこれ以上の物は山にはございません」
「正に生のまま、絶品だな」
「口直しなんぞといっては岩魚に申し訳ねぇが、良い口直しでございますよね」
「ああ、急場の飯の代わりといえども、岩魚だけではそうは食えぬからなぁ、贅沢な口直しだ。家のみんなにも食わせてやりたいなぁ」
「今度屋敷へ帰る時にそう致しますか。山の採り立てよりは少し落ちますが、城下へ売りに来るものよりは旨いと思いますよ」
「きっと、喜ぶな」
「吉造叔父貴も、久し振りだって喜んでくれますね」
 次の下山の折、藤次は暗い内に起き、残雪の残る谷まで行き、見事な独活を掘って来た。屋敷の皆の喜んだのは言うまでも無い。
 それだけでは無かった。山での藤次の知識は、何かにつけ、様々な局面で役に立ち、感心する事しきりであった。
「それ程の事ではございません。山で生きてゆく者にとっては当たり前のこと。知らなきゃぁ幾つ命があっても足りません。みんな、そうして厳しい暮らしを生き抜いてきたんですから。もっとも、これは若い時分に熊撃ちをやっていた親父の受け売りですが」
「ほう、三次殿は熊撃ちをやっていたのか」
「おらが生まれてすぐに止めたらしいです。なんでも、中々子供に恵まれなくて、やっと授かった最初の子が直に死んじまって、四つ足を殺生してきたのがいけねぇんじゃねぇかと」
「そうか、藤次は独りっ子だったな……」
「おらが山での暮らし方をいろいろ教わったのは、山を諦めきれない親父に、しょっちゅう山の中に連れて行かれたからなんです。山菜や茸採り、岩魚釣りが主でしたが、湯治場や城下に引き売りに行く女どもには、親父の採ってくるものは、他とは比べ物にならないくらい旨いって評判で、引っ張りだこでした。当たり前ですよね、とんでもない山奥まで行くんだから。山の雪解け水や、柔らかな陽ざしの恵みを受けて育ったものは、あの独活のように絶品です。それに、性に合っていたんでしょうね、兎に角面白くって、夢中になって親父に付いて歩く内に、勝手に色々身に付いちまったってわけなんです」
「勝手にか」
「はい、勝手にです。性に合っていたって事もありますが、根っから山の暮らしが好き、親父の血を引いたんですよね。実のところ、吉造叔父貴に正行様の所へ誘われた時も、城下に暮らすのかと思うと気が重く、あまり気乗りはしなかったんです」
「そうか、三次殿から藤次を奪った上にな。済まなかった、赦してくれ」
「そんな積りで言ったんじゃございません」
「ありがとう、藤次。しかし、好きこそ物の上手なれだな、畏れ入る事ばかりだぞ」
「ははは」
 照れ臭そうな藤次の笑いに、正行も引き込まれてゆく。
 そんな事が重なってゆく度に、藤次に対する正行の信頼は揺るぎのないものになって行った。金鉱を探す事だけに専念していればよく、慣れぬ山の暮らしに余計な気を配ることも無いのであった。

 やがて秋が訪れ、米の取り入れの手伝いだと一度山を下りた作蔵が、山のてっぺん付近の木々が色づき始めるころに戻って来た。
 息子と孫に味噌や米を背負わせ、自分も歳に似合わぬ大荷物を抱えてである。
 これから冬の間、作蔵は山に籠もり切り、炭焼きを続ける。この辺りの雪は、例年通りなら、積もっても二尺には達しない。秋から近場の山のあちこちに切り揃え貯めて置いた炭を焼くに程よく切り揃えた木々を、橇を使い、炭焼き窯の造られたこの広場まで運ぶ。一人で担いでは、とても運べるような本数ではない。大量に運べる橇を使うにはもってこいの積雪である。それを春まで焼き貯めるのである。春には、息子と孫、それに手伝いの男が、冬の間に家族総出で編んだ萱の炭俵を担いで登って来る。背負子に五表もの炭俵を担ぎ、里まで何度も往復するのである。
 初雪が降る頃、正行達は山を下る。作蔵は独り、春が訪れるのを此処で炭を焼きながら待つのである。
 その夕刻、作蔵がいそいそと何かを始めた。
 時折こちらを見ては、意味ありげな笑みを浮かべている。
 小屋の真ん中の囲炉裏の脇を掘り始めた。
 簡単に掘れるところをみると、以前に掘って埋め戻していた穴を掘り返しているのか。掘り終わると、味噌が詰められていた甕であろうか、少し大きめの甕を小屋の横の小さな湧き水で綺麗に洗い、「ヨッコイショッ」と、その穴に埋め込んだ。掘り返した穴にスッポリと納まったところからすると、やはり、此の甕を埋めていた穴に違いは無かった。
「どぶろくだッ!」と、目を輝かせて藤次が叫んだ。
「ああ、新米も採れたからな」と、わざと事も無さげに作蔵が頷いてみせる。が、その照れを隠すように、
「お侍さまが来なさるってんで、こんな物、お召し上がりになられるやら、失礼もあっちゃいけねぇんで止めといたんだが、酒もいけると言いなさるし、この間の大雨の時の話も聞いたし、なればいいだろうと、今日は、麹と米も多めに運び上げて来たんだよ」と、今度は真顔で言う。
「それで息子さんとか。大荷物だったもんなぁ」と、藤次が嬉しさ丸出しである。
 作蔵の息子と孫は、もう一度在所まで下り、また荷を担いでここまで登ってきてくれていた。
「三人分だからな。雪の降る前に、もう一度息子達が荷を運び上げてくれる。後は春まで誰も来ねぇ。こいつが唯一の楽しみさ。あっしの造った濁酒なんて、お口に合いますかどうか。合いましたら、存分にお飲みになってくださいまし」と、正行の方に向かって頭を下げながら笑った。
「済まぬ、見も知らぬ者が突然押し掛け、心煩わし、好きな酒さえ断っていてくれたとは、ご迷惑をお掛け致して……」と、正行が低頭し、感謝する。
「勿体ねぇ。おらのような炭焼き風情に」と、畏まる作蔵に、
「作蔵さん、そこが正行様の良い所よ。おらなんかも随分大事にして戴いてよ、旦那様なんて呼ぶのは止せ、正行で良いってさ。時々酒なんかも一緒にって、膳を並べてお誘いくださる。お城の長屋で訊いたってよ、そんなことあるわきゃねぇだろうって、小者仲間は誰も信じちゃくれねぇんだ。この鉈も、山へ入るってんで、鍛冶鉄の一番良くて値の張る奴、わざわざ一緒に出向いて買って戴いたんだよ」と、藤次が腰の鉈を撫でながら言う。
「若造のお前なんかにゃ、勿体ねぇ代物だ」と、作蔵が藤次を睨みつけた。が、その目は優しく、「よかったなぁ」と言わんばかりに笑っていた。
 十日程して出来上がった濁酒を酌み交わしながら話が弾む。
「こいつはまぁまぁいい出来だと思うんですが、ちょっと酸っぱいですか?」と作蔵が首を傾げ、柄杓で汲み上げ椀に注いだ濁酒を皆の前に並べ、チョボリと味見するように飲みながら訊いた。
「ううーん、少し酸っぱいことは酸っぱい。濁酒の出来具合は陽気任せ、微妙で難しいと聞く。その味の違いがまた好いのではないのかな」と言う正行に、
「もう少し寒くなると、割かし旨いのが出来るようになるんですがねぇ。こいつは簡単に作れるのはいいんだが、どんな味になるのかは、神様次第ぇだ」と、作蔵がぼやく。
「いいってこと、まさか酒が飲めるなんて思いもしなかったんだし、結構いけるよ、旨ぇよ、作蔵さん」と、藤次が言い、
「気まぐれな神様の贈り物、十分に旨い。ありがとう作蔵さん」と、正行も礼を言う。
 椀の濁酒を呑み干す作蔵の顔が嬉しそうである。
「藤次、あいつでやりたいなぁ」と正行が藤次を見て微笑む。
「あいつは駄目でございます。秋の岩魚はあんなには旨くありません。それに、独活だって、疾うの昔に終ってます」と、藤次が、正行の目の輝きを余所に、素気なく応える。

 秋も深まり、神の山の頂に初雪の降った夜、三人で濁酒を酌み交わしながら、
「お世話になりました、そろそろ山を下りようと思います。また春が来て、雪が解けたら押し掛けます故、その時はまた宜しくお願いします」と、正行が作蔵に礼を言った。
「いえ、おらの方こそ……」と、作蔵が声を詰まらせた。
「おらはね、もう御存じでしょうが、人と付き合うのが下手糞で、こんな山奥に棲み込んじまってるんですが、なんででしょうねぇ、この間の里帰り、家のみんなと久し振りに会えたのは、嬉しい事には違い無かったんですが、二日もすると妙に寂しくて、御二人と会える日が待ち遠しくなりましてね。こいつで、三人で濁酒飲めるぞと思いながら山に登って来る時の、あの荷の重さが嬉しくって仕方なかったんですよ。こんなことは初めてだ、また春にお会いできるのを楽しみに、首を長くしてお待ちしております」
 そう言葉を繋いだ作蔵の目に涙が浮かんだ。
「私も、また来る春を楽しみにしていますよ、作蔵さん」
「来年はよ、きっと金を見つけてみせるからな、作蔵さん」
「金はどうなんですか。見つかりそうですか」
「うーん、難しい事は覚悟の上ですから」
「八か月近くも歩きまわって駄目なんだものなぁ」
「下らねぇかもしれねぇが、おらの思いつきをお話し致しても宜しいでしょうか」
 作蔵が、少し改まって言った。
「少しも構いません、是非お聞かせ下さい」
「砂金、里の方の河原でも少し採れますよね。それをね、沢の出合いを、下から上へ、本流を順繰りに辿ってゆけばいいんじゃねぇかと」
 砂金として流れ出す以上、金脈は必ず本流か沢筋かにある。下流から順に沢の出合いを探り、沢の出合いより上流に砂金が見つから無ければ、金脈はそこ辺りの本流か、その沢筋にあるということになる。すれば、ひとつ上、また一つ上へと本流と沢を探ってゆけばいいと作蔵は言いたいのだ。
「正行様」と、藤次の眼の色が変わった。
「生半可な知識が少しばかりあるということに感けて、岩肌の鉱脈ばかりに気をとられていました。ありがとう、作蔵さん」
「いえ」とだけ応えて、照れ臭そうに笑う作造の皺だらけの顔の目が嬉しそうであった。
 何故そんな単純な事に気付かなかったのだ。やはり自分の知識なんぞは、解ってはいるが、素人の浅知恵に過ぎなかった。
「藤次、春になったら一からやり直しだ」
「はい」と応える藤次の目も輝いている。

「何だか妙に嬉しそうでございますね」
 春が訪れ、麓から見える神の山の雪も大分少なくなり、二日後に山へ入る、その準備に勤しんでいる二人に志緒が笑いかける。
「志緒様、今年こそ見つけて参りますから」
「自信ありげね、藤次」
「大丈夫ですよね、正行様」
「ははは、そう上手くゆけばよいがな」
「作蔵さんへのお土産は?」
「ちゃーんと、ここに入ってますよ」
 藤次が荷物の一つを、ポンと叩いた。
「旦那様と二人で、何やらこそこそおやりのようでしたが」
「お気づきになられましたか」
「ふふふ、藤次のと同じ、あの樺細工の鉈でしょ」
「はい、御明察です」
「きっと喜んでもらえるぞ、藤次」
「山で暮らす人たちは、木を切るだけではなく、魔除けや祭事にも鉈を使うって、いつだったかしら、吉造が言ってたわ」
「鉈ってぇのは、山で暮らす男にとっては守り刀。それほど大事なものなんですよ、志緒様」
「私も一度山に行って、作蔵さんという方に合って見たい」
「金が見つかれば、行けぬこともあるまい」
「嬉しい」
「志緒様、残念ながらそれは出来ません」
 志緒の喜びに水を差すかのように、藤次が生真面目な顔できっぱりと言った。
「あら、どうして」
「あの山の麓には結界が張ってあります。麓の御神木から奥へは、女の方は入れません」
「山の神の御怒りを買うということ?」
「はい、山の神は醜女だそうで、別嬪の志緒様は尚更。絶対に駄目です」
「ふふふ、藤次もお世辞を言うのね」
「いえ、御世辞ではございません。山の神は、物凄い悋気持ちですから」
「会った事があるみたいに言うのね」
「それは……」
「ははは、志緒、それ位にしといてやれ。藤次が困っているではないか」
「藤次、旦那様を宜しくね。藤次が頼りだ、藤次が頼りだって、耳に胼胝ができるくらい聞かされています。私も安心してお帰りを待つことが出来ます、頼もしく思いますよ」
「はい、お任せ下さい。藤次、命に代えてもお守り致します」
「おいおい、なんだか話が大仰になって来たなぁ」
「ははははは」「ふふふ」

 人を頼み、少し重い砂金掘りの道具を大八車に積み込み麓まで運び、そこからは幾人かで小屋まで運び上げて貰うのだ。。
 やっと辿り着いた本流の台地の広場に作蔵の姿が見えた。もうじき火を止めるのか、炭を焼く木酢の臭いが辺りに漂って、今年も元気でやっているようである。
「もうお出でになられる頃だと、首を長くしてお待ち致しておりました」と、嬉しそうな作蔵の黒い瞳が出迎えてくれる。
「作蔵さんも元気なようで、何よりです」
「作蔵さん、少しだがよ、諸白担いで来たよ」
「諸白っていうと、御酒か」
 作蔵の目の色が変わる。
「ああ、その御酒の上等の奴だよ」と、藤次。
「昔、話に聞いてな、一度でいいから飲んで見てぇとは思ったがよ、おらたちなんかの手に入るもんじゃなし、諦めた。さぞ旨ぇんだろうなぁ」
「今夜飲めるよ。魚の干物もあるからな」
「かはー、干物もかぁ。盆と正月が一緒に来たよ。ありがとうございます」
 作蔵が正行に嬉しそうに礼を言う。
 正行が、荷を解く藤次から鉈を受け取ると、
「作蔵さん、これ使って戴けますか」と、鍛冶鉄の鉈を手渡す。
「鍛冶鉄の鉈じゃありませんか。こんな上物、このおらに戴けるんで……」と、作蔵が絶句している。
「私は、作蔵さんに一番相応しい鉈だと思いますよ」
「勿体ねぇ。藤次さんのを見るたんびに、おらも一生に一度でいいからあんな鉈を使って見てぇって、いつも思ってたんですよ。ありがとうございます」
「なんだよ作蔵さん、鉈ぐれぇで涙なんぞ流しちゃって」
「藤次さん、鉈ぐれぇなんて、あんた、そんな罰当りな事を言うんじゃねぇ。その鉈も正行様に戴いたんだろうが」と、藤次の言葉に、作蔵が本気のように怒っている。
「そんな積りで言ったんじゃねぇんだけどよ。俺はよ、戴いたこの鉈で、見事、正行様を守って見せらぁ。それが俺の努め、御恩返しってもんだよ」
「ははは、大げさだなぁ、二人にこそ、その鉈は相応しいと、私はそう思いますよ」
「ちょっと失礼させて戴きます」と、作蔵が、鉈を胸に抱え込んで表へ出てゆく。
 入口から出、作蔵の様子を窺っていた藤次が、「正行様、正行様、御覧くださいまし」と、嬉しそうに手招きをしながら正行を呼ぶ。
 作蔵が、広場の外れにある薮のちょっと太い雑木を前に、神妙に構えている。
「ナムアブランケンソワカ、ナムアブランケンソワカ……」と呪文を呟き、鉈を神前に奉げるかのように頭上へ拝する。そして、樺細工のなされた鞘を抜き、大事そうに傍らへそっと置き、改めて鉈を構えると、前の雑木へ振り下ろした。
 雑木が小気味よく一刀の下に断たれる。
 その切り口を見つめて、それから鉈を見、いきなり振り返ると、鉈を正行と藤次の方へ突き出し、子供のようにニンマリと作蔵が笑った。
「ははは、俺が戴いた時とおんなじことをしてやがらぁ。歳はとっても、心は若ぇや」
「ははははは」
 三人の笑い声が、四囲の静けさの中に吸い込まれて消えた。
 正行は、人の温もりに包まれている心地よさを、この春の陽射しのようにその全身に感じていた。
 その夜、諸白を酌み交わしながら、
「明日からは、本流をお探しになられる訳ですよね。本流の奥は、特にお気を付け下さいまし。得体の知れない奴がいると、昔から山伏や猟師達の間で囁かれていますで。欲に目の眩んだ砂金採りや猟師が、何人も戻って来ねぇって話も聞いたことがありますで」
 作蔵が、少し表情を曇らせ、真顔で言った。
「得体の知れない奴?」と、正行が鸚鵡返しに訊く。
「時々、熊や氈鹿の気配は感じているけどなぁ。熊なんぞじゃ無いってことなのかい」と、藤次も訊いた。
「ああ、この山に熊は沢山いる。おらもそいつを見た訳じゃねぇから良くは解んねぇ。大分昔からの話だ。熊なんかじゃ、大げぇの猟師は怖がらねぇし、仮にも一丁前の熊撃ちだもの、そんなもの恰好の獲物だろ、獲ろうとするさ。爺さんの代にも、その爺さんから聞いたっていうから、どんな短く見たって、優に百年は超えてるってことだ」
「百年かぁ、化け物だな」と藤次が他人ごとのように呟く。。
「山伏の話じゃ、神の使いで、この山を守ってるんだなんて、もっともらしい事を言うのもいるが、若ぇ頃に会った事があるっていう猟師の話だと、とてつもなく大きな熊のようだったってことだ。ここで炭焼きをやるようになってからも、戻って来ねぇ腕自慢の猟師もいた」
「とてつもなく大きな熊か……」と訝る藤次の感覚は鋭い、熊の気配なんぞは、すぐに察するだろう。もし、この山のどこかで、そいつに遭遇していたかも知れぬとすれば、その存在も正体も知ることの無い藤次には感じることは出来なかったということなのであろうか。それとも、そんな気配を人には感じさせぬ霊力を持った魑魅魍魎なのであろうか。

 まだ雪代の残る流れは驚くほどに冷たかった。流れに入り、幾らも経たぬうちに、足首や膝の節が痛みを伴い固まるように動かなくなってゆく。岸辺に燃やす焚火で身体を温めては、また流れに入る。
 邪魔になる大きめの石を鉄梃で動かし、鋤簾で川底の砂を浚う。担いできた松の木の樋に水と一緒に流し、軽い砂を除ける。樋に切られた溝に、重い砂と砂金が引っ掛かる。多めの水で、一度晒しの袋へ流し込み、黒い漆塗りの盆に移した砂を揺すると、盆の漆黒に小さな金の粒がキラリと光を放つ。
 藤次が、「あった、あった」と喜んでいるが、初めて砂金採りをやる物珍しさからすれば、そんなものであろう。文字通り、砂のような小さな金が、一度に五、六粒がいいところ、一日やり続けても、本音は草臥儲けである。
 これから、作蔵に教えられた通り、沢の合流をなぞるように、一つ、また一つと、上流へ踏査してゆくのである。

 やがて夏。
 山奥の谷間とはいえ、暑さは厳しい。じっとしていれば、谷間を下るひんやりとした柔らかな風に頬を撫でられ、天国なのであるが、それでは仕事にならない。動けば動くほど、谷間の湿気を帯びた空気は、疲れ体温の上がった身に執拗に纏わりついて来る。もう直、信じられぬほどの虻たちが流れの中から羽化し、黒い塊となって襲ってくる、刺されぬように全身を覆えば、また一段と体温は揚がり、自ずと体力を消耗してゆく。
 が、二人はもう、本流の最奥へと近づいていた。
「正行様、まったく有りません」と、盆の底を穴の明くほど見つめながら藤次が言う。
「無いな。何度やっても確かに無い」
「支流をひとつ見落としましたか」
「そんな事はあるまい。もう一度だ、藤次」
「はい」
 これでもかと思えるほど丁寧に探しても、遂に砂金は見つからなかった。
「ひとつ下の沢の出合い辺りまで、本流には確かに在った。しかし、その沢に砂金は無かった。どういうことだ」
「沢をひとつ見落したか、此処までの本流の流れの底に在るということでしょうか」
「本流は去年あれだけ念入りに調べた。さすれば、この下のあの通らずの川底に在るというのか」
 通らず。それは、渓が狭まり急崖が両岸に切り立ち流れが深くなり、人が川に沿って上れなくなるところを言う。
 今調べている少し下流にそれがあったが、もしその川底に金鉱脈があるのだとすれば、それを見つけることは不可能に思えた。
「とにかく、ひとつ下の支流まで、調べながら戻りましょう」
「そうだな、いずれにせよ、鉱脈は此処より下流、あの沢までの間だ。こうなれば、この辺りを隈なく調べるぞ、良いな、藤次」
「はい、岩魚もいるようですから、何日でも大丈夫です」
「今度は旨い岩魚を御数に、食い繋げるか」

 次の日、ひとつ下の支流には砂金の無い事を、もう一度念入りに確かめた。本流は半町ほど上流で、両岸の狭まった長く深い通らずの瀞場になっていて、とても調べることは出来そうもなかった。
「この瀞場の上に、確かに砂金は無かった。すれば、この瀞の対岸の何処かにもう一つ支流があるか、この瀞の水底かということだな」
 正行の心に不安が過る。
「支流なんぞございませんでした。この瀞場だとすれば、金を掘るなんてことはとても無理」と、藤次の声も元気無く窄む。
「そういうことになるな」
「二年が全て水の泡ですか」
「……」
 二人の不安に、迫りくる夕暮れが一層の陰を落す。
「兎に角、今夜はこの上の台地で寝ましょう」
「そうするか」
 対岸の岩壁が、谷間を照らす皓とした月明りに白く映え、瀞の水面に美しい。心身ともに疲れ果てた二人は、それを愛でることも無く深い眠りに誘われてゆく。
 鬱蒼と広がる原生林の闇の奥から、じっと二人を窺う異形の眼差しなんぞに、疲れ果てた二人が気づくことは無かった。
 眩い朝の斜光が、背後の尾根から谷に差し込む。
「少し寝過ごしたか」と、起き上がる正行の目線の先で、藤次がゴソゴソと朝餉の支度をしている。朝餉といえるほどのものではない、何かを料理する訳でもない、ただ火を熾しているだけのようなものだ。
 熾した火に、いつものように低頭し呪文を唱えた藤次が、立ちあがって大きく背伸びをしている。その背延びが中途で止まった。
「正行様」と、藤次が囁くように正行を呼んだ。
「正行様!」と、今度は、声が一段高くなる。
「どうした、藤次」
「正行様、あれ」
 近づいた正行に、藤次が、通らずの入り口辺りの崖を指差す。
「ン!」
「光ってませんか」
 藤次の顔に自分の顔をくっつけるようにし、指差された対岸の岩壁を見る。
 今正に陽が当たり始め、光と陰が鮮やかな対照を描き、岩肌を下り始めていた。その明るい岩肌の一点に、キラリと光る物が確かに見えた。
「あそこは、きっと、滑滝ですね」
「滑滝、水は?」
「今は枯れています」
「雨の時だけということか」
「はい、しかも大雨の時だけではないかと」
「しかし、あの光が金の鉱脈ということはあるまい」
「いえ、砂金かもしれません。滑滝の岩肌の溝に引っ掛かった砂金ですよ、きっと」
「小さな砂金が、あんなに大きく光るのか?」
「光ります。小さな瀬戸物の欠片でさえ、お天道様の当たり具合では、鏡でもあるのかと思うほど大きく光ります」
「そうか、腹ごしらえをしたら行ってみるか」
 半信半疑の正行の言い終わるのを待たずに、藤次は川へ向かって突っ走ってゆく。これが、吉造言うところの、せっかちの真骨頂であろうか。
 岸辺で褌ひとつになると、すぐに瀞場をすいすいと泳ぎ渡っていった。
 対岸へ泳ぎ着き、岸辺の虎杖を分け入ると、藤次は暫くうろうろとしていたが、やがて、緩やかな滑滝にへばり付く様にして登り始めた。
 光の辺りでキョロキョロとしていた藤次が、正行の方へ振り返り、あの光の場所は何処だと手振りで聞いている。近く寄ると見る角度が違い、太陽の光の反射が捉えられないのであろう。
「もう少し左だよ、うん、その少し先」と正行が大声で指示すると、やがて藤次が大きく片手を振った。
 岸辺まで行き、泳ぎ戻ってくる藤次を待つ。
「大きいのが在りました」
 広げられた藤次の手の平に、米粒ほどの砂金が光る。
「滑滝の滝壺らしきところに砂が溜まっています。きっと、砂金がうじゃうじゃと埋まってますね」と藤次が嬉しそうである。
「よし、行くぞ」
 道具を担ぎだそうとしている正行に、
「朝飯は如何致しますので」と問う藤次の言葉に構わず、バシャバシャと流れに入ってゆく正行の後ろから、
「正行様も結構せっかちなんでございますねぇ」と、嬉しそうに叫びながら続く藤次であった。
 あった。これまでとは比べ物にならないほどの量の砂金が、水の無い小さな滝壺の砂の中に埋もれていた。
「藤次、でかした」と、正行の言葉が感動に震える。
「腹が減りませんか」と、藤次の間の抜けたような応え。
「うん、腹が減った」と、互いに笑い交わし合った目線が、主従の垣根を越えていた。
「恐らく、あれだな」
 干飯を食べながら正行が指差した対岸の滑滝の上部に、そこだけが異なる岩肌が、崖を斜めに過るように、確かに見えた。
「あれだけかも知れぬぞ」
「あれだけですか?」
「ああ、あのまま深く岩盤へ潜られては、玉掘りをするにしても手間が掛かり過ぎよう」
「算盤に合わないという事でございますか」
「あのまま、どこか地べたに近いところまで伸びていてくれればいいのだがな」
 急ぐように朝飯を済ますと、再び瀞場を渡り、下流から尾根伝いに鉱脈らしき岩場の上の、涸れ沢と思しきところへに出た。
 その涸れ沢は、生い茂る木々に覆われ、知らぬ者の見た目には、沢があるということは対岸からでは判別できないだろうし、余程の大雨でない限り、勢いよく水が流れることはないと思われた。
「見ろ、藤次。この足元へ伸びている」
「やった、文字通り、脈ありでございますね」
「ああ。予想通り、これは無垢の山金だな」
「苦労させやがって」と言ったなり、ヘナヘナと藤次がその場にへたり込んだ。
「掘るぞ、藤次」
 急かされるように、二人は灌木の根を切り、一心不乱に地表に現れた鉱脈まで、表面の土石を掘った。
 やっと現れた岩盤に、キラリと光る金が見えた。
「これだッ、間違い無い」
 振り向くと、藤次が泣いている。
「泣くな藤次、お前の手柄だ。ありがとう」
「そんな……。勿体ない」
 鏨で鉱脈を割るり、幾つかのその塊を確保し台地へ戻ると、灌木の中に砂金掘りの道具を木の枝を被せて仕舞う。
「重いか」
「こんなのへっちゃらでございますよ」
 出来るだけ多くの証を持ち帰りたい。正行も鉱脈の岩を担いだ。勿論、藤次は正行に倍する岩を担いでいた。
 そんな二人のすぐ背後に、不気味な魔性の殺気があった。だが二人は、やっと金を見つけたことで気が昂ぶり、普段なら気付いたであろう、その怒りを顕わにした殺気に気付くことは無かった。

   神の山 (一)      
         (二」へ続く
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