第23話 本物の愛国者だよ 

文字数 3,591文字

 4月2日の朝、千鶴は布の袋を持って家を出た。袋には握飯と毛糸のシャツにくるまれたお茶のビン、そして小麦粉で作った菓子代りの食物が入っていた。
 千鶴は土浦につくと、良太からのハガキにそれとなく示されていた地域へ行って、付近にあるはずの古本屋をさがした。
 さがしあてた本屋に良太の姿はなく、海軍士官がひとりだけ書棚にむかっていた。書棚を眺めながら良太を待っているうちに、店の客は千鶴だけになった。
「千鶴」耳元でいきなり良太の声が聞こえた。
 体をひねると帽子をかぶった良太の笑顔があった。千鶴は思わず両手をさしだした。その手を良太に握られたまま、千鶴は良太に笑顔をむけた。
「待たせたな、千鶴」と良太が言った。「話をするのに丁度いい場所があるんだ」
 本屋を出るなり良太が言った。「ハガキに書いた暗号をわかってくれて嬉しいよ。千鶴なら気づいてくれると思っていたけど」
「あんなにじょうずに書いてくださったんだもの、2枚のハガキを読んだらすぐにわかったわ」
 並んで歩きながら、千鶴は良太の軍服姿をあらためて眺めた。海軍の士官服姿は幾度となく眼にしていたが、すぐ間じかで眺めたのは初めてだった。白い手袋をして腰に短剣を吊っている良太の姿が、千鶴には物珍しくも誇らしいものに映った。
「もっとしゃべってくれよ」と良太が言った。「おしゃべりの千鶴が好きなんだ」
「ごめんなさい。良太さんの身なりに気をとられていたの」
「こんな身なりで街を歩くなんて、去年の秋には想像さえしなかったよ]
 千鶴は良太の横顔を見た。会わずにいた数ヵ月の間に、良太の顔には新しいものが加わっていた。本屋で千鶴を見つめた良太の眼にも、以前には無かったものが宿っていた。
「軍隊って、やっぱりたいへんでしょうね」
「もう慣れたよ。慣れればどうと言うこともないんだ」
「海軍の訓練はとても厳しくて、土曜日も日曜日もないほどだって聞いたけど」
「月月火水木金金という歌があるけど、千鶴が心配するようなことはないよ。しっかりと日本を守って、しかも戦死しないで還ってくるための訓練なんだ」
 土浦にはたくさんの軍服姿があったけれども、狭いその道は人通りが少なく、軍人とすれ違うこともなかった。
「こんな狭い道、よく見つけたわね」
「この前の外出日にこのあたりを歩いて、千鶴と話し合う場所をさがしておいたんだ。ほかの連中に見られないような場所がいいからな」
 千鶴は不安になった。ふたりが一緒に歩いているところを軍の人に見られたら、良太さんは困ったことにならないだろうか。
 しばらく歩いて国民学校の前にくると、良太は千鶴をうながして校庭に入った。
「ここだよ、この前の外出日に見つけたのは。いい場所だろ」と良太が言った。
「そうよね、海軍のひとは誰も来そうにないし」
 校庭では数人の子供たちが走りまわっていた。良太と千鶴は校庭をよこぎって、奥のほうにあるベンチに向かった。支柱に板を渡しただけのベンチだった。
ベンチにならんで腰をおろすとすぐに、千鶴は袋から湯飲み茶碗をとりだした。
湯飲を受けとった良太が、帽子をとってベンチにおいた。良太の頭は丸刈りだった。
「私たちが初めて会った頃、良太さんはまだ髪が半分しかのびていなかったわね」
「海軍に入ったら、半分どころか高校時代に逆もどりだ」
 シャツでくるんでおいたガラスのビンをとりだすと、ビンにはまだ暖みがあった。
「おとついの夜、良太さんからのハガキをみんな読み返したの」お茶を注ぎながら千鶴は言った。「面白かった、あの年賀状。心の中でチーズとパイナップルを食っている」
「俺が書いた年賀状の最高傑作だよ」と笑顔の良太が言った。「すぐにパイナップルをしたいけど、まずはお茶をもらうよ」
 辺りでは子供たちが遊んでおり、キスをかわせるような場所ではなかった。
 千鶴は包みをとりだして布袋の上でひらいた。小麦粉で作った菓子の代用品だった。
「もうすぐ良太さんの誕生日よね、21回目の」
「5日ほど早いけど、今日のこれがおれの誕生祝いだな。千鶴が作ってくれたものを食ったし、こうしてお茶を飲んだし、何より千鶴がいっしょだ」
 ふたりはベンチで昼食をとった。千鶴が作った握り飯を良太が、そして良太が持参した弁当を千鶴が食うことになったが、弁当のおかずはふたりで分け合った。
 千鶴は残っていたお茶を良太の湯飲についだ。
「少し痩せたみたいだけど、勤労奉仕も大変だろうな」と良太が言った。
「学校での授業は週に2日だけで、週に4日は家から真っすぐ製薬会社へ行くのよ。岡さんは休学して三鷹の工場へ通ってらっしゃるし、千恵は女学校の中にできた工場で兵器の部品を作ってるし、こんな具合で日本はどうなるのかしら」
「どんなふうに終わるか分からないけど、戦争はいずれ終わるんだ。問題は戦争が終わった後の日本がどうなるかということだ」
「友達がこんなことを言ったのよ」千鶴は辺りを見まわした。「敗けてもいいから戦争が終わればいいって」
「もちろん俺だって、この戦争はなるべく早く終わりにすべきだと思ってる。どんな終わり方をすれば良いのか見当もつかんけど」
「私も友達と同じに、敗けてもいいから良太さんに生きて還ってほしいの。こんなことを考える私は非国民かしら」
「だいじょうぶだよ、千鶴。日本のことを心の底から心配している千鶴は、立派な愛国者だよ。本物の愛国者には、千鶴がまちがいなく本物の愛国者だとわかるはずだよ」
 海軍の軍人である良太からそのように言われて、千鶴は胸につかえていたものが取り除かれたような気がした。
 残っていたお茶を飲みおえて、ふたりはベンチから立ちあがった。
 良太に導かれるままについて行き、校舎の角をまわって建物の陰にはいった。期待に満ちた予感をおぼえたとき、いきなり良太に抱きよせられた。千鶴は良太の腕のなかで体をまわし、顔をあげて眼をとじた。
 キスを終えても、良太は千鶴をそのまま抱いていた。どこかで鳩が鳴いていた。千鶴の耳にはその声が、なぜかとても優しいものに聞こえた。

 千鶴が良太と二度目の逢瀬を楽しんだのは、4月30日の日曜日であった。雨が降るその日も、前回と同じようにして古本屋で良太と待ち合わせ、狭い道を通って国民学校へ向かった。ふたりは講堂の入口に場所を見つけて、歓談しながら食事をとった。
 千鶴はその夜、良太と過ごした一日を日記につけた。
〈………良太さんは朗らかだったけれども、この前よりももっと眼が鋭くなったような気がする。棒倒し競争という激しい訓練で、良太さんは顔にけがをしておいでだった。それでも体重が少し増えたとのこと、お元気でおいでのことが嬉しい。
 来月の末には新しい航空隊に移られるとのこと。来月の14日は面会日。日曜日だから岡さんも一緒に土浦に行くことになった。
 良太さんは御両親に会いたいはずなのに、出雲は遠いので諦めているとのこと。お母さんにそのことを話したら、良太さんの御両親をこの家に泊めてあげれば面会に来てもらえるだろうとの意見。岡さんも交えて相談した結果、良太さんの御両親に手紙を出して、この家での宿泊を勧めることになった。御両親が面会に来てくだされば、良太さんはどんなにか嬉しいことだろう。私も良太さんの御両親に会いたい。………〉
千鶴は引き出しをあけ、2枚の写真をとりだした。良太からそれを渡されたのは、土浦で最初に会った4月2日だった。軍帽をかぶった写真と無帽の写真だった。
 写真をながめていると、その日の良太の笑顔が思い出された。顔に傷はあったけれども、その笑顔はとても爽やかだった。天候には恵まれなかったけれども、千鶴には幸せな一日だった。

 基礎教程も終わりに近づいた5月3日に、予備学生たちに進路が通達された。良太は操縦専修の予備学生として、練習機を使用しておこなわれる飛行訓練を受けることになった。
 土浦航空隊は5月14日に面会日を設定していた。良太はむろん両親に会いたかったが、遠路の苦労をかけたくはなかった。良太は両親に宛てたはがきに、舞鶴での面会に深く感謝しており、充分に満足しているので、土浦までの長旅でさらなる苦労をかけたくはない、と記した。千鶴には4月30日に会ったとき、忠之とともに面会に来てほしいと伝えてあった。
 5月10日に、良太は父親からのはがきを受けとった。土浦を訪ねるという意外な報せであったが、良太をさらに驚かせたのは、両親が浅井家に宿泊すると記されていたことだった。浅井家の好意に甘えることにしたとも記されていたので、そこに至る経緯が推察できた。
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