第38話 出撃を待ちながら書き残す言葉

文字数 5,244文字

「森山」吉田の声が聞こえた。「風呂にゆこう。近くの家で入らせてもらえるそうだ」
 良太はノートを風呂敷にもどすと、折り畳んであった手拭をとりだした。
 良太は吉田とつれだって、宿舎の出入り口に向かった。建物を出てからふり返ると、割れずに残っている窓のガラスが、午後もおそい日ざしをはねかえしていた。
 吉田と並んで歩きだすと、校舎の中からオルガンの音が聞こえた。音楽に素養のある隊員が弾いているのか、聴きなれた文部省唱歌の旋律が、少しも滞ることなく流れた。
「ところで森山、貴様は自分の寿命について考えたことがあるか」と吉田が言った。
「考えたことはないな、そんなことは」
「俺はモーツァルトが35歳で死んだことを知って、せめてそこまでは生きたいと思ったよ。その頃の俺は20歳までには死ぬと思っていたからな。中学に入ったばかりの頃だった」
「何かあったのか」
「肺浸潤になったんだ。残りの人生が数年しか残っていないような気がして、35まで生きたモーツァルトを羨ましく思った。35年も生きたなら、自分なりに何かをやれるだろうに、このまま死ぬのは悔しいという気持ちになったんだ。まだ12だったからな」
「悔しいよな、たしかに。俺たちは日本のためどころか、人類全体のために役立つことができるかも知れない。そんな気持にもなるじゃないか。今の俺たちは死んで役に立つことしかできないが、この特攻がほんとに役に立ってほしいもんだよな」
「俺たちは実を結ぶどころか、花も咲かせずに散るんだ。俺たちの特攻が何の役にも立たないなんてこと、そんなことがあってたまるか」
「そう言えば、小林が歌を作ったことがあったな。嵐に散る花の歌。おぼえているか、あの歌。特攻が有意義なものであってほしいという、そんな願いをこめた歌だった」
「おぼえているよ、正確じゃないかも知れないけど」と吉田が言った。「小林は国文だったそうだが、俺たちよりも先に逝ってしまったな」
 もの静かに本を読んでいた小林の姿が思い出された。小林が仲間に歌を披露したのは、特攻要員に指名されて間もない頃だった。
「小林はあのとき、辞世の歌を作るようにと勧めるつもりだったのかな、俺たちに」と良太は言った。「貴様は作ったのか、辞世の歌」
「歌には自信がないが、それらしい歌をどうにか作ったよ。手紙に書いて送ったんだ」
「俺もな、手紙やノートに歌を書くことがあるんだ。辞世の歌というわけじゃないけど」と良太は言った。
 良太は入浴からもどると、忠之にあてたノートを開いて、先に書きつけた言葉のあとに歌を記した。
   時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に
 いかに多くの特攻隊を出撃させたところで、この日本は敗北に至るはず。その結果がどのようなものであろうと、いつかは立ち直ってもらわねばならない。戦争に負けても国が滅ぶようなことになってはならぬ。この国は俺たちの死を無駄にしてはならない。俺たち特攻隊員のこの願いが天に通じないはずがない。
 夕食をとる時刻になったので、良太は仲間とつれだって、食堂にあてられている場所へ向かった。
 食事を終えた良太はもとの教室にもどると、千鶴への手紙を書くために便箋をとりだした。
良太は悲嘆にくれている千鶴を想った。谷田部で書いた浅井家への礼状を、千鶴はどんな気持ちで読んだことだろう。悲しみの淵であえいでいる千鶴は、この手紙をどんな気持で読むことだろう。どんな言葉を書きつらねても、千鶴の悲しみを癒すことなどできるわけがない。それでも俺は千鶴のためにこれを書かなければならない。
 良太はペンを執って便箋にむかった。
〈千鶴よこのような結果になったことをどうか許してほしい。俺の出撃を知って千鶴がどんなに悲しむことかと案じつつ、そしてこの手紙をどんな気持ちで読んでくれることかと思いつつ、こうして便箋に向かっているところだ。千鶴と人生を共に歩もうとの約束は果せなくなった。それどころか無事に還るとの約束を破って悲しませることになった。ここにどんな言葉を書き連ねても、千鶴の悲しみを癒すことなどできそうにないが、千鶴のためだけでなく俺自身のためにもこの手紙を書こうと思う。
 上野駅での千鶴が思い出される。私は大丈夫だからと繰り返した千鶴の言葉が、しっかりと俺の心に伝わってきた。嬉しい別れの言葉だった。千鶴よありがとう。〉
 続きの文章を考えていると、吉田から聞かされたモーツアルトの話が思い出された。
〈今日は近くの民家で風呂に入らせてもらった。風呂に入っていると四月だというのに虫の声が聞こえた。その声が本郷の家の庭を思い出させた。虫の声を聴きながら、ふたりで語り合ったあの夜のことを、千鶴も覚えていることだろう。
 仲間と風呂に向かっているとき、その仲間がこんなことを話した。中学時代に肺を患い、二十歳までには死ぬだろうと予想したとき、三十五歳まで生きたモーツァルトを羨ましく思ったという。十二歳だった中学生には、三十五歳という年齢は、人生とは如何なるものかを知り得る年令だと思われたのだろう。その話を聞いて二十二年を生きた自分の人生を思った。やりたいことは多々あるし、やるべきことも残しているので、人生を終えることには心残がある。とはいえ精一杯に生きたことを以て、この人生も可なりと肯定したいと思うが、千鶴との約束が果たせなかったことはこの上なく無念だ。無念と思うにとどまらず、千鶴には許を乞いたい気持でいる。このような結果になったことをどうか許してもらいたい。
 今日は仲間たちと散歩に出かけ、満開のれんげ草に寝ころんで語り合ったが、ときには笑い声が起こった。千鶴の悲しみを思うと耐えられない程に悲しいのだが、俺もまた仲間とともに声をだして笑った。そのような自分の心の奥をのぞいて見ても、ここに記せるような形では見えそうにない。俺の気持を理解してもらうには、千鶴に渡した日記を読んでもらったほうが良さそうだ。いずれにしても俺は死の恐怖に怯えているのでもなければ、運命を呪って暗い気持に沈んでいるのでもなく、仲間たちと話すときには声をあげて笑うことすらある。その様子を千鶴に見せて安心させてやりたいのだが、こうして手紙で報せることしかできないのが残念だ。〉
ふいに良太は不安に襲われた。良太は記したばかりの文字を眺めた。心をこめて記した言葉ではあっても、自分の本心を表したものではなさそうな気がした。霊魂の実在を知っていようと、死を恐れる気持は確然としてある。愛する者たちの悲しみを思えば、生還を願う気持が沸きおこってくる。特攻要員に指名されてからというもの、眠れぬ夜が幾夜もあった。ことに昨夜は寝つかれず、寝返りをうつ仲間の気持を推しはかりつつ、長い時間を過ごした。俺たちはれんげ草の上で笑い声をあげたが、束の間の笑い声のあとには虚しさを覚えた。特攻隊員の俺たちに、本来の笑い声など出せるわけがないのだ。もしかすると、この手紙だけでなく家族や忠之たちにも、偽りの言葉を遺したことになりはしないだろうか。
 良太は思った。苦悩や悲しみについては記そうとせず、むしろそれを隠そうとしてきたわけだが、偽りの言葉は記さなかったつもりだ。千鶴に遺す手紙はこれでよい。千鶴が受ける悲しみを、多少なりとも和らげるためのものだから。
 それにしても、今になってこんな不安を覚えるとはどうしたことか。自分なりに考えるべきところは考えつくし、覚悟をかためていたはずではないか。
 もしかすると、俺の心の底には、胸中のすべてを伝えたいという気持ちがあって、それがこのような不安をもたらしたのかも知れない。たしかに、俺はこれまで、手紙にしろノートにしろ、自分の悲しみや悩については少しも記さなかった。そのようなことは書き遺さなかったが、ノートや手紙を受け取った者たちは、俺の気持を推しはかり、理解してくれることだろう。俺は心をこめて書けばよいのだ、少しでもそれが役に立つことを願って。
良太は便箋をおさえてペンを握りなおした。
〈これから先の国情がいかようになろうと、千鶴はしっかりと生きてゆけるに違いない。俺に関わるさまざまな記憶は、千鶴の中にいつまでも残るはずだが、そうであろうと、俺に拘ることなく人生を歩んでほしい。千鶴が俺とは関わのない人生を歩もうとしても、それは俺に対して不誠実なことでは決してない。このことを俺はここに明確に伝えておくし、千鶴にもそのように理解してほしい。かく言う俺自身は、千鶴との思い出を抱いてあの世で生きようと思っているが、だからと言って千鶴につきまとったりするつもりは全くない。とはいえ千鶴が助けを求めているとわかれば、どんな場合であろうと助けたいと思う。〉
 これから先の日本で、千鶴はいかにして、いかなる姿で生きてゆくことだろう。俺が知る千鶴は、21歳になろうとしている千鶴でしかない。10年先の千鶴の姿は想像できるけれども、数十年後の千鶴の姿は想像することができない。もしも千鶴に子供が産まれたら、その子はどんな人に成長することだろう。千鶴はどんな母親になるのだろうか。
 良太は3枚の写真をとりだして、便箋のうえにそれを並べた。千鶴と良太が微笑んでいる写真と、良太が家族たちとともに写っている写真、そして浅井家の玄関で写してもらった集合写真であった。写真に写っている者たちのだれもが、良太がなれ親しんだ面影を見せている。
 ここに写っている者たちは、数十年先にはどんな姿を見せることだろう。俺には想像することができない。残された者たちには、俺はいつまでも現在の姿のままに記憶されることになる。いつの日か、俺たちはあの世で再会できるはずだが、どのような再会になるのだろうか。
 良太は写真をふろしきにもどすと、造花をとりだして鼻に当ててみた。匂いらしいものは感じられなかったが、千鶴の匂いがはっきりと思い出された。良太は造花を紙箱に納めてから、ペンを執ってふたたび便箋に向かった。
〈俺のふろしきには写真と造花が入っている。千鶴の面影はしっかり脳裏に焼きついているけれども、出撃前にはじっくり写真を眺めようと思う。この写真は身につけてゆくつもりだったが、今ここで眺めているうちに、そうはしないことにした。千鶴や家族が写っている写真は特攻機にそぐわない。写真は手紙に同封し、信頼できる士官に投函を依頼する。母から贈られたマフラーを首に巻き、千鶴が造ったこの造花をマフラーに挿してゆこうと思う。
 この造花に香はないが、不思議なほどにはっきりと千鶴の匂が思い出される。忠之の下宿でのことがつい先ほどのことのように思い出される。千鶴がとてもいとおしい。千鶴と共に過ごすことができたあの日のことに、深く感謝せずにはいられない。千鶴とともにあった全てのことに、心の底から感謝している。千鶴よ本当にありがとう。
 書斎での千鶴とのことが思い出される。あの書斎があって本当に良かった。浅井家の皆さんがあの場所で再び安穏に暮らせるようにと願っている。
 焼けた山茶花が芽を出していた。あの山茶花もいつかは花をつけることだろう。花の形や色は以前と変わりなくても、もとの山茶花そのものではなく、蘇生して新しい命を生きる山茶花と言うべきだろう。これから先の日本がどのような国になろうと、希望を抱いて生きてもらいたい。千鶴がこれからの人生を強く生きてくれるようにと願っている。〉
 良太は千鶴にあてた手紙をようやく書きおえた。努力して記した小さな文字で、数枚の便箋がうめつくされていた。
 この手紙は千鶴の悲しみをどこまで癒してくれるだろうか。俺がひたすらにそれを願って書いた手紙だ。この手紙は多少なりとも千鶴をなぐさめ、千鶴の悲しみを癒してくれるに違いない。
 その願いがかなえられるよう祈りつつ、良太は手紙を封筒におさめた。

 天候の具合とアメリカ艦隊の動向により、良太たちは基地でしばらく待機させられた。人生を終える日を待つ過酷な時間を、ノートを開いて言葉を記し、いくつかの手紙を書いて過ごすうちに、良太が出撃すべき日がおとずれた。
 その日の午後、基地に残る者たちに見まもられつつ、良太は爆弾を吊した零戦の操縦席に座った。白いマフラーが巻かれたその首元に花が見られた。二本の造花であった。
残る者たちが帽子を振って見送るなかを、爆弾を抱いた特攻機はひときわ大きな爆音をともない、次からつぎへと離陸していった。
 特攻機は数機ずつの編隊をつくると、飛行場の上空にもどっていっせいに翼をふった。最後の別れを告げた特攻隊は、数時間後に人生を終えることになる沖縄へ向かった。
 良太とその仲間たちが操縦する零戦の機影は、遠ざかるにつれて小さな黒い点となり、雲のかなたに姿を消した。
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