三月九日 晴れ(開宴三週前)
文字数 3,405文字
精神的に余裕があるせいもあるが、日増しに気温が上がり、好天も続いているとなればサイクリングに出ない理由はない。それでも先週に比べれば出遅れた観はある。
それほどカンがいい訳ではないが、ちょっとした予感は覚える。毎日というのは難しいとしても、毎週なら有り得る。仮に今日もどこかでボトルに遭遇することがあれば、少なくとも規則性はわかるというもの。遡って行けば、発信元に辿り着ける可能性もなくはない。
気がはやるのとは裏腹に、ペダルがもつれ気味の茜は、心理的に上り方面に足が向かなかった。決して高低差がある訳ではないのだが、下り、つまり下流側をめざす。これも流れのうちである。
荒川河口から十八㎞、その標からさらに進むと再度区界に出る。五色桜大橋を超える辺りからは再び足立区へ。が、今はどこの区を走っているかよりも、ボトルが流れ着きそうな場所を見極めるのが先である。
「とりあえず、あの橋? まで行ってみよ」
江北橋の袂から扇大橋を眺めつつ、その橋のちょっと奥に架かる真新しい橋、つまり日暮里・舎人ライナーのアーチを捉え、とりあえずの目標を設定。荒川の本流も視野に入っているが、さすがに浮遊物・漂流物を追うには至らない。何かが流れていたとしても、川面の乱反射に遮られて見分けが利かないのである。
そんな反射に春を感じつつ、一転して軽快にペダルを回していた茜は、降り注ぐ日射が弱まったところで、ふと止まる。すでにライナーの橋脚下に着いていたのだった。
自転車を押しながら、河川敷の広場を抜けると、川が立てる音が近づいてくる。宝探しでもするかのようなドキドキ感がその音に呼応して大きくなってくる。が、次の瞬間には、そんなドキドキは忽然と消え失せてしまった。
「って、マジ?」
思いがけない光景を目の当たりにして、ただその一言だけ。水気を含んで黒々となっている泥地には、枯れたヨシなどの草の束が幾重にも伏せているが、そこに絡まっているのは夥しい数の人工物。いわゆるゴミの類だが、その散乱ぶりは目を覆うばかりである。パック、カップ、缶といった容器状のものはまだしも、袋などの破片はどう形容したらいいのか。仮にそれらをグニャグニャと表したとすると、その合間をのた打ち回っているのはヒョロヒョロである。よく見れば、コードとかストラップバンドとか。動かない分まだいいが、不気味であることには違いない。
幸か不幸か、今この場において何より大多数なのはお目当てのペットボトルではある。だが、まずは拭いきれない疑問符を何とかしないことには始まらない。一般的には干潟と呼ばれるこの自然地には、船の往来なんかで波が打ち寄せたりもする。波ゆえに一定の波動を伴っている訳で、これに心癒される向きも人によってはあるだろう。だが、今の彼女にはそれが反作用となる。さっきから心乱されて仕方ないのである。
立ち尽くすこと、十分ほど。水面はしばらく穏やかだったが、その場にずっといたことで別の変化に気付くことになる。十代特有の感性というのもあるかも知れないが、彼女なりに研ぎ澄まされた感覚というのがある。
「何か、さっきより水位上がった? 気がするし」
これが事実だとすると、早いとこメッセージ入りボトルを探さなければなるまい。場合によっては再度川流れになってしまうおそれがある。急がなければ。
何しに出かけたのかわかってはいる。それでも備えというのは連動しないものだ。軍手、長靴、袋、タオル・・・ 現場に来て初めてその必要を悟るも、今はそうは言っていられない。目に付くボトルを陸側に放り出す。はじめはグニャグニャとヒョロヒョロに触れないようにやっていたが、段々どうでもよくなっていた。
彼女の手は、三月の寒気によってところどころが赤くなっている。そして、それを隠すように泥砂が付着する。
「あたしったら、何やってんだろ」
気が付くと、大方のペットボトルは陸揚げされていて、むしろ目的の空ボトルを選別するのが困難な状況になっている。途中で気が付いても良さそうなものだが、そうならないのが茜の性分。半ば呆れつつも、やがてその一帯の中から空ボトルを数本見つけ出すことに成功した。
その辺に落ちていた新品然としたレジ袋を手にすると、問題のボトルを入れて、広場の洗い場へ。水はまだ温かくはないが、その適度な冷たさが心地良かった。何より、目的の品を手にできた満足感がその冷たさを喜々として受け容れさせるのである。
ざっと洗ってフタを外す。果たしてその巻紙の日付やいかに?
「三本とも、先週のかぁ・・・」
見つかっただけでも大したものだが、ここで諦めたりはしない。まだまだ日没までは時間がある。何より水位上昇の件で、あるヒントを得たのが大きかった。
さらに下流をめざす手もあったが、茜が向かった先は上流側。まずは手近な扇大橋からその流れを確かめてみる。彼女の推測はこうだ。
「水位は上がっても、逆流はしない。でも、速さは微妙に変わるはず?だよね」
江北橋、五色桜大橋は割と近くに見える。川はその二つの橋の奥から程よいカーブを描き、彼女の眼下へと続く。カーブの緩やかさに比例するように流れも至って緩慢だ。この時点で漂流ボトルの群れが発見できなければ、さらに遡って追えばいい。
まるで車線に沿うクルマのように、決まった筋を通って、袋や容器がプカプカ漂って行くのが気にはなるが、それらしきボトルが見当たらないことにホッとしている。空振りだとしても構わない。茜はとにかく意を強くしていた。
次の江北橋からも、その先の鹿浜橋からも、上流を一望する限り、鈍い流れを追う限り、お騒がせのボトルを見かけることはなかった。日が傾き始めれば、気力も萎えてくる。が、しかし、上流右岸、つまり視界の左方の向こうにテトラポッドと干潟地らしきものを見つけて気が変わった。
「ダメもとで行ってみるか」
先週はあっさり通り過ごしたゴルフ場の辺りを折れて、来た方向を戻るように坂道を下る。テトラポッドポイントへと通じる細道は、多少デコボコしているが、そのまま自転車で乗り込んでいく茜である。春色になるにはまだまだ先と思われる朽ちたヨシの群生をかき分けるようにしながら、水際をめざす。と、橋からは小細工のように見えたテトラポッドが結構な数で、しかも威圧するように並んでいるのが目に入り立ち竦む。さらには、その構造物の間隙に、またしても袋、破片、その他もろもろがこんがらがっているのがわかり、開いた口が塞がらない。ただ、望みもある。流れの変化はともかくとして、潮位が上がりつつあることは確信を持った。加えてこの漂着具合である。もしこの何時間かの間に流されることがあれば、当地に流れ着くのが出てきてもおかしくはない。
ここでもメッセージボトルは二本、見つかった。いずれも先週の日付だったのが残念ではあったが、これで逆に待ってみる気になった。
西日がその淡い橙色を川面に流し込もうとしている時分である。流れの先を見遣っていると、さすがに眩しくもある。だが、その色は自分の名前に通じるものがあって、飽きることがない。この際、漂流も漂着も何もなく、この川景色を楽しめただけでもよしとしよう。
そう思って踵を返そうとした、その時である。彼女をある物音が引き止めた。それは揚がりたてと思しき一本がテトラポッドに当たり発せられた音。行方の知れぬ流れから解放されて安堵するように、今はただじっとしている。
計ったように出現したものだからかえって気味が悪い。飛びつきたい衝動もあったが、それを抑えつつ、茜はしばらく凝視する。そして、近づき、手に取り・・・
紙の丸まりを解くや否や、目で追うのは末尾の日付。おそるおそるだった表情は一転して快哉そのものとなる。
「やった! 九日!」
宿題も自由研究も何もないのだが、こういう時に限ってトクダネが得られたりするものである。謎が解き明かされた訳ではないが、とにかく嬉しい。早々に解けてしまっても面白くないが、解こうとする過程は一興である。三十日も楽しみではあるが、来週の日曜日はそれ以上。今のうちから計画を練っておいて損はない。
前カゴには、謎のボトルを数本入れたレジ袋。重さがないので当たり前ではあるのだが、茜の自転車はひたすら快走する。
茜色の空が彼女の背後を照らしている。
それほどカンがいい訳ではないが、ちょっとした予感は覚える。毎日というのは難しいとしても、毎週なら有り得る。仮に今日もどこかでボトルに遭遇することがあれば、少なくとも規則性はわかるというもの。遡って行けば、発信元に辿り着ける可能性もなくはない。
気がはやるのとは裏腹に、ペダルがもつれ気味の茜は、心理的に上り方面に足が向かなかった。決して高低差がある訳ではないのだが、下り、つまり下流側をめざす。これも流れのうちである。
荒川河口から十八㎞、その標からさらに進むと再度区界に出る。五色桜大橋を超える辺りからは再び足立区へ。が、今はどこの区を走っているかよりも、ボトルが流れ着きそうな場所を見極めるのが先である。
「とりあえず、あの橋? まで行ってみよ」
江北橋の袂から扇大橋を眺めつつ、その橋のちょっと奥に架かる真新しい橋、つまり日暮里・舎人ライナーのアーチを捉え、とりあえずの目標を設定。荒川の本流も視野に入っているが、さすがに浮遊物・漂流物を追うには至らない。何かが流れていたとしても、川面の乱反射に遮られて見分けが利かないのである。
そんな反射に春を感じつつ、一転して軽快にペダルを回していた茜は、降り注ぐ日射が弱まったところで、ふと止まる。すでにライナーの橋脚下に着いていたのだった。
自転車を押しながら、河川敷の広場を抜けると、川が立てる音が近づいてくる。宝探しでもするかのようなドキドキ感がその音に呼応して大きくなってくる。が、次の瞬間には、そんなドキドキは忽然と消え失せてしまった。
「って、マジ?」
思いがけない光景を目の当たりにして、ただその一言だけ。水気を含んで黒々となっている泥地には、枯れたヨシなどの草の束が幾重にも伏せているが、そこに絡まっているのは夥しい数の人工物。いわゆるゴミの類だが、その散乱ぶりは目を覆うばかりである。パック、カップ、缶といった容器状のものはまだしも、袋などの破片はどう形容したらいいのか。仮にそれらをグニャグニャと表したとすると、その合間をのた打ち回っているのはヒョロヒョロである。よく見れば、コードとかストラップバンドとか。動かない分まだいいが、不気味であることには違いない。
幸か不幸か、今この場において何より大多数なのはお目当てのペットボトルではある。だが、まずは拭いきれない疑問符を何とかしないことには始まらない。一般的には干潟と呼ばれるこの自然地には、船の往来なんかで波が打ち寄せたりもする。波ゆえに一定の波動を伴っている訳で、これに心癒される向きも人によってはあるだろう。だが、今の彼女にはそれが反作用となる。さっきから心乱されて仕方ないのである。
立ち尽くすこと、十分ほど。水面はしばらく穏やかだったが、その場にずっといたことで別の変化に気付くことになる。十代特有の感性というのもあるかも知れないが、彼女なりに研ぎ澄まされた感覚というのがある。
「何か、さっきより水位上がった? 気がするし」
これが事実だとすると、早いとこメッセージ入りボトルを探さなければなるまい。場合によっては再度川流れになってしまうおそれがある。急がなければ。
何しに出かけたのかわかってはいる。それでも備えというのは連動しないものだ。軍手、長靴、袋、タオル・・・ 現場に来て初めてその必要を悟るも、今はそうは言っていられない。目に付くボトルを陸側に放り出す。はじめはグニャグニャとヒョロヒョロに触れないようにやっていたが、段々どうでもよくなっていた。
彼女の手は、三月の寒気によってところどころが赤くなっている。そして、それを隠すように泥砂が付着する。
「あたしったら、何やってんだろ」
気が付くと、大方のペットボトルは陸揚げされていて、むしろ目的の空ボトルを選別するのが困難な状況になっている。途中で気が付いても良さそうなものだが、そうならないのが茜の性分。半ば呆れつつも、やがてその一帯の中から空ボトルを数本見つけ出すことに成功した。
その辺に落ちていた新品然としたレジ袋を手にすると、問題のボトルを入れて、広場の洗い場へ。水はまだ温かくはないが、その適度な冷たさが心地良かった。何より、目的の品を手にできた満足感がその冷たさを喜々として受け容れさせるのである。
ざっと洗ってフタを外す。果たしてその巻紙の日付やいかに?
「三本とも、先週のかぁ・・・」
見つかっただけでも大したものだが、ここで諦めたりはしない。まだまだ日没までは時間がある。何より水位上昇の件で、あるヒントを得たのが大きかった。
さらに下流をめざす手もあったが、茜が向かった先は上流側。まずは手近な扇大橋からその流れを確かめてみる。彼女の推測はこうだ。
「水位は上がっても、逆流はしない。でも、速さは微妙に変わるはず?だよね」
江北橋、五色桜大橋は割と近くに見える。川はその二つの橋の奥から程よいカーブを描き、彼女の眼下へと続く。カーブの緩やかさに比例するように流れも至って緩慢だ。この時点で漂流ボトルの群れが発見できなければ、さらに遡って追えばいい。
まるで車線に沿うクルマのように、決まった筋を通って、袋や容器がプカプカ漂って行くのが気にはなるが、それらしきボトルが見当たらないことにホッとしている。空振りだとしても構わない。茜はとにかく意を強くしていた。
次の江北橋からも、その先の鹿浜橋からも、上流を一望する限り、鈍い流れを追う限り、お騒がせのボトルを見かけることはなかった。日が傾き始めれば、気力も萎えてくる。が、しかし、上流右岸、つまり視界の左方の向こうにテトラポッドと干潟地らしきものを見つけて気が変わった。
「ダメもとで行ってみるか」
先週はあっさり通り過ごしたゴルフ場の辺りを折れて、来た方向を戻るように坂道を下る。テトラポッドポイントへと通じる細道は、多少デコボコしているが、そのまま自転車で乗り込んでいく茜である。春色になるにはまだまだ先と思われる朽ちたヨシの群生をかき分けるようにしながら、水際をめざす。と、橋からは小細工のように見えたテトラポッドが結構な数で、しかも威圧するように並んでいるのが目に入り立ち竦む。さらには、その構造物の間隙に、またしても袋、破片、その他もろもろがこんがらがっているのがわかり、開いた口が塞がらない。ただ、望みもある。流れの変化はともかくとして、潮位が上がりつつあることは確信を持った。加えてこの漂着具合である。もしこの何時間かの間に流されることがあれば、当地に流れ着くのが出てきてもおかしくはない。
ここでもメッセージボトルは二本、見つかった。いずれも先週の日付だったのが残念ではあったが、これで逆に待ってみる気になった。
西日がその淡い橙色を川面に流し込もうとしている時分である。流れの先を見遣っていると、さすがに眩しくもある。だが、その色は自分の名前に通じるものがあって、飽きることがない。この際、漂流も漂着も何もなく、この川景色を楽しめただけでもよしとしよう。
そう思って踵を返そうとした、その時である。彼女をある物音が引き止めた。それは揚がりたてと思しき一本がテトラポッドに当たり発せられた音。行方の知れぬ流れから解放されて安堵するように、今はただじっとしている。
計ったように出現したものだからかえって気味が悪い。飛びつきたい衝動もあったが、それを抑えつつ、茜はしばらく凝視する。そして、近づき、手に取り・・・
紙の丸まりを解くや否や、目で追うのは末尾の日付。おそるおそるだった表情は一転して快哉そのものとなる。
「やった! 九日!」
宿題も自由研究も何もないのだが、こういう時に限ってトクダネが得られたりするものである。謎が解き明かされた訳ではないが、とにかく嬉しい。早々に解けてしまっても面白くないが、解こうとする過程は一興である。三十日も楽しみではあるが、来週の日曜日はそれ以上。今のうちから計画を練っておいて損はない。
前カゴには、謎のボトルを数本入れたレジ袋。重さがないので当たり前ではあるのだが、茜の自転車はひたすら快走する。
茜色の空が彼女の背後を照らしている。