第1話 発熱

文字数 3,524文字

 窓の外から見る昼間の雨景色は、静かながらも独特の美しさがあった。
 柔らかい雨粒が建物の壁面や葉っぱに打ち付けられ、水たまりが道路に広がっている。空は灰色に覆われ、太陽は雲の向こうに隠れているようで、光は薄く差し込んでいるだけだった。
 一人の少年は自宅から、その景色を険しい表情で眺めていた。
 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。
 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。
 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。
 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。
 酷な言い方をすれば、
 イモ。
 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。
 ……でも、何だろう。
 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。
 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。
 そんな、少年だった。
 名前を佐京(さきょう)光希(こうき)と言った。中学生だ。
 光希は氷水を張った洗面器を手に持ち、窓に映る自分の顔を見ていた。
 顔には、暗い影が落ちている。
 雨の日は嫌いではない。
 むしろ好きな方だ。
 何もしないで雨の音に耳を澄ましているだけで、心が安らぐ。
 だが今日は違った。
 光希は洗面器を手に、そっとノックをし妹・蛍子の部屋に入る。ベッドの上で横になっている小学生の妹の姿が目に入った。
 額には汗をかき、息も荒い。苦しそうに呼吸をしている。
 枕元にはスポーツドリンクとカゼ薬があった。
「蛍子。どうだい?」
 光希は優しく声をかける。
 蛍子はゆっくりと目を開き、兄の方を見た。
 弱々しい声を発する。
「うん……」
 兄に対して申し訳ない気持ちがいっぱいなのだろう。蛍子は申し訳なさそうな声で返事をした。
 光希は蛍子の額に手を当てた。
 熱い。
 体温計で測らなくても高熱だと分かる。
 蛍子が熱を出したのは昨晩からだ。学校の帰り道に雨に降られ、ずぶ濡れになって帰ってきた。すぐにシャワーを浴びて体を温めたのだが、そのまま風邪を引いてしまったようだ。
 光希は蛍子の枕元に座り、氷水で冷たくしたタオルで妹の額を冷やしてやる。
 すると蛍子は熱で潤んだ目を動かし、かすれた声を出した。
「ありがとう。お兄ちゃん」
 光希はその声を聞き漏らすまいと耳を向ける。
 不安気な声だった。
 いつもは明るい妹がこんな声を出すなんて珍しい。よっぽど苦しいのだろう。
 早く治してやりたいと思う反面、自分の無力さを実感する瞬間でもあった。
 何もできない自分がもどかしい。
 しかし今できる事は看病だけだ。だから一生懸命、手を尽くすしかない。それが兄に出来る唯一の事なのだから。
 汗を拭いてやり、薬を飲ませてやる。
 そして、手を握ってやった。
 しばらくそうしていると、やがて安心したのか、すーすーという寝息が聞こえてきた。
 寝入った妹を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
 今は蛍子をしっかり休息を取らせることが最優先事項だ。
 光希は窓の外で激しくなる雨音に耳を傾けながら、本を手にすることにした。本棚から一冊の本を取り出し、読書を始める。
 読んでいるのは芥川龍之介の『羅生門』だ。
 皮肉も、下人が、羅生門の下で雨やみを待っているシーンを読んでいると、つい自分と重ね合わせてしまう。
 自分もまた、家の中とはいえ雨の中に居る一人に過ぎないのだ。
 物語の中で下人は、雨やみを待っていたが、正確には暇を出された下人が、行き所がなくて途方にくれていたのだ。
 今の光希と同じだ。
 熱を出した妹を、自動車に乗れない自分は病院に 連れて行くことも出来なくて途方にくれていのだから。
 そんなことを思っていると、蛍子が寝返りをする。
 熱で暑苦しいのだろう。布団を蹴飛ばし、パジャマのボタンも外れてしまっている。
 発熱した場合は薄手の布団にして、熱が逃げやすい状態にしておくのが望ましいが、さすがにこのままではマズそうなので、光希は掛け布団を蛍子の下半身にかけ直してやった。
 その時、蛍子が微かに口を動かした。
「……みず……」
 と。
 光希は驚いて蛍子の顔を見つめた。
「水が欲しいのかい?」
 訊くが、蛍子は答えない。彼女の顔はいつもの元気な表情とはまるで違っていた。頬は赤く熱を帯び、閉じた瞼の下で目が動いている。
 レム睡眠時に起こる急速眼球運動という状態だ。この閉じたまぶたの下で眼球が動いている状態は、夢を見ていることが多い眠りとされる。
 蛍子が夢を見ていることを察しつつも、光希は続く言葉に耳を傾ける。
「……水……歩いてる……」
 光希は蛍子の言葉に驚いた。
 歩く水?
 それは何かの幻覚か、夢の中の話だと思ったが、蛍子の怯えにも似た表情に光希はその言葉がウソではないと感じた。
 しばらしくし、目を覚ました蛍子にアイスが食べたいと言うので、カップのバニラアイスを食べさせてあげる事にした。
 いつもならあっという間に平らげるところだが、今日はゆっくりと味わって食べている。食欲はあるようで一安心だった。
「おいしかった」
 と言って、蛍子は再びベッドに横になる。
 そこで光希は蛍子に尋ねる。
「蛍子。さっき寝言で、水が歩いてる。って言っていたけど、何かあったのか?」
 光希は妹の頭を撫でながら、優しく尋ねた。
 蛍子は目を深く閉じて逡巡する様子を見せたが、やがて決心したように口を開いた。
 そして語られた内容に、光希は思わず耳を疑った。
「学校の帰り道、雨が降り始めて……。私、必死に走って帰ってたんだけど、道の向こうに透明な水の塊が見えたの。サッカーボール位の大きさで、まるで生き物みたいに歩いてた……。凄く雨が降ってきた中だったから見間違いかも知れなかったけど、私怖くて逃げちゃった」
 確かに、そんな光景を目にしたら怖いだろう。
 いや、それ以上に恐ろしいかも知れない。もし自分だったらと思うとゾッとする。
 光希は思った。
(もしかして怪異か何かだろうか)
 妙に引っかかりを憶えつつも、光希はその話を聞いて心に寒気を感じた。蛍子がその怪異に遭遇したことで、病気になったのかもしれないと考えたからだ。
 その後、蛍子は再び眠りにつくが、高い熱の為、苦しそうな呼吸を繰り返しており、汗もかいて辛そうにしていた。
(このままじゃ。ダメだ)
 光希は妹の部屋を出ると二つ折りの携帯電話を開き、友人の木村風樹に連絡を取ることにした。風樹は、小学生の時からの友人で共に怪異に遭遇するなどの経験を持つ貴重な友人だ。
 コール音が続く。
 光希の心臓がドキドキと鼓動を速める。まるで時間が止まったかのような静寂が続いた。
 やがて、風樹の落ち着いた声が電話越しに聞こえてきた。
「光希?どうしたんだ」
 幸いにも風樹はすぐに電話に出てくれた。
 光希は一瞬息を呑み、そして言葉を絞り出した。
「風樹、相談したいことがあるんだ。妹が高熱を出したんだ。でも、それだけじゃない。蛍子が……変なことを言ってるんだ」
 風樹の声は少し緊張しているようだった。
「変なこと?」
 その言葉に、光希はごくりと唾を飲み込んだ後、言った。
「……蛍子が言うには、学校の帰り道で、水の塊が動くのを見たって言ってた」
 風樹は一瞬沈黙した後、少し笑いを含んだ声で答えた。
「動く水? それはまた、変わった話だな。何かを見間違えたんじゃないか?」
 光希は携帯電話を握りしめる手に力が入る。
「いや、蛍子の様子から見間違えじゃなく本当に見たんだと思う。風樹、君は何か知らないか?」
 すると、今度は真面目な口調で返事が返ってきた。
「思い当たるものがあるけど……」
 風樹は口ごもりながら知っていることを光希に告げる。その内容に、光希は納得するものがあった。
 続けて、風樹は教えてくれる。
「……それと、妖怪や怪異に人が遭遇すると、4つのことが起こるんだ。人の役に立つ。人を傷つける。ビックリさせる。そして、病気にするだ。蛍子ちゃんの状態を考えれば、病気にするに該当すると思う。それが原因なんじゃないかな?」
 それを聞いて光希は納得がいった。やはり原因はあの水塊なのだろうと思う。だとすれば一刻も早く手を打たなければならないと思った。このままでは妹の命に関わる可能性がある。早く対処しなければ。
「ありがとう風樹」
 電話越しで風樹が呼び止めるのも聞かず、光希は電話を切ると、窓の外の雨を見つめた。
 雨音がますます強くなり、まるで泣いているかのように屋根に響く。光希の心の中には不安が渦巻き、妹のために何としても真相を突き止めなければならないという決意が芽生えた。
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