第1話 その4

文字数 2,489文字

「ぎょははは。確かに、頂戴した」
 煙に満たされた校舎内を歩くスモークサーモンの手には一冊の本……今回の彼の獲物である『軌跡・第99号』が握られていた。
 煙に巻かれてパニックに陥った警官たちの間をすり抜けて、図書室からあっさりと失敬してきた本である。
 一体いかなる技術、いかなるテクニックを使っているのか。スモークサーモンは、この濃霧のような白い煙の中をまるで自分の家の明るいリビングのように悠々と歩いていた。
「この煙の中でずっと燻製の気分を味わうというのも捨てがたいが……」
「待て! スモークサーモン、待てー!」
 執念で屋上から校舎内の図書室の前まで辿り着いた刑事が、スモークサーモンの声が聞こえたほうに向かって突進する。
 しかしスモークサーモンは後ろも振り向かずにひょいと横に一歩ずれる。
「ふぎゃ!」
 スモークサーモンの横を素通りした刑事は、そのまま壁に激突して伸びてしまった。
「そろそろ引き上げて、あとはアジトでじっくり戦利品を楽しむとしよう」
 『軌跡・第99号』をシャケマスクの鼻の位置まで持っていくと、くんくんと臭いを嗅ぐような仕草をするスモークサーモン。
「んー……良い紙の香り、良いインクの香り、良い青春の香りだ……」
 にんまり、とシャケの口が歪んだ笑みを浮かべた。
「子供たちの思い出が詰まった一冊……これを燃やしたとき、どんな上質な煙が出るのか楽しみだ」
 燃やして、煙にしてしまう。
 それが怪盗スモークサーモンにとって、盗んだ『宝』の正しい使い方だった。
 この世の何よりも煙を敬い、煙を貴ぶ彼が、この世のどんな物にも見出している価値……それは、燃やせば煙が出るということ。
 有名画家の描いた絵画も、トップデザイナーのデザインした服も、そして小学校の本も。
 彼にとっては、薪やお線香と大差なかった。
 いや、差はあるのだ。スモークサーモンは、素晴らしいものを燃やしたときほど、素晴らしい煙が出ると考えていた。
 だから絵も、服も、本も、この世の全てを燃やして煙にしてしまうために、彼は怪盗になったのである。
 そんな狂った美学を持つ、狂った姿の怪盗は、煙幕の中をとてとてと進み続けて、普通に校舎の外に出た。
 裏門でも正門でもなく、校舎の横に備え付けられた扉から、敷地の端のせせこましいスペースに出てきた。
 登場時に散々『ファンサービス』したのだから、今日はもう十分だろう。それにマスコミの前に顔を出したところで、煙のせいでこの後はちゃんと撮影されるとは思えない。
だから彼は、合理的に一番人気の少ない出入口を使って退散しようと思い、ここに出たのだ。
 そして、気が付いた。
 近くに誰かがいることに。
(はて。この辺りには警備の人間は配置されていなかったはずだが?)
 彼はじっと煙の中で感覚を研ぎ澄ました。
 どうやらこの場にいるのは彼の他に二人……動物か何かの飼育小屋の横にいるようだ。性別は男と女が一人ずつ、今その二人はベッタリと言ってもいいくらい密着している。
(予告状のことを知らなかったカップルが逢引きしていただけ……?)
 そう思いかけたスモークサーモンだったが、『予告状』というキーワードを思い浮かべたことで、つられて思い出したことがあった。
(待てよ。そういえば……俺と同じ獲物を狙って、新人怪盗が急に予告状を送り付けてきたとか)
 その怪盗の名前は……怪盗ラビットバニー。
(ラビットバニーというのは、確か……)
 スモークサーモンは、煙の中にいる人影のシルエットを注意深く感じ取り……
 ニヤリとほくそ笑んだスモークサーモンは、煙の向こうの挑戦者に向かって、こう宣言する。
「お初にお目にかかる。俺は怪盗スモークサーモン……貴様が怪盗ラビットバニーで相違ないかな?」

(怪盗スモークサーモン!)
「え、スモークサーモンが来てるんですの? しかも怪盗ラビットバニーも? 今ここに? どこ、どこ、どこですか~?」
 突然響いた男の声を合図に、真っ白な煙で視界ゼロの状況の中、瑠那がフラフラ動こうとする。
 逸斗は慌てて彼女のおっぱいから手を放し(まだ触ってた)、闇雲に進もうとする彼女を静止の声をかける。
「動き回ると危ないですよ!」
「でも、こっちのほうから、声が……」
 逸斗が止めるのも聞かずに、瑠那はふらふらふらふらと進み続けて……
 ごちん。
「フギャ!」
ばたん。
「はう」
 きゅ~。
「……」
 どうやらその辺に生えていた木にぶつかって、一人で伸びてしまったようである。
「る、瑠那さん! 大丈夫ですか!」
 転倒した音が聞こえた地点に駆け寄る逸斗は、倒れた瑠那を抱き起すと、耳を澄ませた。
 とくん、とくん、とくん、とくん。
「すー、すー、すー、すー……」
 瑠那の心音や呼吸音はそこまで乱れていない。どうやら打ち所が良かったようだ。瑠那にとっても。逸斗にとっても。
 瑠那を彼女が頭をぶつけた木にもたれかからせると、逸斗はすっくと立ち上がり、もうこの場に立つもう一人へと向かい合った。
「なるほどなるほど……どうやら、この煙の中でもある程度自由が利くらしいな。怪盗ラビットバニー」
 成り行きでここまで来てしまったとは言え、まさかまた怪盗と一対一の状況に陥るなんて思ってもなかった逸斗だったが、思い切ってスモークサーモンに問いかける。
「なぜ僕を怪盗ラビットバニーだと?」
 怪盗と呼ばれるのには抵抗がある。そもそも怪盗になんてなりたくない。
 しかし……だからこそ、スモークサーモンのセリフに込められた妙な確信が気になったのだ。
「なぜって、そりゃあ……ぎょっはっはっは。貴様の耳だよ」
「み……!」
 ドキッとして頭部を押さえた逸斗に構わず、言葉を続けるスモークサーモン。
「貴様の頭に生えている、長くて立派な『ウサギの耳』! それがお前が怪盗ラビットバニーだという何よりの証拠だ!」
「な……」
 スモークサーモンの言う通り。
 今の逸斗の頭には……

 ウサギの耳が生えていた。
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