屍の荒野

文字数 18,905文字

                                       
                                 NOZARASI 4

  屍の荒野

 拠るべきところを失くした者は、永遠にその荒野を彷徨い続けるしかないのであろうか。
 昨夜、闇に光る白刃を翳した五、六人の浪士に追われ、それではない何かを畏れ、逃げ惑う幼子のように身を縮こめ、相反するギラギラとした殺気と血の匂いを全身から放ち、この寺に舞い込んで来たひとりの若者もまた、己の背負いしものと似た、抗う事の出来ぬ運命のその荒野に引きずり込まれてゆくのであろうか。
 いや、既にこの男は、孤愁を纏い、その荒野の中にいた。

 山科の山々の端の淡く明け初める頃になっても、弥一郎はその男と語り続けていた。
 己が来し方に重ね、男の身を案じながら、時折交わす目と目。弥一郎が直感したように、この男もまた、自分の持つ同じような翳を弥一郎の目の中に見たのであろうか、さほどの警戒心は抱いては居ないように見えた。
 次第に落ち着きを取り戻してきたその目からは、とてもこの男が、幾人もの人を殺め続けてきたなんぞとは信じ難かった。
 弥一郎の問いかけに、何かを内に閉ざすように黙し、あまり語ろうとしなかった男の口が、朝の日差しが障子を照らし始める頃から、その明るさに安堵させられてゆくのであろうか、己の心奥の苦渋を吐き出すかのように、ポツリ、ポツリと重い唇を動かし始め、やがて不安に駆られるかのように饒舌になっていった。
「帰るところなんぞ、今の私に在りは致しませぬ。在るとすれば、死して大地の土となれる時の、その大地のみなのではないでしょうか」
「……」
「なに故心を閉ざし、人を殺め続けるのだと問われても、私には、心を閉ざしてなどいないと申し上げるしかございません。今の私にとって、これが自分に向かい合うて生きている精一杯の姿だと、そう思うております」
「……」
「初めて人を斬ったあの時から、自分の運命は変わったのだと思うております。人を斬る度に、もう人は斬りたくはないと、私がどれだけ苦しみ続けたのか、あなたには解ってもらえましょう。己の抱く大義の下に、一体幾人の人を殺めてしまったのか……。人を殺めてもよい大義など、そんなものが在る筈がございませぬ。それは己にもよく解っております」
「……」
「私に斬られ、目の前で苦しみながら息絶えた者、それがもとで幾許かの後に死んでいった者。もう確かな人数さえ覚えてはおりませぬ。斬らねば斬られるのです。死ぬのです。人は皆、死ぬのが怖い。それはなに人も同じなのではござりませぬか。その余りの怖しさに、黙って斬られることなど、私にはとても耐えることは出来ませぬ。初めて人を斬ったあの時から、今度斬られるのは己なのだと、呪縛のように見えない刃が夜昼無く私を襲ってくるのです。正気に戻ったら人を斬っていた、そんな感覚を持ったことも幾度かございました。斬れば斬るほど、驚くほどに臆病になってゆく。そんな自分を嘲笑うもう一人の自分がいる。苛む自分もいる。幾度、己の胸に刃を突き立てようとしたか。ですが、その冷たき切っ先の胸にチクリと突き刺さる度に……」
 淀みなく話し続ける男の苦悩に、弥一郎は言葉も無く黙しているだけであった。
「……」
「己の胸を伝い流れる一筋の赤い血に、幾度人目を忍び泣いた事か。死ねぬのです。怖くて死ねぬのです。人は殺せても、自分が死ぬことには臆病なのです」
「……」
「もう無垢の少年の魂を持ったあの頃に戻れはしないのです。が、毎夜のように、あの頃の夢を見るのです。あの故郷の緑の山河を駆ける無垢の自分を……」
「……」
「大望を抱いてあの山河を旅立った事、それ自体が間違いだったのでございましょう。あのまま、あの優しく温かな山河の懐に抱かれていたなら、私もまた、あの少年の頃の優しきままの人間でいられたのではありましょう。まさか、己が人斬りなんぞと呼ばれる男になろうとは……」
「……」
「同志達の云うように、この世を変えるために人を斬る事が正義なんぞとは、今はもうこれっぽっちも信じてはいないのです。身体の奥底から血の匂いを芬々と放つ悪鬼のようなこの私を、今では同志たちでさえ対等には見てくれませぬ。敵も味方も、まるで、気味の悪い魑魅魍魎でも見るかのような目で私を見ます。そこに私がいるだけで、あの人たちも、明日斬られるかもしれぬ自分を思い、怖いのです。実の所、私も自分が怖い。斬らねば斬られる。目を合わせたその瞬間から、大義だとか、正義だとか、そんなものはまるで介さぬ、飢えた獣と化してしまうのでございます」
「……」
「御上人様は、昔は武士であられたとのお話。人を斬った事がお有りでございますか」
「……」
 弥一郎は、黙ったまま小さく頷いた。
「その時、どんなお気持ちでございましたか」
「……」
「身も心も、吐き気のするほどに苦しゅうはございませんでしたか。初めて人を斬ったその夜、私は川原で吐きながら、全身に浴びた返り血を、冷たい川の水で、肌に血の滲み、更に皮の剥け落ちるまで、陽の光を浴び正気に返るその時まで、夜の明けたのにも気づかず、震えながら、泣きながら、必死になって洗い落し続けていました。それから幾人の人を殺めたでありましょう。今はもうこのように、顔に掛かった返り血でさえ、血糊の乾き肌の突っ張るその時まで、気にもなりませぬ」
「……」
「自分は人では無いのではないか、他人の目に映るように、悪霊の化身ではないのかと思う事さえございます。人はなに故に争います。人はなに故に殺し合います。人は飢えた狼とは違います。が、私は飢えた狼と同じでございます。己の心の飢えを癒すため、口を血に染め、人を食い殺しているのではないのかと、そんな風に思う時さえあるのでございます。人の心を失いし者は、より一層人を恋うるのでしょうか。孤独なりし者が人を恋うるように、温かき人の心に飢えているのでございます」
「……」
「累々と屍の打ち捨てられた荒野の、遥か地平の温かき光明を目指し、彷徨うが如くに歩いてゆく自分が見えるのでございます。屍達の目、そう、目だけが生きているのでございます。恨めしげに私を見る屍、醒めきった冷たい目で見る屍、怒りの籠められた目で見る屍。今にもその目だけが飛び掛らんとするかのような、あの斬り合いの最中の目をした屍。ひとつとて安らかな目などはございませぬ。皆、何かを求め、荒野の地平の、あの微かな光明を目指しながら力尽き、屍と化したに違いありませぬ。その幾人かは、己が殺めた人々なのではありますまいか。今、その荒野の端に足を踏み入れ、怯え彷徨う私も、やがて同じように力尽き、あの屍のひとつとなるのでありましょうか。遙か地平の、あの温かき光に辿り着く前に……」
「……」
「いまこうして、所司代や壬生の輩に追われる身も、世にいうところの大義が成れば赦されるというのでしょうか。人それぞれに異なる正義というものが存在すると、漠とは理解できても、人を殺す事が正義であることなど、幾度も言うようですが、ある筈もございませぬ。赦されるなどという事が、あっていい訳はございませぬ。その地平に迷い込んだものは、死ぬまで、いや死んでさえもその重き何かを背負い続けていくのではないのでしょうか」
「……」
「死にたいと、死のうと、お思いになられた事がございますか。私はこの頃、常にそう思うのでございます。人を斬った後は、殊更にそう思うのでございます。卑怯未練、自ら死ぬ事の出来ぬ臆病者。出来得れば、己より剣の勝る者に早く遭いたい、そして斬られて死にたいと……」
「……」
「斬られて死ねば、私もまた、言い知れぬ怨念を抱いた、あの荒野の屍のひとつに過ぎないのでございます。あの屍のひとつになった時、私のように彷徨い来る者を、如何なる目で見やるのでございましょう。私の目もまた、けして安らかな目ではあり得ないのです。死して安らかになれることなど、あの屍達のように、私にもあり得はしないのです。が、もう、人は斬らずに済みましょう。己の心は裏切らずに済みましょう」
「……」
「これだけ人を斬れば、彼の人々もまた、私を斬らんと、仲間の仇を討たんと、昨夜のように目を血走らせ、追い縋り来るでしょう。悲しい性、あんなに死にたいと常に思い悩み、死を切望し続けているにも拘らず、自ら死を選ぶ事が出来ぬだけではなく、いざ刃を交えれば、気付いた時には、生きんとすることにしがみ付き、人を斬ってしまっているのでございます。目の前に、また人が死に、横たわっているのでございます。それが私であれば、私にとって、死は喜ばしきものなのかもしれませぬ」
「……」
「六道輪廻と申されましたか、夢などでは無く、真にあの荒野に己の屍を曝した時、こんな私でも生まれ変われるのでございましょうか。私以外の者に生まれ変わりたいとは思いませぬ。出来得れば、再び私に生まれ変わり、少年の心のまま、あの懐かしき山河の中で死にとうございます。救われたいとも、救ってほしいとも、私は願いませぬ。あれだけの人を斬り殺した私に、御仏の慈悲など無縁のものかと……。お赦しください」
「……」
 弥一郎、心の奥で念仏を唱え、己の心に去来するものを見つめさせられていた。
「出来得れば、京をお離れなされ。己を静かに見つめる事の出来る地へお行きなされ」
 その夜、無言で頭を下げ裏門を出てゆく男に、弥一郎が言えるのはそれだけであった。
 男の去ってゆく後姿を見送りながら、記憶の底からまざまざと甦りくるあの時の胸の痛みが、男の苦しみに重なり行くのであった。

 初冬の冷たい雨が路上の落ち葉を濡らし、散り逝きしものへの哀れを誘うかのような夕刻、弥一郎は筆頭目付の屋敷へ呼ばれた。
 城中ではなく、どうして目付の屋敷なのだ、それもこの夕刻に……。何かある、いやな予感が弥一郎の胸中に渦巻いていた。
 筆頭目付、坂元元衛門には、父の代にちょっとした借りがある。父は無類の酒好き、飲み過ぎると前後不覚になることも多々あった。ある酒席で刃傷沙汰を起こし上役を疵付けたのであるが、坂元に穏便に処理してもらっていたのだ。坂元は狡猾な男だ、それを恩に着せ何事かに利用せんとすることは容易に考えられた。あの件以来、父はそれを怖れ危惧していたが、何事もなく隠居出来た。
 あれから十年近くにもなる、まさか、今更弥一郎にそれを問う訳もあるまいが……。
 訝る弥一郎の耳に、坂元の言葉が冷たく響いた。
「御父上は息災のようじゃの」
「はっ、お蔭様で恙無く」
「今も酒は嗜んでおられるのか」
「はっ、もう年ゆえ、以前のようには」
「ははははは」
 父への貸しをお忘れでは無いなと、暗に仄めかすその陰湿な笑いが弥一郎の胸の不安を弥増し、「やはり、これは何かあるな」と、背筋に寒いものを感じるのであった。
 果たしてそれは、弥一郎にとって信じ難き上意であった。
「私に、井川聡三郎を斬れと……」
 弥一郎の苦渋に満ちた胸中を嘲笑い、無視するが如く、坂元は、「外様の小藩とはいえ、幕府には忠誠を尽くしてきたではないか。二百余年ぞ、あ奴の家が我が藩に仇なしてきたのは。徒士組の軽輩とはいえ、数代前からは何度か組頭まで務め、次の組頭にも推されておる。先の御前試合では最後まで勝ち残り、殿の覚え目出度く、その剣の腕を見込まれ、次の指南役の話さえ出ておるというに。それが幕府の草であったとはな」と、苦々しさを吐き出すように言うのであった。
「確かなことでありますのか」
 正に青天の霹靂である、あの聡三郎に限って、そんなことは絶対にあり得ない、信じられないと、弥一郎は語気を強め、証はあるのかという思いを込め問い返す。
「このところの不穏な世情でな、我が藩もそろそろ立場をはっきりしなければならぬのではないかと、先頃より御重役方が顔を突き合わせ相談し始めたのはそちも知っておろう」
「はい。人伝には」
 人伝とは言ったものの、城内では誰もが知る事実ではあった。
「その席の設けられた城中の床下にの、会議の終わる頃、微かな人の気配を感じたという者が居ってな、調べてみると、確かに人の潜んだ形跡が残っておった。慌てて城内を隈なく探索したのだが、怪しい者は誰も見かけなんだ」
「それが井川だと……」
「ああ、城内では無かったのだが、夜分遅くに井川が御城近くで警戒中の我が配下の者に目撃されておる。それで常時見張りを付けた」
「して」
「次の会合の予定の日にな、朝の間に城内へ潜り込み何処かに身を隠しおった。が、その後は誰も見てはおらぬ。どうやって御城を抜け出したのかも分からぬ。全ての城門の門番たちの話でも、下がってゆく井川を見た者はおらぬ。間違いは無かろうと思うのだが、確たる証は今の所何も無い。無いが、怪しき動きをしたことは確かじゃ、問い質さねばなるまい。がの、あ奴は、そうだとも、そうで無いとも一言も言わぬわ。何せ、藩随一ではないかと謳われるほどの手練、あ奴の確固たる泰山のような態度に、誰もそれ以上のことは質せなんだ。ならば討つかと顔を突き合わせても、殿の覚え目出度き者を、確たる証も無くその留守中に討つことは出来ぬなんぞと都合の良い屁理屈を並べ、誰もが臆しおって手を下そうとはせぬ。この太平の世、誰しも人を斬らんとし、刀なんぞ抜いたことは無かろうからの。御重役方の覚悟なんぞ、まぁその程度だわな。触らぬ神に祟りなし、後は儂に任すなんぞと、無責任に押しつけおって」と、陰湿さの刻まれた額の皺に自嘲の笑いを重ねた。
「たったそれだけ、証とはほど遠い心証だと思われまするが、それでも、それがしに聡三郎を斬れと仰せられますのか」
 弥一郎の問に、「何も弁解せぬが証と見た。あ奴はそういう男であろうが」
 口惜しいが、聡三郎の性分は確かに坂本の言うとおりであった。違うとあれば、きっぱりとそう言ったであろうなと、弥一郎にさえそう思わせるほど一本気な男であった。
「藩内で太刀打ちできそうなのは、井川と共に練武館四天王と称された三人のみであろう。他の二人は殿の警護で江戸詰、今はそちしかおらぬ」
「……」
「聞けば、無二の朋とな」
「練武館の同期、共に競い合い剣を磨いてきた掛け替えのない朋にございます」
「辛いだろうが、藩のためじゃ引き受けてくれ」
 その苦しく優しげな言葉の裏は、弥一郎の心中なんぞ慮ってはいない。お前の家には俺に返さねばならぬ恩があろう、困っていたのを助けたのは俺だぞ、今度は俺が困っているのだ、兎にも角にも引き受けろと云う態度に加え、武家社会の有無を言わせぬ非情な上意下達でもある事は明らかであった。
「……」
「これまで通り幕府へ忠誠を誓うと云うのであれば、何とか表沙汰にせず、時期を見て追放という手も考えられ、穏便に事を済ませたのであろうがな、どうも御重役方の意見は違うらしいのだ」
「尊王という事なのですか」
「そのようだな。それも殿が江戸表におられる今の段階では、幕府にそれを悟られたくは無い。井川を公に処罰すれば、井川が伝えずとも、我が藩の立場は幕府にそれと知れよう。果し合いと云う事に致せば何とか繕える」
「藩士同士の果し合いは藩の御法度では」と弥一郎が問う。
「そこは何とかしよう。お前が勝てば何の問題も起きぬ」と、苦し紛れの応えをするではないか。
 穏便に事を収める気なんぞ初めから毛頭ありはせぬ。要するに、御家に仇なした井川の家への憎しみの極み、何がなんでも聡三郎を始末し、恨みを晴らし、溜飲を下げたいのだ。多勢で襲えば何とかはなろう。だが聡三郎と云う男、決して力には屈しない、己が持つ力の限り、どこまでも闘うだろう。あの腕だ、修羅場になる事は目に見えている。が、幾人もの犠牲者を出すような大事になっては自分らの責も問われかねないし、勿論大騒ぎになれば幕府の耳にも入りかねない、責めを負わねばならぬような事態になれば重役や自分たち目付筋はその責を負わぬ訳にもゆくまい、出来得る限り関わり無いという事にしたいのだ。あくまで弥一郎と聡三郎二人の間の私闘として事を運べばそれで万事は上手く片付く。
 だが、聡三郎の腕だ、自分が勝つとは限らぬ。この狡猾な男が、それを承知で果し合いをせよというからには、必ずその裏もある。自分が勝てばよし、負ければ、藩士同士の果し合いは禁じられていることを口実に、聡三郎を追い詰めようというのであろう事は容易に量り知れた。
「二百有余年、井川の家が藩のために尽くしたのもまた事実でござりましょう、なればこそ、組頭として登用されたのではありませぬのか。ここは穏便に、草としての表向きを保ったまま藩士として何事もなかったかのように繕わせ、幕府を逆に欺いた方が得策ではございませんか。そのお役目なれば、この弥一郎、生命を賭して引き受けまする」と、弥一郎は自分の思いを伝えた。
 が既に、憎悪と面子に凝り固まった坂元の心を変えることは出来なかった。
「朋の私に嘘は付けますまい。この話、聡三郎が己は草などでは無いと申さば、無かった事にならざるを得ないと思いますが、如何」と、弥一郎が問う。
「……」
「確かな証も無く、応とは言わぬ無二の朋を斬る事は出来ませぬ。人一人の命、軽重はございませぬ、お引き受け致しますからには、持てる力の限りを尽くして闘いまする。が、井川が草では無いと私が確信致しましたその時は、それを目付の意見とし御重役方に伝え、この事全て無かった事にして戴けまするか」
 更に追い打つ弥一郎の問いに、暫く黙していた坂元が、「相分かった。確かとこの心に留めおく。このこと、他言無用」と、苦々しさを押し隠しながら応えた。

 一縷の望みを託し、本当に草なのかと問う。
 聡三郎は黙ったまま、首を縦に振った。
 弥一郎は、聡三郎に果し状を手渡し、事の次第を詳らかに告げた。
「富貴には、この事話してあるのか」と問うと、「代々女子には伝えぬ。故に富貴は何も知らぬ。二百何十年、何事も無かったと聞く。祖父や父の代には、繋ぎすらなかったと聞いた。今まで通り何も起こらずに暮らして行けると……。でなければ、好きな女子を嫁に貰ったりはせぬ」と、聡三郎は苦しげに応えるのであった。
「逃げろ。こんな果し合いなど茶番だ。目付たちは、お前が勝てば、俺を斬ったことさえ罪に問おう。いや、罪人であることを前面に押し出し、更に汚い奸計を廻らしお前を殺しにかかるだろう。俺が勝てば、してやったりとほくそ笑む。お前と俺の気性までおも利用せんとした奸計だ。俺が引き受けた以上、もう事は奴らの思惑の中で動き出したと云う事なのだ。どちらに転んでも、お前が助かる事は無い。富貴と共に逃げてくれ」
 弥一郎の懸命の頼みにも
「いや、逃げぬ」と、聡三郎はいつものように泰然と構え、笑っているかのような表情で応える。
「何故逃げぬ。富貴を連れて逃げてくれ」
「……」
「お前が死ねば、富貴も生きてはいまいが」
 弥一郎には、幼馴染みの富貴の性分は百も承知だ。
「ああ」
「それが分っているのに何故逃げぬ」
「俺が逃げれば、弥一、お前はどうなる」
「それは……」
 この男は俺の胸の内を見抜いている。
 返答に詰まった弥一郎に、総三郎はまだあの表情を崩しはせず、
「そういうことだ」と、淡々としたものである。
「……」
 あの時弥一郎は、果し合い故、死した聡三郎に草としての罪は問わぬと約束させた上で、聡三郎の妻、幼馴染の富貴に対する命乞いをも承諾させた。
 坂元は、この際女子など構わぬと言いたげな顔で、煩わしそうに頷いた。
 だが、聡三郎が死ねば、富貴のことだ、自ら命を断つであろうことは目に見えていた。
「二百年以上も何も無かったと云うのになぁ」
 弥一郎からの果し状を見ながら、聡三郎は他人ごとのように言う。
 この期に及んでさえ、この男のこの茫洋とした様は揺るぎもしないのか。
 聡三郎の言動には、いつも達観というのか、諦観というのか、そんなものが感じられた。だが、相反するような、先を見通す目、人の心の奥の奥までも看破する鋭さをも兼ね備えていた。
 自分には無いそんなものを感じ、器の大きな男だと憧れてきたのだが、今思えば、それは草という己の定めに抗えぬ生き方の中で、否が応も無く身に付けなければならぬものであったのかも知れなかった。
「夕七ツ半か。国境に近いなぁ、落合の広河原は」
 滝ヶ原にせよとの坂元の指示を無視し、弥一郎が選んだ果し合いの場、落合の広河原は、隣藩との境に程近く、初冬の早い日暮れの闇に乗じれば、隣藩へ逃げ込むのはそう難しくは無いと思われた。
 聡三郎が逃げ延びてくれればそれでよし。御法度の果し合いを仕組んだのは目付の方である、そう強くは責められまい。少しくらいの冷や飯は覚悟の上である、そうならなければ、それはその時である、全てを自分が背負い込めばいい。まさか家名断絶というような事にはなるまい。弥一郎にその覚悟は出来ていた。
「明後日だ、頼む、何としても逃げてくれ」
 弥一郎の懇願に、「分かった、考えてみよう」と、些細な事でも引き受けるかのように聡三郎が頷いた。
 弥一郎は念を押すように、「頼む」ともう一度言い添えたが、「最後になるやもしれぬな、今宵は富貴と三人で飲んでゆくか」と、聡三郎はこれもまた、その端正な顔に笑みを浮かべながら事も無げに酒宴に誘う。
「ありがとう。だが、富貴の顔をまともに見ては飲めぬ、赦せ」
「そうか……」
 苦渋の弥一郎の応えに、やっと少し聡三郎の顔が曇った。
「恐らく目付の者が見張っている」
 ここへ入るとき、弥一郎に確認できただけで三組の見張りらしき者達が居た。恐らく他にも居るであろうことは違いない。
「ははは、疾うの昔に知っているよ」
「上手くやってくれよ」
「ははは、そんなことは朝飯前だよ。これでも忍びの端くれだ」と、聡三郎がいつものように明るく言い放った。
 入口へ向かうと、富貴が、
「あら、もうお帰りですか。久しぶりだというのに飲んでゆかれないのですか。ゆっくりしてゆかれるのだと、御用意しておりましたのに」と、襷姿のまま台所から出て来た。
「済まぬ、ちと他に所用があるのでな」
「良い御方に、ですか」
 悪戯っぽく笑う富貴に、「何を馬鹿な事を言うか」と、苦渋の躊躇いを内に残した弥一郎の声が詰まった。
 それを、図星だと勘違いしたのであろう、「ふふふ、またいらしてくださいね、今度は御ゆるりと」と、富貴は、楽しげに笑った。
「ああ、また来る」
 聡三郎は、二人の会話を富貴の後ろで聞きながら、件の如く黙って微笑んでいた。

 弥一郎と富貴とは隣同士。父親同士が碁仇という事もあって、幼い頃からまるで兄妹のようにして育った二人であった。
 聡三郎から、富貴と一緒になりたいと相談を持ちかけられた時、弥一郎は、この男ならばと、家格が違い過ぎると困惑する両家の間に入り、二人の仲を取り持った。が、何より強かった富貴の意思が両家を決断させたであろう事は違い無かった。
 二人の婚礼の日が決まった頃、弥一郎は、己の心の何処かに富貴に対する未練のようなものが渦巻いている事に気付き、幼馴染の気安さ、それとなく富貴に訊いてみた。
 屋敷といっても、富貴の家とを隔てるものは生垣一つ。垣根越しに話しも出来れば、人一人通り抜けられる垣根の切れた所も三か所ほど、わざわざ拵えたのではないが、それとなくある。それほどに両家は仲が良かった。
 縁側で、富貴に淹れてもらった茶を戴きながら、「俺も富貴を御嫁さんにしたかったんだけどな、聡三の奴がぞっこんでな、残念だが負けたよ」と笑って見せた。
「ふふふ。弥一郎様は駄目。だって私の大事な兄様なのですもの。私は聡三様のお嫁さんになるの。でも、そんな事を思った頃はあったの、私、弥一郎様のお嫁さんになるんだろうなぁって。あの頃、弥一郎様がそういう風に私を見ていてくれたら、きっと弥一郎様のお嫁さんになっていたと思うわ。でも違った、小さい頃からのまんま、二人は兄と妹、誰の目にも兄妹ですものね。すっかりそんな気が無くなった頃に、弥一郎様が聡三郎様に廻り遭わせてくれたの。素敵な笑顔だなぁ、心が広くて優しい良い方だなぁって、この人かなぁって、胸がドキドキ鳴って、心の何処かに運命みたいなものを感じたの。それから、弥一郎様が聡三郎様を連れて来てくれる日が待ち遠しくって。分かるでしょ、富貴の気持ち。家族も親戚も、みんな反対で挫けそうになったけど、弥一郎様のお陰よね。ありがとう、弥一郎様」
 富貴は、屈託無く笑い、そう言って返した。
 ただ、そう言われた弥一郎も、胸の閊えが下りたように爽やかな気分であった。
 富貴の笑顔は良い。なぜか心穏やかになる。
 
 その笑顔を悲しみに変えたくは無いのだ。
「頼む、聡三、逃げてくれ」と、帰り道、弥一郎は心の奥で何度も何度もそうなる事を願った。
 だが落合の広河原に聡三郎は来た。
 それも陰腹を切って。
 刃を交えること無く、聡三郎は弥一郎の前に膝を折るように崩れ落ちた。
「聡三、お前……」
 抱き起こす弥一郎に、「富貴の兄は俺には斬れぬ。弥一、お前とて同じであろうが。俺が逃げれば、お前の仕掛けが知れる、お前が思う様な小事では済まぬ。お前の考えは、いつも御人好しで甘いのよ、ははは、もっとも、俺はそんなお前が好きなんだけどな。お前、俺に斬られなくとも、いざという時は死ぬ覚悟であったのであろうが、そんな事をさせられるか」と語る聡三郎、苦しげではあるが、その顔にはいつものあの微笑みがあった。
 この期に及んでさえ笑っていられるのか、この男は。
「……」
 そんな弥一郎の躊躇いを余所に、「お前が富貴の事を心の何処かで好いていた事も、何となくではあったが感じていたよ。だがな、富貴に初めて会わせてもらったあの時、心が震えた。この女子が俺の嫁さんだと、心が震えたんだよ。ありがとう弥一。お人好しのお前のお陰で、富貴に遭えて幸せだった。富貴にもそう伝えてくれ。此度のこと富貴は何も知らぬ、今日も黙って出てきた。腹を切ったのは、ここへ来る途中の我が家の墓前だ。富貴を頼む、絶対に死なせないでくれ」と、聡三郎が苦しそうな息を継ぎながら呻くように言った。あの笑いは消え、真剣な眼差しであった。
「分かった……」
 弥一郎は唇を噛み、溢れ来る無念の思いを、掻きむしりたいほどの痛みを覚える胸中に呑みこむのが精一杯であった。

 だが、初七日の夜、富貴は聡三郎を追って自刃して果てた。
 その日も、冷たい初冬の風が木々を揺らしていた。
「弥一郎様、弥一郎様!」と、血相を変えて走り込んで来たのは、何かと大変だろうと弥一郎が井川の家へ手伝を頼んだ夫婦の男であった。
 男の話を聞くまでもなく、そのただならぬ様子に、「しまった」と、無念の思いを胸に急ぎ駆けつけた時、喉笛を掻き切り、聡三郎の白い位牌の前に倒れ伏す富貴にはまだ息があった。染め抜かれた大輪の牡丹の花のように、紅い鮮血が死に装束の白に広がり、弥一郎の胸に悲しみの痛みが強く鋭く奔った。
 悲しみし者の嘆きを帯びたこの初冬の虎落笛のように、ヒュウヒュウと鳴る喉の奥から、「御介錯を、兄様。苦しい、御介錯を。兄様御願い」と、苦しみに耐えきれぬ声を絞り出し訴える富貴に、弥一郎は涙を呑んで介錯せざるを得なかった。
 その時、己が胸に奔った痛みを、弥一郎は今も忘れてはいない。
 事切れた富貴の顔に、あの素敵な笑顔が浮かんでいた。
 夫婦の話では、富貴は聡三郎の子を身籠っていたという。
 聡三郎もそれを知っていたらしいというではないか。
 知っていながら、なに故死ぬことを選んだ。
 口惜しさを堪えんと噛み締める唇から、一条の鮮血が流れ落ちた。
 弔いの後、富貴は、「絶対に死ぬな、生きろ」と言う弥一郎の言葉に、あの笑顔を浮かべながら頷いていたではないか。
 何処からか漏れ聞いた事の経緯を知った時、聡三郎の子を目付たちが見逃す筈はない、富貴はそう思って死を覚悟したのであろうか。子を宿していると知らなかったとはいえ、己はなに故富貴の覚悟を見抜けなかったのか。宿した子を道連れにする事を選ぼうとした富貴の悩みを、苦しみを、誰が気づかなくとも、己だけは感じ取ることが出来たのではないのか。なに故に、もっと、もっと富貴の心に思いを致さなかったのだ。
 弥一郎は泣いた、涙の涸れるまで泣いた。

 聡三郎の四十九日が過ぎて間もなく、坂元に呼ばれた。
 坂元は、当然、弥一郎が聡三郎を逃がそうとした事に気付いていた。
「井川聡三郎、並びに妻富貴、病死。二親も既に死に、井川家は跡を継ぐ者がおらぬ故、断絶。滝ヶ原にてとの儂の指示を無視し、落合の広河原に致した事、その方の意図は明白である。が、果し合いの事、これは初めからなかった事と致す故、それは問わぬ。そちには隠居願いを出して貰い、独り身である故、跡目はそのまま弟御に継がせる。既に殿の御許しは戴いておる、異存は無かろうな」
 問わぬでは無かろう、問えぬのだ。分かりきった自らの奸計さえこの有様だ、これもこの男の思惑の内か。が、こうなれば一人身であった事の有難さ、何を言う事も、憂うる事も有りはしなかった。
 二人の、いや、三人の一周忌を終えた時、弥一郎は藩を出る決心をし、その届を出した。意外な事に、すんなりと許しが出、弥一郎は牢人の身となった。いや、それもまたあの男の思惑の内であったのかもしれない。
 坂元にとって、たとえどんな些細な弱みであろうとも、それを他人に握られていては心落ち着く事は無い。狡猾な者は細心の道を選ぶであろうことは明白である。弟に家督を譲らせた事を恩に着せ、一応、弥一郎の口を封じてはいても、自分にも幾許かの弱みはある。藩を離れ牢人になるというなら、こんな好都合な事はあるまい。が、弥一郎にとって、今はもうそんな事はどうでもよい事であった。

 死なんとする心を引きずりながら、三人の供養にと、畿内、四国と各地の寺を彷徨い、数年前、花の舞い散る季節に訪れ、強く心に残った吉野のある小さな寺を、ここが己の最期の地だと、満開の花の季節に訪ねた時、仏の前に座す弥一郎の心を見抜いた上人に、「人の心の痛みを知らぬ者に、なに故人が救えましょう。御仏に仕えるというは、僕になるという事では無く、人として生き直すということでもあるのではございませぬか。生きてみなされ、生きて、己の痛みを御仏に問い、己に問うてみなされ、また同じ痛みを背負い彷徨う人に問うて見なされ」と、寺に留まる事を勧められた。
 寺での日々は、ささやかな安らぎを弥一郎に与えはしてくれた。が、その心に焼き付けられた哀しみを癒してくれることはなかった。
 いや、弥一郎の心のどこかに、癒されることを拒み続ける何かがあった。
 いつの間にか、痛みを伴ったまま、それは弥一郎の身となってゆく。
 仏門に帰依し数年を経た頃、高齢で手伝いの者が要る寺があるとの事で紹介された、京のこの小さな寺へ入った。
 ほどなく、高齢だった前の上人が亡くなり、弥一郎が寺を引き受けることとなったのであったが、それもまた、吉野のあの寺の上人の世話であった。
 あれから十余年、時の流れは止まる事を知らず、氾濫する奔流が如く、世の中はもう、勤皇佐幕と、小競り合いなどでは済まない混沌とした濁流となり、天下を巻き込んでの一触即発の時代を迎えようとしていた。
 静かだった京の町も、大小の血腥い事件が繰り返し起こるようになり、人心は乱れに乱れていた。
 そんな時であった、あの男が逃げ込んで来たのは。

 相変わらず世間から耳に入って来るものは血腥い事柄ばかり、俗世を離れたその身にすら、聞くに耐えぬものばかりであった。
 浪士たちの殺し合いの噂を耳にする度に、弥一郎はあの男の事を思い、仏の前で無事を祈り願う事も一度や二度ではなかった。
 寒かった京の町に、魁の花の便りが囁かれ始めた頃であった、男が寺の門を敲いてくれたのは。
 小僧に案内され先に本堂へ上がった男は、御本尊、阿弥陀如来の前で、ひたすらに頭を垂れ続けていた。
 だが、静かに仏に向かうその後姿には、あの時のような殺気も、血腥さも、怯えも感じられなかった。
 ホッと安堵した心で男の後ろへ座る。
 振り返り、弥一郎に頭を下げ顔を上げた男に、ほんのりとした優しい笑みが浮かんでいた。
「如何致しましたかな、今日は」
「止めました。人を斬るのはもう止めました」
 若者らしい清しさを浮かべ、弥一郎の目を正視する男の目に、僅かな愁いはあるものの、あの時の暗い翳は微塵も無かった。
「宜しゅうございましたな」
「はい、お蔭様で、ひとりの人に戻れそうな気が致します」
「何かございましたのかな」
「人の子の親となれそうなのです」
「ほう、それは目出たい」
「好き合っている女子に子が出来申した」と、少しはにかみながらも嬉しさの籠った力強さで言う。
 弥一郎の心の奥を、聡三郎と富貴の面影が過った。
「今日は、あの時の無礼への御侘びと御礼に参りました」
「何のあれしきの事、詫びも礼も要りはしますまい。それより本当に目出たい、大事大切になされよ、奥方と御子、そしてその身もですぞ」
「はい。仰せの通り、近いうちに京を離れたいと思うております」
「それは良い、行く宛はございますのかな」
「いえ。この身、もう故郷へ帰る事は叶いますまい。女子も京の生まれなれば、京より他所は知りませぬ。どこか見知る者誰もおらぬ静かな在所を探し落ち着こうと思うております。親子三人、平らかに生きてゆけるのであれば何処でも構いませぬ。刀も捨てまする」
「そこまで覚悟なされておられるのですか」
「はい。元々、郷士の生まれです、百姓も出来まする。生まれて来る子のためならば、厭うことなど何もありは致しませぬ」と明るく言い放つその言葉に、また聡三郎と富貴への苦渋の思いが重なってゆく。
「付きましては、御願いが一つございます」
「はい、この私で出来ることであればなんなりと」
「男の子と女の子と、ひとりずつ名前を頂けませぬか」
「私が名付け親と云う事ですか」
「はい。御上人様を置いて他にはないと」
「宜しいのかな、私なんぞで」
「是非に御願い申しあげます」
 子の名を認めた奉書を胸に仕舞い、礼を繰り返し嬉しそうに帰ろうとする男に、「旅発ちの折は、是非もう一度お寄り下され。安産と御三方の行く末を御仏に御頼み申し上げますゆえ」と告げる。
「ありがとうございます。その時はきっと参ります」と、男は深々と頭を垂れ、如何にも嬉しそうに石段を駆け下って行った。
 その姿は、あの時とはまるで別人のようであった。

「まだ行く宛が御定まりなさらぬのであれば、吉野へ行ってみなさりますか」
 弥一郎は、ほどなくして別れに訪れた二人に仏前で祝言を挙げさせ、その行く末と安産を祈ると、吉野のあの寺のある里を勧めた。
「吉野にございますか」
「昔、私の世話になった御寺があります。静かな山里じゃ、諍い事など無縁の里じゃ、そこで静かに暮しなされ。お腹のお子にとっても、必ずや素晴らしき故郷となりましょう」
「良いのでしょうか、私ごときが御世話になって」
「良い御方じゃよ、心の広い御方じゃ、何も心配はござらぬ。何でも遠慮無く御相談なされるが宜しい、親身に応えてくれましょう。ここに手紙を認めておきました故」
 男は弥一郎の差し出した書状を、頭を垂れ両の手で押し戴きながら受け取った。
「呉々も御身大切に致しませ、奥方のためにも、お中の御子のためにも」
「ありがとうございます。この御恩、生涯忘れは致しませぬ」
 後ろで、少し腹の膨らみの目立ち始めた女子も同じように頭を垂れている。あまり語ろうとはしない。が、その温かく静かな微笑みは、生来の明るさを持ち合わせ、どことなく人の心を和ませてくれる女子のようであった。きっと、この男の荒んだ心を優しく包み癒してくれていたのであろう。この男にとっても、只一つの心安らぐ所であったのであろうことは容易に推察できた。似合いの夫婦のように弥一郎には感じられた。
 嬉しそうに別れの挨拶をする女子の笑顔に、富貴のあの笑顔が重なる。
 腹の子を気遣い、そろりと石段を下る女子を労りながら手を携えて去る二人を見送る。
 心が洗われるようなひと時であった。
 石段の下に二人が消えた時、人の影がひとつ、二人の後を追うように動いた。
 腰に刀を帯びていた。
「まさか!」と、弥一郎の胸を不安の陰が過った。
 弥一郎の脳裏に、寺の小さな宝物殿に納められた一振りの刀が浮かんだ。
 急がなければという思いが、弥一郎の心に瞬時浮かんだ躊躇いを何処かへ押しやり、素早い決断を齎してくれた。
 己と同じように何かを悩み、この寺で刀を捨てる事を決心した武士が寄進していったものであろうか、美濃辺りの作りらしく、無銘ではあったが、確かな鍛えのものと思われた。その武士の人なり、心なりを思い、宝物殿の虫干しや、機会ある度に手入れをし大事に扱ってきた。
 茎を柄に戻すと、目釘を打つ。
「赦されよ。若き者の大事な命が掛かっておる」と、刀に頭を垂れ鞘に収める。
 先夜のように、相手は一人では襲うまい。だとすれば京の賑わいを過ぎた辺りか。
 手甲脚絆を纏うのももどかしく、急ぎ行乞姿を整えると幾許かの銭を掴み、「二、三日戻らぬかも知れぬ。頼みますぞ」と、小僧に申しつけ、慌ただしく二人の後を追った。

 まだ無事であった。
 伏見の手前で遠く前方を行く二人の姿を認めた。
 ホッと胸を撫で下ろし、何も知らず楽しげに行く二人との間を少しずつ詰めてゆく。
 やはり追っ手は二人の後を付けていた。
 全身に殺気を漲らせた都合五人の浪士が、一町ほどの間の中に、それぞれを見知らぬ人のように装い、三々五々、道行く人々に紛れながら、付かず離れず二人の後を付けていた。
 宇治へ向かう街道を奈良へ向け分かれた時、弥一郎は歩を速め、浪士たち一人一人を目線の端で確かめながら五人を追い越し、それとなく間に入った。
 襲うとすれば民家の無くなるこの先辺りであろう。
 動いた。案の定動いた。
 行き交う人の途絶えた田畑の広がる辺りで、間を詰め一団となった五人が歩を速めた。
 弥一郎のすぐ後ろに迫る。
「待たれよ」
 振り返り様両の手を広げ五人を穏やかに制す。
「何用だ、坊主」
 怪訝な顔で一人の浪士が問う。
「あの二人、御見逃し戴けませぬか」
「なに!」
「奴の仲間か、坊主」
 途端に浪士たちの表情と声音が荒んだ。
「いえ、仲間などではござりませぬ。あの男、もう人を斬る事はございませぬ、御見逃し下され」
「戯言を言うな。俺たちの仲間が二十名近くも斬り殺されたり、大きな手疵を負うたりしておるのだぞ、見逃すことなんぞ出来るものか」
「人を斬り殺したのはあなた様方も同じでございましょう。これまでに幾人の人を斬り殺しました。死に逝きし者の怨讐をその身に纏うは同じにございましょう。今、あの男は、その怨讐を纏いつつも、人を殺めた事を悔い、一筋の光明を得、がんじがらめの呪縛からやっと抜け出せそうなのでございます、どうかお見逃しを」
「奴を見失うぞ、戯けたことに構うな、行くぞ」
 弥一郎に構わず行こうとする五人を、錫杖を横に広げ遮る。
「あの男の一筋の光明とは、新しき生命にございます。伴の女子は身籠っております、落ち着くところへ落ち着けば、あの男は必ず刀を捨てましょう。なれば、御見逃しを」
「そんな事は俺たちの知った事ではない、仲間の仇を討たずして済むものか、おめおめと見逃せるか」
「どけ!どかねば斬る!」
「どうしても御聞き届け願えませぬか」
「無駄だ!どけ!これ以上邪魔立てすると坊主だとて容赦はせぬぞ」
 弥一郎、無念遣る方無き思いを噛みしめながら、菰に包み錫杖に添えた刀の柄に手を掛けた。
 望まぬ事ではあったが、宝物殿のこの刀を手にした瞬間から、こうなる事への覚悟は出来ていた。
「刀ではないか」
「手向かいする気か」
「お見逃し叶わずば為ん方無し、御手向かい致しまする」
「己、小癪な。坊主のくせに」
 速い。
 五人、相当の手練であろうか、人を斬る事に手馴れているのでもあろう、腰をやや落とし、鯉口を切るや否や素早く抜き放ち、それぞれの間合いを計りながら陣形を組み立てるべく動きだした。
 明らかに、一人の男を倒すため五人で修練してきたのであろう陣形であった。一人の男を先鋒に配し、その後ろに三人、更に後ろに一人。
 弥一郎、その機先を制するように後ろへ跳んで笠を素早く外し、体を落とすと刀を抜き、右斜下段に構え、組み立てられようとする陣形を崩すように素早く踏み込んだ。
「お前、侍か」
 弥一郎の身の熟しに、浪士の一人がそう言って目を剥いた。
「如何にも、元侍にございます」
「あ奴の縁の者か」
「いえ、只の行きずりにございます」
「行きずりの者が、何故生命を賭し奴を庇わんと邪魔立てをする」
「どうしてなのでしょうか、同じ翳を背負っているからとでも申しましょうか、あの二人には幸せになって貰いたいのです。もう一度お願い致します、お見逃しくだされ」
「ならぬ!これ以上の問答は無用だ!」
 いきなり上段から斬りかかって来た男の一撃を躱し、弥一郎が下段から斜め上に一閃する。
 男が、血飛沫を上げ喉笛を鳴らして崩れ落ちる。
 弥一郎の胸に、富貴の胸を突いたあの時に似た痛みが走る。
 この男たちの注意を完全にあの二人から逸らすにはこうするしかなかった。
「江藤!」
「貴様!」
「出来るぞ!油断するな!」
 案の定、激高した四人が口ぐちに声を挙げ、血相を変え弥一郎を取り囲むように散ろうとした。
 この手練たち四人に囲まれてはとても敵わぬ。
 とっさにそう判断した弥一郎が、四人の陣形が整う前に街道を戻るように走った。あの二人にこの騒ぎを覚らせてはならない。
 走りながら、瞬時、歩を狭め間合いを縮めると、端を切って左後方から追い縋って来た一人の右太腿を、左片手で横様に斬り払う。
 骨を断つ重みを刀に感じた刹那、またあの痛みが弥一郎の胸に走った。
「どうっ!」と転がった男を跳び越え、尚も追い縋り来る三人を、街道の松を背にして迎え撃つ態勢に入ろうとする。
 三人の怒りは心頭に達し、物凄い形相と気魄で弥一郎に迫る。
 相手の落ち着くのを待てば違いなく誰かに斬られる。何としてでも一人対一人で切り結ぶのだ。
 弥一郎、間髪を容れず身を翻し攻撃に出る。
 最初に追いついて来た男の前に立ち塞がるように仁王立ちになると、上段からの斬り下ろしに出た。
 体勢の整わぬまま頭上で受けようとした男の刀を構う事無く、弥一郎の真っ向斬り下ろしの一撃が降り下ろされた。
「ガキン!」と、刀と刀のぶつかる凄まじい音が響いた。
 眉間を割られ倒れてゆく男の刀が、真っ二つに折れていた。
 弥一郎の顔が、あの痛みと悔恨に歪む。
 が、身体はもう動き出していた。
 一瞬怯んだ四人目の男の懐へ走り込む。
 袈裟切り気味に来た男の刀を跳ね返し様、返す刀で抜き胴に出、男の左を走り抜ける。
「うわっ!」と叫びを挙げ、男はそのまま左胴を割られ朽木のように倒れてゆく。
 あの胸の痛みに共鳴するかのように、何処からともなく声明が聞こえてくる。
 張り裂けんばかりの胸の痛みに堪えながら、血眼を見開いて迫り来る最後の男に正対する。
 弥一郎、腰を落とし八相深く構え、待ち構えるかのように相手を睨み据え、ジリッ、ジリッ!と、躙り寄る。
 男が気圧されて、動きが止まった。
 睨み合いが続く。
 遠く、近く、弥一郎の耳に尚も声明は聞こえ続け、胸の鼓動が痛みを伴い高鳴り続ける。
 それに反して、久し振りの激しい立ち回りに乱れていた弥一郎の呼吸が次第に整い、収まり行く。
「おのれっ、貴様っ!」
 弥一郎の間合いの取り方に、やっとそれと気付いたか、男が悪鬼の形相で大上段に振り被ると真っ向斬り下ろしに出た。
 迎え撃つ弥一郎の刀が八相からそれを追う。
 小さく、鋭く、刀と刀の擦れるような音が響いた。
 間髪を容れず小さく踏み込んだ弥一郎の返す刀が、左下段から男の喉仏を襲った。
 が、斬って男の間合いの外へ体を退く筈の弥一郎が、なぜか、そのままの形で動きを止めた。
 男の刀が、最期の抗いの中で、左肩に寄り添うように立つ弥一郎の左脇腹辺りから刺し込まれ、ゆっくりと突き上げられてゆく。
「お主、勝っていながら、なに故体を退かぬ」
 ヒュウと喉を鳴らしながら、男が呻いた。
「これで良いのです。法衣を血に染めては、もはや仏の道へ戻ること赦されは致しませぬ」
 刺し貫かれてゆく刃の鋭い痛みに耐えながら弥一郎が応える。
「何の縁もないあ奴を、なに故に命を賭してまで助けた」
 この男にとって、弥一郎の行為は理解の外にあるのであろうか、ゴホッ!ゴホッ!と咽ながら、先程と同じ問いを、苦しい息の下から吐いた。
「遠い昔の悔いからなのでございましょうか」
「遠い昔の悔い?」と、聞き取れないくらいの声で言いながら、男は膝から崩れ落ち事切れた。
 己の力では救う事の出来なかったであろうあの若者が、一人の女子と、そこに宿った新しき生命に、今、あの荒野から救い出されようとしている。
 それを仏に願いはしても、己が救わんと念じた事は無い。遠いあの日、あの二人を救えなかったように……。
 遠ざかりゆく意識の中で、弥一郎は、あの日以来己が胸に渦巻き続ける、聡三郎と富貴の無念を思った。そして自らの悔いを思った。
 あの時、己が否と拒み、生命を捨てる覚悟さえあれば、二人を逃がしてやる道もあったのではないのか。心の何処かに、自身を守らんとする思いが存在していたのではないのか。寺の階段を下るあの若者たちの後ろ姿を見送った心洗われるようなあのひと時を、なに故己が聡三郎と富貴に作り出してやる事が出来なかったのか。
 雨に濡れた衣のように重く纏わり付き離れてはゆかない己の悔いを清算しようとした訳では無かったが、五人の男を殺さなければあの二人を救えなかった偽りの法衣を纏う己が身に、更なる悔いの纏い重ねられた事は、その胸の痛みと、去来する漠とした虚しさが如実に物語っていた。
 今、五人の浪士を殺め、あの荒野の屍となりゆく弥一郎を弔うかのように、声明はひと際高くその闇に響き渡る。が、それは、弥一郎にとって、鎮魂のそれではありえず、胸の痛みを弥増しながら次第に小さく遠く、濃い菫色の屍の荒野の闇へと吸い込まれ消えゆく。
 事切れ横たわり屍となった弥一郎の目から、一筋の涙が頬を伝い落ちていった。

 来し方の修羅場を知る由もなく、二人は幸せそうに吉野への道を歩んでいく。
 吉野もそろそろあの花の季節であろうか……。
                          
                                 ―完―
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