第1話
文字数 1,943文字
これは剣豪として知られる柳生 十兵衛 三巌 が、まだ幼名の七郎 と呼ばれていた少年の頃の話である。
その日、七郎は麻布 日 ヶ窪 の柳生家下屋敷にある道場での稽古を終え、傅役 の石長 一人を伴い徒歩 にて愛宕下 の上屋敷へ戻るところであった。
「もし、柳生 但馬守 様のご子息、七郎どのではござらんか?」
見知らぬ二本差しの男に声を掛けられ、二人は足を止めた。
七郎が答えるより早く石長 が男と七郎との間に入る。
「そうであれば、どうだと言うのだ?」
石長 の言葉とどちらが先か「ぎゃっ!」という絶叫とともに男の右手首が血飛沫 を上げて舞い、もんどり打って倒れる腰からは、打刀 が鞘走 って抜け落ちた。この男、声を掛けて来た時には既に鯉口を切っていたのである。
いつの間に抜いたものか血刀 を提 げた石長 は、眼を瞠 って固唾 を飲む七郎にむかって
「こやつ一人ではありませんぞ、七郎様。気を抜かれますな」
と言いながら倒れた男にとどめを刺すと、道沿いの茂みから潜んでいた二人の男が出てきた。
「油断しおって…。さすがは御流儀 ・新陰流 を継ぐ御嫡男 様の伴 ともあれば、若造でも腕が立つのう」
声を掛けて来た男と揃いの羽織に こちらも二本差しの武士である。
「その家紋は、先 に お取り潰しになった…」
七郎には見覚えがあった。
「ほう、知っておるか柳生の小倅 。ならば、己が死ぬる訳も分かろうというものだ。恨むなら、上様や竹千代様の寵 を笠に着て、要らぬ所に嘴 を突っ込む親父を恨むがいい」
そう言って、男達が刀を抜き払い晴眼 に構えるのを石長 は八双 、七郎も刀を抜き脇に構える。
そのままフッと何処を見ているのやら判 じかねる仏像のような半眼になり、ぴたりと動かなくなった二人に焦 れ、先に男達が動く。
石長 は相手が剣を振り上げると、瞬次に空いた胴を横薙ぎにし、こちらの勝負は決まった。
男の羽織で刀の血を拭 い七郎を振り返ると、こちらは鐔競 り合 いの真っ最中で、この日初めて稽古ではなく己 が命を狙わんとする者と見 え剣を交 える七郎は、狼狽 して石長 に助けを求めるような視線を送る。
ー「やはりな…」石長 は思った。
少年とはいえ七郎は体格に恵まれ、同じ年頃の中では頭一つ出ており、すでに大人と並んでも そう遜色無 く、太祖・柳生石舟斎の生まれ変わりと言われる程の剣の天稟 もさることながら、それに甘えず幼き頃より血を吐くような努力を続けてきた。その七郎の剣技が、主家を失った腹いせに子供を狙うような牢人者 と互角や、まして劣っているなど あろうはずも無い。
では何故…?
いまだ人を殺 めた事の無い七郎は逡巡 し、手加減してしまっているのだ。
ー「七郎様は、お優しい。柳生家に生まれたのでなければ、それは大変な美徳であろうが…」
しばらく、まるで七郎が稽古をつけてやっているかのような状態が続いた後 、ついに男は肩をから血を流し刀を取り落とした。力無くだらりと下がった腕は もう落とした刀を拾おうともかなわず、平伏して命乞いをする。
ー「この場さえ凌 げれば…」そう肚 の中で呟きながら。
「拙者は、あの二人に唆 されただけで…、どうか、どうか、お許し下され…」
「七郎様、お斬りなされませ。生かしておいても新たな遺恨の種になりましょう」
「!!はっ、そ、そのような、あ、」
肚の内を読まれたかのような石長 の言いように男は身を起こして喘ぐ。
「いっ、石長 !しかし、相手はもう…」
「お斬りなされ。近年 上様も竹千代様も ますます御父上様への ご信任厚く、これから先、このような事は後を絶ちますまい。あなた様が お強く在 られなければ、幼く か弱き弟君 妹君 を守れませぬぞ」
『兄上』
弟妹 達の声が聴こえたような気がした。
「あああああああーーーーー!」
七郎は己 を鼓舞 するように叫ぶと、男を袈裟斬 りにし、その体は肺腑 まで裂けて崩れ落ちていく。
「にっに、兄 や…、兄 や」
返り血に染まり震える手から そっと刀を取り上げた石長 は、幼い頃の呼び方で自分を呼ぶ七郎を抱き締めると安心させるように背をさする。
「ようなさいました、七郎様。さすが剣に拠 って立つ柳生家の御嫡男。お父上様もさぞ心強き事でございましょう」
緊張の糸が切れた七郎の目から、涙が溢れる。
ー「それがしは 心優しき この御方を鬼に堕とし、戻る道とて無き地獄へと送り出してしもうた。しかし、柳生家の嫡男として生きていく上は遅かれ早かれ…。せめて この役目を負うのが己であって良かったと思おうよ」
そのような思案を巡らせながら、石長 は言葉にならない言葉を上げて号泣する七郎の背をさすり続けた。
この一件を境に、七郎は変わった。
何がどうという訳では無いが、強いて言うならば彼の少年期が終わったのであろう。
翌年、七郎は元服 し名乗りを十兵衛と改め、後の将軍・徳川家光である竹千代の小姓 として城勤めを始める事となる。
その日、七郎は
「もし、
見知らぬ二本差しの男に声を掛けられ、二人は足を止めた。
七郎が答えるより早く
「そうであれば、どうだと言うのだ?」
いつの間に抜いたものか
「こやつ一人ではありませんぞ、七郎様。気を抜かれますな」
と言いながら倒れた男にとどめを刺すと、道沿いの茂みから潜んでいた二人の男が出てきた。
「油断しおって…。さすがは
声を掛けて来た男と揃いの羽織に こちらも二本差しの武士である。
「その家紋は、
七郎には見覚えがあった。
「ほう、知っておるか柳生の
そう言って、男達が刀を抜き払い
そのままフッと何処を見ているのやら
男の羽織で刀の血を
ー「やはりな…」
少年とはいえ七郎は体格に恵まれ、同じ年頃の中では頭一つ出ており、すでに大人と並んでも そう
では何故…?
いまだ人を
ー「七郎様は、お優しい。柳生家に生まれたのでなければ、それは大変な美徳であろうが…」
しばらく、まるで七郎が稽古をつけてやっているかのような状態が続いた
ー「この場さえ
「拙者は、あの二人に
「七郎様、お斬りなされませ。生かしておいても新たな遺恨の種になりましょう」
「!!はっ、そ、そのような、あ、」
肚の内を読まれたかのような
「いっ、
「お斬りなされ。近年 上様も竹千代様も ますます御父上様への ご信任厚く、これから先、このような事は後を絶ちますまい。あなた様が お強く
『兄上』
「あああああああーーーーー!」
七郎は
「にっに、
返り血に染まり震える手から そっと刀を取り上げた
「ようなさいました、七郎様。さすが剣に
緊張の糸が切れた七郎の目から、涙が溢れる。
ー「それがしは 心優しき この御方を鬼に堕とし、戻る道とて無き地獄へと送り出してしもうた。しかし、柳生家の嫡男として生きていく上は遅かれ早かれ…。せめて この役目を負うのが己であって良かったと思おうよ」
そのような思案を巡らせながら、
この一件を境に、七郎は変わった。
何がどうという訳では無いが、強いて言うならば彼の少年期が終わったのであろう。
翌年、七郎は