五日市の夜叉五倍子(ヤシャブシ)
文字数 4,414文字
(一)
これまで何千足の草鞋 を履き潰 してきたことか。武州多摩の石田村から、山丸印の薬箱を背負い菅笠 を被り出かける。広々とした田畑に張り巡らされた日野用水の水音が心地良い。風が吹きぬけ四季折々の色がある。百姓たちが腰をかがめて野良仕事をしている姿を見ながら、村から村へと渡り歩く。
土埃 を立て多くの人馬が行き交う。よく歩くのは青梅街道、五日市街道、甲州街道、鎌倉街道、人見街道、日光道、川越道、小金井道。そして名も無き裏街道。
時々道に迷うことがある。何しろ得意先は数百件。小金井あたりで近道をしようとしてクヌギとコナラの林へ入り、方角がわからなくなった。ちろちろと湧き水の音が響く。細い坂道の上り下りを繰り返す。頭上で木もれ陽 が渦を巻く。どうやら、同じ道をぐるぐる回っているらしい。
「妙だな。狐 にばかされているのか。畜生 め」
獣 は必ず後ろから来る。振り向きカチリと鯉口 を切り、脇差 を抜き中段にかまえた。
「おい、出て来い。おれは石田村の薬売り土方歳三だ。二つ胴にしてやる」
獣の気配は消え、風に吹かれた緑の草木がざわざわ嘲笑 う。
「ちっ、狐の奴め。怖気 づいて姿も見せずに逃げたな。つまらん」
もっとも背負っているのは薬箱。狐の好きな川魚や握り飯ではない。急に空 しくなり、脇差を鞘 に納める。
不思議なことに、その後すぐに林から抜け出ることができた。しかし、どれだけ彷徨 ったのか、あたりはすでに薄暗い。
「夏に雪とは、風流だな」
広い野原一面にふわりふわりと白い野の花が浮かぶ。よく見ると、朽ち果てた小屋を隠すように月見草が生えている。
「ここはどこだ。是政 の辺 りか。怪しい。さては狸 が小屋に化けたな。もしや、この小屋は狸の千畳敷 、つまり金玉ってわけか」
風に揺られて波うつ月見草の群生をかき分け、脇差の鉄の鐺 で小屋の戸や壁を何度も突いてみるが、怪異は起らない。戸を蹴破 り、崩れそうな小屋へ入る。
竹筒の水をごくりと飲み、ほっと一息ついた。
「駄目だ、もう歩けねえ」
放ってあった黴 臭い筵 を広げ手ぬぐいを敷き、その上に手枕してごろりと寝転んだ。初夏だというのに肌寒い。
「そういや、前にもこんなことがあったな。あばらやに寝てひてさむし春の月、おれの句だ」
腹が減るやら人肌恋しいやらで情けなくなる。しばらく会っていないおれの江戸の敵娼 、黛 太夫 はどうしている。今宵 どこの誰に抱かれているやら。湯気が上るつきたての餅 。丸い乳房、腹と尻。やわらかい白い肉が知らない男の手に揉みしだかれ、揺れている。
「ひぃぃぃぃ」と甘い悲鳴が聞こえてきた。黛太夫の嬌声 か、耳をかすめる夏虫の羽音 か。
破れた戸口から差しこむ月明かりを眺めつつうつらうつら。夢の浮き橋を行く。
「嗚呼 、おれは野原の月見草になっちまう」
薬箱を背負い、あちらこちらを歩き回って気づいたことがある。その土地に寄り、まるで草木のように人は色と匂いを持っている。そういうおれは一体どうだ。己 のことがまるでわからねえ。煎 じた薬草臭い青白い陰気な男か。
(二)
祖父の代からの上得意客、五日市 の井上家へ行く。早朝に石田村を出て、浅川沿いで夏の富士山を仰いだ。桧原 村から木材や炭を運ぶための脇街道、五日市街道を急ぐ。昼には着くだろう。
井上家は万屋 を営む。嬉しいことに蕎麦 を馳走 してくれた。ざるに盛られた太くコシのある蕎麦を箸 でたぐり、大根おろしと醤油のつけだれにくぐらせ口に運ぶ。大根の辛味と蕎麦の旨味が口一杯に広がり、喉が鳴る。
「美味 い。井上さんの打つ蕎麦は天下一品だ。それに、いつ来ても五日市は活気がありますね」
「ははは、そりゃよかった。ここは名の通り戦国の昔から栄えている。毎月五の日に市が立つ。材木にする杉や檜 に炭問屋。名物は丈夫な軍道紙 。近年は農家の副業の黒八丈 という、粋筋 に人気の絹織物もある。黒八丈は別名、五日市 さ」
茶をすすり上機嫌で笑う。
「金持ちが欲しがる上等な品ばかりだ」
歳三は作り笑いを浮かべた。
「ところで、薬の手持ちはまだあるかね。この秋川沿いの先にひときわ大きな茅葺 屋根があって、その家の若い後家さんが石田散薬を欲しいと言っていたよ。訪ねたらどうだい。今頃、川で糸サワシしているはずだ」
「客を紹介していただけるとは、ありがたい」
頭を下げた。
初夏の秋川の浅瀬では、数人の百姓女たちが逞 しい脛 を剥 き出しにして、腰を折り曲げ糸束 を洗っている。
「ほお、秋川の大根畑か」
歳三は思わず足を止めてつぶやく。
藍 色の野良着姿の小柄な女が顔を上げた。三十路 ぐらいだろうか。背負った薬箱の山丸印が見えたのか、よく日に焼けた褐色の肌に白い歯を見せて、にっと笑いかけてくる。
「あらまあ、いい男が来たと思ったら、石田村の薬屋さんだよ」
川から上がり、頭に被っていた手ぬぐいを取り足を拭く。他の女たちはその場で顔を上げて、もの珍しそうに若い優男 の歳三をじろじろと見ている。
「石田散薬を持ってきました」
うわずった声で答えた。
女たちの好奇に満ちた眼差 しが熱い。後ずさりしてしまうほどに。
「それじゃ、あたしの家へ行きましょうか。薬代を払わないと。腰が痛くてね。石田散薬を井上屋の旦那にすすめられて飲んだら、痛みが和 らいだ。たくさん買い置きしたい。皆にも分けたいと思ってさ」
目尻には深い皺が刻まれているが、幼子 のような無邪気な笑顔だった。どうやら、心から喜んでいるようだ。
「それは、ありがとうございます」
思わず口元がゆるむ。
「ところで、石田散薬にはどんな秘密があるの。飲むと頭がぼおっとして、すごく気分が良くなるわ。痛みも消える」
歩きながら、目を輝かせて歳三の顔をのぞき込む。
「うちの六代前の先祖が、玉川に住む河童明神 から伝授された秘薬ですから」
「え、そうなの。もしかしたら、あんたも河童かもね。ふふふふ」
「もっと効く方法がありますよ。石田散薬を熱燗 で飲むといい」
「それは、気持ちよくなりすぎて、翌日仕事ができなくなるわ」
流し目で妙に色っぽく笑う。
「ははは、そのへんは、ほどほどで」
後家の笑顔をうとましく感じて、顔を背 けた。
通されたのは、大きな茅葺屋根の家の縁側 だった。日当たりのいい縁側には大きな籠 が並んでいて、干からびた小さな黒い松ぼっくりのような実が溢れている。
「黒八丈が二反 で家が建つという噂は本当だった。これは何の実ですか」
指でつつく。
「八丈島の泥染めはシイの木の皮だってね。五日市は夜叉五倍子 。大切な千金に値 する実。この実を湯で煮出して桶に入れて絹糸を染める。その後、そこの小倉山から桶で運んで来た泥に浸 ける。泥染めという手法よ。それを秋川で一日二回洗う。二十回以上繰り返すと黒く染まる。染めるだけで七日から二十日かかるのよ。ほらこれ」
髪の毛のような黒い塊 を見せられ、ぎょっとする。
「触ってみて」
歳三は両手を差し出した。
「やわらかい絹糸だ。艶 やかな黒色。焦茶 のような深緑のような」
微 かに触れた若後家の手指は、秋川の清流のように冷たかった。
「薬屋さんの家でも蚕 を飼っているでしょう」
「もちろん、屋根裏で姉が育てている」
「日野郷の石田村は桑都 八王子のお膝元 だものね。あたしは、夫と山に入って夜叉五倍子を採ってきて、泥染めするのが大好きでね。農作業が暇な時に、のんびりと色々な草木で糸を染めていた。家族を喜ばせたくて、それを織った。小遣い稼ぎにもなった。でも、今では村の商人からたくさん染めろと急 かされてつらいだけ。手間暇 かかるのに安く買われる。昨年夫が亡くなったから、生きていくには、もうこれしか無いけどね」
憂 い顔で深いため息をつく。
「美しくて良い品だから、皆が欲しがっているよ。黒八丈を」
「そうかな、ありがとう。そうだ、あんたも黒八丈で着物を作ったらいいわ。誰よりも、この黒が似会うと思う」
真っすぐに見つめられて、歳三は目を伏せる。
「まさか、冗談だろう。しがない薬売りに上等な絹の着物なんて」
「そう言わないで、いつかきっと、あたしの黒八丈を買ってよ。高いけどさ。少しだけ安くしてあげるから。約束よ」
糸束を持った歳三の手をぐいと引き、小指に自分の小指をそっと絡 めた。
桑の葉を食らう蚕を育て絹糸を紡 ぎ、木の実と泥と地元の川の水で粋な黒色に染める手仕事。身に纏 いたい色を見つけたぞ。それは黒だ。あたりまえだが、食い物や布や炭や材木のすべてが、武州多摩の自然そのもの。おれたちは土地に生かされている。石田散薬も浅川沿いに生える牛額草 の粉末。なんと豊かな土地だ。
歳三は懐 に手を入れ、お守りとして手渡された夜叉五倍子の実を指で弄 ぶ。女の情が黒い絹糸となって指先に絡 みつく。物狂おしい気分で家路を急いだ。
(三)
元治元年京都。冷たい秋風が吹いても都の夕暮れ時は華やいでいる。武州多摩の秋のような寂しさは無い。
近藤勇が壬生 の新選組の屯所 の門を出たところで、向こうから黒羽織 を着た背の高い、凄みのある武士が歩いて来るのが見えた。数人の若い隊士を連れている。黒羽織が夕日を捕らえて、端正な武士の顔を引き立てている。屯所の前で鉢合わせとなった。
「おや、近藤先生、これからどちらへお出かけですか」
目を伏せて小声で問う。男としては長い睫 が深い影を落としている。
「島原へ行く。ところで歳、いや副長、これはまた粋な黒羽織だな。まさか」
羽織の袖を掴 んで撫でる。生娘の肌のように張りがあって、滑らかな感触だった。
「これは、五日市です」
「うーむ、やはりそうか。艶 がある。よく似合っている」
「ふふ、いってらっしゃいませ」
ほんの一瞬、土方歳三が冷たい目で睨 むのを、近藤勇は見逃さなかった。
昨年の池田屋の事件以来、歳はずいぶん変わったな。確かにおれたちは昨年より、金回りも良くなったが、それだけじゃない。あの貫禄 は何だ。五日市の黒羽織のせいで、そう見えるだけかもしれんが、気後 れしちまった。あいつはどうやら、おれの島原通いが気に入らないらしい。ふん、まるで小うるさい古 女房のようじゃないか。
近藤勇は島原遊郭の馴染みの店に登楼した。敵娼 と部屋で二人きりになると、酒もそこそこに抱きすくめ、肌に塗り込められた白粉の甘い香りに陶然 とする。紅葉色の着物の裾 を割り、武骨な指を深く忍ばせながら、つるりと滑らかな丸帯をぐいと片手で解きにかかる。
「おや、この手触り」
押し倒した敵娼の足首を掴み、行灯 の近くまで引きずる。帯を見ると深い艶やかな黒だった。
「ほほほ、これは五日市どすえ」
片膝を立てて、白い太ももをほの暗い部屋に浮き上がらせた敵娼 が微笑んでいる。
近藤勇は頭を搔 いた。
やれやれ、こんなところまで追いかけてくるとは。
武州多摩の田畑は今頃、何色に染まっているのだろうか。
多摩の女たちの機織 の音、玉川のせせらぎが聴こえる。
そして、黒を纏い冷たく笑うあいつの顔がちらつく。
敵娼の腹に巻かれた黒い帯、五日市に頬ずりをした。
(了)
これまで何千足の
時々道に迷うことがある。何しろ得意先は数百件。小金井あたりで近道をしようとしてクヌギとコナラの林へ入り、方角がわからなくなった。ちろちろと湧き水の音が響く。細い坂道の上り下りを繰り返す。頭上で木もれ
「妙だな。
「おい、出て来い。おれは石田村の薬売り土方歳三だ。二つ胴にしてやる」
獣の気配は消え、風に吹かれた緑の草木がざわざわ
「ちっ、狐の奴め。
もっとも背負っているのは薬箱。狐の好きな川魚や握り飯ではない。急に
不思議なことに、その後すぐに林から抜け出ることができた。しかし、どれだけ
「夏に雪とは、風流だな」
広い野原一面にふわりふわりと白い野の花が浮かぶ。よく見ると、朽ち果てた小屋を隠すように月見草が生えている。
「ここはどこだ。
風に揺られて波うつ月見草の群生をかき分け、脇差の鉄の
竹筒の水をごくりと飲み、ほっと一息ついた。
「駄目だ、もう歩けねえ」
放ってあった
「そういや、前にもこんなことがあったな。あばらやに寝てひてさむし春の月、おれの句だ」
腹が減るやら人肌恋しいやらで情けなくなる。しばらく会っていないおれの江戸の
「ひぃぃぃぃ」と甘い悲鳴が聞こえてきた。黛太夫の
破れた戸口から差しこむ月明かりを眺めつつうつらうつら。夢の浮き橋を行く。
「
薬箱を背負い、あちらこちらを歩き回って気づいたことがある。その土地に寄り、まるで草木のように人は色と匂いを持っている。そういうおれは一体どうだ。
(二)
祖父の代からの上得意客、
井上家は
「
「ははは、そりゃよかった。ここは名の通り戦国の昔から栄えている。毎月五の日に市が立つ。材木にする杉や
茶をすすり上機嫌で笑う。
「金持ちが欲しがる上等な品ばかりだ」
歳三は作り笑いを浮かべた。
「ところで、薬の手持ちはまだあるかね。この秋川沿いの先にひときわ大きな
「客を紹介していただけるとは、ありがたい」
頭を下げた。
初夏の秋川の浅瀬では、数人の百姓女たちが
「ほお、秋川の大根畑か」
歳三は思わず足を止めてつぶやく。
「あらまあ、いい男が来たと思ったら、石田村の薬屋さんだよ」
川から上がり、頭に被っていた手ぬぐいを取り足を拭く。他の女たちはその場で顔を上げて、もの珍しそうに若い
「石田散薬を持ってきました」
うわずった声で答えた。
女たちの好奇に満ちた
「それじゃ、あたしの家へ行きましょうか。薬代を払わないと。腰が痛くてね。石田散薬を井上屋の旦那にすすめられて飲んだら、痛みが
目尻には深い皺が刻まれているが、
「それは、ありがとうございます」
思わず口元がゆるむ。
「ところで、石田散薬にはどんな秘密があるの。飲むと頭がぼおっとして、すごく気分が良くなるわ。痛みも消える」
歩きながら、目を輝かせて歳三の顔をのぞき込む。
「うちの六代前の先祖が、玉川に住む
「え、そうなの。もしかしたら、あんたも河童かもね。ふふふふ」
「もっと効く方法がありますよ。石田散薬を
「それは、気持ちよくなりすぎて、翌日仕事ができなくなるわ」
流し目で妙に色っぽく笑う。
「ははは、そのへんは、ほどほどで」
後家の笑顔をうとましく感じて、顔を
通されたのは、大きな茅葺屋根の家の
「黒八丈が
指でつつく。
「八丈島の泥染めはシイの木の皮だってね。五日市は
髪の毛のような黒い
「触ってみて」
歳三は両手を差し出した。
「やわらかい絹糸だ。
「薬屋さんの家でも
「もちろん、屋根裏で姉が育てている」
「日野郷の石田村は
「美しくて良い品だから、皆が欲しがっているよ。黒八丈を」
「そうかな、ありがとう。そうだ、あんたも黒八丈で着物を作ったらいいわ。誰よりも、この黒が似会うと思う」
真っすぐに見つめられて、歳三は目を伏せる。
「まさか、冗談だろう。しがない薬売りに上等な絹の着物なんて」
「そう言わないで、いつかきっと、あたしの黒八丈を買ってよ。高いけどさ。少しだけ安くしてあげるから。約束よ」
糸束を持った歳三の手をぐいと引き、小指に自分の小指をそっと
桑の葉を食らう蚕を育て絹糸を
歳三は
(三)
元治元年京都。冷たい秋風が吹いても都の夕暮れ時は華やいでいる。武州多摩の秋のような寂しさは無い。
近藤勇が
「おや、近藤先生、これからどちらへお出かけですか」
目を伏せて小声で問う。男としては長い
「島原へ行く。ところで歳、いや副長、これはまた粋な黒羽織だな。まさか」
羽織の袖を
「これは、五日市です」
「うーむ、やはりそうか。
「ふふ、いってらっしゃいませ」
ほんの一瞬、土方歳三が冷たい目で
昨年の池田屋の事件以来、歳はずいぶん変わったな。確かにおれたちは昨年より、金回りも良くなったが、それだけじゃない。あの
近藤勇は島原遊郭の馴染みの店に登楼した。
「おや、この手触り」
押し倒した敵娼の足首を掴み、
「ほほほ、これは五日市どすえ」
片膝を立てて、白い太ももをほの暗い部屋に浮き上がらせた
近藤勇は頭を
やれやれ、こんなところまで追いかけてくるとは。
武州多摩の田畑は今頃、何色に染まっているのだろうか。
多摩の女たちの
そして、黒を纏い冷たく笑うあいつの顔がちらつく。
敵娼の腹に巻かれた黒い帯、五日市に頬ずりをした。
(了)