P5.

文字数 534文字

「来いよ、なつき」
一呼吸ほどの間の後、なつき先輩は「ごめん、先行く」と俺に言い残して階段を降りて行った。俺の方を見もせずに。
俺は呆然と、長い綺麗な黒髪を揺らしながら去って行く彼女の後ろ姿を、ただ見ているしかなかった。
そして次の日、穏やかな顔をしたなつき先輩を見て、ああそうか、と思った。
そうか、俺、ダメなんだ。
でも結局、諦めることもできずに、彼女が卒業するまでそのままそばにいた。

ただ、それだけの話。

合唱部が歌い始める。ちょっとノスタルジーを感じさせる別れの曲。
「泣かせにきてるね、合唱部」
隣で郁が言う。
郁が軽音に入ってボーカルになって、なつき先輩はボーカル担当からキーボード担当に変わった。
もともと人前で歌うのは好きじゃない、と言っていたが、よく、一人で小さな声で歌を口ずさんでいた。
俺は、それを聞くのが好きだった。小さな声だったし、すぐ歌うのをやめてしまうので、そっと聞いていた。
俺だけが聞いている、という優越感を持ちながら。
この曲も、歌っていたな。
先輩は少し低くて、でも伸びのある声をしていた。
俺は先輩が好きそうな曲をギターの練習用に選んで、いろいろ理由をつけては隣で歌ってもらったりした。
その時間が最高に好きだった。
彼女が歌っている時の綺麗な横顔が好きだった。
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