だから

文字数 1,402文字

 一人の若者が、父親を睨みつけながら、静かで丁寧ではあるが、よそよそしく改まった、そして怒気のこもった声で言った。
「子供の時から、中学生、高校生、大学生、そして社会人と、いつも私のためを思って叱責してくれたのだと思いますが、私は人格を否定されているとしか感じず、いつもものすごく心が悲鳴を上げていたのをご存知でしたか?」
 父親は沈黙したまま息子の顔を見ている。
「いつもいつも、この世から消えたい、と自分がものすごく大嫌いになり、何かで気づかないうちに自分がポックリ死んでしまえばどんなに楽だろうか、とよく考えていた私の気持ちはご存知でしたか?」
 父親は眉間に皺を寄せたまま黙って聞いている。
「それでも自殺なんて一度も考えたことが無いのは、私が死んだらお母さんがどんなに悲しむだろうと思うと、お母さんを苦しめたくないからと、ただその一つだけの気持ちでした。
 お母さんがいなかったら、私はもうとっくに失踪するなりどこかに消えて、どこかで野垂れ死んでいたと思います」
 父親は目をつぶった。
「そのくらい、私はいつも心がズタズタになりながら、ゴミのように粉々になった心の破片を必死にかき集めて生きてきました。
 それでもお父さんの言葉は、いつも私にとどめを刺して、私の心を殺しています。
 お父さんの考え方はストイックで、私にはとても真似することはできません。
 お父さんの考えの通りに生きるのは私には無理ですし、自分の人生を誰かに決められているように感じて、あまりにも生きることの価値が無い様に感じてしまいます」
 父親は目をつぶったまま聞いている。
「私はいつも、自分にとっての生き方を考えて、自分の中で少しずつ固めていました。でもそれを口に出せなかったのは、親に反抗するのは絶対にダメなことだ、と私の頭の中で洗脳されていたからです。
 反抗したとしても正論で言いくるめられるし、怒られるし、反抗して親が傷つくくらいなら私が我慢して親の言う通り生きていれば良いんだと思って、子供の頃からずっと我慢して苦しんできました。喉が千切れるぐらい腹の底から叫んで、あらゆるものを破壊したいと思うほどの衝動を、ずっと抑えて生きてきました」
 父親は再び目を開け、息子の顔をじっと見つめる。
「親の心子知らず、という言葉は私にとってとても重い言葉です。
 私はずっと、私の中で反論したい気持ちがあっても、いつも、親の心子知らずだ、私の気持ちは両親の気持ちを踏みにじるのだろう、と我慢してきました。そして、自分が間違ってる、自分が間違ってる、と言い聞かせ、自分の考えを歪めてきました。
 でも、もう我慢したくありません。私は人権があります。理屈だけでは説明できない感情だってあります。それをもう正論ばかりで否定され続けるのは、人格の崩壊を迎えそうなので限界です。」
 父親は再び目を閉じた。
「だから……だから、もう二度とこの家に来ることはありません」
 若者はそう言うと、立ち上がり、出て行った。

「これで良かったのかな?」
 若者の父親は、隣に座ってじっと話を聞いていた妻に声をかけると、妻はほほ笑みながら言った。
「良かったと思いますよ」
「彼も結婚相手を見つけたようだから、これからは僕らから完全に独立して、これまでとは違う人生を歩むんだろうね。だから……」
 夫の言葉を引き継ぐように、妻は言った。
「だから、これからは二人だけの人生を楽しみましょうね」
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