第2話 「抽象的思考が出来る猿」

文字数 850文字

 私は先ほどから、エクセルで何度も数字を打ち込んでは消してを繰り返していた。周りの社員たちの目を気にしながら、さも難題な課題に取り組んでいるような真剣な眼差しで仕事をしている風を装っている。苦痛を感じる。ポケットの中にある家から持ってきたライターの存在を意識する。それで少し苦痛は和らぐ。
 後ろの席の社員2人がなにやら社内の噂話を小声でしている。私はモニターを見ながらその話に集中するが、誰のことを言っているのかよく分からなかった。また、苦痛を感じる。永遠とも感じられる時間。私はポケットに手を入れ、ライターを触る。そしてそれを取り出し、目の前の書類に火を点ける妄想をする。私の後ろでコソコソ話している社員はさぞ驚くことだろう。私は机の上に飛び乗り、PCのモニターを蹴飛ばして発狂する。ああ、そんなことが実際に出来たら。
 しかし、私は何もせずただただエクセルに数字を打っては難しい顔をして、それを消してまた適当な数字を打つ。後ろからは話し声がまだ聞こえる。
 次第にその話の内容がつかめてきた。どうやら社内の業績不振の件だった。噂では社員の何人かはすでに早期退職を会社から勧められているらしい。今は働き盛りを過ぎ、お荷物となったベテラン社員だけだろうが、いずれは私も退職を勧められるかもしれない。
 私は、誰にもバレないように小さく微笑んだ。会社から辞めろと言われれば堂々と辞められる。自分のせいではなく、会社の業績不振のせいにできる。そうすればこの会社を燃やさなくても済む。
 私は異常ではない。私のような感性を持った人は現代では普通だろう。みんな放火魔予備軍だ。そう私は思っている。自分は特別だと、思っていたこともあった。そしてそう信じることでなんとか保ってきた不安定な自我があった。でも、いつしかそんなことにこだわらなくなった。私たちは所詮、抽象的思考ができるだけの猿なのだ。そして、その抽象的思考が、被害妄想、自意識過剰などと言う本人にも制御できないあれこれを生み出し、私という人間を形作っている。
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