第3話 血族編(二)素生

文字数 1,866文字

 達也が小学五年生の時、江戸川区の北小岩にあった会社の社宅に住んでいた家族は、東小岩の新築の家に引っ越した。一戸建ての家を持つことが念願であった父親は、東小岩に廉価(れんか)な土地を購入すると、ローンを組んで三LDKの家を普請(ふしん)したのである。当時は江戸川区内でも、駅から少し離れた場所に行くと田園地帯が散在しており、工場などの設備もなかったため閑静(かんせい)な住宅地であった。家のすぐ近くには江戸川が流れていて、土手から川まで野球場ほどの広場があったため、休日になると家族連れや子供達の格好の遊び場となっていた。

 達也の家族は両親と姉の四人で、二階の二部屋に姉と達也、一階の寝室に父と母が起居(ききょ)していた。しかし、幼い頃の達也はその家に住むことが苦痛であった。友達との別れを惜しんだ達也は、バスを二本乗り継いで一時間かけてもとの学校に通っていたので、家の外を出歩いても誰ひとりとして知る者はいなかった。小学生であった達也には、近所に友達がいないことに寂寥(せきりょう)と孤独を感じていたのである。

 父親は設計の仕事を生業としていた。実家が貧乏であったため、家族経営の零細企業でアルバイトをしながら夜間大学の建築科に通っていたらしく、母から聞いた話では、その零細企業に頼られて就職活動をせずにそのまま社員になったらしい。そもそもその時から歯車が狂いはじめていたのかもしれなかった。

 達也が中学三年生の時にその会社が解散したのである。業績悪化により社長が退任した後、その息子が後を継ごうとしなかったのであった。他に有望な社員はいたのだが、息子は誰にも代表取締役に就任させようとしなかった。大黒柱であった父親は、その恣意的(しいてき)な解散にとても憤慨(ふんがい)していたが解散は免れなかった。会社からは相当の給料をもらっていたようで、いつも大金を持ち歩いていたらしい。もっとも、借金をして家を建てたので、達也はこれといって裕福な生活を送っているという実感はなかった。しかし、会社が解散すると生活はがらりと変わりはじめた。どれくらいの期間だっただろうか、醤油(しょうゆ)をご飯にかけて食事をしていたこともあった。

 その後、自宅を仕事場にして独立し、図面を書いて何とか普通の暮らし向きになったのだが、達也が大学に入学した頃になると、知人の紹介で家から自転車に乗って二十分ほどの距離にある工務店に勤めはじめた。


 中学を卒業した達也は、中堅の私立大学付属高校に入学した。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルといった、当時全盛期であったヘビーメタルに心酔(しんすい)し、三年間勉強とは無縁の生活を送っていたことから、附属の大学にも進学できずに受験浪人を余儀なくされた。

 その付属高校では、大学に進学出来なかった者は浪人するか、専門学校に行くか、所謂(いわゆる)Fラン大学に入学するかに大別していた。浪人を選択した者の多くは夏頃には姿を消すのである。達也は、一緒に予備校に通ったクラスメートとは早々に縁を切って、自習室に籠って受験勉強に励んだ。高校を卒業した時点で中学程度の学力しかなかったが、一日十二時間以上奮励努力した結果、難関と言われる私立大学に合格した。どの大学にも受からないと蔑んでいた担任の先生は、まさか達也が難関大学に合格するとは思っていなかったようであった。高校で騒ぎになっていたという噂を、大学進学後に語学クラスの友人から聞かされたのである。

 大学に進学した達也は安気な学生生活を送っていた。入学当初は経済学を学ぼうと意気込んでいたが、二次方程式や二次関数程度の数学知識しかない達也はすぐに挫折してしまう。元来がものぐさな性分であった達也は、履修科目を教科書持ち込み可かあらかじめ試験問題を教えてくれる科目ばかり選択し、講義は出欠をとる講義のみ出席して、比較的自由な時間を居酒屋のアルバイトに充てていた。

 幼少期の頃から絵を描くことが好きだったという理由で、美術サークルに入ったものの、四年間を通じて描いた絵はほんの僅かなものであった。渉外という役を担当し、他大学の学生と積極的に交流を図っていたが、渉外としての活動は、年一回開催される合同展覧会を開くことだけであったため、会合があると称しては飲み会ばかり開いていたのである。

 達也が所属していた美術サークルは、数あるサークルのなかでは珍しくキャンパス内に部室があり、部室に行けば誰かしら遊び相手がいたため、大学に通っていたというよりも部室に通っていたようなものであった。そのような、怠惰で安穏(あんのん)とした学生生活を四年間送っていた達也は、大学を卒業すると大手の通信会社に就職した。
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