第5話 旅立ち

文字数 2,327文字

 四月にもなると札幌市街には雪は無くなった。もはや市北西部の藻岩山や手稲山などの山頂付近を白く彩っているに過ぎない。白石区の自宅からタクシーで千歳空港に向かう。卓上には母からの置手紙が、

 くれぐれも身体を大事にしてくださいね
 心臓を傷つけることはドナーさんの遺志にも反する、と肝に命じて下さい
 それからクスリと毎日のオンライン通話を欠かさずにね
 それでは、行ってらっしゃい                母より

 母は鬱陶しいくらいに慎重だった。この旅には、心に変調をきたすほどの重大な出来事が待ち受けている、と察しているようだった。母親の勘ほど鋭いモノはないのだ。わたしはちょっと暗澹たる気持ちに陥った。
 この旅はドナーの心残りを解消するためのもの。わたしは浅はかにも、現実を見せれば心は落ち着く、と都合よく考えていたに過ぎないのだ。しかしことによっては心持ちを大きく揺さぶられることになりかねない。果たして耐えられるのか。わたしの心臓はむしろ自殺を図っているのかもしれない、とも思えるのだった。
 羽田空港から東京駅へ。そこから外房線に乗り換えて安房〇川駅に着いた時には夕刻になっていた。夕暮れの陽射しは勢いを増して背中越しに金色の光を四方に投げかけていた。タクシーでホテルへと考えていたが、わたしの心臓は歩くことを希望した。
 心臓は道順をちゃんと覚えていた。スマホナビなど見なくとも、勝手に最適な順路を辿ってゆく。きっと通い慣れた道順なのだ。
 やがて強烈な潮風に包まれた。心臓はリズムを刻み出す。きっと聞き慣れたメロディーラインに合わせて至福の時を迎えている。わたし自身は、ビーチなどは小学生以来だった。それも茶褐色の浜辺にプルシャンブルーの冷たい北の海だった。
 わたしは気の向くままに白い砂浜に脚を運び、アクアブルーの煌めく太平洋を見渡している。波は絶え間なく気ぜわしい浜辺の様子だった。サーフィンの連中が波間に見え隠れしている。ネイビーのワンピに春の白いジャケット姿の私は浜辺に坐り込み、しばし波音に聞き入る。頭上にはねぐらに帰るカモメたちが騒がしい。

 その晩、水族館に隣接するホテルに泊まったわたしは、翌日早速に水族館に向った。全国的にも有名な老舗の水族館だった。わたしは心臓の言うがままに行動することにした。ここでも順路を心得ていた。中ほどまで進み、階段を上るとそこはイルカたちのスペースだった。
 私は水槽内を回遊する三匹のイルカたちを眺めていた。ナナ、ニイナ、マコト。なんとイルカたちの名前まで言い当てられた。わたしが手を差し伸べると、不思議なことにイルカたちも近寄って来た。恐らくは心臓の鼓動の音を聞き分けているに違いない。

「ユイじゃない?」
 不意に後ろから声を掛けられた。慌てて振り向くと、青のウェットスーツ姿の女子が立っていた。胸の辺りには水族館のロゴマークが入っているので、職員だと知れた。
 わたしの心臓はなぜか不協和音を奏で出していた。
 わたしは事情を話した。

「そうだったんですか。
 半年前に肝臓が悪くて入院して、そのまま。
 退職届けが提出されたのは知ってましたが、まさか、そんなことが起きていたとは知りませんでした。
 私は橘由香里です。榊原結衣は同僚で後輩でした」
 わたしは図らずもドナーの名前を知ることになった。
「でも心臓移植だけで、どうして姿形まで似て来るんですか?」
 そんなこと言われても困る。わたしには理解出来ないことだ。私はわたしなのだ。
「あのう、榊原さんの肝臓とはどういう症状だったんですか?」
「細かな事はわかりかねますが、詳しい人は居ますのでご案内します。ましてや、そういう事情でしたら館内をご案内した方がよいですよね」
 わたしは礼を言い、橘由香里のあとを着いてゆく。いつしか巨大プールの前に。中には十頭以上のイルカやアシカが優雅に回遊していた。その脇にスタッフルームがあった。中で数人がミーティングの最中だった。男子三名と女子二名。わたしの心臓は最大の高まりを見せた。
「ちょっとここで待ってて下さい。事情を知る総務の職員が来ますので……」
 橘由香里はわたしを部屋の隅に座らせて自らはミーティングに参加し、わたしのことを伝えているようだった。六名の眼がわたしに注がれる。
 わたしの鼓動は高まる。
 ねぇ、心臓さん、あなたは一体、この中の誰に惹かれているの?

 しばらくすると、白髪交じりの事務職員がやって来た。わたしに一礼し、六名を呼び寄せた。
「ちょうどいい機会なので、榊原結衣さんの退職事情も説明しとく」
 六名は総務部員を取り囲むように車座になった。みなウエットスーツを着ている。だぶんイルカ・アシカの調教師たちだろう。てことは榊原結衣も海獣たちの調教師だった。道理で夢に出て来るわけだ。
「中には榊原結衣さんが亡くなったのを知っている者も居るだろう。その事情について話そうと思う。彼女の病名は肝臓癌。けだるさに耐えかねて、精密検査の結果、癌と診断された。病状の方は、その時にはすでにステージ4だった。そして急に悪化したのは五か月前。もう、肝臓移植でしか助からないと診断された。
 移植は親族からも受けられるが不運にも誰とも医学的にマッチしなかったそうだ。なのでひたすらマッチングするドナー(提供者)が現れるのを待った。しかしとうとう時間切れとなる。その時、両親はただ死んでゆくより誰かの援けに成りたいと臓器提供を申し出た。
 そして彼女の心臓はそこにいる娘さんに移されたって訳だ。
 榊原さんの死は辛いけど、他者の将来の為にはなるだろう。喜ばしい話しじゃないかな」
 一斉に拍手が起こった。恥ずかしさにわたしの顔は赤くなった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み